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壊れゆく均衡


王立貴族学院、昼食前の穏やかな時間。

日差しが窓辺から差し込み、白と金の柔らかな光が床に模様を描く。

広々とした廊下に、二つの規則正しい足音が静かに響く。


その主は、ルシア・ウェストウッドと、彼女の隣を歩くヴィンセント・アルスター。


ルシアの歩みは軽やかで、気品に満ち、優雅さと静謐さを纏っていた。

金糸を織り込んだ制服の裾が揺れるたび、周囲の視線を惹きつける。


ヴィンセントもまた、誠実で知的な雰囲気を湛え、彼女の隣を歩くにふさわしい風格を持っていた。

二人の姿はまるで絵画のようで、すれ違う生徒たちの視線を引き寄せずにはいられない。


「ルシア様、午前の授業はいかがでしたか?」


ヴィンセントが穏やかに問いかける。


「とても有意義でしたわ。特に、歴史学の講義は興味深いものでした」

「そうですね。ルシア様のご見解をぜひお聞きしたいところです」

「それほどのものはございませんが……もしよろしければ、中休みのお時間にご一緒いたしませんか?」


その言葉に、ヴィンセントは一瞬だけ驚いたように瞳を見開く。

しかし、すぐに表情を整え、微笑みを取り戻した。


「それは光栄です」

「ふふ、ではまた後ほど」


ルシアは、静かに微笑む。

その表情は、誰もが見惚れるほど気品と優雅さに満ちていた。 




木々が穏やかに揺れ、花壇の花々が風にそよぐ。


学院の中庭には、木陰に置かれた小さな石造りのテーブルとベンチが並び、紅茶を楽しむための簡素なティーセットが用意されていた。

事前に許可を得た生徒たちは、時折ここで静かなひとときを過ごすことができるのだ。

ヴィンセントとルシアもその一組だった。


テーブルの上には、繊細な模様が施されたポットとカップ、そして小さな砂糖壺とミルクジャグが整然と並んでいる。

ヴィンセントは丁寧な所作で紅茶をカップに注ぐ。

湯気とともにふわりと立ち上る芳醇な香りが、二人の間に穏やかな空気を運んでいた。


「ルシア様、こちらをどうぞ」


ヴィンセントは静かにカップを差し出す。ルシアは柔らかな微笑を浮かべながら、丁寧にそれを受け取った。


ヴィンセントも自分の分の紅茶を注ぎ終えると、ルシアの隣にそっと腰を下ろす。


「ありがとうございます、ヴィンセント様」


ルシアは紅茶を一口含むと、ふわりと目を細めて微笑んだ。


「……とてもおいしいですわ。紅茶を淹れるのがお上手なのね」


「ふふ、ルシア様にご満足いただけて嬉しいです」


穏やかにそう返しながらも、ヴィンセントの胸の奥には静かな熱が宿っていた。

初めて出会った日のことが脳裏に浮かぶ。あの日、ルシアはカモミールティーが好きだと話していた。その何気ない言葉を胸に刻み、いつか彼女のために紅茶を淹れてあげたいと願い、密かに練習を重ねてきたのだった。

