巡礼の子
望遠鏡が珊瑚に埋め尽くされた六月七十七日午前六時半、万葉はたった一本の線香の光だけを頼りにひたすら橋を歩いていた。
向こう側には蝋燭を手のひらに乗せた群衆が、肩から生えた三つ目の手で手招きしているので、きっとその橋の先には母がいるのだろうと悟っていた。向こう岸は、霧に塗れていた。橋は板作りで、木目には呪詛が刻まれている。焼死凍死圧死溺死自殺病死戦死縊死刑死悶死と続いて行ったところどころの隙間を縫うようにして、父の眼球が埋め込まれている。生前の父に眼球はたった二つだったが、万葉の歩くその橋の足元には、二つどころか幾千の父の眼球が、通りすがる度に万葉を見上げるように並んでいた。眼球だけでは、どうして父だとわかるのかいと後ろ側を歩いている語り部と名乗った僧侶が問うので、万葉は、父の眼球は黒目の中に斜めに刻まれた血だまりのような傷があったことを教えた。なるほど、と語り部が言うと同時に、彼の持つ鈴が凛と鳴った。
さて、橋は終結しかかっていた。向こう岸に辿り着くと、蝋燭を持っていた群衆の手のひらは、全てが溶け切った蝋で爛れて、首が真横にねじれ、肩から生えていた三つ目の手の肘から、目を閉じている何者かの顔が生えていた。そして、あちらへ行きなさいと言うので、万葉はあちらへ向かった。霧が濃くなっている。けれど、まるで門のように霧がすっかり晴れている部分が円形に切り抜かれるようにしてそびえていたので、万葉はそちらへと歩んだ。母がいるような気がした。
母の死に方を、万葉はとてもよく覚えている。父は朝方、橋から落下して死んだ。眼球がくりぬかれていたので、きっと殺されたのだろうと噂をされたが、犯人は見つからなかった。それが万葉小学一年生の時であったが、その九年前に、母は死んだ。母は万葉を家の一番奥の部屋にあった仏壇の前に呼び出して、お父さんを殺したのは私なんだよ、と言った。そして、万葉の手に包丁を持たせて、そして母はそれとは別にもう一本包丁を持ち出すと、それを自分の口の中に突き刺して死んだ。母は包丁を飲み込んで、代わりに口から大量の血を吐き、万葉は真っ赤に染まった。近所に住まう××がそれを発見して、母を殺したのは万葉だと糾弾し、万葉はしばらく刑に服した。それから復帰して、今から母親の墓参りに向かおうと言うのである。
その最中、語り部と名乗った僧侶が、あなたの為そうとしていることはひどくひどいことですからひどいことになりますよ、と耳元で囁き、万葉がそれを無視するので、いつまでもいつまでもついて来ようとした。僧侶は喋るための口が一つ付いていて、そして、鼻があるべき場所に口がもう一つあり、そして左右の目があるべき場所にまた一つずつ口がついていた。そして、左右の耳もまた口だった。それで語り部か、と万葉は一度だけ僧侶に言葉を返したが、それ以降は、橋を渡ることに専念してしまったのである。
霧の向こうは母の墓だけが並んだ、母の墓地だった。一つ目、母の墓、そしてその下にお前が殺したとだけ書いてある墓石だった。その隣は、母の墓、そしてその下に、お前が殺したとだけ書いてあった。供物のように置かれた駄菓子が散乱していて、蟻と蜘蛛が巣食っている。次の墓も、母の墓と、お前が殺したとしか書いていなかった。万葉はとりあえず歩き続け、どうやら七十七個墓石があることがわかり、そのどれもほとんど同じだったが、一つ一つ、微妙に違うようにも思えた。語り部が、わかりませんかとだけ右耳のところにある口で言った。あなたは七十七回殺したのですよ、と左耳のところにある口で言い、そしてあなたの母は七十七人いましたよ、と鼻のところにある口が言った。そして七十七人あなたがいるのです、と右目の口が。七十七つの死因と殺し方がありました、と左目の口が。そして、七十七の憎悪がありました。語り部の口のところにある口がそう言うと、万葉の線香が尽きた。
その場が真っ暗になると、その場には万葉と語り部だけになり、あまりにも暗いので、語り部の六つの口の中身が透けて見えてしまった。口の中に眼球が一つずつ入っていて、そしてその眼球の中が鏡のようになっており、その中に母が立っていた。映像のように、包丁を持って微笑んでいた。仏壇の匂いがした。万葉の周りは暗闇だったが、光が消えただけの暗闇ではなくて、周りの全てが勝手に闇に墜ちて、もうそこは空間ではなく、何もない場所になっていたのだった。母はどうして死にましたか? と万葉が語り部に問うと、ぽろぽろと語り部は泣き始めた。眼球が涙を流して、それが口の中にあるから、ちょうど涙が口の端々から垂れるような形になった。それがさも嘔吐しているように見えるので、涙はずっと汚らしく見えた。語り部と名乗った僧侶は、万葉に鈴を指し出した。もう随分、音が無いところを歩いたあなたは、ぜひこれを鳴らしなさいと言った。どうして、と尋ねるより先に、すでに手のひらの皮膚の上に、鈴の冷たい感触が座っていた。万葉は静かに、鈴を一度鳴らした。
それから万葉の目の前に、少女がいて、お母さん、どうしたのと言った。
万葉は仏壇の前で、包丁を持っていた。