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『ドン!』と凄い音がしたのは麓の町を出た後だった。既に日が暮れた山は真っ暗で、機関車のライトで照らされた線路しか見えない。振り返ると、後ろの客車で霊たちが一斉に右手の山頂を指差していた。その瞬間、誰かが頭の中で『止まれ!』と叫ぶ。
「ブレーキを!」
ノアが叫ぶより早く、ジャンがブレーキレバーを目いっぱい引く。
ギギギギギィィッ!
金属音が闇を切り裂き、車輪が火花をあげる。急ブレーキを掛けた機関車に後続の客車がぶつかり、物凄い衝撃を受けた二人は車外に投げ出されそうになった。ジャンが咄嗟に手を伸ばしてノアの体を掴む。ホッとしたのも束の間、次の瞬間、二人は右手の斜面からドドドドドッと轟音が迫ってくるのに気付いて青褪めた。
「神よ! この者だけはお救いください!」
ノアは暗闇に向かって必死に叫ぶ。ジャンはノアの華奢な身体を抱き締めると、衝撃に備えて床にしゃがみ込んだ。
ゴオォォォォォッ!
轟音が物凄い速度で近付いて来て、ノアの祈りも、ジャンの叫びも、何もかも聞こえなくなる。二人はきつく目を閉じて抱き合うと、迫り来る死を覚悟した。
「神よ……!」
しかし、いつまでたっても衝撃は来ない。幸いなことに、大量の土砂は機関車の前方すれすれを通り過ぎて左手へと落ちて行ったのだった。轟音が遠ざかって行くのを信じられない面持ちで聞きながら、二人はソロソロと顔を上げて立ち上がる。
「助かった……のか?」
ジャンが呟き、そっと前方を覗き見る。息を呑む気配に、ノアも急いで隣に並んだ。
「線路が塞がれた……」
機関車の眩いライトの中、線路は数メートルを残して土砂に埋まっていた。
「間一髪でしたね。もう少しブレーキを掛けるのが遅かったら、列車は土砂に押し流されていたことでしょう」
ノアはホッとして隣を見る。しかし、見上げたジャンの顔は真っ青だった。
「ジャン?」
ノアはどうしたのかと、そっと名を呼ぶ。すると、ジャンは線路に積もった土砂を呆然と見詰めたまま小さく首を横に振った。
「二十年前と同じだ……」
「二十年前?」
ノアは何のことかと聞き返す。ジャンは突然振り向くと、ノアの細い腕を掴んだ。
「逃げなくちゃ……オレもあんたも逃げなくちゃ!」
「逃げると言ってもどこへ……麓の町に戻りますか?」
ノアは後ろを振り返る。しかし、ライトの付いていない後方は真っ暗で、線路が無事かどうかも確認出来なかった。
「なぜ忘れてたんだろう……こんなに重要なことなのに、なぜ!」
ジャンが興奮して叫ぶ。とにかく落ち着かせようと手を伸ばしたノアは、その肩が激しく震えているのに気付いて驚いた。いくら突然の事故とはいえ、この怯え方は尋常ではない。ノアはジャンの背をさすると、子供をあやすようにそっと話し掛けた。
「落ち着いてください、ジャン。いったい二十年前に何があったのですか?」
ノアの言葉にジャンがようやく顔を上げる。怯えた瞳がノアを映した。
「……二十年前にも崖が崩れたんだ。列車は途中で立ち往生して村に戻れなくなった。客車には町まで買い物に出た神父さんとオレが乗っていて、山の中で……夜になった」
ガタガタと窓枠が不意に鳴った。風が出て来たのかと目を上げたノアは、途端にハッと息を呑んで青褪める。口の中で神の名を呼び、ジャンの身体をしっかりと抱き締めた。
「……夜になると、じいさんはオレを機関車に移した。客車は寒かったけど、機関車はまだ火がついていたので暖かかった。じいさんはオレの頭の上から毛布を掛けると、目を閉じてしゃがんでいるように言った。すぐにじいさんは客車に戻って行ったけど、なかなか戻らなくて……神父さんも客車に残ったままなのに気付いたオレは、言いつけを守らずに毛布を……」
列車の外を風がビョウビョウと吹き始める。窓枠がガタガタと激しく鳴り、飾られた花々が吹き飛ばされた。ノアはジャンの大きな身体を抱き締めたまま、大きく目を見開いて客車を見据える。
「始めは白いモヤかと思った。モヤは山の下の方から沸き上がって来ると、客車のすぐ後ろまで迫って来た。客車には同じようにそのモヤを見ているじいさんと神父さんの姿があって……その時になって初めてオレは、そのモヤの中にたくさんの顔があることに気付いたんだ……」
