叶わぬ恋の終止符
書庫へと足を踏み入れると、ひんやりとした静寂が迎え入れる。
高い天井までびっしりと並ぶ書物の背表紙が、馴染みのある落ち着いた空間を作り出していた。
何度も訪れている場所。
けれど、そのたびに新しい知識と物語が待っている。
ルシアとヴィンセントは、自然な足取りで書架の間を歩く。
この広い書庫を、まるで自分の書斎のように——。
「……さて、どの本にしましょうか」
ルシアがゆったりと歩きながら、書架を見渡す。
ヴィンセントもその隣で、柔らかな微笑を浮かべながら彼女の視線を追う。
「ルシア様は、本日どのような本を読まれますか?」
「歴史書が続いていましたので、今日は少し気分を変えてみようかと」
「それなら……こちらはいかがでしょう」
ヴィンセントがそっと手に取ったのは、詩集だった。
「ヴィンセント様は詩もお読みになるのですか?」
ルシアが興味深そうに尋ねると、彼は微笑を浮かべ、本の背表紙を指でなぞる。
「ええ。とくに古の詩には、情熱や儚さが宿っていて……読んでいると、心が震えるような気がするのです」
「情熱と儚さ……」
ルシアはそっと本の表紙に触れながら、静かに呟く。
「確かに、詩には言葉以上のものが込められているように思えますわ。短い言葉の中に、詠み手の想いが溶け込んでいて……それを感じ取るたびに、胸がじんと熱くなることがあります」
「ええ、まさにその通りです。たとえば、愛を詠んだ詩などは、ただの言葉以上の熱を持っていて……遠い昔の誰かの想いが、時を超えてこちらに届くような気がします」
「ふふ、とても素敵ですわね」
ルシアは穏やかに微笑んだ。
「ルシア様も、こういったものはよく読まれるのですよね?」
彼は、彼女が以前に語っていたことを思い出しながら問いかける。
「ええ。とくに静かな夜に、そっとページをめくるのが好きですわ。言葉のひとつひとつを噛みしめながら、その世界に浸るのが……」
「わかります。夜は、詩が一層心に沁みますね」
ふと、ヴィンセントの表情がやわらぐ。
ルシアとは、本当に話が合う。
こうして、気取らずに好きな書物について語り合える相手がいることが、どれほど貴重なことか。
多くの者は、彼の知識を称賛し、あるいは遠巻きに敬意を払うばかりだ。
だが、ルシアは違う。
彼女は詩や物語の魅力を心から理解し、その言葉を大切にする人だった。
そして、その感性を分かち合うことができる。
だからこそ、この静かな時間が、ひどく愛おしい。
「ただ読むだけでなく、その余韻を感じることが大切だと私は思っています」
「ええ……同じ詩でも、その時々で違う意味に感じられることもありますわね」
「そうですね。それがまた、詩の魅力なのでしょう」
二人の間に、心地よい静寂が流れる。
選んだ本をそっと腕に抱えながら、ヴィンセントは思う。
——どうか、この穏やかな時間が、いつまでも続けばいいのに。
そうして、いくつか気になる本を選び終えた頃、二人は談話室へ向かった。
談話室へ足を踏み入れると、柔らかな陽光が差し込み、心地よい静けさが広がっていた。
部屋の隅には、自由に利用できる茶器と茶葉のセットが整えられている。
ヴィンセントは何の迷いもなく茶器に手を伸ばし、慣れた手つきで茶葉を蒸らし始めた。
「いつもありがとうございます」
ルシアが柔らかく微笑む。
「あなたのために練習しましたから。こうして、いつも振る舞う機会をいただけて光栄ですよ」
ふわりと広がる香りに、ルシアはほっとしたように目を細めた。
穏やかなやり取りの中、カップが彼女の手元へと差し出される。
「ありがとうございます」
ルシアはそっとカップを両手で包み、一口。
「……ふふ、本当にいつも美味しいですわ」
「そう言っていただけるなら、何よりです」
ヴィンセントの口元に、静かな微笑が浮かぶ。
