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淡く広がる距離


王立貴族学院の昼休み、学院の庭園には、優雅な午後の日差しが降り注いでいた。


春の訪れを告げる穏やかな風が芝生を優しく撫で、噴水のきらめきが光の粒となって空気の中に舞う。

貴族の子女たちの色とりどりの談笑が、芝生の上に咲く花のように広がっていた。


その中でも、ひときわ注目を集める二人の姿があった。


侯爵家嫡男であり、将来を嘱望されるエリオット・アシュフォード。

そして、公爵家の末姫であり、学院一の美貌と気品を誇るルシア・ウェストウッド。


二人は、学院の誰もが認める理想の婚約者同士だった。

今日は、二人が定期的に設けているティータイムの予定があり、学院のカフェテリアの奥まったテラス席で向かい合っていた。


エリオットは、ルシアの向かいに座りながら、ふとした拍子に彼女をじっと見つめてしまう自分に気づく。

ルシアの白く細い指が上品にカップを持ち上げ、淡い紅茶の香りがふわりと立ち上る。

その動作ひとつひとつが洗練されており、指先のしなやかな動き、カップに触れる角度、視線の落とし方まで、すべてに品を感じさせた。

彼は何度見ても飽きることのないその光景に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「君とこうしてゆっくり話すの、なんだか久しぶりな気がするな」


エリオットは、カップを手に取りながら、さりげなく言葉を投げかけた。

その声には、どこか探るような響きが混じっていることに、彼自身も気づいている。


「ええ……確かに、そうかもしれませんわ」


ルシアは、変わらぬ優雅な微笑を浮かべながら応じた。

その声音は柔らかく、春の陽射しのような穏やかさがあり、エリオットの胸に静かに染み入る。


けれど——ほんのわずかな違和感が、彼の心にざわりと波紋を広げていく。


いつもと変わらぬはずの彼女の微笑みが、なぜか少しだけ遠く感じる。

彼女の瞳の奥に、誰も踏み込めない静かな湖のような深さを見た気がして、エリオットは思わず視線を逸らした。

もちろん、ルシアは何も変わっていない。

彼女は清楚で、可憐で、完璧なまでに優雅な婚約者。

彼の言葉に対して温かく応じ、常に礼儀正しく接してくれる。


それなのに、ほんのわずかに——

まるで心がすり抜けていくような、目の前にいるはずなのにどこか遠くを見つめているような感覚が、エリオットの胸に生まれていた。


「学院の授業、最近はどう?」

気づけば、彼は無意識のうちに再び口を開いていた。


「おかげさまで、順調ですわ。特に歴史学は興味深くて……」


ルシアは穏やかに答え、淡い紅茶を一口含む。

その仕草すら美しく、公爵令嬢としての品格がそこにあった。


——なのに、なぜだろう。


エリオットは、そっと目を細める。

その完璧さが、逆に彼の胸に小さな棘を残していく。


「君が楽しく過ごしているなら、それでいいんだ」

笑顔を保ちながら、心の奥底にひっそりと沈む不安を誤魔化すように、彼は軽くカップを傾けた。


ルシアは再び微笑んだ。

その笑顔は眩しいほど美しく、何の曇りもないはずなのに、エリオットの心はなぜか晴れなかった。


——まるで、透明な壁越しに彼女を見ているような。

そんな感覚が、胸の奥で静かに広がり続けていた。


上質な磁器のティーカップから立ち上る香り高い紅茶の蒸気が、二人の間の静寂をやわらかく包み込む。

エリオットは、カップを軽く揺らしながらふと口を開く。


「ねえ、ルシア」


その声に、ルシアはそっと顔を上げる。


「最近、ヴィンセントとよく話しているよね?」


軽い調子で放ったつもりのその言葉に、ルシアの指先が一瞬だけ止まった。

けれど、それは本当にわずかなもので、すぐに何事もなかったかのように微笑みを浮かべ、淡い琥珀色の紅茶に視線を落とす。


「……そうでしょうか?」


エリオットは紅茶を一口含み、あえて何気ない風を装う。

「うん、君は意識してないかもしれないけど、周りは結構気にしてるみたいだよ」


その言葉に、ルシアは再び穏やかに微笑むと、カップをそっとソーサーに戻した。

白磁の器と皿が触れ合う乾いた音が、二人の間の張り詰めた空気を際立たせる。


「まあ……それは困りましたわね」


柔らかな声色には、まるで気にも留めていないような余裕が滲んでいた。

エリオットはカップを持つ手の力をわずかに強める。


「君に告白した男だし、ちょっと目立っちゃうのは仕方ないか」

「ヴィンセント様とは、同じクラスですもの。自然と話す機会も増えますわ」


ルシアの返答は、まさに理想的な貴族令嬢のそれだった。

正論であり、誠実な答えに聞こえる。


——それだけ、なのか?


