狂愛 / 最終話
「ふふ、幸せだわ」
カップを持つ指をそっと傾け、琥珀色の紅茶を口に含む。
ほのかに広がる香り、舌の上で転がるなめらかな味わい。
この庭園は、私だけのもの。
白薔薇と百合、柔らかなラベンダーの花弁が風にそよぐ。
ここに咲く花はすべて、かつてエリオット様が私のために選び、整えたもの。
それはまるで彼の愛そのもので、私はここにいるだけで、その深さと熱を思い出す。
彼の世界は私を中心に動いている——
それを確信できる場所。
「ルシア様、ご機嫌麗しゅうございますね」
控えめな声とともに、侍女がそっと紅茶を注ぎ足す。
彼女の瞳には、慈しむような微笑が宿っていた。
私はきっと、誰が見ても満ち足りた花嫁に見えるのだろう。
「ふふっ。ええ、とても」
カップをそっと揺らす。
陽光が淡く反射し、紅茶の表面に揺らめく光の粒を描く。
この手の中に、すべてがある。
エリオット様の愛も、
彼の執着も、
彼の狂おしいほどの想いも——
すべて、私の掌の上。
私は、ずっと、ずっと彼だけを見ていた。
はじめは、ただ彼と純粋に親しくなりたいと思っていただけだった。
けれど、いつしか——彼に見てほしい、彼の視線を独り占めしたいという思いが、心の奥で少しずつ膨らんでいった。
幼いころから彼は、いつも周囲に人がいた。
人望があり、誰にでも優しく、どこにいても自然と人を惹きつける。
誰とでも分け隔てなく言葉を交わし、笑い、誰からも慕われる人だった。
けれど、その輪の中に私が加わることはなかった。
皆が自然と彼の周りに集まるのとは対照的に、私は常に"彼の隣"ではなく、少し離れた場所にいた。
それは私が望んでそうしていたわけではなく——彼が、私をそこに"置いた"のだ。
婚約者という立場でありながら、彼と二人きりでいる時間など、ほとんどなかった。
彼は皆と笑い、社交的に振る舞いながら、私には特別な言葉を向けることもなく、さりげなく距離を取る。
私を遠ざけることが、彼にとっては"当然"だったかのように。
彼の隣にいられないことが、どれほど悔しかったか——どれほど、満たされない思いを抱えていたか。
彼の笑顔が好きだった。
彼の穏やかな声が好きだった。
けれど、それだけでは足りなかった。
私だけに向けられる笑顔がほしかった。
私の名前を呼ぶときだけ、声色が変わるような、そんな特別な存在になりたかった。
誰にでも優しい彼に、私だけを愛してほしかった。
誰よりも深く、誰よりも狂おしく、誰よりも強く。
彼は、最初から"理想的な婚約者"だった。
初めてお話しした時から、優しくて紳士的で。
社交的で、穏やかで、誰にでも公平で、すべての人に好かれる侯爵家の跡取り。
彼は、初めて会ったあの日、私を好きだと言ってくださった。
けれど、それでは足りない。
それでは、私の渇きは癒えない。
——だけど、ある日ふと気づいたの。
彼の瞳の奥に潜む、微かに揺れる影に。
普段の優雅な微笑みの奥に、抑え込まれた熱に。
彼が誰にでも分け与える穏やかな愛とは、違うものがそこにあった。
最初は気のせいかと思った。
だって彼は、私を穏やかに気遣い、誰に対しても変わらぬ優しさを向ける人だった。
それでも、時折見せる瞳の奥のかすかな色が、私の胸をざわつかせた。
あれは、違う。
私だけに向けられた、もっと深く、もっと強いもの。
私は、しだいに確信していった。
彼の愛が、ただの優しさではないことを。
私を失うことを恐れ、理性を捨ててでも求めてくれるものなのだと。
けれど、彼はそれを隠していた。
"理性的であらねばならない"と、自らに言い聞かせていた。
"私を尊重しなければならない"と、愚かにも思い込んでいた。
私は、それが許せなかった。
私のすべてを、彼に捧げているというのに——
なぜ、彼は"理性"なんてくだらないものに縛られるの?