小さな湯気がゆらめく中、二人の間には、穏やかで心地よい沈黙が流れる。
けれど、その静けさの裏には、ひそやかに揺れる感情があった。
そして——ヴィンセントはゆっくりと口を開いた。
「ルシア様」
「はい?」
「エリオットとは……うまくやれていますか?」
ルシアの表情が、ふと動きを止める。
「ええ、もちろんですわ」
「まぁ、先ほどの様子からも、順調に過ごされているのは分かりますが……」
ヴィンセントは、紅茶をひとくち含み、穏やかに言葉を紡ぐ。
「ですが、無理や我慢はしていませんか?」
ルシアは、そっとカップを置いた。
「……ヴィンセント様?」
「私は……ただ、確かめたくて」
静かな声が、談話室に溶ける。
「エリオットは……とても愛情深い方です。時に、あまりにも一途すぎるほどに」
「ええ」
「だからこそ、ルシア様が戸惑ったり、負担を感じたりすることはないかと、少し気になりまして」
その言葉に、ルシアはゆるやかに首を振る。
「大丈夫ですわ。私は……本当に、幸せですの」
彼女の瞳には、迷いがない。
ヴィンセントは一瞬まぶたを伏せ、ふっと微笑んだ。
「それを聞いて、安心しました」
「私のことをいつも気にかけてくださって……ありがとうございます、ヴィンセント様」
「……いえ」
彼の微笑みは穏やかだった。
けれど、カップの縁を撫でる指先には、ほんの僅かに、切なさが滲んでいた。
静かな時間の中、ヴィンセントは確かに何かを受け止めようとしていた。
——彼自身の想いに終止符を打つための、なにかを。
談話室には静かな時間が流れていた。
カップの中の紅茶がゆるやかに揺れ、微かな湯気が立ちのぼる。
ヴィンセントは、カップの縁を指でなぞりながら、ルシアを見つめた。
「……お辛くなければ、あの日のことも聞かせていただけますか?」
ルシアは、ふと瞬きをする。
「あの日……?」
「ええ。あなたとエリオットの関係が、はっきりと変わった日です」
彼の穏やかな声に、ルシアは少し視線を落とした後、静かに微笑んだ。
「学院を早退した後のこと、ですね」
「はい。本当に……エリオットに、無理やり流されたわけではないのですね?」
ルシアは、一瞬考えるようにして、そして微かに頷いた。
「……そうですわね。ヴィンセント様には、きちんとお話ししたほうがいいですわね」
彼女はカップをそっと置き、指先で小さく撫でるように縁をなぞった。
「……私、今までずっと……エリオット様の愛が分からなかったのです」
静かな声が、談話室の穏やかな空気に溶ける。
「ずっと隠されていて……私に気づかれないように、遠ざけられていて……」
「……ええ」
ヴィンセントは静かに頷いた。
「エリオット様は、社交と、私の自由と……さまざまなことに葛藤されていたらしいのです」
ルシアはそっと視線を落とし、指先でカップの縁をなぞる。
「気づけなかった間は……やはり、寂しかったですわ」
けれど——と、彼女はかすかに微笑む。
「今だからこそ思えるのです。あの態度も、すべて愛ゆえだったのなら……そう思えば、愛おしくさえ感じますわ」
「……本当に、あなたは甘すぎますね」
ヴィンセントの声には、わずかな苦笑が混じっていた。
だが、その瞳には、どこか切なげな色が滲んでいた。
ルシアは、ただ静かに微笑む。
「……あの日は、やっとエリオット様が本心や葛藤を打ち明けてくださったのです」
彼女の声が、少しだけ甘やかに揺れた。
「驚きましたけれど……私、とても嬉しかったのです。あぁ、私が求めていたものは、これだったのだわ……と」
「ルシア様……」
ヴィンセントの指が、ふと止まる。
「それで……あなたは、すべてを捧げてしまわれたのですか?」
慎重に選ばれた言葉だった。
ルシアは、ゆるやかに首を振る。
「……エリオット様は、私に逃げないでほしい……そして、必要だと言ってほしいと」
