甘やかな独占欲
王立貴族学院の教室には、静かながらも落ち着いた空気が流れていた。
教師からの一言が告げられると、その場の雰囲気がわずかに変わる。
「本日の講義は急遽、自習とする」
その瞬間、教室内には穏やかなざわめきが広がった。
貴族学院における「自習」とは、実質的には自由時間のようなものである。
厳格な拘束があるわけではなく、各々が思い思いの時間を過ごすことが許されていた。
書物を開いて机に向かう者もいれば、カフェテラスへ移動しお茶を楽しむ者、さらには庭へ出て軽く体を動かす者の姿もあった。
そんな中、ヴィンセントはゆるやかに席を立ち、優雅な所作でルシアのもとへと歩み寄った。
「ルシア様、折角ですし、ご一緒に過ごしませんか?」
穏やかな声に、周囲の令嬢たちがそっと視線を向ける。
「書庫の談話室で、読書をしながらお話しするのはいかがでしょう」
紳士的な誘いに、ルシアがふわりと微笑む。
「まあ、素敵ですわね」
静かに交わされた言葉の余韻が、甘やかに空気を満たす。
二人は連れ立ち、学院の回廊へと足を向けた。
他のクラスはまだ講義中のため、いつもより静寂に包まれた学舎。
装飾の施された柱が影を落とし、大きな窓から差し込む光が大理石の床に柔らかな輝きを落としている。
ヴィンセントは歩調を合わせながら、そっと横を見やった。
「ルシア様、少し遠回りをしませんか?」
「遠回り……ですか?」
「ええ」
静かな足音が、人気のない回廊に心地よく響く。
ヴィンセントは微笑みながら、談話室へと向かう通常の道とは異なる方向へと進んだ。
「たしかこの時間、エリオットが剣技の実習を受けていたと思いますよ」
「まあ……!」
ルシアの表情がふわりと綻ぶ。
「少し覗いてみたいですわ」
「ふふ、そうだと思いました」
ヴィンセントの声音はどこか微笑ましく、そして僅かに切なげな響きを含んでいた。
ゆったりとした歩調のまま、二人は実習用の広い稽古場へと続く道を歩いていく。
窓から差し込む光が、ルシアの髪を淡く照らし、その白百合のような佇まいをより際立たせる。
剣技の実習場へと続く道を進むにつれ、遠くから微かに剣戟の音が響いてきた。
その澄んだ音に、ルシアはそっと耳を澄ませる。
そこには予想通り、エリオットがいた。
実習場では、いくつかのグループに分かれて模擬試合が行われている。
エリオットは今は待機中のようで、壁に寄りかかりながら学友たちと談笑していた。
普段の洗練された貴族の装いとは違い、稽古着は動きやすさを重視した軽やかなものだった。
胸元がわずかに開いたラフなシャツに、鍛えられた体のラインが覗く。
どんな服でもよく似合う彼は、そこにいるだけで華があり自然と視線が向いてしまう。
ふと、隣のルシアを見る。
彼女は控えめながらも、エリオットの姿を目で追っていた。
ふわりと揺れる睫毛の奥、美しい瞳が無意識に惹かれているのがわかる。
本当に、お好きなのだな……。
ヴィンセントの胸が、静かに痛む。
けれど、それはもう認めてしまったことだった。
「ルシア様、軽くお声をかけてみますか?」
「いえ、授業の邪魔になってしまいますし……。見られただけで十分ですわ」
そう言いながらも、ルシアの瞳はまだエリオットを追っている。
「そうですか……では、せめてエリオットが剣を振るうところまでは見ていきませんか?」
「まぁ……! いいのですか?」
ぱっと顔を上げ、ルシアが嬉しそうに微笑む。
普段の穏やかで優雅な佇まいはそのままに、それでもどこか無邪気さが滲む。
「ええ、せっかくの機会ですし」
「ふふ……嬉しいですわ」
ふわりと揺れる細く柔らかな髪。
長い睫毛が嬉しげに瞬き、表情は柔らかく綻ぶ。
ヴィンセントは、そんな彼女の様子を静かに見つめた。
「……ルシア様の楽しそうなお顔が見られて、よかったです」
その言葉に、ルシアはふと息をのんだ。
「え……?」
初めて、彼の視線がずっと自分に向けられていたことに気づく。
夢中になっていた。
エリオットの姿を見つけて、ただただ心を奪われていた。
その間、隣にいるヴィンセントのことなど、ほとんど意識していなかったのでは——。
「!……私ったら、つい浮かれてしまって……すみません……」
