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朝早くに目を覚ましたノアは、外に出ると新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。前夜まで降り続いていた雨も夜半には止み、木々の葉が雫できらきらと光っている。見上げると、教会の屋根も朝日を受けてきらきらと輝いていた。週末に直してもらったお陰で雨漏りもなかったようだ。大工の棟梁は強面だが面倒見のいい性格で、立ち話のついでに雨漏りの話をすると、無償で修繕してくれたのだった。
改めて礼を言いに行かなければと思っていると、教会の建っている丘の坂道を誰かがこちらへと歩いて来るのが見える。自分と同じ聖職者のローブを着ているところを見ると、『協会』から派遣されて来た者らしい。黒髪に灰色の瞳、二十代後半と思われるその神父は、ノアと目が合うと一瞬目を見開いてから眩しそうに微笑んだ。
「ノア神父ですか?」
「はい、そうです」
ノアは微笑んで頷くと、握手の為に手を差し出す。自分よりも年上と思われるその神父はその手を取ると、滑らかな甲に恭しく口付けた。途端にノアの顔が瞬間引きつる。
「噂には聞いていましたが、これは想像以上にお美しい。まるで大天使ミカエルの再来かと思いましたよ。お会い出来て光栄です」
「はァ……」
透けるように白い肌も黄金色の髪も、サファイアの瞳も聖職者であるノアにとってはどうでもいいものだ。ノアは急いで手を引っ込めると、ローブの後ろでこっそりと拭いた。
「私はドルイドと申します。ここの後任に任命されましたので、ブラザー・ノアへの辞令を持って参りました」
ドルイドはそう言うと、一通の文書を差し出す。ノアはそれを受け取ると、押し戴いてから丁寧に開いた。辞令は協会の中央支部長であるブラザー・ルージュからの直筆のもので、次の任務地名がしたためてある。
「サバタ州ドルシェ村……」
声に出して読み上げる。途端にドルイドが気の毒そうに眉をしかめた。
「ドルシェは山奥の小さな村で、教会も二十年前に前任者がいなくなってからはずっと機能していないと聞いております。苦労されなければ良いのですが……」
「それが私の使命ですので」
ドルイドの言葉にノアはにっこり微笑むと、首から下げているクロスを胸前でそっと握り締めた。
ノアは生後間もない頃に『協会』の門前に捨てられていたのを拾われ、聖職者になるよう育てられた。 『協会』とは世界中にある教会を束ねている機関で、本部のある中央支部を中心に複数の支部で構成されている。当時の中央支部長に育てられたノアは、十五歳の時に親権者と死別したのを機に支部を出て、以後十年間、神父として協会に命じられるまま辺境の荒れ果て忘れ去られた教会を転々と渡り歩いた。
教会が機能していない教区は信者の心も離れているので施しも受けられず、最初は協会から送られてくる僅かな食料だけで食い繋ぐのが常だ。それでもノアは教会を修繕し、日曜には鐘を鳴らしてミサを開き、町の人に溶け込もうと努力した。もとより美しい容貌だ。新しい神父の噂はすぐに広まり、最初は物見遊山だった信者たちも信心を取り戻して再び教会に通って来るようになった。教会はきれいに修繕され、日曜のミサには聖堂に入りきれないほどの人が集まるようになり、寄付で台所も潤った。
すると、それを見計らっていたかのように、こうやって次の辞令が届くのだ。今回も前回の辞令からまだ二年しか経っていない。ノアは視線を戻すと文書の文字をまじまじと見詰める。二年ぶりに見る文字は相変わらず雑で、ミミズがのたくったような文字が用件だけを簡潔に伝えていた。
(どうでもいいけど、もっと手紙らしい文章にはならないのだろうか……)
例えば時節の言葉とか近況とか、相手の健康を案じろとまでは言わないが、それでも二年ぶりの手紙なのだ、もうちょっと色気があってもバチは当たらないような気もする。すると、辞令を見詰めたまま黙り込んでしまったノアの様子を見かねてドルイドがコホンと咳払いをした。