「……そうですか」
「その時、ようやく気づいたのですわ。エリオット様もまた、私の愛を求めていらしたのだと……」
彼の瞳が、静かに揺れる。
「けれど……必要だと言ってと求められて、ただ言葉を返すだけでは……きっと、エリオット様には届かない」
ルシアは、そっと手を重ねる。
「だから、私から……私のすべてをもらってほしいと、望んだのです」
ヴィンセントは言葉を失ったように、ただ彼女を見つめた。
その静けさの中に、切なさと、確かな納得が滲んでいた。
「……なるほど。そういうこと、だったのですね」
彼の声は、優しく、そしてどこか遠く儚げだった。
談話室には、静かな余韻が残る。
ルシアの言葉は確かにヴィンセントの胸に届いたはずなのに、どこか触れられない距離があるようで——。
彼は、ひとつ浅く息を吐き、そっとカップを置いた。
「……ルシア様」
「はい?」
「どうしても……これだけは知りたいのですが」
ヴィンセントの声は低く、どこか掠れていた。
ルシアを前にして、まるでそっと触れれば壊れてしまうかのように、言葉を慎重に選ぶ。
目を伏せるようにして一拍置き、それから静かに問いを重ねた。
「エリオットの気持ちに気づく前……少しでも私は、あなたの御心をいただけていましたか?」
ルシアは、一瞬、指を強く重ねる。
長く繊細な睫毛がふるりと震え、伏せた瞳の奥に迷いの色が滲んだ。
指先にぎゅっと力を込めたのも束の間、ゆっくりとほどける。
「ヴィンセント……様……」
その名を呼ぶ声は、どこか戸惑いを孕んでいた。
彼女の唇が、僅かに震えているのがわかる。
けれど、それを拒むわけではないと知っているかのように、ヴィンセントは続けた。
「時折偶然に……あなたに触れさせていただいたとき、私は確かに……あなたも、私を求めてくださっていたように感じました」
「……」
「——あの時間は、私の思い違いでしたか?」
沈黙が落ちる。
目の前にいるのに、手を伸ばせば届く距離にいるのに、もう決して触れられないような気がして、ヴィンセントは静かにルシアを見つめた。
彼女の白い喉が、小さく上下する。
迷いの色を湛えた瞳が揺れ、唇がわずかに開く。
「……思い違い、ではありませんわ」
その言葉に、ヴィンセントの喉がかすかに動く。
指先が、持っていたカップの縁をゆるやかになぞった。
「エリオットと関係が改善され、あなたが幸せそうで本当に良かったと思っています」
ルシアは、そっと瞳を伏せる。
「……ですが、どうしても、まだ胸が、苦しい」「……ですが、どうしても、まだ胸が、苦しい」
ひそやかな吐息のような声だった。
ヴィンセントの視線が、彼女の指先に落ちる。
膝の上でそっと重ねられたその指は、かすかに震えていた。
彼女は——笑っていた。
けれど、それはどこか儚げで、微細な痛みを滲ませた微笑みだった。
頬を薄く染め、まつげをふるわせ、ふわりと形づくられた唇の端は、ほんのわずかに震えている。
ああ——そんな顔を、させたかったわけじゃないのに。
寂しさを覆い隠すような笑み。
それなのに、ふと揺れる瞳が、まるで「ごめんなさい」と言っているようで。
思わず喉が詰まる。
「私なりに考えてみたのです……エリオットとの思いの差を」
ルシアはわずかに瞬きをした。
彼女の指先が、膝の上でさらに強く重なる。
「私は、あなたを幸せにしたかった。好いてほしかった。でも、独占したいとは思わなかったのです」
その言葉に、ルシアの唇が少しだけ開いた。
なにか言いたげに、けれど、言葉にならないように。
「あなたが私を好いてくれて、そばにいさせていただけるのであれば、それで満足だと……」
ふと、ルシアがゆっくりと視線を上げる。
その瞳に映るものは、悲しみか、諦めか、それとも。
けれど、ヴィンセントはそっと微笑みながら続けた。