エリオットは、胸の奥に小さな棘が刺さるような違和感を覚えながら、ふっと視線を外す。

そもそも、ヴィンセントが告白したあの日、自分が「クラスメイトとして婚約者をよろしく頼む」と言ったのだ。

彼自身が許してしまった関係。ならば、今さら口出しする権利などないはずだった。


それなのに、ルシアの微笑みの奥に隠された何かに、無性に心がざわつく。

彼女は、あえて過剰に否定もせず、穏やかに話を受け流す——まるで、それが自然なことだと言わんばかりに。


エリオットは、ふとカップを置き、少し身を乗り出すようにして言葉を紡いだ。


「……ルシア」

「はい?」


目を伏せたルシアの瞳が、淡く揺れる紅茶の水面越しに彼を捉える。

その瞳は穏やかで、揺るぎなく、まるで湖面のように静かだった。


「僕のこと、ちゃんと見てる?」


冗談めかした口調だった。

けれど、その声にはどこか無意識の焦りが滲んでいた。


ルシアは一瞬だけ瞬きをしたあと、ふっと小さく微笑み顔を上げた。

その微笑みは完璧で、曇りひとつない。


「ふふ、何を仰るのですか?見ておりますわよ」


穏やかで、優しく、いつも通りのルシアだった。

彼を安心させるための言葉は真っ直ぐで、揺らぐことなど微塵も感じさせない。


それなのに——


エリオットの胸の奥で、何かが静かにきしむ。

彼女が確かに自分を見ているのに、その瞳の奥に自分の姿が映っている気がしない。

まるで透明なガラス越しに立っているような、近くにいるはずなのに遠い存在。


彼は、カップの中の紅茶がゆっくりと冷めていくのを、ただ見つめていた。

その温度が、胸の奥に広がる冷たい感覚と重なるように思えた。


「それならいいんだけど……なんとなく、君が少しだけ遠くにいる気がしてね」

エリオットはカップを軽く揺らしながら、冗談めかして言葉を紡ぐ。


ルシアは、わずかにまつ毛を伏せたものの、すぐに柔らかな微笑みを浮かべ、再び紅茶に口をつけた。

その動作には何の迷いもなく、洗練された所作が変わることはない。


「まあ……そんなことはありませんわ」


穏やかな声色は、春のそよ風のように軽やかだった。

けれど、エリオットの胸に残る違和感は、微かな影のように消えることはなかった。

距離を感じるのは、果たして自分の思い過ごしなのだろうか?

それとも、本当に彼女の心はどこか別の場所へ向かい始めているのだろうか?


時間は、淡々と過ぎていく。

会話は穏やかで、表面的には何一つ変わらないはずだった。

しかし、エリオットの胸の奥には、小さな波紋が静かに広がり続けていた。


ルシアの微笑みは完璧だった。

彼を見つめる瞳も、何も変わっていない。

それなのに、なぜか確かに、ほんの少しだけ、彼女の心が遠ざかっているような錯覚に囚われる。

それがただの思い込みなのか、あるいは隠された真実なのか、エリオット自身にはまだ答えが出せなかった。


「ねえ、ルシア」

再び口を開いたエリオットの声には、わずかな躊躇が滲んでいた。


「はい?」

ルシアは変わらぬ優雅さで応じる。


「僕のこと、ちゃんと大切に思ってくれてる?」


言葉が口をついて出た瞬間、エリオット自身が驚いた。

どうして、こんなことを聞いてしまったのだろう。

自信に満ちた自分であったはずなのに、知らず知らずのうちに不安が胸を占めていた。


「……まあ、エリオット様ったら」


ルシアは少しだけ困ったように微笑んだ。

その表情は優しく、否定するでも肯定するでもなく、ただ穏やかな空気を纏っている。

その柔らかな微笑みが、なぜかひどく遠く感じられた。




ティータイムが終わり、二人はゆっくりと席を立つ。

椅子が床を擦る音だけが、静寂の中で響いた。


「次に学院でエリオット様とご一緒できるのは、月末のティータイムですわね?」

ルシアは微笑みながら、制服の裾をそっと指先で整える。


「少し先ですけれど、楽しみにしておりますわ」


その言葉に、エリオットは思わず彼女の手を取ってしまいたい衝動に駆られた。

けれど、その衝動をぐっと押し殺す。


定例のティータイム以外は、互いに自由に過ごそう——

そう提案したのは、他ならぬエリオット自身だった。


ルシアは誰に対しても公平で、貴族令嬢の模範として慎ましく振る舞う。

彼女の品位を疑う余地などどこにもない。


それならば、不必要に彼女を縛ることも、束縛する理由もないはずだった。

婚約者であるからといって、常に彼女を独占する必要もないと、そう信じていた。


けれど今、この瞬間だけは、確かに彼女がそこにいることを、手を伸ばして確かめたくなってしまう。

ただ触れて、温もりを確かめられれば、不安は消えてくれる気がした。


——でも、そんなことはできない。


もしそんなことをすれば、ルシアは穏やかな微笑みを浮かべながら、きっと「どうなさいましたの?」と静かに問いかけるだろう。

その声を聞いた瞬間、自分の弱さが露呈してしまいそうで、エリオットは何も言わず、視線を逸らして歩き出す。




彼の背中を見送りながら、ルシアは変わらぬ微笑みを浮かべていた。

その表情の奥に、彼が決して気づくことのできない感情が隠れていることに気付けるものはいなかった。


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