人間嫌いのお師匠さまには一匹の黒猫が付いてます。
猫は二十年生きれば尾が二股に別れ、五十年生きると人間の言葉を話し、百年目には魔力が宿るという人間の言い伝えがある。だから猫は可愛がられる一方で、老いた猫には畏れを抱いて近寄ろうとしない。
猫生百年目に突入したあたしが言うんだから間違いない。
まあ、老いた猫と言っても二十年目辺りで半分魔物化していたようなものだから、あんまり老いは関係なくなっちゃったし、畏れを抱かれたところで猫にとっては案外平気。エサをもらえなくなったら次の場所に移動すればいいでしょ。あたしもその人も皆ハッピーになれる理想の解決方法だ。
あとね、猫生二十年目突入して尾が二股になったら、どこに行ったって群れのボスになれるのよ。もしほかにボスがいたところで、あたしの黒いふさふさの尻尾が二つに分かれているのを見ると、何も言わなくたってごはんを持ってきてくれるわけ。ボスが受けるべき尊敬の眼はぜーんぶ、あたしのもの。
でも、出てくるごはんはあんまり美味しくないんだよね。大体五十年目から、生のネズミを受け付けなくなってきた。胃もたれじゃないのよ、たぶん。歯を突き立てた時のぷちゅりという感触と、生暖かい血が口いっぱいに広がるのがなんだかなあって。
肉は焼いて、たっぷりとスパイスがかかっていた方が美味しいじゃない。
そんなわけであたしはグルメな猫になった。結構、味にはうるさいのよ。そこらの野良猫とは違うんだから。
――そのあたり、「おししょー」はわかっているのかなあ、と疑問だ。干し魚さえやっておけば機嫌が直っていると本気で思っていそうだもん。あたしだって日によって色々食べたいよ。野菜も、卵も。肉だって。つまりは「おししょー」と同じメニューならあたしは満足だ。なぜなら「おししょー」の弟子だから。小さな黒猫の姿だけど、もう心は人間とおんなじだもの。
今あたしがねぐらにしているのは森の奥にある「おししょー」のおうち。かれこれ十年ぐらいは一緒にいる。「おししょー」に会う前は気まぐれにねぐらを変えていることがしょっちゅうだったから、最長滞在記録は今も更新中。
人間からしたら十年はそれなりに長いものだけれど、「おししょー」は変わらず根暗で引きこもりで、若々しいオスの姿をしたままだった。「おししょー」は魔法使いだから特別に長生きなんだって。
ま、それでもあたしの方がほんのちょっとだけ年上なんだ。「おししょー」なんて呼ぶのはそれなりにあたしの飼い主として認識していることと、「魔法」の腕はあたしなんて足元にも及ばないぐらいにすごいから。
「おししょー。みてみてー、たてたー」
あたしはおししょーの前で万歳するみたいに前足をあげた。後ろ足がぷるぷるしたけれど、おししょーにはあたしの成長を見てもらいたいから頑張った。
おししょーはぐらぐら煮立てている大鍋から一瞬だけ目を離すとこう言った。
「猫鍋にできなくなったな」
猫鍋とな! ひどいよ、おししょー!
「お前は飯ばかりねだるが、そのほかになんの役にも立っていなかっただろ。だったら非常食以外の何物でもないじゃないか」
成長するだけの気概があるなら、猫のあたしにも生存権利をくれてやる。おししょーはそんなことをおっしゃりやがった。
今まで色んな人間を見て来たけれど。
このおししょーはここ数十年稀に見る性悪だ。
普段黙りこくってばかりなのにここぞという時に毒を吐く。年齢詐欺な筋金入りのおじいさんに対して、それよりもさらに年上のあたしは寛大な心を持たなくちゃいけないのだ。
「おししょー、みてみてー。二足ほこー」
あたしはさらに成長した。二本の後ろ足でとてとてとおししょーの元へ歩く。どうだい。
料理のためにまな板の前で包丁を持っていたおししょーはこうおっしゃった。
「そうか。どんな生き物も死ねば再び土に還るが、お前は自分の身体で私の身の糧となることを選んだか。わかった、その犠牲は決して忘れない」
ぎらり、と大きな肉切り包丁に鈍い光が。
「おししょー、ちがーう!」
あたしは四足歩行ですたこらと逃げた。
また、こんなこともあった。
「おししょー、みてみてー、ぴかぴか光ってるー」
あたしは二足歩行をしながら、鼻先に浮かぶ小さな光の球をおししょーに見せた。あたしが初めて使った魔法だった。
おししょーはあたしの鼻先からその球を掬い取り、じっと見つめたと思えば、
「お前は何になるつもりだ?」
不思議なことを聞いてきた。あたしには、おししょーが何を言っているのかわからなかった。
「あたしは、あたしだよ」
それ以外の何だと言うのだろう。
他に誰になれるのだろう。
あたしは生まれた時からあたしで。
これからもあたしのままなんだから。
おししょーはまあるい眼鏡を外して、灰色のぼさぼさ頭をさらにぼさぼさにした。
「じゃあ質問を変えるぞ。……お前、これからどうしたいんだ」
あたしはにんまり笑って、舌なめずり。そんなの決まっているじゃないさ。
「おししょーを、ぎゃふんと言わせるんだ!」
あたしは食べ物じゃないんだからね!