「でも……あなたは、きっとそれでは心が満たされない」
彼女のまつげが、かすかに揺れる。
わずかに震えた唇が、小さく噛みしめられる。
ヴィンセントは、どこか悟るように、息をひそめた。
「私の予想は、あっていますか?」
沈黙が落ちる。
そして、ルシアは微かに微笑んだ。
まるで、それが「肯定」であると示すように。
喉が、ひどく痛んだ。
「そう、ですか……」
力が抜けるように、ヴィンセントはゆっくりと息を吐いた。
「私は……あなたの望むものを与えられない。それでも、私を選んでほしいとは……言えない」
彼の声は、穏やかで、それでいて、どこか滲むように切ない。
「けれど、素直に諦めることも……できないのです」
手を伸ばせば触れられる距離にいるのに——
もう、二度と届かない。
それが、これほどまでに苦しいとは知らなかった。
「ルシア様、お願いです」
ヴィンセントの声が、かすかに掠れた。
静寂に沈む空間で、その言葉だけが、ゆっくりと溶けていく。
「……あの頃、あなたは私をどう思っていらっしゃったのですか」
切実な問いだった。
ただ、知りたかった。
過去の記憶のどこかに、ほんのわずかでも希望があったのなら。
ルシアは、ゆっくりと目を伏せる。
長い睫毛が影を落とし、唇がかすかに震える。
そして、まるで時間を噛みしめるように、そっと口を開いた。
「……ヴィンセント様は、私にとって、とても大切な方でした」
ヴィンセントは、何も言わずに彼女の言葉を待つ。
「あなたが私のそばにいてくださることが、どれほど心強かったか……」
ひそやかに紡がれる言葉が、胸の奥深くに沁み込んでいく。
「あなたの優しさに、どれほど救われたか」
ルシアの声音は、ひどく静かだった。
その静けさが、かえって彼の心を強く締めつける。
「だからこそ……私もまた、あなたを特別に思っておりましたわ」
彼の胸が、微かに痛む。
期待と、後に続く言葉の予感が、入り混じる。
「ですが……」
ルシアはゆっくりと、手元のカップに指を添えた。
揺れる琥珀色の液体に、微かな震えが映る。
そして、ひとつの決断をするように、紅茶を一口含む。
「それでも、私はエリオット様の愛を、心から求めてしまったのです」
彼女は、どこまでも穏やかだった。
けれど、その微笑みの奥に隠されたものが、痛いほどに伝わってくる。
「あなたの優しさが、とても大切で……大好きで……」
一瞬、彼女の声がかすかに震えた。
「でも、私の心は、エリオット様に向かってしまった」
彼女は、何かを噛みしめるように、そっと瞳を伏せる。
ヴィンセントは、その表情を見つめた。
どれほど美しく、どれほど儚く、どれほど残酷なのだろう。
「……そう、ですか」
押し殺すように零れた声。
それは、彼の中で最後の希望が、そっと崩れ落ちる音だった。
ルシアの声は、淡く、そして確かだった。
談話室の静寂の中、ティーカップがわずかに揺れ、微かな音を立てた。
その小さな波紋のように、ルシアの心もまた揺れているのだと、ヴィンセントは悟る。
ルシアの肩が、かすかに震える。
カップの縁をなぞる指先も、どこか迷いを帯びていた。
彼女の唇がわずかに開かれたものの、言葉にならず、ただ静かに閉じられる。
それからどれほどの時間が経ったのだろう。
ようやく、彼女は震える声を絞り出した。
「……ヴィンセント様、ごめんなさい……」
掠れるような、壊れそうなほど繊細な声が、静寂を切り裂く。
ヴィンセントの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……ルシア様?」
彼女は顔を伏せたまま、カップをそっと置いた。
その指先が白くなるほど強く握られていたことに気づき、ヴィンセントは胸が締め付けられるような感覚を覚える。
「私は……あなたの想いに甘えてしまいました……」
