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交わる視線、近づく心


王立貴族学院の午後、陽が傾き始め、窓際に長い影を落としていた。


授業が終わった後の教室には、生徒たちの足音と談笑が響き、次第に人が少なくなっていく。

けれど、今日はルシア・ウェストウッドとヴィンセント・アルスターの二人だけが、その場に残っていた。


「……教師がお困りのようでしたので、お手伝いを申し出たのですが……」


ルシアは、少し困ったように微笑みながら、教壇の横に積まれた書類の山を示した。

整然と積まれているはずのそれは、今にも崩れ落ちそうな不安定さで、ページの隙間からは幾重にも重なった資料が顔を覗かせている。

ルシアの繊細な指先が書類の端に触れるたび、バランスが崩れそうになるのを、彼女は慎重に整えようとしていた。


「思ったより多くて、少し時間がかかりそうで……」


そう言うルシアの声は柔らかく、けれどどこか遠慮がちで、普段の完璧な淑女としての余裕とは違う、少しだけ素直な一面が滲んでいる。その微かな困惑の色が、逆に彼女の優雅さを際立たせていた。


「では、僕もお手伝いしましょうか?」


ヴィンセントは、迷うことなく自然に申し出た。その声には、どこか親しみがにじんでいる。彼女が誰に命じられたわけでもなく、ただ困っている教師のために自ら手を差し伸べたこと。それは、貴族としての義務感や体面ではなく、純粋な優しさからくる行動だろう。

その姿がヴィンセントの胸に温かな余韻を残す。

彼女は、誰彼構わず困っている人を見過ごせない。そんな慈愛に満ちた姿が、やはり彼女らしくて——ヴィンセントはふと心の奥で、そんな彼女を素敵だと感じずにはいられなかった。


「まあ……それでは、お言葉に甘えてもよろしいかしら?」

ルシアはふわりと微笑んで彼の申し出を受け入れる。


「前回は僕の作業を手伝っていただきましたから、今度は僕の番です」

ヴィンセントはそう付け加え、軽く微笑んだ。


「ふふ、持ちつ持たれつですわね」

ルシアも微笑み返し、二人は並んで作業を始めた。




教室の静寂の中、紙の擦れる音とペンの滑る音だけが響く。

それは他愛もない時間のはずだった。

けれどヴィンセントにとって、その時間はとても心地よく、かけがえのないものに思えた。


ルシアは、こうした細やかな作業も優雅にこなす。

彼女の白く繊細な指先が書類を整理するたび、まるで花弁がそっと重なり合うような美しさがあった。

その横顔を盗み見るたび、ヴィンセントの胸の奥でじわりと温かなものが広がっていくのを感じた。


「ルシア様」

「はい?」

ルシアは、少し首を傾げながら彼を見上げる。その何気ない仕草さえも、ヴィンセントの胸を静かに揺さぶった。


「あなたは、いつもこうして誰かのお手伝いをされるのですか?」


ヴィンセントは、ふと気になって問いかけた。その声には、抑えきれない好奇心と、どこか彼女の特別さを確かめたい思いが混ざっていた。


「まあ……ええ、私にできることならば」


ルシアは穏やかな声で答え、再び書類に視線を落とした。その表情には、偽りのない優しさが滲んでいる。さりげないその仕草すらも、どこか気品に満ちていて、彼女の内側から自然に溢れているものだとわかる。


「……それは素晴らしいことですね」


ヴィンセントは、彼女の慈愛に満ちた微笑を見つめながら、静かに呟いた。


彼女は「社交界の白百合」と称されるほどの清廉さと優雅さを持ち、誰に対しても変わらぬ温かさを注ぐ。それは彼女の美しさであり、同時に彼女が特別な存在である理由でもあった。


けれど、最近の彼女は、どこか違う。


以前までのルシアなら、同じようにヴィンセントが手伝いを申し出ても、きっと遠慮して丁重に断っただろう。それが今では、こうして彼の申し出を受け入れ、頼ってくれている。

些細なことかもしれない。けれどその変化が、ヴィンセントの心を温かく満たす。

彼女の隣で、少しでも支えになれることが、こんなにも嬉しいと思えるのだから。


以前よりも少しだけ、距離が近づいている気がする。

ヴィンセントの言葉に耳を傾け、彼の存在を受け入れるような柔らかさがある。

これは、ただの礼儀なのか?