頬を染め、そっと視線を落とす。
そのしぐさがあまりにも愛らしく、ヴィンセントは微笑を深めた。
「とても可愛らしいですし、私はそのお姿を見せていただけて嬉しいですよ」
ルシアはますます頬を赤らめる。
「……ヴィンセント様といると、なんだか気が緩んでしまいますの。空気が心地よくて……」
「それは光栄ですね」
「ふふ……なんだか、家族と過ごしている時を思い出してしまって」
「家族、ですか?」
「ええ……」
ルシアはどこか懐かしげに目を細めた。
「そういえば、ルシア様にはお兄様がいらっしゃいましたね。私に似ているところがあるのでしょうか?」
ルシアは少し考え、優しく微笑んだ。
「そうですわね……なんとなく、雰囲気が似ている気がします」
「それは、どんな部分が?」
「お兄様も、いつも私を一番に気にかけて護ってくださっていたの……。忙しくてなかなか会えなくなってしまいましたけれど、今でも屋敷に揃ったときはずっとお話ししてしまいますわ」
ルシアはくすりと微笑む。
その表情には、兄への愛情がしっかりと滲んでいた。
「幼い頃から、ずっと甘やかしてくださって……ふふっ、大好きなお兄様なんです」
「それは素敵ですね。そんな方と似ていると言っていただけるのは光栄です」
ヴィンセントは微かに目を細めた。
ルシアの兄——次期公爵は、貴族社会の中でも群を抜く才覚の持ち主だと評されている。
宰相である現公爵にも引けを取らない頭脳とカリスマ性を備え、将来を嘱望されている人物。
そう聞くと、どちらかといえばエリオットに近いように思うが——「一番に気にかけ、護ってくれる存在」という部分だけを見れば、自分にも似たところがあるのかもしれない。
それが理由かはわからないが、ルシアがこうして無防備に自然体で接してくれるのなら——。
「……家族枠も、悪くはないかもしれませんね」
ヴィンセントは小さく微笑みながら、目の前の彼女をそっと見つめた。
彼女の瞳は、ただ遠く、実習場の中で待機するエリオットを映していた。
その瞬間——
まるで何かを感じ取ったかのように、エリオットがハッと顔を上げた。
彼とはそれなりに距離があり、周囲には剣戟の音や談笑が満ちている。
ルシア達の会話が届くはずもない。
けれど——彼は確かに何かに気づいたように、周囲を見渡した。
そして、すぐにこちらを見つける。
エリオットの目が大きく見開かれる。
驚きに瞬いた瞳が、ルシアの姿をとらえた途端——
ふっと、その表情が和らいだ。
まるで陽だまりに身を委ねるように、彼の口元が綻ぶ。
先ほどまで友人と話しながら、どこか軽薄そうな眼差しをしていたはずなのに、一瞬で別人のように甘やかにほどけていく。
そして、すぐにこちらへ向かおうとした。
だが、まさにその時。
「次、アシュフォード!」
呼びかける声に、エリオットの動きが止まる。
タイミング悪く、彼の番が回ってきてしまったらしい。
呼ばれた瞬間ほんの一瞬だけ、わずかに唇を噛み講師に振り向く。
それから——すぐに顔を戻し、こちらへ視線を向けた。
その瞳が、「待っていて」と言うように、まっすぐ訴えかける。
さらに、ゆるく顎をしゃくるような仕草と、指先で軽く示すような動作。
ほんの数秒のうちに、言葉の代わりに伝えようとしているのがよくわかる。
ヴィンセントとルシアは、それに気づき、思わず顔を見合わせた。
「……ふふっ」
「ははっ……」
互いに微笑みがこぼれる。
模擬試合の直前だというのに、彼の考えることはルシアのことばかりなのだ。
必死に伝えようとする様子が可笑しく、そして微笑ましくて笑わずにはいられなかった。
エリオットは、その様子にわずかに眉をひそめる。
——笑われた。
そう思ったのか、一瞬だけ拗ねたように口元を引き締めたが、それも束の間。
すぐに、こちらへ意図が伝わったことに安心したように小さく頷く。
だが、最後まで名残惜しそうに、もう一度だけルシアを見た。
すると——
「頑張って」
ルシアが小さく、かすかに呟いた。
それは、まるで吐息のような声。
すぐ隣にいるヴィンセントですら、かすかにしか聞き取れなかったほどの静かなささやきだった。
けれど——
エリオットは、まるでそれを聞き逃すはずがないと言わんばかりに、はっきりと反応した。
