婚約破棄した王太子殿下は、愛の詩だけは最後まで手放せませんでした。
「クラリッサ! 私は君との婚約を破棄する!」
王宮の夜会で、王太子殿下が高らかに宣言した。
隣には、美しい令嬢が寄り添っている。
「私は真実の愛を見つけた! 彼女こそ、生涯を共にするべき女性だ!」
「承知いたしました」
「……何?」
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
私は侯爵家の長女、クラリッサ。
五年前から殿下の婚約者を務めている。
もっとも、私たちの関係はとうの昔に冷え切っていた。
殿下は華やかな社交を好み、私は帳簿を好む。
殿下は詩を愛し、私は数字を愛する。
殿下は愛を語り、私は支払い期限を確認する。
相性というものがある。
「ずいぶんあっさりしているな」
「殿下のお気持ちが決まっているのでしたら、私から申し上げることはございません」
「そうか。君もようやく身の程をわきまえたか」
「はい。では、婚約解消に伴う手続きを始めましょう」
「手続き?」
私は侍女から革鞄を受け取り、中から分厚い帳簿を取り出した。
「殿下の未精算金一覧でございます」
「……何?」
「では、王太子殿下の借金を精算しましょう」
「待て!? なぜ精算リストがこの場にある!?」
「殿下の周囲から情報提供がありましたので」
「誰!?」
「それは、後ほど」
「後ほど!?」
私は帳簿を開いた。
「では、始めましょう」
◇
王太子殿下には、侯爵家が保証する信用取引の枠がある。
殿下が購入した品物の代金を侯爵家が立て替え、後日返済していただく仕組みだ。
婚約期間中は返済を猶予するが、婚約解消時には精算する。
五年前に両家が結んだ契約で、殿下も署名している。
「……ああ、あの信用取引か」
「はい。まず、昨年の秋にお仕立てになった礼服三着でございます」
「ああ。素晴らしい出来だった」
「王都随一の仕立屋でございますから。続いて、宝石商からお求めになった首飾りと耳飾りです」
「……それも載っているのか」
「殿下のご署名がございますので。次に、高級料理店でのお食事代、二年分でございます」
「二年分!?」
「毎週のようにご利用でしたので。続いて、劇場の特等席の年間契約料です」
「ああ、あれか」
「三年間ご利用いただきました」
「三年……」
「ここまでが主な社交費でございます」
「ここまで?」
「はい。次は馬車の改装費でございます」
「……馬車?」
「座席の張り替え、窓枠への金細工、天井の星座画でございます」
「あれは見事だった!」
「画家三人が二か月かけて描いたそうです」
「……そんなにかかったのか?」
「はい。続いて、お花代です」
「花?」
「恋人の方へ毎週お贈りになっている花束でございます。こちらが三年間の合計です」
「…………」
「特に真冬の青薔薇は高価でございました」
「……彼女が好きなのだ」
「花屋も大変喜んでおりました。次に、菓子職人の出張費です」
「菓子職人?」
「恋人の方のために専属でお呼びになった職人です。助手二名の人件費、材料費、厨房の改装費も含まれております」
「厨房の改装!?」
「専用の焼き窯を設置いたしましたので。続いて、楽団の演奏料です」
「ああ、彼女の誕生日だな」
「三十名の楽団でございます。宿泊費と馬車代も含まれております」
「……うむ」
「それから、花火の打ち上げ費です」
「ああ! あれは素晴らしかった!」
「花火師十二名、湖上の船六隻を使用しております」
「…………」
「後片付けの費用も含まれております」
「……そうか」
「では、次に参ります」
「まだあるのか!?」
「はい。ここからは文化芸術関係でございます」
殿下の側近の一人が、そっと顔を伏せた。
◇
「まず、肖像画の制作費でございます」
「……ああ」
「恋人の方の肖像画、全部で七枚です」
「七枚!?」
「春の庭園、夏の湖畔、秋の紅葉、冬の暖炉、舞踏会が二枚、乗馬姿が一枚でございます」
「……そんなに描かせたか?」
「描かせております。なお、額縁は別料金でございます」
「別なのか!?」
「すべて金箔仕上げをご指定でしたので。続いて、詩集の印刷費でございます」
「……詩集?」
「殿下がお書きになった恋愛詩をまとめた書物です」
「ああ! あれか!」
殿下の顔が明るくなった。
「革張りの表紙に金文字! 紙も最高級品を使った!」
「素晴らしいこだわりでございます。三千部印刷されました」
「…………」
「こちらが印刷費です」
「……三千部?」
「殿下が『私の愛を王国中に届けたい』とおっしゃったので、印刷所がご提案したそうです」
「…………」
「こちらにご署名がございます」
「……私の字だな」
