第三話【特別】
「ニャー」
“ブチ”
と呼ばれた野良猫は、どことなく気だるそうに一声鳴いた。
すると青年は今までの無機質な表情からは想像しえないような人間臭い苦笑いをした。
「お前を探してたよ。」
そう言うと目の前の野良猫へと歩み寄る。
その足取りも、どことなく軽い印象を感じさせる。
青年の纏う雰囲気が先程までとは違うからだろう。
青年の一挙手一投足、その全てに温かみが湧き出ている。
「ニャー」
“ブチ”
は青年が近づくと、また一声鳴きすくっと体勢を整える。
しかし、さして逃げ出す様子はなく、それどころか青年を迎えるように近づき出した。
隆行や広喜を含めた野次馬達は先程まで青年が発していた異質的な
“なにか”
を一変させた存在に目をむける、そして困惑する。
猫、それも野良猫だ。
普段、日常の中で見る動物の中でも特に警戒心の強い野良猫、自分達でさえ警戒の対象となるはずの危機意識の強い、しかしか弱く小さな存在が、食物連鎖の頂点に立っている自分達でさえ警戒した青年へと、尾を揺らしながら、ゆったりと歩んでいるのだ。
しばしその光景を眺めていると、甲高くも重厚感のある音がこちらに向かって近づいてくるのに、その場にいる誰もが気づいた。
パトカーのサイレン音だろう。
おそらくは野次馬達による通報か、もしくは人だかりによる歩道の渋滞で駆けつけたのだろう。
ホイッスルを鳴らし、人混みを掻き分けながら警官達が近づいてくる。
「『ピピピピッ!』道をあけて下さい!」
「何事ですか!どいて下さい!」
警官の怒号にも似た声に、徐々に人の波が割られていく。
「…面倒だ…」
青年はそう言うとしゃがみこみ、ブチにむかって右腕を差し出す。
「取り敢えず離れよう、人が多い…分かるだろ?」
言葉の意味など理解出来ない野良猫に青年は語りかけた。
恐らくは人混みの多い中、ブチが怪我をしないよう、自分の肩に乗せてからこの場を去りたいのだろう。
ブチは、やはり言葉を理解できないのか近づきすぎた青年にシャー!と威嚇しながら青年の顔を前足で引っ掻いた。
「っつぅ!?このクソねーー」
しかし、直後にブチは差し出された右腕の血が滴る箇所を舐めた。
「……クソ猫が…汚ねーだろが。」
青年は慈しむように微笑んだ。
するとブチはまた一声だけ鳴き青年の左肩にヒョイっと乗った。
「…離れなきゃな…」
そう言うと青年は左肩に乗ったブチが落ちないように左手で支えながらその場を走り去っていった。
その様子を終始、隆行は眺めている事しか出来なかった。
しかし分かった事がある。
あの野良猫は青年にとってかけがえのない存在という事、そしてやはり青年は許せないということ。
何をもって許せないのか、青年に絡んだのは自分で、左腕の骨折は自業自得。
許す許さないなどおこがましい事は重々承知の上、それでも許せないのだ。
なぜ?
「…ふざけるな」
なぜ?
「…俺を……」
それは…
「俺は………」
隆行は平和な日本に産声をあげ、平和な毎日を生きる探せばどこにでもいるであろう“優秀な”青年である。
しかし、得てして人は刺激的な生き物である。
例に漏れず隆行が刺激を求めるのにも時間はかからなかった。
平和な毎日を過ごし“優秀”であるがゆえ周囲からはおだてられ否定的な目をむける者たちは優秀な彼を妬む。
しかしそれだけであった。
否定的な目をむける者たちは隆行に及ぶ“力”を持ちあわせてはいないゆえ妬むことしか出来なかったのだ。
そう、隆行の周囲には隆行ほど優秀な者がいなかったのだ。そして隆行はいつしか増長ともとれる自覚をした。
『自分は特別なんだ、大抵のことは見過ごされる』
と。
しかし、そんな自分を見もしない者がいたのだ。
今まで自分が接した人物の中には誰一人そんな奴はいなかった。
何故なら自分は…
「俺は……」
“特別”
その言葉が出てこない。
特別は無視などされない。
「隆行…」
広喜は長い時間を共にした友人の様子をただ眺めている事しか出来なかった。
「…俺を…無視するな……」
隆行の中にある青年への怒りは、特別じゃない自分を突きつけられたことに起因していた。
特別じゃないなど有り得ない、認めたくないその思いから隆行の怒りは徐々に醜く歪んでいった。
「いいさ…お前の特別はあの野良猫なんだろうよ…」
力なくそう呟いた隆行にようやく動き出した広喜が声をかける。
「隆行…大丈!?ーー」
しかし、紡ぎかけたその言葉は隆行の表情を見た瞬間凍結した。
それは普段、隆行を妬む者達の表情をより、いやらしくしたような卑屈なものだった。
普段、隆行自身が最も馬鹿にしているような奴等の何倍も卑屈な表情に広喜はもはや何も言葉が出てこなかった。
ゆっくりと隆行の視線が広喜にむく。
そして一言
「…帰ろう、広喜。」
ついで発する。
「明日また此処で……」
そして隆行は広喜に背を向けて歩きはじめた。
『明日また…』
隆行の言葉に抵抗を感じる広喜。
すると隆行が振り返った。
「っひ!?」
思わず悲鳴をあげる広喜の視線の先には卑屈な表情から一転、獰猛な笑みを浮かべる隆行がいた。
「必ず来いよ。」
そう言って、隆行は歩き去っていった。
しばらくして広喜はその場に来た警察官に事情を説明した。
一通りの説明をし終え、警察官と別れると広喜は道の脇にへたりこんだ。
一体今日一日で、友人、隆行の新しい一面を幾つ見たのだろう。
どれも自分にとっては知りたくない、見たくはなかった一面であった。
特に最後のあの獰猛な笑み。
思い出す度、背筋に悪寒が奔る。
一体何を考えているのか、なんにしても良からぬ事には違いない。
隆行は明日また此処に必ず来いと言っていた。
しかし、自分が行く事はないだろう。
広喜の中で隆行はもはや完全に友人というカテゴリーから外れていた。
しかし、長い時間を共に過ごしてきた間柄の隆行が一体何をしようとしているのか、一抹とはいい難い不安を胸に抱きつつも広喜はもはや、感知しない。
広喜はすくっと立ち上がると、爛々と輝く夜の街を後にした。
後2、3話ぐらいで異世界に行くと思います……多分…