未遂
退院して一週間が経った。
あまり当時のことは覚えていない。いつの間にか屋上にいて、気づいたら地響きで身体が揺れていた。
掠れた声が聞こえたような気がする。あれは東雲先生だったろうか。名前を呼んでくれたのかな。手は、差し伸べられたのかな。
僕の名前は石川一未。
一週間とさらに前、僕は死に場所を探していた。
二年生の僕のクラスでは、毎朝僕の机の上に花瓶が置かれる。他にも教科書が隠されたり、物を盗まれたりと、ポピュラーな虐めを受けていた。盗まれたのが財布じゃなかっただけ、まだマシだと思っていた。
担任の矢野先生に相談もしたが、彼はまともに取り合わなかった。虐めの主犯格は学年トップの成績で、進学実績を守りたい学校にとっては僕よりずっと価値がある。誰だって、泥舟よりは豪華客船を守るだろう。
ただ、この学校にも好きな時間はあった。日本史の授業だ。
担当の東雲先生は、学年主任という立場ながら、どこか浮世離れしていた。猫背で、近づくと安っぽいタバコの匂いがするけれど、僕の話を唯一「人間」として聞いてくれた。分からないところを聞きに行けば、彼はいつだって手を止めて答えてくれた。
今思えば、あの準備室だけが、僕が僕でいられた聖域だった。
けれど最近、東雲先生はやけに忙しそうだった。
虐めはエスカレートし、とうとう財布の中身を抜かれた。ガワだけ戻ってきた空っぽの財布を、自分の心と重ねてしまう。僕は縋るように、社会科準備室の戸を叩いた。
「先生、相談があって来ました」
先生の顔に余裕はなかった。
「五分だけ、待ってくれるか?」
先生は僕を優先してくれなかった。
社会科準備室の空気は、常に何かの締め切りに追われていた。
石川が来た。何やらひどく思い詰めた顔をしている。
すぐにでも椅子を引いてやりたかったが、背後にいる科長から丸投げされた仕事が山積みだった。これを今日中に片付けなければ、明日家に帰れる保証すらない。
「五分だけ、待ってくれるか?」
私は手元の書類に目を戻した。このとき、仕事なんてすべて捨てて、彼の肩を掴んでいれば。そんな後悔を、この先何年も呪いのように抱えることになるとは知らずに。
僕は椅子に座って待っていたが、心はもうここにはなかった。
先生はようやく一段落させ、僕に向き合った。
「先生、僕、虐められているんです」
先生は言葉に詰まった。
「そうだったのか。……辛かったな。話してくれて、ありがとう」
先生の言葉に、少しの安堵と、それ以上の猛烈な疑念が湧いた。
「……こんなに近くにいたのに、先生は気づいてくれなかったの?」
思わず口に出ていた。先生が忙しいのも知っている。けれど、僕の時間はもう、限界まで削れていた。
視界が急激に滲んだ。頬には熱い小川が流れていた。
気づいたときには準備室を飛び出していた。背後で先生が私の名を呼び、手を伸ばした気がしたが、すべてを振り払って階段を駆け上がった。
屋上の風は、やけに気持ちよかった。境目を乗り越えた後の記憶はない。
掠れた声は聞こえていたのかもしれない。けれど、僕の記憶の中では、手は差し伸べられていなかった。名前は呼ばれていなかった。
病室で眠っている間、謝りに来たのは東雲先生だけだったという。言い訳ひとつせず、「私が悪い」と頭を下げ続けていたそうだ。
先生は悪くない。悪いのは虐めてきた奴らと、黙殺した矢野と、この学校だ。
それでも、僕はもう先生の顔を見ることはできないだろう。
東雲先生はその後、責任を取るように学校を去った。
僕のいない四畳半のどこかで、先生もまた、空っぽの財布のような心で、ゆらりと流れる時間を生きているのかもしれない。




