S女史の犯罪
神がどのようにしてこの世に人間を生み落しているか、知っているか。
鯉泉静子が初めて詩を書いたとき、ある人に、あなたには普通の人には見えないものが見えていますね、と言われた。静子にとっては「人には見えないもの」も、自分には見えているのだから、それが誰にでも見えているのが当たり前だと思っていたので、そんな風に言われるのが不思議でたまらなかった。ではあなたは、見えていないのですか? あの夢が。全ての人家の屋根には、一人ひとり僧侶が立っているのです。そして、あの橋の手すりには蜘蛛が。あなたの方には鬼の首が生えている。それが見えないというのですか? そう尋ねると、相手は顔をひきつらせて逃げて行った。
静子はある時、外国からやってきたグレイノという名前の女性に出会った。彼女の歌唱はひどく魅力的だったが、日本語が不自由だったので、静子はグレイノに日本語を教えた。けれどその日本語は、現代で使われている日本語ではなく、例えばあの海岸に立っている首の折れた老婆や、人家の窓に張り付いて中を見つめているだけの××××が話している日本語だったので、グレイノは日本語が使えるようになったが、静子以外には通じなかった。そのおかげでグレイノは精神を病み、静子に依存するようになってしまったのである。静子はこれが心地よく、女を屈服させるのは、依存させるのは何と快感なのだろうと口元を吊り上げた。グレイノと静子は写真を撮り、友人として暮らし、短歌会にも歌人として互いに切磋琢磨したが、夜はグレイノの首を絞める日々が続いた。
静子は一度神に会ったが、静子にそっくりの顔をしていた。それがよかったのだと思う。静子はいろいろなものより優れている自覚があって、それに実際優れていたので、自分は神が人間の形をして生まれてきたのだなと笑った。静子の歌は多くの人を魅了し、詩も多くの人間を虜にした。あの橋の下に落下して死んだ男も、霊魂になった後に静子に手を振った。静子は欧米からやってきたバレリーナの公演を見に行ったが、バレリーナは射殺される未来が見えた。未来も過去も見えた。
しかしある時、万葉という名の女に出会った。多くの人間は静子にすり寄ったが、万葉は異常なまでに静子に寄りつかない側の人間で、万葉には何も見えない。誰しもの肩には骨だけの手が乗っている。足には蜘蛛が巣食っているというのに、万葉だけは完璧なまでに潔癖なのだった。そして、静子には何の興味も示さない。そして、万葉は静子と同じ顔をしていたのだった。そこで悟った。あの時会った神は、自分ではなく、この万葉という女の顔なのだ。真に神の生き写しはこの万葉なのだ。静子はその時、万葉をどうにかして屈服させて、自分のものにしてやりたいという感情と、万葉を殺すための犯罪を思いついた。
まずは××県八雲市気高郡祇流町三十七町目四十四番にある<六条橋>と呼ばれる、呪詛が書かれた橋の奥へ向かい、神に会った。神はそこで、いつも仕事に取り掛かっている。つまり井戸である。人間は井戸に落とされることで人間の世界に生れ落ちる。死体がぞろぞろと井戸の前に並ぶ。神は井戸の前に立った人間の首を包丁で切り、生首を井戸に落とす。もし善く生まれ変わるのなら井戸の底できちんとした体を受け取ることができるのである。もし運悪く生首が、落下の最中に井戸の壁面に激突した場合、その衝撃で体のどこかに悪いものができあがる。そうして悪く生まれ変わってしまうのである。精神に異常をきたしもするし、静子のように見えないものまで見えるようになることもある。もちろん井戸の中で起こることに神は関与しないので、理不尽なことになろうと関係がない。神は知らない顔をして、今日も井戸の前で死体の首を斬っている。
静子は神の背後からゆっくりと近づいて、鉈で神を殺し、遺体を切断した。できるだけ細切れになるように、まずは頭と胸、胴、腕、脚に分解し、それから各部位ごとに丁寧に解体した。神でも血液があるのだな、とその黒い血液を見ながら、血管一本一本、骨一本一本、神経一本一本に至るまで真摯に選り分けた。これから井戸に落ちる順番を待っていた死体たちが静子と神の死体を取り囲む。死体の一つは万葉だった。あなたはこれから永遠に死ぬのよ、万葉。静子は笑った。