それとも——


「ヴィンセント様は?」

ルシアがふと顔を上げ、静かな声で問いかける。


「え?」

不意を突かれたヴィンセントは、一瞬戸惑いを隠せなかった。


「あなたも、誰にでもそんなふうに親切なのではなくて?」

ルシアは、わずかに唇の端を上げて微笑んだ。その表情には、からかうような色はなく、ただ純粋な興味が宿っている。


「……いいえ」

ヴィンセントは、視線を少しだけ逸らしながら答える。

「僕は、特別な人にしか、こうして時間を割きません」


その言葉に、ルシアはくすっと微笑んだ。

「まあ……光栄ですわ」


その微笑みは柔らかく、どこまでも美しかった。

けれど、ヴィンセントの胸の奥で、確かに何かが静かに揺れ動いていた。

それが、ただの淡い憧れなのか、それとも——胸に宿る確かな感情なのか、まだ彼自身にもわからなかった。





気づけば、作業はすべて終わっていた。

ルシアは、整えられた書類を見渡しながら、そっと息を吐いた。


「おかげさまで、とても早く終わりましたわ」

「それはよかった」


ヴィンセントは、わずかに名残惜しさを覚えながら、ルシアの横顔を見つめる。

窓から差し込む夕陽が、彼女の髪を優しく照らし、まるでその存在自体が光を宿しているかのように見えた。

その穏やかな光に包まれている姿は、まるで絵画の一場面のようで、言葉にできないほど美しかった。


「ルシア様」

「はい?」


ルシアは、彼の声に気づき、ゆっくりと顔を向ける。その瞳は澄んでいて、美しい瞳の色が夕暮れの光と溶け合っていた。


「私は……あなたと話す時間が、とても好きです」


ふいにこぼれたヴィンセントの言葉に、ルシアの瞳がわずかに揺れた。

その揺らぎはほんの一瞬。けれど、確かにそこにあった。


「……まあ」

彼女は静かに目を伏せ、淡く微笑む。その微笑みは、どこまでも穏やかで、優しい光のように彼の胸を満たした。


「ありがとうございます。私も、心地よく感じておりますわ」


その言葉が、ヴィンセントの胸に甘く響く。

彼女は、確実に変わりつつある。以前なら、決してこんなふうに受け入れなかったはずの言葉を、今は受け止めてくれる。

それは、希望と呼んでよいものなのだろうか。


「……もう少し、この時間が続けばいいのに」


思わずこぼれた呟き。ヴィンセントは自分の言葉に少し驚きながらも、視線をルシアから逸らせずにいた。

その言葉に、ルシアはふと小さな笑みを浮かべた。柔らかく、けれどどこか儚げなその微笑みは、彼の胸を優しく締めつける。


「私も、そう思いますわ」


その一言が、ヴィンセントの心を深く捉えた。

胸の奥に静かに広がる温かさ。まるで心に灯がともったようだった。


「……本当ですか?」

思わず確認するように尋ねた声は、わずかに震えていた。


ルシアは、少しだけ首を傾げ、再び微笑む。


「ええ、本当ですわ。ヴィンセント様とのお話は、いつも穏やかで……楽しい時間ですもの」


その言葉に、ヴィンセントの心は確かに跳ねた。

彼女の声が、胸の奥まで染み渡るように響いてくる。


もしかすると、彼女の心の奥には、まだほんの少しの余白があるのではないか。

それが誰にも占められていないのならば、

——自分が埋めることはできないのだろうか?


「ルシア様……」


心の奥で膨らむ想いが、胸を締めつけるように疼く。それを確かめるかのように、誰にも聞こえないほどの小さな声で、そっと彼女の名前を呼んだ。


わずかに唇を震わせたその瞬間、胸の奥が熱くなる。その囁きだけで、溢れる感情が形を持つような気がした。たったそれだけのことなのに、胸がいっぱいになる。

ただ名前を呼ぶことが、こんなにも愛おしく、切なく感じられるなんて—— まるで、呼ぶたびに彼女への想いが深く根を張っていくようだった。もう簡単には振りほどけないほどに。