「こんなところで立ち話もなんですから、とりあえず教会に入りませんか。ブラザー・ノア」
ノアはハッと顔を上げると、ドルイドの大きな荷物に目を留めて慌てる。
「気が付かなくて申し訳ございませんでした、ブラザー・ドルイド。長旅でお疲れでしょう。どうぞ中へ」
荷物を受け取ろうと伸ばした手を、ドルイドの大きな手がそっと掴む。驚いて見上げると、整った端正な顔が間近でにっこりと微笑んだ。
「貴方の美しい手に傷を作っては大変です。どうぞお気遣いなく」
「はぁ……」
ドルイドのちょっと気障な台詞にノアはポカンと口を開ける。しかしすぐにハッと我に帰ると、掴まれた手を急いで取り返した。ドルイドが笑って歩き出す。
「どうせこんな辺境です。協会役員の目も届かないでしょうから、すぐに発たれずとも、暫くゆっくりしてから行かれればよろしい。私も慣れない土地で不安ですし、いろいろ案内して頂けると助かります」
「はぁ……」
ノアは後ろをついて歩きながら、再び気の抜けた返事を返す。すると、前を歩いていたドルイドが不意に立ち止まって振り向いた。
「そうだ。ブラザー・ルージュから手紙を預かっていたのでした。忘れないうちにお渡ししなければ」
「ルーからッ?」
途端にノアの顔がパッと輝く。そうすると、二十代半ばの青年はまるで少年の様に幼く見えた。ドルイドは笑んでポケットを探る。取り出したのは封筒ではなく、金属で出来た四角い薄型の箱だった。
「ホログラム……」
ノアが恐る恐る手を伸ばすと、ドルイドが再び笑う。
「先に行って開けるといい。私は勝手に入らせて頂きますから」
「あ、ありがとう!」
ノアは笑顔で礼を言うと、大急ぎで教会に駆け戻る。それをドルイドが笑いながら見送った。
自室に駆け込んだノアは、箱を机の上に置いて蓋をそっと開ける。正確にはそれは箱ではなくて、プレートが二枚合わさったような形をしていた。開くと鏡面になっており、その上にホログラムが現れる仕掛けになっている。すぐに鏡面の上の空間が少しだけ歪んで、手の平ほどの大きさの若い男の姿が現れた。
「ルー……」
限りなく白に近い銀の髪と赤い瞳はアルビノ特有のものだが、その男に弱々しいイメージは全く無い。ばかりか、誰よりも強靭な意志と他者を圧倒する気迫に満ちていた。姿を見るのは十年ぶりだ。背が伸びた。顔もシャープになって、すっかり大人の顔だ。生意気で負けず嫌いだった一つ年上の幼馴染みは、すっかり協会中央支部長兼斎主の顔になっていた。
「ルー……」
それでも会えば嬉しい。嬉しくて嬉しくて、その小さな姿を抱き締めたくなる。思わず手を伸ばしかけたその時、ホログラムのルージュが口を開いた。
「しっかり働いているか、雑兵」
「ぞ……」
けんもほろろのその言葉に、ノアは落胆してガクッと項垂れる。口の悪さも相変わらずだった。
「協会を出てから十年だからな。そろそろメソメソしているだろうと思って顔を見せてやったぞ。有難く思え」
相変わらず『オレ様』の物言いにノアは思わず苦笑する。しかし、それすらも懐かしかった。
「今度の教区は山奥だ。ちょっと厄介な所だが、イヤになったらいつでも戻って来るがいい。いつでも俺の付き人としてこき使ってやるからな」
「何だよそれ」
ルージュの言葉にノアはむくれて唇を尖らせる。すると、その顔が見えたかのようにルージュが笑った。
「怒った顔が目に浮かぶぞ。成長という言葉を知らんのか、ガキ」
しかし、すぐに真顔に戻ると、視線を止めてまっすぐにノアを見詰める。
「コレを持って行ったのはドルイドという男だ。あいつはいい奴だが手癖が悪い。くれぐれも気をつけるように」
そして、本気なんだか冗談なんだかわからないことを言うと、後は優しい言葉ひとつ掛けずにパッと消える。ノアは慌てて手を伸ばすと、蓋を閉じて、もう一度開けた。
「しっかり働いているか、雑兵」
再び現れたその姿に、嬉しくて思わず顔が綻ぶ。しかし、居間で待っている客人のことを思い出すと、大切に蓋を閉じて引き出しにしまった。