ジャンが大きく身震いをする。今のジャンは、遠い記憶の中にいる幼い頃のジャンだった。自分よりも遙かに小柄なノアの身体にしがみ付き、怯えた子供のように激しく喘ぐ。
「白いモヤは客車の中に入って来ると、突然じいさんに襲い掛かった。じいさんが凄い叫び声を上げて、神父さんがじいさんに駆け寄って……そして、じいさんと神父さんは真っ白い光になって……消えた」
途端に、何かを感じ取ったらしいジャンが言葉を切る。そして、顔を上げてノアの見ている後方を振り返ろうとした。ノアは必死になってジャンを抱き締め、引き留める。
「振り返ってはダメです。わたしがあなたの胸を隠している限り、あの方たちはあなたの体に入ってくることは出来ません」
ノアは努めて冷静に囁く。しかし、ジャンは恐怖に顔を引きつらせると、後ろを振り返ろうとしてノアの身体を押し退けた。慌てて抱き締める手に力を籠めたが、ジャンの逞しい腕にあっけなく引き剥がされる。そして、次の瞬間、後ろを振り返ったジャンが驚愕の叫び声を上げた。
「うわあああッ!」
無数の白い顔が客車の窓枠から身を乗り出し、こちらへ移って来ようとして押し合いへし合いしている。皆苦しそうに大きく口を開け、声にならない叫び声を上げていた。伸ばされた無数の白い手がうようよと蠢き、鉤状に折れ曲がった指でジャンを掴もうとする。
「うわあ! うわあ! 来るなぁぁぁ!」
それを見たジャンが恐怖で半狂乱になって叫ぶ。すると、その声が合図ででもあったかのように、白い影が一斉に客車から雪崩れ出て来てジャンに襲い掛かった。
「あうッ……!」
仰向けに倒れたジャンは背中から操縦桿の上に叩きつけられる。白い群れはジャンの身体を押さえ付けると、その胸目掛けて一斉に飛び掛かった。
「うわああああッ!」
ジャンが体を仰け反らせて声の限りに叫ぶ。霊たちがジャンの体を貫こうとしているのに気付いてノアは青褪めた。
「ジャン!」
両腕を広げてジャンの体を胸前から抱き締める。邪魔された霊たちは、今度は邪魔者ごと貫こうとしてノアの背中に襲い掛かって来た。
「あああああッ!」
身を焼かれるような激痛に、ノアの華奢な身体が弓なりに仰け反る。その肩を突然誰かがグイと掴んだ。
「離せ、ノア! お前まで消滅するぞ!」
「ドルイド!」
ノアは驚いて叫ぶ。しかし、今は驚いている場合ではなかった。
「ジャンが!」
「無理だ!」
ドルイドはノアを引き剥がそうとしながら、悶え苦しんでいる男を見て言う。
「こいつは『ペトロの門』だ。オレには手出し出来ん!」
ドルイドの言葉に、ノアは驚いて目を見開く。
「この男は天国の門番、聖ペトロの末裔だ。この男の能力は霊のエネルギーを機関車の動力に変えることじゃない。この男自身が霊の邪念を浄化してるんだ。教会やドルシェの山は目に見える道標でしかない。霊たちが通り抜けようとしているこの男の身体こそが天国への門なんだ」
ノアは言葉を失う。そして、身体がバラバラになりそうになる痛みさえ忘れて、腕の中で苦しむ男を見詰めた。
「霊たちはこの男を通り抜けなければ自分たちが浄化されないことを知っている。だが、男の体はただの人間のものだ。通常五時間かけてゆっくり浄化するところを一気にやろうとすれば負荷が掛かる。これだけの数の霊が一斉に通り抜けようとすれば細胞レベルで崩壊するだろう。と同時に、この男の魂もこいつらと一緒くたになって消滅する。二十年前に起きた事故のようにな」
ドルイドの言葉にノアは息を呑む。
「では、ジャンのおじいさんは……」
「いや。奴の魂は消滅する寸前に一緒にいた神父によって救われた。魂が消滅することを恐れた神父が、自分の守護天使を呼んで自分たちの魂の救済を求めたんだ」
ドルイドはそう言うと、激痛に耐える美しい神父を見詰めた。
「守護天使は願い事を叶える代わりに、神父が積み上げた徳から用件に見合っただけのポイントを引く。ツリがあれば現世に残すが、足りなければその命で清算させる。その神父は命で清算するしかなかった。どうする……試してみるか」
