試される愛、揺れる心
王立貴族学院の午後、陽光が窓辺から差し込む静かな書庫。
背の高い本棚が規則正しく並び、古い書物の革表紙と紙の匂いが微かに漂う。
昼休憩のひととき、生徒たちは静寂の中で筆を走らせ、ページをめくる音だけが響いていた。
その中で、ひときわ目を引く光景があった。
「ルシア様、こちらの本はご存知ですか?」
ヴィンセント・アルスターが、手に取った一冊の書物を軽く掲げながら、穏やかに声をかける。
それは、貴族社会の歴史を詳しく記した分厚い本だった。
ルシア・ウェストウッドは、静かに顔を上げる。
薄く微笑むその瞳は、昼の光を受けてわずかに輝いていた。
「ええ、少しですが読んだことがありますわ」
彼女の声は柔らかく、どこまでも穏やかで、まるで春先のそよ風のように耳に心地よい。
その一言だけで、ヴィンセントの胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。
「では、私と一緒に復習しませんか?」
その言葉を口にした瞬間、ヴィンセント自身がわずかに緊張していることに気づく。
声色は平静を装っているが、指先には微かな震えがあった。
ルシアは、しばし思案するように瞳を伏せた。
静かな沈黙が二人の間に流れる。
けれど、その沈黙すらも彼女の品のある佇まいが美しい余韻へと変えてしまう。
「ありがとうございます、ご一緒いたしますわ」
その答えは、ヴィンセントの胸に優しく染み込んでいった。
心が跳ねるような感覚。
——確かに、近づいている。
ヴィンセントは感謝の気持ちを込めて微笑み返し、窓際の一角、彼女の隣に腰を下ろした。
机の上に本を広げ、二人でページをめくる。
「この部分、特に興味深いですね。貴族社会の成立と変遷について、ここまで詳細に書かれているのは珍しいです」
ヴィンセントが熱心にページを指し示す。
「ええ、確かに。歴史の流れの中で、いかに人々の価値観が変わってきたのか……とても考えさせられますわ」
ルシアの声は、まるで静かな音楽のように心地よく響く。
その穏やかな語り口に、ヴィンセントは思わず聞き入ってしまう。
ふとした瞬間、ページの説明をしようと顔を上げたヴィンセント。
その瞬間——
ルシアと目が合った。
淡い光の中で、彼女の瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。
吸い込まれそうなほど美しく、穏やかで——しかし、今はあまりにも近い。
ヴィンセントの胸がドクンと跳ねる。
「……!」
思わず視線を逸らすことも忘れ、そのまま固まってしまう。
顔が熱くなるのを自覚した瞬間、彼は慌てて目を伏せた。
「……し、失礼、少し眩しくて……」
声がわずかにうわずる。
自分でも不自然な言い訳だとすぐに気づくが、もう遅い。
その様子を見たルシアは、一瞬だけ驚いたように目を丸くする。
けれどすぐに、ふわりと微笑んだ。
まるで春風が頬を撫でるような、優しく穏やかな微笑み。
「そうですね。この席は日差しが気持ちよく当たる席ですものね?」
その言葉に、ヴィンセントはさらに顔を赤くする。
窓際ではあるが、ここは決して眩しい場所ではない。
ルシアが気を使ってくれたのだと、すぐに分かる。
バレバレな嘘が、また恥ずかしい。
「か、からかわないでください……」
俯いたまま、小さな声で呟く。
その姿を微笑まし気に見つめ、ルシアはふふっと優しく笑った。
「ごめんなさい?私も少し照れてしまって、つい冗談めかしてしまったの」
その声は、嘲笑ではなく、あくまで温かいものだった。
まるで、ヴィンセントの気持ちをやわらかく包み込むかのように。
ヴィンセントは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、再び顔を上げた。
そこには、ほのかに頬を染めたルシアの姿があった。
そのことに気づいた瞬間——
「ふふ、ヴィンセント様、真っ赤ですわよ?」
ルシアの穏やかな声に、ヴィンセントはさらに顔を赤くする。
まるで顔全体が熱を帯びるようだった。
「み、見ないでください……」
思わず目を逸らすヴィンセント。
しかし、ルシアは柔らかく微笑みながら、そっと言葉を添える。
「……お揃いですわね?」
その一言に、ヴィンセントの胸が跳ねる。
「!!」
かわいらしすぎて、どうにかなりそうだ——。
心の中でそう叫びながら、必死に平静を装う。
二人は、顔を赤らめたまま、ふっと見つめ合い、自然と笑いがこぼれた。
その瞬間、書庫の静けさが二人だけの特別な空間に変わった。
