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静寂の教室にて


王立貴族学院の放課後、夕陽が窓から差し込む準備教室。


窓際から射し込む橙色の光が、薄暗い教室に温かな陰影を描いている。

ヴィンセント・アルスターは、授業で使用した道具の片付けや書類の整理といった教師から命じられた雑務を、黙々とこなしていた。

けれど、それは単なる作業にはならなかった。


なぜなら、この教室には、自分ひとりではなく——ルシア・ウェストウッドがいたからだ。




静寂の中、書類をめくる音と、ルシアの柔らかな衣擦れの音だけが小さく響く。

夕陽を受けたルシアの横顔は、まるで絵画の中の一場面のように儚く、美しかった。

長い睫毛が影を作り、淡い光がその白い肌を照らすたびに、ヴィンセントの胸は知らず高鳴る。


「ヴィンセント様、この書類はこちらでよろしいのでしょうか?」


ルシアの澄んだ声が、静寂を破る。

彼女は几帳面な指先で書類を丁寧に整理しながら、控えめに彼を見上げていた。


ヴィンセントは一瞬、心を奪われたまま言葉を失う。

しかし、すぐに平静を装い、咳払いひとつで気持ちを整える。


「ええ、それで問題ありません」


声は穏やかで冷静を装っていたが、胸の奥はまるで嵐のように騒がしかった。

ルシアの指先は細くしなやかで、まるで繊細な宝石のように儚く美しい。

書類を整えるその手の動きさえ、ひどく優雅で魅惑的に映る。


「よかった」


ルシアは小さな微笑みを浮かべる。

その何気ない微笑みが、ヴィンセントの胸を静かに打つ。


誰に対しても優しく、穏やかで、完璧な貴族令嬢。

それが彼女の姿であることを知っている。

けれど、その微笑みが自分だけに向けられているのだと錯覚したくなる瞬間が、確かにあった。


——これは、特別なものなのではないか?


