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1.巡査とワルツを

 盗み見る視線に気がついたらしく、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)のアーサー・カートライト巡査は顔を上げた。

「なにか?」

 なんでもない、とウィリアム・モリスは首を振る。祖母があのデザイナーに心酔していたので、名前を彼からとって「ウィリアム・モリス」だ。現代のロンドン、二〇一×年に生きるウィリアム・モリス氏は画商をしている。

 モリスは咳払いした。白髪が交じりはじめたブロンドに、薄い青い瞳、一八四センチという長身で均整のとれた体つきの、中年男性。色香を含んだ歳の取り方をしていて、華やかで、どこにいても目立つ。それがモリスだ。いつもどこかからかうような目をしていて、薄い唇が酷薄そうに見える、と言われることもある。主に昔の恋人たちから。

 モリスは愛想よく、重ねて言った。

「本当になんでもないです、カートライト巡査」

「なら、いいのですが。ここでお待ちいただくのは落ち着かないでしょう?」

 カートライトはかなり整った、美しい強面の顔にかすかな気遣いの心を滲ませて尋ねた。全然、とモリスは明るく答える。場違いな明るさだ。

「殺人事件の現場にいるんだ、最高にスリリングです」

「そうですか」

 そういうことは不謹慎です、とは、カートライトは言わない。ただ、目つきが物語っていた。真面目な巡査なのだ。制服をきちんと身に着けて、右手で警棒に軽く触れている。その通った鼻梁や長い睫毛、警帽の後ろから覗く触り心地がよさそうな黒髪を、モリスはぼんやりと見つめた。

 二人は今、高級住宅地ナイツブリッジにあるフラットの書斎にいる。名の知れられたオランダ製のデザイナーズ・チェア、使い込まれたマホガニーのロールトップ・デスク、極めてモダンなカウチ、壁を彩る趣味のいい絵画。絵画はどれも新進気鋭の作家の作品で、今、値段はうなぎ上りだ。

 そして床には遺体のあった場所を示すテープ。絨毯に血のシミが広がっている。

「鈍器ですか。脳漿のうしょうが飛び散ったそうですね」

 モリスが床を見ながらつぶやくと、巡査はうなずいた。無表情だ。無表情でもきれいな男だとモリスは思う。だから、無性に笑わせてみたくなった。無表情の人間はたいていきれいだ。それは、作りもののようだから。取り繕っているから。だから、笑うことで醜くなったり、どこかが歪になる人間もいる。

 ということで、モリスはカートライトを笑わせてみたかった。この美しさは変わらない、ということを確かめるために。

 モリスはカートライトを見つめる。

 カートライトは美男なのにそれを鼻にかけない。というか、自分が美男だということに気がついていないようだ。てきぱきしているのに、有能さも鼻にかけない。控えめで、ギムナジウムにいる模範学生のような巡査だとモリスは思う。痩せぎすのひょろりとしたところ(モリスよりも上背がある。後で知ったが、一九〇センチだそうだ)も、成長期の男子学生みたいだ。

 なぜか、無性に好感を持つ。今のモリスにできることは、見つめることだけだった。その無念をむしろ愉しむように、モリスは「こほん」とまた咳払いして、再び明るく言った。

「私は邪魔していますよね?」

「いえ、自分は上官から仰せつかっています。モリス氏に、ここでお待ちいただくようにと。あなたは被害者の旧い知り合いでいらっしゃるし、それに――」

「顧客、と言ったほうが正しいです。うちの画廊から何度か絵を購入してくださったんです。ここに飾られている絵の中にも、購入してもらった作品があります」

「ショックはお受けになられましたよね、当然」

「いいえ。恨みを買っていてもおかしくない男でしたから。死人のことを悪く言うのははばかられますが、慈悲を掛けるに値しない男です。なんて言ったら、私が犯人だと思われてしまうかも」

 悪戯っぽく笑ったモリスにも、カートライトは反応を示さなかった。反応が答えになることを警戒しているのだろう。慎重な青年だ、とモリスはますます好もしく思う。さらに気軽に言った。

「顧客、というだけではありません。いや、『だけではありません』なんて言うと、関係があったと思われてしまいますね。私は深入りしなかったが、被害者の男――バートは、同性愛者でした。特定のパートナーを作らず、渡り歩いていた。私も誘われたことがあります」

「と、言うと?」

「ヤらないか、と。露骨な言葉を使ってすみません。私も同性愛者なもので」

「ああ――そうですか。よくお話しくださいました。自分は偏見は持っておりません。親戚に同性愛者の男性がいて、パートナーもいるんです」

 巡査が思いやりのある口調になった気がして、モリスは内心少し笑った。いい子だな、と思う。二十歳近く年下の男を相手にしているので、「子」なんて思ってしまっても仕方ない。カートライトは同性愛者にシンパシーを感じているというわけではなさそうだが(「自分はストレートです」と言った)、思いやりの心は持っている。

 ふいに、モリスは思った。

 あなたにいたわってもらうほど、ちんけな生き方はしてないけどね、と。こういうところがひねくれている、と自分でも思う。だが、モリスは誇り高い人間だった。同性愛者の自分を恥じたことは一度もなかった。