その言葉が落ちると同時に、ルシアの肩がかすかに震えた。
「あなたを……ただ、自分の寂しさを埋めるために、利用してしまった……」
淡く染まった頬に、一筋の涙が零れ落ちた。
それは静かに頬を伝い、かすかな震えとともに指先に落ちていく。
「本当に……申し訳ありません……」
ぽろぽろと零れ落ちる涙。
どれほど堪えようとしても、溢れ続けるそれは止められない。
ヴィンセントは、ただ静かに彼女を見つめた。
——なぜ、そんなふうに謝るのか。
「……そんなふうに思わないでください」
低く、優しく、けれど滲む痛みを隠せない声。
だが、ルシアは涙の向こうで、首を振るばかりだった。
「……あの時の私は……あなたとの時間が本当に大切で、嬉しくて……」
微かに紅潮した頬に、光を受けた涙の粒が煌めく。
「初めて、誰かに、私の隣を望んでいただけて……あなたを手放せなくて」
ヴィンセントの胸が、熱くなる。
彼女にとって、自分との時間が"大切"だったと——そう言ってもらえるだけで、心の奥が震えた。
「このままあなたの手を取れたらと、何度も……何度も考えました」
静かな告白のようなその言葉に、彼は息を詰めた。
——彼女の隣に立つ未来を、考えてくれたことがあったのか。
心の奥に温かいものが広がる。
けれど同時に、それは甘やかで切ない痛みとなって胸を締め付ける。
「馬車で……抱きしめていただいたとき、私はあなたを慰めようとしていたはずなのに……本当は、それどころではなくて」
ルシアのまつげが震える。
「ドキドキして……でも、嬉しくて……このまま時が止まればいいと、そう思ったのです」
ヴィンセントの喉が、ごくりと動いた。
——そんなふうに思ってくれていたのか。
彼女の唇から零れたその言葉が、胸に鋭く響く。
「……あの頃の気持ちに、名前はつけられないけれど……確かに、私の心に残っていますの」
彼の心臓が、強く脈打つ。
まるで、彼女の言葉ひとつひとつが、深く、奥底に染み込んでいくようだった。
——愛しい。
——嬉しい。
けれど、それと同じくらい、胸が締めつけられるほど切ない。
「……ありがとうございます、ルシア様」
ヴィンセントの声は、驚くほど静かだった。
今この瞬間、彼の心は言葉にできない想いで溢れかえっていた。
「あなたの気持ちを聞けて、よかった」
ヴィンセントの言葉は、静かに、優しく紡がれる。
その声音は、まるで心の奥底にそっと触れるような穏やかさを宿していた。
心の奥に広がる、愛しさと痛み。
それでも、彼は微かに微笑んだ。
どれほど願っても、もう彼女の手を取ることは叶わない。
けれど、それでも——。
この想いが届かなくとも、彼は彼女を愛おしく思うのだと、改めて知った瞬間だった。
「ヴィンセント様……」
掠れるような声が、ルシアの震える唇から零れ落ちる。
「利用されたなんて、思っていません」
ヴィンセントは、そっと微笑んだ。
「そもそも、あなたになら、いくらでも利用されたかった」
彼の言葉に、ルシアが驚いたように顔を上げる。
「おそばにいられるなら、どんな役でもよかったのです」
彼の静かな言葉に、ルシアの瞳が揺れた。
「……っ」
「それに、私だって——婚約者に悲しい思いをさせられているあなたに、つけ込んで告白をした」
淡く笑みながら告げるその言葉には、どこまでも優しく、そしてどこか寂しげな色が滲んでいた。
「私のほうこそ……ずるいでしょう?」
「そんなこと、ありません……!」
ルシアが、涙に滲んだ声で強く否定する。
「私は……ヴィンセント様に、救われたのですから……!」
彼女の言葉が、胸に深く突き刺さる。
「……私もです」
ルシアが驚いたように、ふるりと睫毛を揺らす。
「え……?」
「私も、あなたに、たくさん……忘れられない、一生の思い出をいただきました」
ルシアの涙が、また一粒零れる。
