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「ドルシェは山間の小さな村で、住人も百人ほどしかおりません。昔は麓の街まで出稼ぎに出て生計を立てていたようですが、二十年程前から『天国に続く山』として観光客にもてはやされるようになり、今は観光収入だけで暮らしているようです」
「天国に続く山……ですか」
ティーカップに紅茶を注いでいたノアが、ドルイドの言葉に手を止める。ドルイドは椅子から立ち上がると、ティーポットごとノアの手を掴んだ。
「よそ見をすると危険ですよ。美しい指が火傷をしてしまう」
そして、ノアの手ごとティーポットを傾けて残りの紅茶をティーカップに注ぐ。そのドルイドの横顔をノアが目をぱちくりさせながら見上げた。
「……もしかして、からかってらっしゃいますか。ブラザー・ドルイド?」
「心外です、ブラザー・ノア。美しいものは守りたい。人間の心理です」
ノアの言葉にドルイドはにっこり笑って答えると、その灰色の瞳にノアを映した。
「もちろん、ロマンスに発展出来れば勿怪の幸い……うにゃうにゃ、男冥利に尽きますが」
「やっぱりからかってらっしゃいますね?」
ノアは眉尻を下げて溜息混じりに笑むと、空のティーポットを置いてティーカップを勧める。そして、もう一つを手に取ると、テーブルの対面に座った。
「先程の手紙でブラザー・ルージュが貴方のお人柄を讃えてらっしゃいましたよ。とても良いお方だと」
ノアの言葉に、途端にドルイドは苦虫を噛み潰したようになる。そして、肩をひょいとすくめると、悪戯を見つけられた子供のように笑った。
「ルージュめ、貴方に要らんことまで吹き込みましたね?」
ドルイドの言葉にノアが無言でにこにこと微笑む。ドルイドは観念すると、両手を挙げて苦笑した。
「ところで、ブラザー・ルージュとはどういった……失礼、どう見ても毛色が違うと思ったものですから」
ルージュの執着の理由が知りたくてそれとなく問うと、ノアが再び微笑みを返す。そして、滑らかな仕草でティーカップを口元に運ぶと、一口飲んでから笑みを深めた。
「ルージュとは修練院からの付き合いになります。のんびり屋のわたしと違い、ルージュは勉強も運動も堪能で、指導者としての資質もありました。なのに全然それを鼻にかけてなくて、親切で、優しくて、孤児のわたしのことをいつも気に掛けていてくださいました」
「それは良い方に解釈し過ぎでは……」
ノアの言葉にドルイドは思わず異論を唱える。言わせてもらえば、あれほど高飛車で傲慢で意固地な人間は見たことが無い。あの冷たい目で睨まれたら地獄のサタンでも尻尾を巻いて逃げ出すことだろう。
「まあ、多少口は悪いですが」
ドルイドの言葉にノアが苦笑混じりに返す。そしてティーカップを静かに置くと、ドルイドに視線を戻して微笑んだ。
「だからルージュが指導者の道を選んだ時、わたしは地方の教会を巡る道を選んだのです。信者が増えれば中央支部、延いてはそれを統べるルージュの功績になります。あ、これって聖職者としては動悸が不純ですよね」
うっかり本音を漏らしたノアが困ったように笑う。それを見て、ドルイドもつられて目元を緩めた。
この健気さのお陰でルージュは十年もヤキモキさせられている。一番のお気に入りを手元に置きたくて権力者への道を選んだのに、いざ玉座に座ったと思ったらスルリと目的のものに逃げられてしまったのだ。普段から心無い言動で傷付けられていたドルイドは溜飲を下げる。まったく実にいい気味だった。
「遅い! 何をしていたんだ!」
端末を繋いだ途端に飛び出した怒声に、ドルイドは目を眇めて身体を引く。そのまま椅子の背に寄りかかると、画面に映し出された麗人を見ながら小指でほじほじと耳をほじった。
「さっきまでノアと一緒にお茶を飲んでたんだ。旨かったぞ」
「貴様ッ……!」
ドルイドの飄々とした言葉に、途端にルージュが語気を荒げる。しかしすぐに思い直すと、ゴホンと咳払いしてから声のボリュームを抑えた。
「それで、ノアは転地をイヤがってたか」
ドルイドは協会内でも冷血管と恐れられている男の表情の変化に笑いを堪えながら、いや、と答える。
「俺に手を握られて赤くなってたぞ」
ニヤと笑いながら付け足すと、途端に椅子にふんぞり返っていたルージュがガバッと身を起こした。そして、物凄い形相でドルイドを睨み付け、唸るように凄む。
「死にたいのか貴様……」
「冗談冗談」
ドルイドはヘラヘラ笑って答えると、じゃあ今日の報告はここまでってことで、と言って端末のスイッチを切る真似をした。途端にルージュが慌てたように『待った』を掛ける。
「お前という奴は、どこまでイヤな奴なんだ!」
「あれ、手紙では俺の性格を褒めていたようだけど?」
意趣返しに言うと、たちまちルージュが苦い顔になる。
「わたしは本当のことを言っただけだ」
「はいはい。じゃ、おやすみ~」
ルージュの不遜な言葉に、ドルイドは再びニコニコ笑ってスイッチに手を伸ばす。ルージュは再び待ったを掛けると、盛大に溜息をつきながら頭の横で両手を開いた。
「降参だ。早くノアの様子を聞かせろ」