なぜ、私をもっと求めてくれないの?
だから、私は試した。
彼の愛が本物かどうかを。
彼が私なしで生きられるのかどうかを。
私を見てほしい。
私だけを見てほしい。
それが叶うなら、どんな手でも使う。
どんな罠でも仕掛ける。
どんなに残酷なことでも——
——エリオット様が、私を愛してくれるのならば。
だから、私はヴィンセント様と仲良くした。
エリオット様の視線が、穏やかなものではいられなくなるように。
私を見つめるその瞳に、焦燥を宿すために。
私を求めるその手に、迷いがなくなるように。
もし、私がヴィンセント様の隣にいたら?
もし、私がヴィンセント様の言葉に微笑んだら?
もし、私がヴィンセント様の手を取ったら——?
エリオット様は、どうするのかしら?
私はそっと、指先で小さなクッキーを摘んだ。
金細工の施された白磁の皿には、焼きたてのクッキーが並んでいる。
バターの香ばしい匂いが、ほのかに鼻をくすぐる。
唇にそっと触れさせるようにクッキーを口に運び、ゆっくりと噛む。
さっくりとした歯触りの後、ほろりと崩れるような食感。
優しい甘みと、ほんのりとした塩気が舌の上で溶けていく。
「……私好みの味ですわ」
自然と口をついた言葉に、侍女が穏やかに微笑む。
「こちら、エリオット様が先日、ルシア様のためにお取り寄せしておりました」
「まあ……」
思わず、手にしたクッキーを見つめる。
この絶妙な甘さ加減と、後を引く風味。
間違いなく、私の好みにぴたりと合っている。
「さすがエリオット様。私の好みがお見通しですのね」
ふふ、と喉の奥で笑みを零し、もう一口かじる。
彼のことだから、きっと細やかに選んでくれたのだろう。
それを想像するだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
「ルシア様。今日も愛されておりますね」
侍女が茶目っ気たっぷりに言うものだから、思わず肩をすくめた。
からかうような視線に、ほんのりと頬が熱くなるのを感じる。
「もうっ、からかわないで頂戴。……照れてしまうわ」
カップを手に取り、紅茶を一口含む。
温かな液体が喉を通ると、自然と唇がほころぶ。
エリオット様の愛は、今日も確かにここにある。
最初は、静かだった。
エリオット様は、ただ穏やかに私を見つめていた。
けれど、その瞳の奥に揺れる"焦り"を、私は見逃さなかった。
次第に、彼の態度が変わっていく。
私のそばを離れなくなった。
私の手を、いつも強く握るようになった。
私が誰と話すのか、誰と視線を交わすのか、それさえも気にするようになった。
——ああ、愛おしい。
ああ、こんなにも求めてくれるのね。
そして——決定的な瞬間が訪れた。
あの事故。
私が傷つくかもしれなかった、あの瞬間。
私を救ったのは——ヴィンセント様。
その瞬間、エリオット様の瞳が、やっと"狂気"に染まった。
彼の中で何かが弾け、取り返しのつかないものが生まれたのを感じた。
私は事故の恐怖なんて忘れエリオット様の狂気に歓喜した。
彼は、もう私を"自由"にはしない。
彼は、もう私を"尊重"なんてしない。
彼は、私を"所有"することを選んだ。
彼は、私に"溺れる"ことを選んだ。
——それこそが、私の望みだった。
エリオット様が、私だけを求めるようになった。
誰にも目を向けなくなった。
誰と話していても、彼の意識のすべては私に向いている。
誰が何を言おうと、彼の世界には私しかいない。
彼は、私だけを愛し、私だけに執着し、私だけを求めている。
それが、どれほど甘美なことか——
私は、"愛する"よりも"愛される"ことを望んだ。