「だから……私を想って、あなたが悲しむ必要はありません」
ルシアの瞳が揺れる。
「……ヴィンセント様……」
その名を呼ぶ声は、まるで光に溶けるように儚げだった。
また、涙が頬を伝い、紅潮した肌にしっとりとした光を宿す。
「ああ、ほら……そんなに泣いてしまっては」
ヴィンセントは、微かに笑った。
「お昼に、エリオットが心配しますよ」
ルシアは、両手で顔を覆いながら、肩を震わせる。
「……ごめんなさい、でも……とまらなくて……」
「ふふ……ルシア様」
静かに手を伸ばし、そっと頬に触れる。
その指先は、ルシアの涙の温もりを感じた。
「おそばに行っても、よろしいですか?」
涙に滲む瞳で、ルシアはそっと彼を見上げる。
ヴィンセントは、ゆっくりと立ち上がった。
「これで……こんなふうに触れるのは、最後にします」
そう告げながら、膝をつき、そっと彼女の手を包み込む。
「私のために泣いてくださるあなたを……最後に、慰めさせていただけませんか?」
ルシアの指が、そっと震える。
「……」
「……許可を、いただけますか?」
「……ヴィンセント、様……」
震える声が、彼の耳に優しく触れる。
「……私の涙が止まるまで……隠していて、くださいませんか……」
ヴィンセントは、息を詰めた。
——叶わない想いに、最後の救いを求めるような、震える声だった。
彼は、そっと目を閉じる。
「……ふふ、お任せください」
彼女の細い肩を、そっと抱きしめた。
柔らかく、温かく——けれど、どこか寂しげに。
静かな時が流れ、ただ、優しく包み込むように——。
彼女が自分の気持ちを思い、涙を流してくれることが申し訳なくもある。
それなのに、たまらなく嬉しかった。
こんなにも心優しく、慈愛に満ちた彼女だからこそ——自分は惹かれたのだ。
抱きしめた細い身体が、かすかに震えている。
肩を寄せ合い、鼓動の音が静かに響く。
「大丈夫です、ルシア様」
囁くように、穏やかに。
「想いが叶わなくても、あなたと共に過ごす時間が増えただけで、私は幸せだったのだから」
その言葉に、ルシアはもう一度しゃくりあげた。
小さな声を漏らしながら、細い指で彼の衣服を握りしめる。
ヴィンセントはただ、静かに寄り添う。
何も求めず、ただ、彼女が涙を流し終えるまで。
彼はゆっくりと呼吸を整え、ルシアが自分にしてくれたように、返事をしてもしなくてもいいような言葉を優しく紡いでいく。
「ルシア様がいてくださるだけで、私はどれほど救われたか……」
「ずっと……あなたが幸福であるようにと、願っていました」
優しく、静かに。
どれほど、こうしていただろうか。
ただ、静かに抱きしめながら、ヴィンセントは穏やかに言葉を紡ぎ続けた。
やがて、ルシアの肩の震えが、次第に収まっていく。
呼吸も、少しずつ落ち着いてきたようだった。
ヴィンセントは、そっと顔を少しだけ離し、ルシアの様子を窺おうとする。
その瞬間、胸元に寄せられていた彼女の額が、そっと押しつけられた。
「……ルシア様?」
まるで、このままもう少し——と願うように。
その仕草に、ヴィンセントの胸がさらに痛む。
きっと、彼女も分かっているのだろう。
もう、こうして触れ合うことは二度とないことを。
これが最後の時間なのだ。
彼女がまだ許してくれるのであれば、自分はいつまででも、この時間を続けよう。
彼女が自ら顔を上げるまで、髪を撫で、そっとそのままでいることにした。
どうか、一秒でも長く、この時間が続くことを願いながら。
やがて——。
ルシアが、ゆっくりと顔を上げた。
「……ヴィンセント様……」
彼女の声は、かすかに震えていた。
ヴィンセントは、小さく息を吐く。
このままずっと、彼女を抱きしめていられたらどれほどいいだろう。
けれど、それは叶わない。
だから——最後に。
彼女をそっと、苦しくない程度に、しかし確かに力を込めて抱きしめた。