「そうそう。人間、素直が一番」
ドルイドは満足して言うと、再び椅子の背に寄りかかって笑みを深める。
「綺麗になってたぞ。十年前の写真しか見てなかったから、正直びっくりした。本物のミカエルが光臨したかと思って、思わず教会の前で跪きそうになったくらいだ。この俺がだぞ?」
神を毛嫌いしているドルイドはそう言うと、肩をすくめて笑った。
「いい加減、意地を張らずに端末で話せばいいのに」
「別に意地など張っていない。意地を張っているのは奴の方だ」
途端にルージュがムッと顔をしかめて言う。まるで子供のような言い草にドルイドは呆れた。
「わざと難解な教区にばかり派遣して、早く音を上げて帰って来ないかと手ぐすね引いてるのは誰だ」
ドルイドの言葉に、図星を指されたルージュが目尻を赤くする。
「なのに、あの強情者ときたら十年も会わずにいるのに手紙の一つも寄越しもしない!」
「どっちが強情者なんだか……」
あまりにも子供じみた物言いに、ドルイドは横を向いてボソッと独り言ちる。
「とにかく、早くノアに戻って来て欲しいなら作戦を変えることだな。町でちょっとリサーチしたが、神父の評判は恐ろしく良かったぞ。ノアはどこへ行っても半年足らずで教会を復活させて信者を増やしている。協会にとっては最高の采配とも言えるがな」
最後の一言は皮肉だったのだが、なぜかルージュが胸を張る。
「当たり前だ。ノアを神父に迎えて不満のある奴などいるものか」
「何なんだ、お前は……」
ドルイドは呆れて溜息をつく。本気でスイッチを切りたくなった。
「とにかく、帰りたがってはいなかったからな。明日には次の任務地に発つそうだ」
残念だったな、と皮肉を籠めて言うと、画面の向こうでルージュが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「まあいい。無理だとわかれば逃げ帰って来るだろう」
「そんな性格じゃないことくらいわかってるくせに」
呆れて言うと、ルージュが、今まではな、と答えて言う。
「しかし、今度の教区はそうはいかん」
「どういう意味だ」
ルージュの言葉にドルイドは眉を寄せて問う。すると、いつになく歯切れの悪いルージュが数瞬迷ってから答えた。
「よくはわからないが、協会本部から指名があった。ノアを派遣しろと」
「それで、よく調べもせずに『はいはい』と辞令を書いたのか?」
今度はドルイドが語気を荒げる。すぐにハッとして戸口を窺うと、誰の気配も無いのを確認してから再び二十年来の友に向き直った。
「見損なったぞ、ルージュ。そんな訳のわからん所へ自分の天使を向かわせるつもりなのか、お前は」
「……だからお前をやった」
ドルイドの言葉に、協会の中央支部長であり斎主でもあるルージュが唸るように答える。そして苦しそうに顔を歪めると、ようやく胸の内を吐露した。
「自分で行けるものなら疾うの昔に行っている。誰が平気なものか。今だって、奴が望むのなら片時も離さずに傍に置いておくものを」
「偏屈め」
ルージュの本音の言葉に、ドルイドはようやく表情を和らげると言った。
「まあいい、ひと肌脱ごう。お前の宝石箱の中で一番でかいのから三個、それで手を打ってやる」
「宝石など腐るほどある。いくらでも持って行け」
ルージュはそう言うと、机の引き出しから手の平ほどの木箱を取り出してドンと机の上に置く。中に入っているのはアクセサリーとして加工されたものではなく、磨いただけの石である。ドルイドはその木箱を見てフンと鼻を鳴らすと、ふと思い付いてニヤと意地悪く笑った。
「しかし、ノアが俺に乗り換えたとしても保障はしないからな。それは契約外だぞ」
そしてそう言うと、ワッハッハと軽快に笑ってスイッチを切る。いつも我侭な命令を聞いてやっているのだから、このくらいの意趣返しは許されるだろう。画面の向こうで歯噛みする悪友を思い浮かべながらドルイドはひとりほくそ笑む。しかし、事態は思わぬ方向へと動いた。
「どういうことだ……」
朝になっても起きて来ないノアを心配して部屋まで覗きに行ったドルイドは、空のベッドを見つけて困惑する。昨夜準備していたトランクも無くなっているのを確認し、更に困惑した。急いで端末を繋ぐと、朝の礼拝を終えて戻って来たばかりらしいルージュが不機嫌そうに出る。
「なんだ。今度は仲良く朝食を食べたとでも自慢するつもりか」
「ということは、お前の仕業じゃないってことか……」
ドルイドの言葉に、途端にルージュが眉を寄せる。
「何かあったのか」
「ノアがいなくなった。トランクも無いところを見ると、俺に黙って行ったらしい」
ドルイドの説明に、ルージュが表情を険しくする。
「どういうことだ」
「俺にもわからん。すぐに外をサーチしたが、既に匂いの痕跡すら無かった」
村まで送るという申し出をノアは断ったが、声も掛けずに出掛けるような性格ではない。やはり何かあったとしか思えない。
「とにかく、俺はドルシェに向かう。お前は協会本部を探れ。どうもイヤな臭いがする」
「同感だ」
ドルイドの言葉ルージュも唸る。途端に、赤い双眸が剣呑な光を帯びた。
「ノアに何かあったら唯では済まさん。こんなところブッ潰してやる……!」