 モリスはギリシャ彫刻のように整った顔に愛想のいい笑顔を浮かべ、「とんだ無駄話をしていますね」と話しかける。巡査はかぶりを振った。

「いいえ、モリスさん。あなたがお話しくださったことは重要です。怨恨や痴情のもつれなどの線が重要になってくるかもしれない。それに、上官が申していました。モリスさんは優れた探偵でもあられると。だからこちらにお呼び立てしたんです」

「ああ、それは買い被りなんです。たしかに、私は何度か事件解決のお手伝いをしましたが、それはほんとにお手伝いだったんです。シャーロック・ホームズやエルキュール・ポアロは期待しないでください。というか、彼らのような探偵は、現実には存在しませんが」

「確かにそうです。でも、あなたはとても有能な方でいらっしゃると聞いています。お知り合いが殺されてつらいお気持ちはあるかと思いますが、お力添えいただけましたら有難く思います」

 目礼するカートライトに、モリスはむず痒くなって背中を掻いた。被害者と知り合いだという点以外にも、事件の解決に協力するという名目でここにいる。モリスは素人探偵として、その知性を警察に買われていた。カートライトに熱心に言い募ってもらい、居心地がいいような悪いような。いや、悪い――とモリスは思う。

 惚れた男におだてられると、たちまち背中がむず痒くなるのがモリスだった。惚れるのはいいが、惚れられるのは苦手だ。一方的に情熱を傾けて親密になり、入れ揚げて、やがて飽きる。それがモリスだ。だから一目惚れなんて慣れている。ただ、久しぶりだった。落ちてきた隕石はでかかった。

 ゆえに、何気ない口調を装って言ってみる。

「カートライト巡査、この事件が解決した後、なにかご予定は?」

「予定……ですか? そうですね、特にありません。いつ解決するかもわかりませんし、ゆっくり休みたいですね」

「だったら私の持っている別荘に行きませんか? コーンウォールの、海岸の近くです。いいところですよ」

 カートライトはここで初めて呆気にとられた顔をした。緑の瞳がぱちくりと瞬く。

「……それは、伺ってかまわないのでしたら有難く。でも、どうして自分に? 自分は決していっしょにいて楽しい人間ではありませんし、気の効いた会話などもまったく――」

「そういうものは、私は恋人に求めます。あなたは私のパートナーではないのだから、どうぞお気軽に」

 モリスは微笑んで目を細めた。

「そうと決まれば、事件は早めに片付けますよ」

「え? モリスさん、あなたはいったい――」

 あなたと早く、長く共に過ごしたいから、とは、まだモリスは言わない。このお堅い巡査を愉しませる罪人つみびとに、おれはなりたいと思った。そう、彼の誇りになるよりも。

(アガサ・クリスティーの、『牧師館の殺人』に出てくる一節を思い出す。牧師の妻である、美しく奔放な女性の言葉を。

「だれかの誇りになるよりも、だれかを密かに愉しませる罪人になるほうがずっとすてきですもの」)

 救いようのない罪人になって、彼とワルツを踊りたい。

 怪訝な顔をしているカートライトに向かって微笑みを投げる。四十二歳のモリスと、二十四歳のカートライト。十八歳年下の巡査はその笑顔になにかただならぬものを感じ取ったのか、さっと視線を伏せた。

「巡査。私はとって食おうなんて思ってませんよ」

 モリスがからかう口調になると、カートライトは気まずそうに視線を合わせてくれた。

「失礼しました、モリスさん。あなたが自分を食おうとされているなんて、思ってはおりません。それとも、それは隠語でしょうか? その……同性愛者の間で使われるような……」

「あなたとヤりたい、と?」

 カートライトは無表情だ。素直すぎる、とモリスは内心笑う。だが、勘はいい。いや、ここまで匂わせたらどんな鈍感でも気がつくか。にこっと笑ってとぼけた。

「勘違いしないでください。あなたとは会ったばかりなんですから」

「し、失礼しました! 自分の思い上がりでした。そうですよね。あなたのように素敵な紳士が、自分のような人間に声をかけるはずはありません」

「素敵な紳士? うれしいですね。そんなふうに思ってくれているとは。本気にしてしまいます」

 カートライトは明らかに慌てている。「本気にされたら困る」という顔だ。モリスは低い声で笑う。まったく、お堅い男を崩していくのは愉しい。

 これは例えばの話だが――「私とワルツを踊ってほしい」なんて言ったら、きっとますます狼狽して警戒するだろうな、と愉しくなる。

 だから、言ってみる。

「そうだ、カートライト巡査、ワルツを踊るのはお得意ですか?」

 カートライトはまたぽかんとした。

「ワルツ? 得意ではありません。踊りは、まったく」

「実は、私もです。若いころに何度か踊りましたが。相手の足を踏んづけて痛い目に遭わせてしまいました」

「……意外です。モリスさんは、なんでも完璧にこなされる方のような印象を持っておりました」

「私は案外なにもできません。なにもできないなりに人生を謳歌している、それだけです。私とは反対に、あなたは努力される方とお見受けしました」

「確かに、自分は努力して苦手なものを克服しようとしてきたタイプです。というのも、負けず嫌い、と言いますか」

「だったら、別荘でいっしょに練習しませんか? ワルツを」

「あなたと、ワルツを?」

「ええ」

 カートライトはかすかに微笑んだ。その笑顔はとても可愛らしかった。

 この瞬間、画商を「本気」にさせたことを、巡査は知らない。

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