淡い夕陽が、窓から差し込み、二人の影を静かに重ねていた。


「今日は、お手伝いくださりありがとうございました」

ルシアは、優雅な所作で微笑みながらヴィンセントに軽く頭を下げる。その声は穏やかで、春風のような柔らかさを帯びていた。


「いえ、むしろ貴重な時間をいただきましたよ」

ヴィンセントは穏やかに微笑み返すが、その胸の奥ではささやかな高鳴りが抑えきれない。

「ルシア様とこうして過ごせる機会は、なかなかありませんから」


「まあ……」

ルシアは、控えめに頬に手を添えて微笑んだ。その瞳には温かい光が宿り、自然と周囲の空気を和ませる。

「学院ではよくお話をしておりますけれど」

彼女の声は淡々としているが、どこか親しみのこもった優しさが滲んでいた。


「ええ、けれど、学院という枠の中ですからね」

ヴィンセントはふと歩みを止め、窓の外に広がる夕景へと視線を向けた。

その横顔に、ほんの少しの躊躇いが浮かぶ。


「たとえば……」

その一言は、彼の心の奥底から漏れ出たものだった。


ルシアも彼の動きに倣い、静かに足を止める。彼女の顔には驚きも困惑もなく、ただ穏やかな関心が浮かんでいた。


「学院の外でお会いすることができたら、もっとお話できるのに……と、思うこともあります」

ヴィンセントは、言葉を選ぶように丁寧に続けた。その声は静かでありながら、どこか熱を帯びている。


一瞬の沈黙。

ルシアは、ゆっくりと瞬きをし、柔らかな微笑みを浮かべた。


「お出かけを……?」

その問いかけは無邪気で、けれどその瞳にはわずかな戸惑いが揺れていた。


「……はい」

ヴィンセントは、一瞬の迷いを押し殺すように頷く。

「お供という形で、いかがでしょう?」


「まあ」

ルシアの表情に、かすかに興味の色が浮かぶ。控えめな驚きと、柔らかな好奇心が混じったその眼差しは、まるで春の木漏れ日のようだった。


ヴィンセントは、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。

「学院での勉学の一環として、街の様子を見聞することは、決して不適切ではないはずです」


「ええ……確かに、そうですわね」

ルシアは静かに頷く。その声色は落ち着いていて、決して気を悪くした様子はなかった。


「公爵家令嬢として、貴族社会だけでなく、市井の様子を知ることも必要ではありませんか?」

ヴィンセントの言葉には、真摯な気持ちが込められていた。ただの誘いではない、彼なりの誠意と敬意が滲んでいた。


ルシアはふっと微笑む。

「確かに、学びは学院の中だけに限りませんものね」

その微笑みは優雅で、どこかほっとしたような温かさがあった。


「そういう意味では、これは学びの場として十分な理由になるかと」

ヴィンセントは穏やかな表情を保ちながら、わずかに息を整える。彼の声は落ち着いていたが、内心では胸の鼓動が高鳴っていた。


「一人では、危ないですから…私が同行し案内させていただけるのであれば、ご家族の方々もご心配なさらないでしょう」

その一言に、ルシアは小さく笑った。


「……ふふ」

彼女の笑顔は柔らかく、どこか安らぎを与えるものだった。

「そうですね。確かに、それならば問題にはならないかもしれませんわ」


その微笑みは、まるで春先のそよ風のように、ヴィンセントの心に優しく触れた。

彼はその瞬間、ルシアが放つさりげない温かさに、再び心を奪われるのだった。


「それに、エリオット様もあなたのことを信頼されているのでしょう?」

ルシアは、穏やかな微笑みをたたえながら静かに問いかけた。


その声は、静かな湖面に広がるさざ波のように、ヴィンセントの心に響いた。


その言葉に、ヴィンセントは思わず息を飲む。

胸の奥で、緊張が静かに揺れる。


それは、試されているのだろうか?

——いや、違う。

ルシアの表情はあくまで柔らかく、純粋な関心を向けているだけのように見えた。

その瞳には曇りも疑念もなく、ただ彼の返事を待つ温かな光だけが宿っていた。


「……ええ、きっとそうでしょう」

ヴィンセントは、わずかな逡巡を胸の奥へ押し込み、静かに答える。声は平静を装っていたが、指先には淡い緊張が宿っていた。


それは嘘ではない。

エリオットは、学院の誰よりも社交的で、彼を警戒する素振りを見せたことはない。

むしろ、陽気な笑顔でルシアとヴィンセントの関係を許しているように見える。

だが——それが本心であるとは限らない。


この誘いを、もしエリオットが知ったら……?

ヴィンセントはふと、胸の奥に生まれた緊張を押し込める。


それでも、今ここで大切なのはルシアの隣にいるこの瞬間だった。


「では……」

ルシアは、そっと彼を見上げる。

その瞳はまるで、夕暮れの空に浮かぶ一番星のように澄んでいて、まっすぐ彼の心に届いた。

「学びの一環として……いえ、それだけではありませんわね。ヴィンセント様とご一緒できること、とても楽しみにしております。」


その言葉を聞いた瞬間、ヴィンセントの胸がふわりと舞い上がる。

まるで心が軽くなり、足元から浮き上がるような感覚。

熱く、甘い期待が一気に心を満たしていく。


「光栄です!」

思わず声に力がこもる。丁寧に一礼しながらも、頬が緩むのを抑えきれない。

彼女が、自分との時間を楽しみにしてくれている——その事実が、胸の奥に小さな光を灯した。

嬉しくて仕方がない。

今すぐにでもその日が来てほしい、そんな気持ちが心の中で跳ね回る。


これで、ルシアと共に街へ出られる。


「では、日を改めてお約束を」

ルシアは優雅に微笑む。

その笑顔は、春の陽だまりの中でそっと揺れる花びらのように、ヴィンセントの心を温かく包み込む。


胸の奥で、抑えきれないほどの喜びが静かに膨らんでいく。

彼はその想いを、決して手放すまいと強く心に刻んだ。


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