「お前は呑気すぎる。……魔法は使わないことに越したことはないんだ。すべてを歪ませてしまうんだからな」
おししょーはあたしの頭をばしばし叩く。痛いよ、おししょー!
「ぎゃふんと言わせるには百年早い」
「にゃんだって!?」
猫の体が持ち上げられた。おししょーはあたしを頭上高く持ち上げて、とっくりと観察している。
「おししょー?」
おししょーは無言であたしを抱え込んでベッドに入った。はじめてのことである。それから毛並みをたくさん撫でてくれるし、ぷにぷに肉球を堪能している。おししょーがまるで愛猫家みたい。
どうしちゃったんだろう?
次の日、おししょーは街に下りるといって出ていった。それからずっと帰ってこなかった。
焦れて街に出たあたしはこんな話を耳にした。
隣国との戦争が始まった。
国内の魔法使いたちが召集されている。
あたしは嫌な予感がした。おししょーも召集された? ……そんなわけ、ないよね? 見た目が若いとしてもいい年だよ? 何で?
誰もいなくなった森の家の中。あたしは帰りを待った。お腹が空けば野草やネズミを捕って食べた。ちっとも美味しくなかったけれど。暖かいスープを作るには、あたしの体じゃ何もかも足りなかったのだから仕方がない。
それ以外の時はおししょーの本をむさぼり読む。気まぐれに覚えた人間の言葉は難しすぎて湯気が出そう。でもそうしなければあたしがおししょーを追いかけられないじゃないか。
だからやる。
あたしは人になる。
おししょーをぎゃふん、と言わせるために。
そうすればおししょーだってあたしを無視できまい。傍に置いてくれる。おししょーの近くは居心地がいいんだから!
雪に埋もれる冬が過ぎ、雪解け水の小川ができる春になる。若葉が芽吹いて獲物がいっぱいの夏を通って、おししょーが出て行った色づく葉の秋が終わる。季節は一回り、二回り、三回り。三年経った。
まだ戦争は続いている。おししょーは帰ってこない。
辺境のここではたいしたことはないけれど、あたしのいる国は負けているらしい。
そんな秋のこと。あたしはとうとうやり遂げた。
「ふんぬぅっ!」
あたしは身体の中にある魔力を自在に操れるようになった。胸の中でこねくりかえし、イメージする。特製の魔法薬と呪文を唱える。いでよ、美少女!
最初は毛皮がむずむずするな、ぐらいの感覚が、地獄の針山に突き刺さったような痛みに変わる。生まれてこの方こんなに痛くなったのは初めてだよ! もっと楽な方法が書かれた本が欲しかったよ、おししょー!
五分か、十分か。あるいは一時間かもしれない。
あたしは「変身」していた。
黒猫が黒髪乙女だ。姿見を覗けば、そこにとってもチャーミングな猫っ毛の少女が立っている。おぉ、これならおししょーだって顔面蒼白になるぞこりゃ。
のど元過ぎれば何とやらというやつで。痛みが引いた後のあたしは小躍りした。あたしは人間だぞぉ! やっとおししょーを追いかけられるんだ!
落ち着いたところであたしはローブのフードを深くかぶる。
おししょーの名前は知っている。魔法使いシャムロック。人嫌いで猫のあたしだけを傍に置いていた変人魔法使い。人の姿なら人間の言葉で尋ねても石をぶつけられないし、気味悪がられないだろう。
あたしは旅の魔法使いとなり、おししょーの行方を探し始めた。
人間の旅は、猫の旅よりも大変だった。すぐにオスが寄ってきて交尾を迫って来る。
撃退しながらおししょーの旅路を辿っていく。……それは国内軍の行軍と敗走の経路とほとんど同じだった。
中途、おししょーのことを聞けば誰もが誇らしげに口を開く。皆「魔法使いシャムロック」のことを知っていたのだ。
「あの人は我が国の最後の英雄さ!」
あたしにはその人間たちの言っていることがまるでわからなかった。おししょーはいたいけな猫のあたしを置いていったきり戻ってこなくて、暗くて意地悪な偏屈魔法使いじゃないか。
おししょー。一体どこにいるのー?
旅を続けるうちに戦況も変わっていくようだった。
まず国のボスが死んでしまって、ダメな息子がボスになったんだそうだ。
新しいボスは頭がおかしくて、周りの人をみんなみんな首を切ってしまうらしい。
見かねた「英雄」は前線からボスに「何をやっているんですか」と怒ったらしい。そうしたらボスも怒っちゃって、この「英雄」を捕まえて、牢に閉じ込めたんだって。
ダメじゃん、おししょー!?
