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静かな了承、荒れ狂う夜


学院の帰り道、馬車の車輪が静かに石畳を転がる音が響いていた。

ルシアは、優雅な足取りでエリオット・アシュフォードの屋敷へ向かう。

その姿はいつもと変わらず、穏やかで洗練された気品を漂わせている。


今日は、エリオットと共に夕食を取る日だった。


玄関ホールに足を踏み入れると、すぐにエリオットが現れる。彼は変わらぬ陽気さをまとい、軽やかな笑顔を浮かべていた。


「お帰り、ルシア」


その声は柔らかく、どこか温かい。

彼は軽く歩み寄り、ルシアの手を取ると、指先に優しく触れる程度の仕草で礼を示す。


「今日も学院でお疲れさまだったね。ちょうど夕食の準備が整ったところなんだ」


「まあ……ありがとうございます」


ルシアは穏やかな微笑みを返し、そっとエリオットの腕に手を添える。

その仕草は自然で、まるで日常の一部であるかのように見える。


「エリオット様とご一緒に過ごす夕食は、いつも楽しみなんですの」


「そう言ってもらえると嬉しいな」


二人は静かに歩き出し、長い廊下を並んで進む。壁際に並ぶ装飾的なランプが柔らかな光を灯し、磨かれた床に穏やかな光と影の模様を描いている。


食堂へ入ると、銀の食器が整然と並べられた長いテーブルが迎えてくれる。

燭台に灯された蝋燭の火が静かに揺らめき、壁に飾られた絵画やクリスタルのグラスに優しい光を映し出していた。


使用人たちは控えめに立ち、二人が席に着くと静かに料理が運ばれる。

香ばしい香りが食堂を満たし、温かなスープの湯気がかすかに立ち上った。


エリオットはナプキンを膝に整え、ふとルシアへ目を向ける。

その視線は柔らかく、どこか深くまで覗き込むような静けさを湛えていた。


「今日の学院はどうだった?」


何気ない問いかけに、ルシアはワイングラスに注がれた淡い色の果実水をそっと持ち上げ、一口含んでから答える。

その表情は穏やかで、声も変わらぬ優しさを保っている。


「おかげさまで、有意義な一日でございました」


エリオットは微笑みながら、サラダ用のフォークを軽く手に取る。その動作は洗練され、貴族としての品格がにじんでいた。


「君がそう言うなら、きっと素晴らしい日だったんだろうね」


ふとした沈黙が訪れる。

テーブルの上で揺れる蝋燭の炎が、二人の顔に淡い陰影を落とす。


ルシアは、淡く微笑んだまま再びグラスを傾けた。その瞳には揺るぎない静けさが宿り、何も語らずとも、そこに確かな存在感が漂っていた。


エリオットはその姿を見つめながら、指先でグラスの縁をゆっくりとなぞる。

何気ない日常の中に、言葉にしきれない感情がわずかに滲んでいた。

彼の口元には余裕のある微笑みが浮かび、その後も会話は穏やかに流れていく。




「エリオット様」


ふと、ルシアが静かに声をかけた。食卓の静寂に溶け込むような、柔らかな声色だった。


「うん?」


エリオットは手にしていたナイフとフォークをそっと置き、興味深げに顔を上げる。

こちらを見るルシアの瞳は、相変わらず穏やかで、何の曇りもないように見えた。


「実は……学院で、ヴィンセント様と少しお話をしましたの」


その一言に、エリオットの瞳がほんのわずかに揺れた。

しかし、彼はすぐに微笑みを取り戻し、ナプキンの端を指先で整える仕草に逃がす。


「そうなんだ。まあ、君たちは同じクラスだし、自然なことだよね」


「ええ、それで……」


ルシアは手にしていたフォークをそっと皿の縁に置いた。その動作は優雅で、微塵の乱れもなかった。


「ヴィンセント様と、街へ出かけることになりましたの」


カチン——。


置いていたフォークを取ろうとしたエリオットの指先が、皿の縁をかすめて微かな音を立てた。その小さな響きが、静かな空間に不自然に広がる。わずかに強張った指先が、彼の内心の揺らぎを物語っていた。