それも、ただの愛ではない。
"常識的な愛"なんて、私には不要。
私が欲しいのは、"狂った愛"。
私が欲しいのは、"抗えない執着"。
私が欲しいのは、"すべてを捧げる忠誠"。
そして、それをくれるのは——
エリオット様だけだった。
穏やかな陽射しが、庭園の花々をやわらかく照らしている。
私はそっとティーカップを置き、侍女に目を向ける。
「今日の夜、ヴィンセント様がいらっしゃるのよね?」
侍女は穏やかに頷く。
「はい。お迎えできるよう、準備は整っております」
「いつもありがとう」
カップの縁に指を添えながら、微笑む。
琥珀色の紅茶に映る陽の光が、きらきらと揺れていた。
「今日は少し夜更かしになると思うわ」
「承知いたしました」
澄んだ空を見上げれば、まだ日は高い。
それなのに、胸の奥には期待が満ちていた。
「……早くいらっしゃらないかしら」
思わず零れた言葉に、侍女がふっと微笑む。
「楽しみだわ」
指先でカップを揺らしながら、私は静かに息をついた。
ヴィンセント様も、親しくなればなるほど、私への想いを見せてくださった。
けれど——彼は、根が優しすぎた。
私の幸せを何よりも願い、もし私がエリオット様の隣で心から微笑むことができるのなら、それでいいと考えてしまう人だった。
彼の瞳は、どこまでも穏やかで、どこまでも優しい。
時折、寂しげな色を宿すことはあっても、決して嫉妬に燃えることはなかった。
それでは、私は満たされない。
私は、ただ愛されたかったわけではない。
"優しさ"ではなく、"狂気"を持って求められたかった。
たとえ私が不幸になろうとも、どんな手を使ってでも私を手に入れたいと願うほどの"執着"が欲しかった。
けれど、ヴィンセント様には、それがなかった。
彼と過ごす時間は穏やかで、甘やかで——
まるで普通の少女になれたかのような幸福を感じることさえあった。
もし、エリオット様がこのまま私への執着を押し隠し、
もし、ヴィンセント様が本気で私を奪おうとしたなら——
私の未来は、違う形になっていたのかもしれない。
彼の優しい言葉は、今も私の心の奥深くに静かに残っている。
それでも、私は彼を選ばない。
彼は、私でなくても幸せになれる。
たとえ傷ついたとしても、やがて立ち直り、前を向くことができる。
でも、エリオット様は違う。
彼は、私がいなければ生きられない。
私なしでは、決して幸せになれない。
だから、私もエリオット様でなくてはダメなの。
だから、私は彼を狂わせた。
彼のすべてを奪い、縛り、逃げられないようにした。
私たちは、お互いを求め、絡み合い、堕ちていく。
狂気を持つ者同士だからこそ、引き寄せられ、決して離れられない。
そうして、私は"愛される"ことを手に入れた。
私が望んだ通りの、狂おしいほどの愛を。
庭園に吹く風が、そっとカップの縁を揺らした。
温かい紅茶をもう一杯もらおうかどうか、私は悩んでいた。
カップの底に映る琥珀色の液体を見つめながら、そっと指を這わせる。
少しだけ甘いものを足して、もう少しこのひとときを楽しむのも悪くない。
「ルシア!」
そんなことを考えていたら、突如、愛しい声で名を呼ばれる。
「あら、エリオット様」
彼は少し小走りでこちらへ駆け寄ると、座っている私を後ろから抱きしめ、そのまま頬に軽く唇を落とした。
突然の甘やかな仕草に、思わず微笑んでしまう。
「お仕事はもうよろしいの?」
「ああ。今日はヴィンセントも来るし、早めに終われるよう調整したんだ」
エリオット様らしい。
きっと、今日という日を心待ちにしていたのだろう。
「ふふ、本当に楽しみですのね?」
私がからかうように言うと、彼は肩をすくめて笑った。