彼女の微笑みを前に、努力の甲斐があったことを静かに実感する。


「……ルシア様」


ヴィンセントの声が、微かに熱を帯びる。


「今日の講義中、あなたが発言された改善策、とても素晴らしかったですね」


「まあ……恐縮ですわ」


「いえ、ご謙遜なさらないでください。本当に感動いたしました」


再びルシアが見せた微笑みは、紅茶の香りよりも甘く、ヴィンセントの胸に優しく沁み渡った。


彼は、告白したことを後悔していない。

むしろ、彼女の婚約者であるエリオットにも「クラスメイトとして仲良くしてもよい」と言われた。


そのためヴィンセントは、堂々とルシアと話す機会を増やしていった。

こうして二人で過ごすことができていることに、かすかな手応えを感じる。


はたから見ると——


まるで、ルシアがヴィンセントの思いを受け取ったかのように見えていた。




学院の生徒たちは、それぞれの思いを抱きながら、二人の姿を眺めていた。


「最近、アルスター侯爵家の次男殿とルシア様がよく一緒にいらっしゃるな……」

「もしかして、婚約が撤回される可能性も?」

「まさか、そんな……でも、最近の様子を見ていると、そう考えてしまうのも無理はないわ」


生徒たちの間では、静かにさざ波のような噂が広がっていた。


——だが、その場にいる唯一人の男は、その光景を別の意味で噛み締めていた。





エリオット・アシュフォードは、学院の中庭で談笑していた。


周囲には、貴族の子女たちが集まり、華やかな会話が飛び交う。

彼は社交的で誰からも好かれ、男女問わず人気の中心にいる。

明るく快活な笑顔と軽妙な会話のセンス。

そのどれもが、侯爵家嫡男としてふさわしく、学院においても彼の名声を高めていた。


「エリオット様、本当に素敵ですわ!」

「エリオット様のご活躍を聞くたびに、学院の誇りを感じます!」

「さすがは次期侯爵、学院でもそのお力は際立っていますね」


エリオットは、快活な笑顔を浮かべながら朗らかに応じる。


「いやいや、そんな大げさなこと言わないでよ」

「僕なんて、まだまだ修行中さ。みんなの方が優秀なんじゃない?」


彼の軽妙なやりとりに、周囲の者たちは楽しげに笑う。

しかし——


「……」


エリオットの瞳の奥は、笑っていなかった。


遠く、目に入る光景。

ルシアとヴィンセントが二人で並んで座り、穏やかに話している。


ヴィンセントが、ルシアの言葉に微笑みを返す。

ルシアが、それに対して優しく微笑む。

堂々と、彼女の隣に座る男。

彼女の穏やかな視線を、真正面から受け止める男。


エリオットの指が、無意識に軽く握られる。


許せない。


心の底から湧き上がる苛立ちが、喉を焼くようだった。

けれど、彼はそれを微塵も表に出さない。

笑顔を崩さず、誰にも気づかれないように押し殺す。


「……エリオット様?」

「ん?」


傍らの令嬢が、不思議そうに彼を見つめていた。

「少し、考え事をされているようでしたので……」


エリオットは、一瞬だけ意識を戻し、すぐに朗らかな笑みを作る。

「あは、ごめんごめん!ちょっとね」

彼は、すぐに笑顔を取り戻し、明るく誤魔化す。


「僕がぼんやりしてたら、みんな心配しちゃうよね?」

「ええ、とても」

「ありがとう、でも大丈夫さ」


そう言いながら、彼は視線を再びルシアへと向ける。


彼女は、穏やかに微笑んでいる。

彼女の表情には、何の曇りもない。

彼女の仕草には、何の駆け引きもない。


ルシアは、エリオットの婚約者。

エリオットに優しく、誠実で、どこまでも気品に満ちた女性。

それを知っているのに。


堂々と隣に座り、彼女と微笑み合うヴィンセントの姿が、どうしても目について離れない。


僕は——。

ルシアのそばにいたい。


けれど、そばにいれば、きっと彼女にこの執着が伝わってしまう。

そんなことは、絶対にあってはならない。

だから、距離をとる。

彼女に相応しい「理想的な婚約者」でいるために。


でも。

それなのに。


代わりに、ヴィンセントがいるのは、どうしても許せない。


「……困ったな」


つい、そんな言葉が零れた。


「エリオット様?」

「いや、何でもないよ」

エリオットは、朗らかに笑う。


彼は、理性的でいなければならない。

婚約者として、堂々とルシアを尊重しなければならない。


だからこそ——

彼女の隣に座る資格があるのは、僕だけなのに。


それが、心の奥に沈む、決して消えない思いだった。





学院の広々とした廊下に、夕刻の柔らかな光が差し込んでいた。

熱を帯びた空気が少しだけ冷たくなり、生徒たちが教室からぞろぞろと姿を現す時間。

共に帰宅しようと彼女を迎えにきたエリオットの耳に、ざわめく声と足音の中で、嫌に鋭く響く声があった。


「ルシア様、今日はお時間をいただきありがとうございました」


ヴィンセントの低く穏やかな声。

そして、それに応える彼女の声。


「いえ、こちらこそ」


ルシアは淡い微笑みを浮かべ、穏やかに返事を返す。

その姿は、変わらず美しく、隙のない佇まいだった。

けれど、その微笑みがヴィンセントに向けられていることが、エリオットの心に鋭い棘を刺した。


遠巻きに二人の姿を見守る生徒たち。

彼らの視線が語るのは、淡い憧れや好奇心、そして無責任な期待。

まるで二人の間に何かが芽生えているかのように、そんな空気が静かに漂っていた。


——そして、少し離れた場所で、その光景を見つめるエリオットは、ただ黙って立ち尽くしていた。



「……ルシア」


誰にも聞こえないほどの小さな声で、彼女の名を呟く。


胸の奥がじわじわと熱くなる。

その感情が何かは、もうわかりきっている。


彼女の隣にいるヴィンセントの姿が、どうしても目障りだった。

堂々と彼女の隣に立ち、気軽に声をかけ、微笑みを交わす——それが許せなかった。


「僕が、許しているから」


エリオットは心の中で、何度も繰り返す。


自分が、クラスメイトとして親しくすることを許した。

自分が、余裕のある婚約者を演じた。


だから、何も言えない。


彼女の隣に立つことを許したのは、自分自身なのだから。

何を今さら、嫉妬などする資格があるのか。


——そう思うはずなのに。


どうして、こんなにも悔しいのか。


彼女は、誰にでも優しく微笑む。

その優しさに、特別な意味なんてないとわかっている。

けれど、それでも、あの微笑みをヴィンセントに向けているという事実が、胸の奥をじりじりと焼く。


「……やめろ」


吐き捨てるような声が喉から漏れる。

けれど、それすらも誰にも聞かせないように、すぐに笑顔で塗りつぶす。


周囲には生徒たちがいる。

彼らの視線の中で、完璧な侯爵家の嫡男として、陽気で朗らかな姿を崩すわけにはいかない。


彼は、平然と微笑んだまま、遠くのルシアを見つめ続ける。


その笑顔の奥で、心が軋む音が聞こえる気がした。


——あの微笑みを、僕だけのものにしたい。


その衝動を、喉の奥に押し込める。

それは婚約者としての「理性」だと、自分に言い聞かせながら。


今日だけで何度も心の中で繰り返した言葉が、また静かに胸を締めつける。


「……僕が、彼女の隣にいるべきなのに」


その思いは、ただ心の中でだけ響いていた。


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