しかしエリオットは、すぐにその動揺を押し隠すように、指先に力を込め直す。何事もなかったかのようにフォークを持ち直し、変わらぬ微笑みを浮かべてルシアを見つめた。


「……街に?」


「ええ。貴族として、市井の様子を見聞することは必要ですもの」

ルシアは穏やかな微笑みを絶やさず、淡々とした口調で続けた。


「学院で学ぶだけでなく、実際に歩き、見て、感じることが大切ですわ。ですが、私一人では少し心許ないので、ヴィンセント様にご案内いただくことになりましたの」


その言葉に、エリオットは一瞬だけ視線を落とし、ワイングラスの細い脚に軽く触れる。指先でなぞるように撫でながら、無意識の強ばりを余裕に偽装するかのようだった。


再び顔を上げたとき、内心を悟られまいとするかのように、微笑みは意図的にほんの少しだけ深くなる。


「なるほど……それは、いい機会かもしれないね」


声音は穏やかで、表情も変わらない。けれどその奥底で揺らぐ感情は、決して表に出すことはなかった。

その声は軽やかだったが、グラスを持つ手にわずかに力がこもっているのが自分でもわかる。


「ヴィンセントが同行するなら、安心だね。彼は誠実で、君のことを大切に思っているから」


「……そうおっしゃっていただけるなら、私も心穏やかに街へ参れますわ」


ルシアは優雅に微笑み、再びフォークを手に取る。その表情には曇りひとつなく、完璧な淑女としての気品が宿っていた。


「エリオット様にも、きちんとお伝えしておきたくて」


「ありがとう。僕に隠しごとなんて、しないもんね?」


「ええ、もちろんですわ」


二人は穏やかに微笑み合う。

けれど、エリオットの瞳の奥には、淡い炎が静かに揺れていた。


彼は決して声を荒げない。決して「行くな」とは言わない。

どこまでも優しく、寛容な婚約者を演じる。それが、ルシアの傍にい続けるための最善の方法だと信じているから。


「……気をつけて行ってきてね」


その言葉とともに彼は微笑んだ。

けれど、その奥に潜む感情は、見えない鎖のように彼の理性を締めつけていた。

指先に残る微かな震えだけが、抑え込んだ独占欲の存在を密やかに告げているようだった。






夕食の後、ルシアは予定通り帰宅した。

エリオットは最後まで穏やかな笑顔を崩さず、玄関の扉が静かに閉まるまで見送る。


だが――扉の音が屋敷に吸い込まれると同時に、その微笑は跡形もなく消え去った。


無言のまま、足早に廊下を進む。抑えきれない苛立ちが足音に滲むが、使用人たちの視線を意識し、声を荒げることはない。

しかし、その感情は扉の向こうで限界を迎える。


自室の扉を勢いよく閉めた瞬間、溜め込んでいた激情が堰を切ったように溢れ出す。


「……っ、クソッ……!!」


怒声が密やかな空間を切り裂く。

エリオットは拳を固く握りしめ、震える手を机に叩きつけた。

重厚な木の机が鈍い音を立てるが、痛みを感じる様子もない。

それでも怒りは収まらず、指を髪に深く差し入れて荒々しくかきむしる。

額に滲む汗、肩で乱れる呼吸。

焦点の合わない目が虚空を見つめ、歯を食いしばる音が微かに響く。


心の奥底に渦巻く感情は、行き場を失ったまま、彼の内側で静かに膨れ上がっていた。

冷たい静寂の中、荒い呼吸だけが孤独に響いていた。


ルシアが、ヴィンセントと二人きりで街へ行く。


その事実が、胸の奥で炎のように燃え広がっていく。

焼けつくような嫉妬と、耐えがたい怒りが交錯し、理性の隙間を突き破る。


「……なぜ、あいつなんだ……」


唇から零れた声はかすれ、震えていた。

誰に向けた問いかもわからない。ただ、抑えきれない感情が口を突いて出る。


――ルシアは、僕の婚約者だ。

僕の隣で微笑むべき人間であり、僕だけを見ていてくれるはずの存在だ。


なのに、なぜ。


なぜ、あの男の隣で微笑む?

あの男の言葉に耳を傾け、心を寄せる?

僕の知らない表情を、あいつだけが見ることを許される?


「……ルシア……」


彼女の穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。

その微笑みは、まるで春の陽だまりのように優しく、温かい。

けれど、今はその優しさが喉元に突き刺さる棘となる。


彼女が、僕に向けたあの微笑み。

それと同じ笑顔を、あの男にも向けたのか?


そう考えただけで、頭の奥が真っ白になりそうだった。

拳を強く握りしめる。爪が掌に食い込み、血が滲むほどに。


「……ふざけるな……」


僕がどれほど彼女を愛しているか、誰よりも大切に思っているか。

それを、なぜ彼女は理解してくれない?


――いや、違う。ルシアは悪くない。


彼女は優しく、穏やかで、誰に対しても平等に接する慈愛の人。

その純粋さを利用し、近づくヴィンセントが悪いんだ。

あの男が、ルシアの優しさを、自分だけのものにしようとしている。


「……ヴィンセント……」


彼の名前を口にするだけで、胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われる。

その存在が許せない。彼女の隣に立つ資格があるのは、僕だけなのに。


エリオットは荒い呼吸を整え、額に汗が滲むのを感じながらゆっくりと目を閉じた。

瞼の裏には、あの微笑むルシアの顔が鮮明に浮かんでいる。


「……大丈夫だ」


静かに、自分に言い聞かせるように呟いた。


「君は僕の婚約者なんだ。君の隣に立つのは、僕だけでいいんだ」


それは祈りではなく、確信に満ちた呪いのような言葉だった。

彼女の優しさも、笑顔も、すべて自分のもの。

たとえ世界中の誰がルシアに微笑みかけようとも、彼女の隣は僕のものだ。


「……君を誰にも渡さない」


その囁きは甘く、狂おしいほどの執着を孕んでいた。

まるで愛を語るように、けれどその実、底知れぬ深淵のような闇が潜んでいる。


「君は僕だけのものだ、ルシア」


その言葉は、静寂の中で淡く響き渡り、静かに零れた言葉は、まるで甘やかな愛の囁きのようだった。

けれど、その愛がどれほど狂気に満ちたものなのか。


それを知る者は、まだエリオットただ一人だけだった――。


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