Spicy Black(1)
バレンタイン/ホワイトデーイベント作品(ハザマver.)
俺の名は、ハザマ。
実際には姓でもなく名でもない、単なる呼び名なのだが、俺の知り合いは皆こう呼んでいる。
というのも、俺には正しい意味での名前がないからだ。
いや…多分、本当はあったのだと思う。親がつけてくれたであろう、名前が。
けれど、俺はそれを覚えていない。
現在では俺の職場の上司に当たる人が俺を拾った時、俺は名前だけでなくそれ以外の自分の事を全て忘れてしまっていた。
そこで便宜上付けられた名が、『ハザマ』。
その名には、『人』と『獣』の間にある者、という意味が込められている──。
+ + +
「…ハザマさん? どうしました、浮かないお顔で」
突然、耳元で聞き覚えのある声。その至近距離からの声で、俺ははっと我に返った。
どうやらすっかり考えに没頭していたらしい。
「あらまあ、驚いた。あなたでもそんな風に考え込む事があるんですね」
声の主は俺の反応に目を丸くしたが、すぐに聞き方によっては失礼極まりない言葉を言いながら、ころころと楽しげに笑った。
その顔を、俺はきっと苦々しさを隠せない顔で見ていたに違いない。
よりにもよって、一番油断のならない人物の前で隙を見せてしまうとは……。
「── 何か用ですか、あかねさん」
無意識に警戒が声に出て、言葉が硬くなる。
これでも出来るだけ平静を保っているつもりなのだが、おそらく相手にはこっちの動揺などお見通しだろう。
彼女── 佐竹あかねという── は目を惹く大きな瞳をこれ以上ない程愉快そうに細めて、まだ笑いの発作の治まらない口元を、白い着物の袖で隠した。
「ごめんなさい、笑ったりして。あなたも半分とはいえ人ですものね。うっかりするような事があっても当然でした」
見た目が十二、三歳程であるせいで、にっこりと笑うその顔はまったく悪意のない無垢なもののように見える。
腰までもある長い黒髪。常に身に着けているのは、白を基調にした淡い色合いの振袖だ。
丁寧な口調と相まって、何処の旧家のお嬢様かと思える様子だが、見た目で騙されると痛い目に合う事を俺は嫌と言うほど熟知していた。
…そうでなければ、俺がわざわざ自分より明らかに年下の子供に敬語なんぞを使うものか。
「…それで、用件は」
「そんなに怖い顔しなくても。…つれない方ね。用がなければ、声をかけてもなりませんか?」
軽く小首を傾げての言葉に、出来る事ならそうしてくれ、という言葉が咽喉元まで出かかった。
だが、そんなことを口にした日には、どんな恐ろしい報復が待ち構えているかわからない。
俺は心の奥でげんなりしながらも、努めてそれを表に出さないように、最大限に穏やかな口調で返事を返した。
「そんな事はありません。…ですが、あかねさんが用もなく俺の所に来る事なんてないでしょう?」
「まあ! それは誤解です、ハザマさん。ハザマさんはわたくしにとって、大切なお仲間の一人。種族こそ違えども、親愛の情に違いはございませんよ?」
いけしゃあしゃあと言い放つと、あかねさんは少し悲しげな顔をしてみせた。
…おそらく、これが初対面だったなら、俺もきっと騙されていた事だろう。
だが、あいにくと不本意ながらも付き合いの長い俺の目には、その笑顔の裏で悪魔が微笑んでいる事を見抜いていた。
「で…、本当に何しに来たんです」
芝居めいたやり取りに付き合う趣味はない。
そんな意図をこめてもう一度尋ねると、あかねさんはやれやれと言わんばかりにその肩を竦めた。
「もう、本当につれないんですから。…昔はあんなに可愛らしかったのに……」
むくれた顔でぼそりと付け加えられた言葉に、ぞくりと背中を悪寒が走った。
これは彼女お得意の『昔の弱み』攻撃が始まるかと反射的に身構えたが、あかねさんはそんな俺の懸念を無視して、いきなりその白い手をずい、と前に突き出した。
「?」
掌は上を向いている。まるで、何かを求めるような手つきだ。
だが、軽く記憶を思い返してみても、彼女から託された書類や仕事も、誰かから彼女に渡すように頼まれた物を受け取った記憶もない。
訳が分からずその手を凝視し、あかねさんからの説明を待ったものの、あかねさんはあかねさんで期待に満ちた目で俺を見ている。
何なんだ、一体。俺は仕方なく尋ねる事にした。
「…あかねさん、この手は一体?」
「一体って…見てわかりませんか?」
「── わからないから聞いているんですが」
「何て事でしょう…!」
俺は心の底から困惑していたのだが、あかねさんも信じられないといった顔をする。
しかも顔ばかりでなく、差し出されていない側の手の甲を口元に運び、その衝撃の大きさを演出してみせた。
…今までを思い返すに、彼女がここまでオーバーリアクションをする時は、決まって俺の理解の範疇を超える理由が存在する。
しかして、あかねさんはやはり俺が予想もしていない言葉を口にしたのだった。
「ハザマさん? あなた、今日が何の日か知らないのですか?」
何処となく非難めいた口調と視線に、俺の困惑は更に深まる。
何の日かと問われて、もう一度記憶を浚ってみたが、今日は祝日でも祭日でもないし(そうならそもそも出勤なぞしていない)、誰かの誕生日でもない。
眉間に皺を寄せて真剣に考え込む俺に、あかねさんは心底呆れた目を向け、差し出していた手を引っ込めたかと思うと、両手を腰に当てた『説教ポーズ』を取った。
「いいですか、ハザマさん。その耳をかっぽじってよーくお聞きなさい。今日は…『ホワイトデー』です。バレンタインデーのお返しをする日でしょう! この日を忘れるなんて、殿方としてあるまじき事ですよ?」
「…──」
細い眉を吊り上げての『お説教』に、俺は心の底から首を傾げた。
今日が三月十四日で、世間一般で『ホワイトデー』だと呼ばれている事は知っている。
…と言うか、俺がこの人の接近に気付かない程に思い悩んでいたのも、実はその事に大いに関係するのだ。
── だが、しかし。
先程の手の意味する所をようやく理解はしたが、やはりわからない。
「…あの、あかねさん。俺はあなたから先月の十四日に、何か貰ったような記憶がないんですが?」
そう…今を遡ること、一ヶ月前。
バレンタインデーと呼ばれる日、丁度俺は上司と仕事に出ていて。…そこからこの職場に戻ってきた時にあかねさんと言葉を交わしはしたが、その時に何かを渡されたりはしなかった。
これは断言出来る。
何故ならその日…うちに帰るまでは、そんな日だという事に俺はまったく気付いていなくて、その結果、帰宅した時に今までになく驚かされる羽目になったのだから……。
お陰でその日に関係する記憶は、常以上に鮮明だ。
その時の事を回想して思わずため息をつきかけた俺を、あかねさんはあからさまにショックを受けた顔でひどいわ、と詰った。
「ひどい、ハザマさん。そんな冷たい方だなんて思いませんでした……!」
「え? あの……?」
「ハザマさん、甘いもの苦手でしょう? ですから…ですから、わたくし……」
あ、と思った時には、その大きな目は涙で潤み始めていて──。
「ゆ、勇人さんに、言いつけますからあ~~~っ!」
そんな捨て台詞を投げつけて、こちらの言い分など耳を貸さない勢いであかねさんは去って行った。