「ヴィンセント様は、歴史以外では何がお好きなのですか?」
ルシアが、ふと思いついたように尋ねる。
「え?ええと……そうですね、天文学も好きですし、植物学も興味深いと思っています」
「まあ、素敵ですわ。星々の物語や、花の秘密……どちらもロマンチックですもの」
ヴィンセントは、彼女の言葉に少しだけ照れながらも、嬉しそうに微笑んだ。
「ルシア様は?」
「私は……お紅茶の時間が好きですわ。穏やかな時間に、美しいお菓子とお話を楽しむことができますもの」
「確かに……とても優雅なひとときですね」
二人は、歴史の話だけでなく、趣味や日常の小さなことについても語り合い、自然と笑顔が増えていった。
そして、気づけばまた二人で顔を見合わせて、笑い合う。
その光景は、春の日差しのように温かく、柔らかな余韻を残していた。
王立貴族学院の午後、静寂の中で囁かれる噂。
「最近、ルシア様とヴィンセント様がよく一緒にいるわね」
「まるで、心を通わせ始めているみたい……」
「もしかして、エリオット様の婚約者の座に変化が?」
そんな囁きが、学院のあちこちで交わされるようになっていた。
学院では、婚約者がいても、他の異性と会話を交わすことは珍しくない。
しかし、ルシア・ウェストウッドのような存在が、特定の相手と距離を縮めることは異例だった。
それがヴィンセント・アルスター——彼女の同級生であり、かつて告白をした男となれば、なおさら。
そして、その噂が彼の耳に届かないはずもなかった。
エリオット・アシュフォードは、その日も学院の廊下で談笑していた。
光の差し込むアーチ型の窓が並ぶ廊下。
彼の周りには、今日も多くの生徒たちが集まっていた。
「エリオット様、次の試験、また首席を狙うのですか?」
「エリオット様なら、また馬術大会でも優勝されるでしょう!」
「いやいや、そんなに期待されると緊張するなぁ」
エリオットは、明るく笑いながら、周囲の貴族子女たちと軽妙なやり取りを続ける。
その声は朗らかで、表情も穏やか。
けれど——心は、まるで別の場所に置き去りにされていた。
窓から偶然見えてしまった、書庫。
窓際の一角で、並んで座る二つの影が、頭の片隅にこびりつく。
ルシアとヴィンセント。
同じ書物を覗き込み、静かに言葉を交わしている。
時折、顔を見合わせて微笑み合う。
彼女の穏やかな笑み。
ヴィンセントの愛おしげな眼差し。
それが、どうしようもなく目障りだった。
——なぜ、あんなにも自然に隣に座っている?
——なぜ、僕の隣ではなく、ヴィンセントの隣に?
僕の婚約者なのに。
僕だけを見ていてくれるはずなのに。
胸の奥が、じりじりと熱を帯びる。
理性で抑え込んでいるはずの感情が、ひどく暴れ出しそうになる。
「エリオット様?」
不意にかけられた声に、エリオットは一瞬だけ肩を揺らす。
心臓が跳ね、現実に引き戻された。
「……っ!」
振り向けば、こちらを心配そうに見つめる令嬢の姿があった。
その瞳には、確かに小さな疑念の色が浮かんでいる。
「どうかされましたか?」
一拍遅れて、エリオットはすぐに笑顔を作る。
その表情は完璧だった。
「ああ、ごめん!ちょっと……窓の外が、眩しくて…さ」
明るい声で、軽く肩をすくめて見せる。
指先で額のあたりを軽く押さえる仕草まで添えて。
しかし、実際に眩しかったのは、ルシアがヴィンセントに向ける笑顔だった。
令嬢は微笑んで頷き、再び会話に戻ろうとする。
けれど、エリオットの心はまだざわついたままだ。
目の前の誰と話していても、頭の中ではあの光景が焼きついて離れない。
——僕の隣にいるべきなのは、君なのに。
その想いを、口に出すことは決してできない。
婚約者として、余裕のある顔を崩すわけにはいかないから。
エリオットは、ふっと息を吐くと、さらに明るい笑顔を作った。
胸の奥で、冷たい痛みが広がっていくのを誤魔化すように。
夕暮れ時、学院の廊下。
淡い橙色の光が長い廊下を照らし、窓越しに差し込む光が床に柔らかな影を描いていた。
生徒たちの足音もまばらになり、昼間の喧騒が静けさへと変わる時間。
そんな中、ヴィンセントは立ち止まり、背筋を伸ばして彼女の名を呼んだ。
「ルシア様」
振り返ったルシアは、柔らかく揺れる髪を背に、静かに微笑む。
その微笑みは、夕刻の光とともに淡く輝き、見る者の胸を穏やかにする。
「今日は、一緒に勉強してくださり、ありがとうございました」
ヴィンセントの声には、控えめな喜びと、抑えきれない感謝の気持ちが滲んでいた。
ルシアは軽く頷き、ほんのりとした微笑みを浮かべる。
