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神の彷徨

 私は誰か。一番最初に生まれた人間がそのように問うたとき、この世にたった二人だけだった神は燃え尽きた。名前こそが全ての始まりだったから、それが理解できない生命が生まれてしまったということに、神の中の煉獄が腹を立てたのだ。全ての生命に魂の色があり、それは神のみが見ることのできる色。しかし、神はその生命の色などないことに気付き、完全に不完全な命がたったひとつ生まれてしまったことを嘆いた。可哀想に。どうして、これからこの誰かは、理不尽に生き抜いていかなくてはならないのだろう。言葉が幾千幾万と寄り集まったそれは万葉と呼ばれ、火山の中で一人ごちた。私は誰か、私は。あなたは誰。

 火山の中にあった飴細工で硝子を作り、その硝子を使って人形を作った。名前は×××子として、あたたかな空間で毎晩それを抱いて眠った。そうして時間が経つと、口元が動き出し、ついに硝子人形は生命を宿したのだった。万葉にとって唯一の友達だった。硝子人形はしかし、自分の名前は×××子ではなく、××××なのよと言い出し、万葉に反抗することも多くなった。××××は万葉の体の末端部分に極めて旺盛な興味を示し、最初は万葉の髪の毛をひたすらしゃぶり続け、そして耳、瞳の表面、鼻、唇、そして乳房、そして指、足、と万葉のいたるところを舐めて眠った。万葉は唯一の自分以外の生命を悲しませたくなかったので、彼女が為すこと為そうとすることを許し続けた。そうしなければ必ずこの火山の中で燃え尽きると知っていたからだ。神が時折、空中に千羽鶴を振らせて、万葉はそれを食べて生きた。××××は歌を歌った。悲しい歌だった。万葉の両耳がとうとう××××の唾液によってすっかり溶け切ってしまうと、音がずっとずっと遠くから聞こえるようになった。そうなると、火山の反対側の海から聞こえるようなので、××××を伴って海へ向かった。海の中央にある島にいた人魚が、鱗の数を数えている。誰か鱗になってくださいと言った。硝子人形の××××は自分の足を砕いて、それを海に浸して丁寧に形を整えると、それを鱗にして人魚を救った。人魚は涙を流してお礼を言ったが、××××は人魚をその場で焼いた。人魚を食べると永遠の命が手に入ると、グレイノ・ルクレツィア・ティハーセンが歌ったのはこの二万六千二百二十五年二十二日後のことだったが、それを万葉は知っていて、××××、お前は私に長生きしろとそう言うのかいと言った。××××は自分の右腕を砕いて海の波で形を整えると、それを包丁にして人魚を切り刻んだ。人魚の内臓の中には、水晶玉が入っていた。青い色をしていた。それはこの場所や世界を満たしている青い海や、群青の空、青紫の銀河の色だった。万葉がそれを瞳に押し当てて、覗き込む。××××は水晶玉を覗き込んでいるところを手のひらで無理やり殴打する。万葉の眼球に水晶玉が押し込まれた。代わりに万葉の喉から声帯がはじき出され、××××はそれを食った。これでお前の歌は未来永劫私のものだ。そして、お前の瞳は未来永劫宇宙の色だ。記憶だけは綻びながら、全てを忘れながら生きていきなさい。なんにもわからないまま、多くの人間の恨みを買い、何度も何度も残酷に死になさい。何度も何度も悲劇に失われていきなさい。万葉、お前には悲劇のために死んだとしても、悲劇のために死ぬ価値がある。悲劇のために死ぬ価値のない人間こそ、もっともこの世で悲しい生命なのだ。悲しみの中に消えていくことがもっともふさわしい命こそ、悲しみの中に消えていくことがもっともふさわしい命なのだ。万葉は人魚の肉を、涙を流しながら食べた。波の音が響き、律動し、水平線の向こうの銀河で、太陽の昇る音がした。万葉は喉を詰まらせながら、硝子人形に言った。あなたは誰ですか。私は誰ですか。あなたは、あなたはいったいいつまで誰のままですか。神は何もできないまま、太陽の熱が海を蒸発させるまで、水晶玉の銀河に浮遊し、彷徨を続けた。

 あなたは誰。

 私は誰。

 そう神に尋ねたことが、世界史の始まりなのだ。火山が荒れた時あなたは死んだ。海が荒れた時あなたは死んだ。肉体が消える時にあなたは死に、水に溺れ、骨が砕かれ、あなたは死んだ。全ての歯車が動くのは、万葉の言葉でしかなかった。全ての女は万葉のたった一言のために死んでいった。だからこそ、万葉は女なのだ。あなたとわたし。万葉のかがり火のような命が、水脈となって世界になった。

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