「まあね。でもなにより……三人の時間の前に、ルシアを独り占めしておこうと思ってね」
「まぁ…エリオット様ったら…」
愛おしそうに囁く彼に、胸の奥が心地よく満たされていく。
侍女が、エリオット様の分の紅茶を静かに差し出す。
彼はちらりと視線を向け、優雅にカップを手に取ると、一口飲んでから言った。
「ありがとう。ルシアと二人きりで話したいから、この後は皆外していてくれるかい?」
侍女は静かに頷き、周囲の使用人たちが皆、静かに下がっていく。
庭園には、私とエリオット様だけが残された。
エリオット様が、私の頬に指を添える。
そして、囁くように私の名を呼んだ。
「ルシア……」
彼の唇が、私の口元に重なる。
深く、熱を持った口づけ。
それがほどけるころには、私は息を詰めていた。
「ヴィンセントと話すのは楽しいし、彼がいると、いつもより子供らしい君の姿も見れる。三人で過ごすのも、気に入っているよ」
エリオット様は穏やかに微笑む。
「けれど、どうしても君を独占できない嫉妬が沸いてしまうんだ」
彼の声には、熱が滲んでいた。
「あら…結婚して、毎日一緒に過ごしておりますのに?」
「関係ないよ。君のことは、常に僕だけのものにしていたいのだから」
彼の執着に、思わず笑みがこぼれる。
彼は、本当に可愛らしい。
「ふふ、うれしいですわ。私、随分と愛されておりますのね?」
「そうだよ。知らなかった?」
「いいえ、よく知っておりますわ」
エリオット様の愛を、私は疑ったことなどない。
彼は私を手に入れた。
けれど、それは同時に、彼が私に支配された証でもある。
「本当に? 知っているなら、僕が今、何を想っているかわかる?」
「そうですわね……」
私は少し考えるふりをして、そのまま彼に口づけをした。
驚いたように見開かれたエリオット様の瞳が、次の瞬間、甘く細められる。
「私から求められたい……でしょうか?」
「ははっ、正解。君は本当に愛おしくて最高だよ、ルシア」
「当たっていてよかったですわ」
私がくすっと笑うと、彼もまた、楽しそうに微笑んだ。
「では…エリオット様? 私をたくさん甘やかしてくださいな?」
「ああ、もちろん」
彼の腕が、私を強く抱き寄せる。
再び深く口づけられ、甘やかな熱が全身に広がる。
——私は、私に執着してくれるエリオット様を愛している。
だからこそ、彼には引き返せないよう、ありのままを見せてほしかった。
だからこそ、彼を私なしでは生きられなくした。
私は、彼のすべて。
私は、彼の世界。
私は、彼の生きる理由。
それこそが、私の"幸福"。
それこそが、私の"狂愛"。
「……ふふ」
私はそっと微笑む。
彼の隣で、彼の手を取りながら。
「ねえ、エリオット様」
「ん?」
「これからも、ずっと一緒ですわよね?」
彼は優しく微笑み、私の手を握り返す。
「……当たり前だろう? ルシアが望もうと、望むまいと、僕はもう君を手離せないからね」
彼は、もう私から逃れられない。
彼は、もう私だけに縛られている。
そして、彼も私もそれを"幸せ"だと信じている。
「愛しているよ、僕だけのルシア」
ああ、愛おしい。
私の最愛の人。
私の"すべて"。
そして、私に"すべてを捧げた男"。
——これが、私の"勝利"。
——これが、私の"愛"の形。
だから、どうか永遠に。
私だけを見て、私だけを愛して。
私だけに狂っていてくださいね、エリオット様。
だって、あなたはもう"私のもの"なのだから——。
これをもちまして、本編は完結となります。
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