心の奥で、そんな甘い錯覚が芽生える。


やがて作業も終盤に差し掛かり、最後の道具を片付けるため、ルシアが立ち上がったその瞬間——


「……っ!」


足元に積まれていた本が不意に崩れ、彼女はバランスを崩した。


反射的に、ヴィンセントは手を伸ばす。

気づけば、彼はルシアの細い腰をしっかりと支えていた。

その瞬間、彼女の体温が彼の腕に伝わる。


「……っ、大丈夫ですか?」


言葉を紡ぐ声がわずかにうわずる。

ルシアは驚いたように目を瞬かせ、ヴィンセントを見上げた。


その瞬間、時間が止まったかのようだった。

実際には数秒に過ぎなかったが、ヴィンセントには永遠のように感じられた。


間近で見るルシアの透き通った瞳。

その奥に映る自分の姿。

頬はほんのりと赤みを帯び、視線は戸惑うように彼を見つめていた。


そして、ほんの少しの間を置いて、恥じらうようにルシアはその瞳をそらした。

その仕草が、ヴィンセントの胸をさらに強く締め付ける。


止まっていた彼の時間が再び動き出したのは——


「……あの…」


控えめなルシアの声が、そっと彼の耳に届いた瞬間だった。

その声に驚き、ルシアを抱きとめていたヴィンセントの腕に思わず力が入ってしまう。


「ひゃっ…!」


小さな声を上げたルシアに、ヴィンセントはハッと我に返る。

慌てて手を離そうとするが、危ないと咄嗟に思い直し、彼女の体勢をしっかりと整えてから、ゆっくりと手を離した。


彼の手が離れた瞬間、ルシアはそっと頬に手を添える。

白く繊細な指先が赤らんだ頬にゆっくりと触れ、まるでその熱を確かめているかのようだった。


潤んだ瞳が、ほんのわずかに揺れながらヴィンセントを上目遣いに見つめる。

その視線には、戸惑いと恥じらいが混じり合っていた。


「……ありがとうございます、ヴィンセント様」


控えめな声が、かすかに震えている。

その声には、照れ隠しのような柔らかさが滲んでいた。


ヴィンセントは、視線を逸らしながら顔を少し赤く染め、ぎこちなく口を開く。


「失礼……困らせてしまいましたね」


すると、ルシアはそっと微笑む。

その微笑みはどこまでも穏やかだったが、頬にうっすらと残る赤みがささやかな動揺を物語っていた。


彼女はほんの少しだけ視線を下げ、指先でそっと頬に触れながら、ためらいがちに口を開く。


「いえ……助かりましたわ。ただ……」

言葉を切ると、少しだけ唇を噛むようにして息を整える。


「思ったよりも、軽々と支えていただいたものですから……」

再びヴィンセントを見上げるその瞳は、どこか恥ずかしさを隠しきれていない。

「……その、男の方なのだと、改めて意識してしまって……少しだけ……恥ずかしくなってしまいましたの」


その一言に、ヴィンセントの心臓は跳ね上がる。


可愛らしすぎて、どうにかなりそうだ。


いや、もうどうにかなっているのかもしれない。

胸の奥で熱が暴れ出す。

この感情は、理性なんかで抑えきれるものじゃない。


彼女が見せた、恥じらいの表情。

その赤らんだ頬、潤んだ瞳、かすかに震える声。

すべてが彼の心を甘く締め付ける。


今すぐに、もう一度この腕の中に閉じ込めてしまいたい。

その小さな体を抱きしめ、二度と離さず、彼女がどんな顔をするのか、どんな声を漏らすのか——全部、知り尽くしたい。


触れたばかりの感触が、指先に焼き付いて離れない。

あの柔らかさ、あの温もり、あのかすかな震え。


胸が苦しい。

心が熱い。

理性が、崩れそうだ。


だけど。

ここで、手を伸ばすことはできない。

彼女は、僕の婚約者ではないのだから。


だからせめて——この記憶だけでも、胸の奥深くに焼き付けておこう。

この瞬間を、絶対に忘れない。


愛おしくて、堪らない。

好きで、好きで、どうしようもない。


彼女が、こんなにも無防備な表情を見せてくれることが、たまらなく愛おしくて嬉しい。

胸の奥で、溢れそうになる感情を必死で押しとどめながら、ヴィンセントは小さく息をついた。


「……ルシア様」


気づけば、無意識のうちに彼女の名を呼んでいた。


ルシアが、ゆっくりと彼を見上げる。

その瞳は、穏やかで優しく、けれどどこか恥じらいを湛えていた。


「はい?」


ヴィンセントは、一歩前へ踏み出しそうになった足を、ギリギリのところで止めた。

——今、この瞬間。

もし彼がもう一歩踏み込めば、きっと何かが変わる。

そんな確信にも似た感情が胸に湧き上がる。


けれど、彼女の微笑みは変わらない。

優雅で、穏やかで、美しいまま。

その微笑みが、すべてを包み込むように穏やかだった。


ヴィンセントは、ぎこちなく微笑みを返す。


「……いえ、何でもありません」


ルシアは、小さく首を傾げた後、再び微笑んだ。

その微笑みに、再び心を囚われる。


まるで逃れられない美しさに、ヴィンセントは深く囚われたままだった。





学院の廊下には、窓の外から差し込む夕陽が長い影を落としていた。

すべての作業を終え、2人は並んで歩いていた。


木製の扉が静かに閉じられ、背後でわずかに軋む音が響く。

すでに学院の空は淡い紫に染まり、帰路につく生徒たちの姿もまばらになっていた。


二人の足音が石畳の廊下に小さく響く。

気まずい沈黙ではない。ただ、余韻のような静けさがそこにあった。


ふと、ヴィンセントが立ち止まり、ルシアの名を呼ぶ。


「……ルシア様」


ルシアも歩みを止め、ゆっくりと振り返る。

薄暗くなり始めた廊下の中、彼女の髪が夕陽を受けて柔らかく輝いていた。


「はい?」


その声音は、驚くほど穏やかで、変わらぬ微笑みを湛えていた。

ヴィンセントは一瞬だけ視線を逸らし、自然な調子で口を開く。


「……今日の作業、随分と整然としていましたね」


素直な感想だった。彼の口から出たその言葉には、気取った飾りもない。


「ふふ、ありがとうございます」

ルシアは、ふわりと笑う。その笑顔には、どこか親しみのこもった温かさがあった。

「ヴィンセント様が的確に進めてくださったおかげですわ」


その返答に、ヴィンセントの胸がわずかに跳ねる。

彼女の言葉はおそらく純粋な礼儀の一環なのだろう。けれど、それでも——


「……恐縮です」


短く静かにそう返し、彼はルシアを見つめたまま歩き出した。

沈黙の中にも、どこか心地よさが宿る。


やがてルシアが、再び口を開く。


「最近、ヴィンセント様とお話しする機会が増えて、嬉しく思いますわ」


その一言が、ヴィンセントの胸を一層熱くする。


「……私もです」


小さな沈黙が再び訪れる。

けれど、今度は居心地の悪いものではなかった。

ヴィンセントは、ふと視線を空へ向ける。夕暮れが美しく空を染め、まるで二人の時間だけが静かに流れているようだった。


「……また、ご一緒していただけますか?」


その問いは、自然と零れ落ちたものだった。


ルシアは驚いたように瞬きをした後、柔らかく微笑む。


「ええ、喜んで」


その返事に、ヴィンセントは胸の奥が温かくなるのを感じた。

ただの礼儀だとしても、それでも彼にとっては大切な一歩だった。


ルシアは再び歩き出す。

その後ろ姿を見送るヴィンセントの胸には、確かな感情が芽生えていた。


——これは、ただの自惚れではない。

——彼女の心は、確実にこちらを意識し始めている。


そう、確信に似た思いが胸に根を張り始める。


「……まだ、諦めるつもりはない」


静かに、しかし力強く呟いた。

それは、誰に聞かせるでもなく、自分自身への誓いだった。


ルシアが、どんなに優雅に微笑もうとも。

どんなに完璧な貴族令嬢を演じようとも。

彼は、彼女の心を掴み取るために、これからも手を伸ばし続けるつもりだった。


——彼女が、本当に心を許すその日まで。


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