これを聞いたあたしは急いで「英雄」がいるという大きな街へと北上した。夜の牢へと抜き足、差し足、忍び足。絶壁を上るのだって元猫のあたしには朝飯前なのよ。
鉄格子の嵌った窓から中をのぞき込むと、あたしの知らないおししょーがいた。まずはおめめが髪から隠れていなかった。髪ももじゃもじゃじゃなかった。髭が生えていて、身体も相変わらずひょろひょろそうだったけれど。
あたしは格子越しにおししょーを見下ろした。おししょーも胡坐をかいたまま、あたしを見上げて目を丸くしている。
おししょーと別れて四年と半分が過ぎていた。季節は春になっている。
「お前……猫か?」
おししょーがかすれ声でそう訊ねた。あたしは、こくりと頷いて見せた。なぜだか言葉が出てこなかった。
「その顔。……まさか禁術に手を出したのか! 下手すれば死ぬどころか魂まで粉々になるかもしれない危険な魔法をどうして使ったっ! 私はお前が手を出さんように棚の奥の方に隠しておいたんだぞ! 一度使ったらもう二度と猫には戻れないことを知っていたか!」
「しってたもん」
「猫っ!」
「いいんだよ。猫生は全力で生きたよ、百年ぐらい。あとは人間として過ごすんだよ。……おししょー。あたし、女魔法使いになったよ」
おししょーの顔が歪む。
「おししょーのお手伝いだってできるんだ。ほら見て、この手」
人間のものになった両手を見せる。
「これでもうただの野良猫じゃないんだよ。……ぎゃふん、ってなった?」
えへへ、と笑うと、おししょーはそれはもう深いため息をつき、
「わかった。ぎゃふん、ってなったぞ。もうわかったから帰れ。私はここで明日を待たねばならん」
「明日? 何かあるの?」
「明日は内々に私が処刑される日なのだ」
まるで時が止まったみたいだった。おししょーはわかりやすく繰り返してくれる。
「陛下も私の身体と首が離れるのをご覧になられる。処刑はつつがなく終わるだろう」
「……おししょー。死んじゃうの、ダメだよ、そんなの」
「もう決まったことだ。私のこの命は国のために使わねばならん。私はそう先代陛下と約束を交わしたのだ。それをたがえることはできない。魔法使いがした約束は絶対に遂行しなければならないのが掟だ」
おししょーは自分の手の甲を見せた。あたしも見たことがある。黒い縄目のような文様が手首にかけて覆われている。あれは特異な痣ではなくて、魔法使いの約束の証なのだろう。
「昔、私は子どものころ、とんでもない魔力暴走を起こしたことがある。建物や人にも甚大な被害を与えてしまい、処刑されそうになった私を先代陛下が助けてくださった。その時から己の命の使い方ぐらい決めている。それは猫でも覆せぬことだ。お前ならついてくるだろうから黙って消えたというのに……」
「おししょー、あたし、おししょーの言っていることがわからないよ。助けてもらったことに感謝して、それでいいじゃない。おししょーはあたしとあの森でずっと暮らしていくんだよ。森がダメなら街でもいいから。ね、おししょー」
「……お前もあの事故の被害者だ。普通の子猫だったのに、私の魔力の影響を受けたせいで本来の生が歪められてしまったのだ。だからお前の魔力は私のものとよく似ている」
おししょーはあたしから目を逸らした。
「すまん、猫」
おししょーはいつにないほど真剣に謝った。だから本当におししょーが死んじゃうつもりなんだと理解してしまった。何で? わからないよ、おししょー。
被害者とか、どうでもいい。だってあの時あの場にあたしがいなかったらおししょーと話すらできなかったんだよ。
そう思ったら、何だか目が熱くなってきた。初めての感覚だ。目元からぼとぼと落ちている。
「おい、猫」
おししょーは頭を掻きながら立ち上がった。片手を伸ばして、格子の隙間からあたしの目元の何かを拭いとる。
「おししょー、何だろう、これ」
「涙だ。見たことぐらいあるんじゃないか?」
「うん……」
でも猫だった自分が泣くことがあるなんて、驚きだった。
あたしの泣き顔を眺めたおししょーはこんなことを言った。
「猫。……お前、名前はあるか?」
「ううん。聞かれたらその都度、てきとーにこたえてた」
「ならば私がくれてやろう」
――お前は、マリー。マリー・キャットだ。
おししょーは笑う。
「お前と暮らすのは楽しかった。幸せだったよ。……ありがとう」
早朝。魔法使いシャムロックは処刑された。
まもなく、民衆が英雄の死に怒り狂って蜂起し、国のボスは処刑された。政治はみんなが意見を出し合って決めることになった。共和制って言うんだって。
隣国とは講和条約を結び、戦争も終わる。新しい国名とみんなに選ばれた新しいボスとなったこの国は少しずつ明るい方向へ変わっていく。
おししょーはこうなることを見通していたのかな。
そんなわけあるか!と怒り出すのかもしれないし、どうだろうなと惚けるとか? どっちかな。
うーん、やっぱり人間というやつは理解するのが難しいよ、おししょー。
あたしは何度も溢れる涙を自分で拭った。おししょーの手はもうないから。
あたしはマリー。マリー・キャット。
旅をしている元猫の魔法使い。旅の目的は特にない。あたしにできるのはおししょーからもらった名前を大切にすることだけ。あたしの宝物なんだ。