互いの存在を、心に刻み込むように。
「ルシア様」
そっと額を寄せ、静かに囁く。
「私は——あなたを愛しています」
それは、今この瞬間だけの感情ではない。
ずっと、変わらず抱いていた想いだった。
「それは、これまでも……」
彼は目を閉じ、一度だけ深く息を吸う。
「……これからも、変わりません」
もう、伝えることはないと決めた想いを——
最後に、ただひとこと。
そのときだった。
ルシアの腕が、彼の背をしっかりと抱き返した。
「……!」
驚きに、息が詰まる。
今まで、彼女から抱きしめ返されたことなどなかった。
そっと寄り添うことはあっても、自ら求めてくれることは——決して。
胸の奥が、強く締めつけられる。
言葉にできない熱が込み上げ、喉が焼けるようだった。
——初めて、彼女が答えてくれた気がした。
——初めて、自分を求めてくれた気がした。
言葉にはならない。
それでも、確かにこの瞬間、二人の心の奥底で、想いが通じ合った気がした。
名残惜しげに、ゆっくりと、彼は腕を緩めた。
そっと身体を離し、彼女を見つめる。
ルシアの瞳には、まだかすかな不安の色が滲んでいた。
けれど、ヴィンセントは思いのほか、穏やかな気持ちだった。
彼女の思いを、今日聞けてよかった。
この思い出を胸に、これからも生きていける。
「ルシア様、紅茶を入れ直しますね」
そう言いながら、ヴィンセントは立ち上がり、穏やかな手つきで茶器を手に取る。
揺らめく湯気が、静かな談話室に広がっていく。
「次の講義が始まりますが、落ち着いてから教室に戻りましょう」
「……はい」
ルシアは、まだ微かに潤む瞳で、そっと頷く。
彼が紅茶を用意している間、しばしの静寂が訪れる。
けれど、それは先ほどまでの張り詰めた沈黙ではなく、どこか落ち着いたものだった。
ヴィンセントがティーカップに注ぐ紅茶の音が、静かに響く。
そして、ルシアが、ゆっくりと口を開いた。
「……ヴィンセント様」
「はい?」
彼は優しい声音で応じながら、カップを彼女の前に置く。
「あなたと生涯をともに過ごすことはできません」
言葉が落ちると同時に、ヴィンセントの手が、一瞬止まる。
改めてはっきりと突きつけられた事実に、どうしても心が痛む。
それでも、彼は表情を変えずに、微笑んだ。
「……ええ」
ルシアは、彼の穏やかな笑みを見て、そっと息を呑む。
「けれど、あなたが私の大切な人であることには変わりありません」
彼女の声は、柔らかく、けれど確かな響きを持っていた。
「私の、唯一、特別大切な友人……だと、思っていても……かまいませんか?」
その言葉に、ヴィンセントは目を細める。
「ふふ、なぜ疑問形なのですか?」
「……自分に都合のいいことを言っている自覚がありますので……」
彼女はそっと目を伏せる。
「結局、私は……あなたを手放したくないなんて……」
微かな震えを帯びた声。
ヴィンセントの胸が、じんわりと熱くなる。
どこまでも愛しく、切なく、そして——嬉しい。
彼は、静かに微笑んだ。
「ルシア様……ありがとうございます」
優しく、心からの感謝を込めて。
「あなたの"特別"がいただけるのであれば、それだけで、十分すぎるほどです」
ルシアの瞳が、わずかに揺れる。
「これからも、あなたの友人として……ずっと、おそばにいさせてください」
彼が差し出したカップを、ルシアはそっと受け取る。
彼女の指先に、微かに温もりが戻るのを、ヴィンセントは静かに見つめていた。
そして、二人は再び、穏やかに微笑み合った。
まるで、これまでの時間が嘘のように。
けれど、その心に刻まれた想いだけは、決して消えることはないのだと——二人とも、きっと、わかっていた。
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