「はい」
「……ところで、あの詩集は売れたのか?」
「十三部でございます」
「十三!?」
「うち十部は侯爵家が購入いたしました」
「君の家が?」
「父が、王太子殿下の著作物を一冊も買わないのは礼を失すると申しましたので」
「…………」
「残り三部は一般のお客様です。続いて、詩集の保管料でございます」
「保管料!?」
「売れ残った二千九百八十七部を倉庫でお預かりしております」
「…………」
「革装丁ですので、湿気対策が必要でございます。温度管理費、除湿設備の維持費、定期点検費も含まれております」
「……待て」
「はい?」
「詩集を作るのに金がかかり、売れなかった詩集を置いておくのにも金がかかっているのか?」
「おっしゃるとおりです。なお、保管料は現在も毎月発生しております」
「今も!?」
貴族の一人が、とうとう吹き出した。
「処分なさいますか? 古紙として引き取っていただければ、保管料は不要になります」
「私の愛の詩を古紙にするのか!?」
「では、保管を継続いたしますか?」
「…………」
「どちらでも対応可能でございます」
「……少し考えさせてくれ」
「承知いたしました。詩集の処分方法、保留、と」
私は帳簿に印をつけた。
「続いて、詩集の出版記念祝賀会の費用でございます」
「まだ詩集があるのか!?」
「料理、酒、会場装飾、楽団、招待状の印刷費です。それから、文芸評論家三名への謝礼でございます」
「……書評?」
「はい。お一人は『装丁が実に見事である』と」
「……うむ」
「もうお一人は『紙質が素晴らしい』と」
「…………」
「最後のお一人は『活字が大きく読みやすい』と」
「詩の評価は!?」
「報告書に記載がございませんでした」
側近の一人が、壁に手をついた。
「続いて、詩集の広告費でございます」
「広告まで出していたのか!?」
「王都の主要な広場に三か月間、掲示を出しました」
「…………」
「ちなみに、先ほどの十三部という販売数は、広告掲載後の数字でございます」
「…………」
「以上でございます」
「……終わったのか?」
「はい。では、合計額を申し上げます」
◇
私は帳簿の最終頁を開いた。
合計額を読み上げる。
「私の個人資産では、一括で払えんぞ!」
「存じております。こちらが分割返済の計画案でございます」
「……私の自由になる金が、ほとんど残らないではないか!」
「なお、婚約解消により侯爵家の信用保証も終了いたします」
「…………」
私は帳簿を閉じた。
「それでは、婚約解消の正式な手続きに移りましょう」
「待て! そもそも、なぜ君は今夜の婚約破棄を知っていたのだ!?」
「私ですよ、兄上」
第二王子殿下が歩み出た。
「……お前か!?」
「はい。兄上が今夜婚約破棄を宣言なさると伺いましたので、クラリッサ嬢にお知らせしました」
「なぜそんなことを!」
「婚約解消には準備が必要でしょう? それに……」
第二王子殿下が私に向き直った。
「私は以前からクラリッサ嬢をお慕いしておりました。兄上の婚約者である以上、気持ちを伝えるつもりはありませんでしたが」
殿下が私の手を取る。
「クラリッサ嬢。婚約が正式に解消された暁には、私に求婚する機会をいただけませんか?」
この方とは、王宮の図書室で何度も顔を合わせていた。
歴史書や法律書を好む殿下と、会計や商業の本を好む私。
不思議と話が尽きなかった。
「……喜んで」
私は微笑んだ。
◇
一か月後。
私は第二王子殿下と婚約し、結婚式の準備を進めていた。
「殿下。招待客への記念品はどういたしましょう?」
「兄上の詩集を買い取りましょう。装丁を再利用して、芳名帳にするのです」
「なるほど! 装丁は大変立派ですものね!」
さっそく私たちは王太子殿下を訪ねた。
「兄上。詩集をすべて買い取らせていただきたいのですが」
「何だと!? ついにお前も私の詩の素晴らしさを理解したか!」
「いえ。装丁が素晴らしいと思いまして。中身は白紙に差し替えます」
「私の詩は!?」
「古紙として売却いたします」
「やめろおおおおお!!」
「では、別の業者に発注いたしましょう」
私たちが立ち去ろうとすると、背後から声が飛んできた。
「待て!!」
王太子殿下が、震える手を伸ばしていた。
「……いくらだ? いくらで買い取るつもりだ?」
私は第二王子殿下と顔を見合わせた。
「では、まずお見積もりを作成いたしましょう」
こうして、私たちの結婚準備は順調に進んでいる。
ちなみに、王太子殿下の詩集については、現在も価格交渉中である。
ただし、一つだけ確定していることがある。
私たちの結婚式に、愛の詩は必要ない。
だって、私たちの愛は、帳簿に載せる必要がないのだから。