ドルイドの最後の一言に、激しく喘いでいたノアの呼吸が一瞬止まる。すると、ノアの腕の中でジャンが激しく首を横に振った。
「ダメ、だ……!」
「ジャン!」
ジャンの輪郭が白く薄れ始めているのに気付き、ノアは必死にジャンの身体を抱き締める。
「わたしはジャンを助けたい! 教えてください、ドルイド! わたしの守護天使の名を!」
途端に、ドルイドの灰色の瞳が普段とは違った光を帯びる。そして、薄い唇がスィと横に引かれた。
「アークエンジェルの名を……ノア。それが美しい貴方には最も相応しい」
『よせ、ドルイド!』
その時、突然頭の中で声がしてドルイドがチッと舌打ちをする。
「ルージュか」
「ルージュッ?」
ドルイドの言葉にノアはパッと顔を上げると、幼馴染の姿を求めて辺りを見た。
「ノアが消滅したらどうするつもりだ、このクソ悪魔!」
ルージュは執務室の中央で怒鳴ると、宝石箱を卓上でひっくり返す。途端に色とりどりの宝石がこぼれてザアッと音を立てて広がった。大きなものは全てドルイドに取られたが、それでもまだ普通に暮らせば何年も食っていけるような代物ばかりだ。
「わたしをそこに移動しろ!」
ルージュの命令にドルイドが『へいへい』と答えて溜息混じりに指を鳴らす。途端に目の前にルージュのすらりとした長身が現れて、ノアは驚いて目を見開いた。
「ルー!」
「手を離せ、ノア! お前まで消滅するぞ!」
ルージュが叫んで幼馴染みの肩を掴む。しかし、渾身の力を籠めて引き剥がそうとしても、ノアの身体はビクともしなかった。その背にドルイドが言う。
「どうやら既に融合が始まっているらしい。ノアも巻き込まれた。もう時間の問題だ」
「なんだと!」
ドルイドの説明にルージュは叫ぶと、ノアの輪郭が徐々に白く薄れ始めたのを見て蒼白になった。
「ノア!」
「もう保たない。魂まで消滅するぞ。早く守護天使を呼べ、ノア」
ドルイドが言い、ルージュが遮る。
「よせ! そんなことをしたらノアは死ぬぞ!」
「わからないぞ。なんとか現世に留まれるかもしれない」
「そんな賭けは出来ん!」
ドルイドの冷静な声とルージュの叫び声が交錯する。それを遠くに聞きながら、ノアは意識が薄れていくのを感じた。
「しっかりしろ、ノア!」
ルージュが叫んでドルイドに向き直る。
「何とかしろ、ドルイド! お前なら何とか出来るだろう!」
「バカを言うな。さすがのオレでも『ペトロの門』に触れれば無傷では済まない。半世紀は人間の姿をとれなくなるだろう。それに代価が必要だ。お前はさっき、全ての宝石を差し出したはずだ」
その言葉にルージュがハッとして顔を強張らせる。ドルイドはそれを見遣ると静かに言った。
「用件によって代価は変わる……覚悟は出来ているんだろうな」
「勿論だ……心臓でも何でもくれてやる」
ルージュの唸るような言葉にドルイドはフンと鼻を鳴らす。
「そんなものは要らん。オレは美しいものが好きだ」
「宝石はもう無い」
ドルイドの言葉にルージュが再び低く唸る。ドルイドは微かに笑むと、ルージュを真っ直ぐに見詰めた。
「持ってるだろう、そこに。赤いルビーを二つも」
ルージュはドルイドを見返し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。やにわに右手の二指を眼窩に当てると、躊躇いも無くグイと抉った。そして、鮮血にまみれた紅玉を手に乗せ、無敵の悪魔に命令を下す。
「ノアと、ついでにその人間も助けろ。手段は問わぬが、ノアの意に沿わぬ方法は取るな」
「無茶苦茶だなぁ」
ルージュの不遜な言葉にドルイドが苦笑で返す。しかし、出会った時から焦がれていた紅玉を手に入れたのだ。否はなかった。
ドルイドが右手を真っすぐ頭上に振り上げて手の平を天に向ける。途端に闇が手の平に集結し、凝り固まって巨大なエネルギーとなった。
「暫しの別れだ、ルージュ」
ドルイドの瞳が微かに寂しさの色を漂わせる。やがて突風が怒涛のように列車を襲い、三人はもみくちゃになって床に倒れた。ルージュは咄嗟に手を伸ばし、ノアの腕を掴んで引き寄せる。その華奢な身体が男から引き剥がされているのに気付いたところで、ルージュもついに意識を手放した。