「いいえ、私もとても楽しい時間を過ごせましたわ」
その言葉に、ヴィンセントの胸は少しだけ高鳴る。
彼女の柔らかな声音が、胸の奥深くに染み渡る感覚。
だが、彼はそれだけで満足するわけにはいかなかった。
ほんの一瞬、躊躇する。
けれど、胸の内に溢れる思いが、彼の口を開かせた。
「……ルシア様」
呼びかけた声はわずかに低く、普段の穏やかなものとは違う緊張を帯びていた。
ルシアはその変化に気づいたように、優しく首を傾げる。
澄んだ瞳が静かにヴィンセントを見つめた。
深呼吸を一つ、ヴィンセントは視線を逸らさずに言葉を紡ぐ。
「私は、まだ……諦めていません」
廊下に残る光が、二人の間のわずかな距離を照らす。
その言葉に、ルシアは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……」
沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は冷たいものではなく、柔らかな余韻を伴っていた。
ヴィンセントは静かに続ける。
「あなたがエリオット様を選ばれることは、わかっています。それでも……私は、あなたに振り向いてもらうことを諦めるつもりはありません」
言葉を発するたび、胸の奥が熱くなる。
それは抑えきれない情熱でもあり、長い片思いの中で積み重ねた覚悟だった。
ルシアは、その言葉を静かに受け止める。
彼女の表情は変わらず穏やかで、ただ少しだけ視線を伏せる。
「……ヴィンセント様」
わずかに息を吐き、彼女は少しだけ困惑したように微笑んだ。
微笑みは、拒絶ではなかった。
冷たさも、厳しさもない。
むしろ——ほんのりとした温かさが宿っていた。
「……私、困ってしまうわ」
優しい声音が、ヴィンセントの胸にそっと触れる。
それは、明確な拒絶ではない。
しかし、すべてを受け入れるわけでもない。
ただ、そこにあるのは淡い優しさと、どこか寂しげな余韻。
ヴィンセントは、そのわずかな温度差に、小さな希望を見出した。
——彼女の心に、少しでも入り込む余地があるのではないか?
——エリオットではなく、自分を選ぶ可能性があるのではないか?
そんな思いが、彼の胸の奥で静かに芽生える。
廊下の窓から差し込む夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。
その影は重なることなく、しかしわずかに近づいていた。
廊下の影が長く伸びる頃。
ルシアと帰宅するために迎えに来たエリオットは、ふと足を止めた。
視線の先には、彼女とヴィンセントの姿があった。
廊下の窓から差し込む夕陽が二人を優しく照らし、淡い金色の光がその影を長く引き伸ばしている。
エリオットは、その光景を遠くから見つめた。
ルシアとヴィンセントは並んで立ち、何か静かに言葉を交わしている。
ルシアは、微かに困惑したように視線を伏せながらも、どこか優しく穏やかな微笑みを浮かべていた。
その微笑みは、単なる礼儀でもなければ、機械的なものでもない。
むしろ、心の奥に小さな温もりを灯したような、淡い感情が滲んでいるように見えた。
ヴィンセントは真剣な眼差しでルシアを見つめ、その表情に微かな希望を宿していた。
「……」
エリオットの心臓が、ひどく不快な音を立てる。
無意識のうちに拳を握りしめ、指先がわずかに震えていた。
彼女は、僕のものなのに。
僕だけのルシアなのに。
——なぜ、あんな顔をする?
——なぜ、あの男とそんな表情で話している?
胸の奥がじりじりと焼けつくような感覚に襲われる。
理性で抑え込んでいるはずの感情が、ひどく暴れ出しそうになる。
彼女が微笑むたびに、心が少しずつ崩れていく。
あの微笑みは、僕だけのものだったはずなのに。
あの瞳は、僕だけを映していたはずなのに。
「……っ、ルシア……」
かすれた声が、喉の奥から漏れる。
彼女の名を呼ぶその声は、抑えきれない独占欲と苛立ちに満ちていた。
——いったい、何を話している?
——なぜ、あんな顔を彼に向ける?
感情が、静かに、しかし確実に波紋のように広がっていく。
焦燥と苛立ち、そして——激しい独占欲。
けれど、エリオットは完璧な笑顔を崩すことはない。
それが、彼の誇りであり、鎧だった。
心が壊れかけていると気づいても、
その痛みすらも、彼は微笑みの奥に隠し続けた。
お読みいただき、誠にありがとうございました。
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