嬉しそうに目を細め、表情を輝かせる。
そして、遠くからルシアへ向けて手を振った。
それに気づいたルシアも、ふわりと微笑んで、そっと手を振り返す。
その瞬間、エリオットはさらに満ち足りた顔になり——
剣を手に、模擬試合へと向かっていった。
「……まったく、叶いませんね」
ヴィンセントは小さく息をつきながらも、どこか穏やかな気持ちで呟いた。
胸の奥に、わずかに寂しさが滲む。
けれど、ルシアの瞳がこれほど嬉しそうに輝くなら、それでいいかと、ふっと微笑む。
遠く、エリオットの剣が光を帯びるように振り上げられた。
彼はきっと、次にルシアを見るときは、もっと誇らしくいられるように——そんなことを思っているのだろう。
エリオットの剣技は、やはり見事だった。
模擬戦が始まるや否や、その動きは一際洗練され、隙がない。
先日ヴィンセントが稽古を頼んだときよりも、さらに鋭く、さらに華やかだった。
剣を振るう姿は、ただ強いだけではない。
しなやかで、優雅で、まるで舞踏会のダンスのように流麗だった。
「……いい動きですね」
ヴィンセントがぽつりと呟く。
「ええ……本当に」
ルシアは、瞳を輝かせながら、ただただエリオットの姿を追い続けていた。
ルシアの表情は、どこか夢見心地ですらある。
きらきらとした瞳が、うっとりと彼の動きを追う。
にやつくのを我慢しているのか、口元がふにゃりと歪み、抑えきれない幸福感が零れていた。
……たまらなく、可愛らしい。
ヴィンセントはそんな彼女の横顔を見て、微かに苦笑する。
ここまで幸せそうな顔をされては、何も言えない。
「エリオット様は、軽やかで美しい剣捌きをされますわね」
「ええ。特に今日の動きは、余裕がある」
「そういえば、先日お二人で稽古なさっていたのですよね?」
「ええ。でも——明らかに、あの日よりもいい動きをしていますね」
「……まあ」
ルシアはそっと口元を押さえながら、それでも誇らしげな笑みを浮かべた。
エリオットが剣を振るうと、周囲の空気が変わる。
そこにいる者たちの意識が、自然と彼へと惹きつけられる。
軽やかに間合いを詰め、相手の攻撃をするりと躱す。
その姿は獲物を狙う獅子のようでありながら、どこか品があった。
まるで最初から勝負の行方を知っているかのように、悠然と流れる動作。
「ほら、今の回避——動きを最小限にして、相手の次の攻撃まで計算している」
「すごい……」
ルシアは唇をそっと押さえながら、息を詰めた。
「剣を振るうことに無駄がないですね」
「ええ。相手の動きを見極め、最小限の動作でかわしている。駆け引きが巧みだ」
ヴィンセントの静かな声には、戦う者への純粋な敬意が滲んでいた。
その横顔は真剣で、目の前の技を見極めようとする眼差しをしている。
「……ふふっ」
「どうかしましたか?」
「なんだか、とても熱心に観察なさっているのですもの」
「――っ!……そうですね、エリオット様の剣技は……とても勉強になりますから」
ヴィンセントは苦笑しつつ、視線を剣を交えるエリオットへ戻した。
彼の剣さばきには、ただの力強さだけでなく、長年の研鑽が生み出した洗練された技術があった。
それを間近で見られる機会は貴重だ。
——そのとき。
「そこまで!」
講師の鋭い声が響く。
エリオットの剣先が、相手の首元へと突きつけられていた。
決着——。
静寂が広がり、次の瞬間、周囲から歓声が上がる。
「やっぱりすごいな」
「まるで見えなかった」
「さすがエリオット」
ルシアは、そっと胸に手を当てながら、ほっと息をつく。
「お見事ですわ……」
講師からの指導を受けエリオットは軽く頷き、試合相手と礼をする。
試合を終え、場を離れるその瞬間——。
彼が視線を向けたのは、待ち構えていた学友たちではなく
——ただ一人、ルシアだった。
瞬間、彼の動きが変わる。
まるで何かに突き動かされたかのように、一切の迷いもなく駆け出し、一直線にルシアへと向かってくる。
周囲のざわめきも、学友たちの視線も意識の外に追いやり、ただ彼女だけを見据えて——。
「ルシア!」
強く、けれど優しく。
迷うことなくエリオットはルシアの華奢な体を抱き上げた。
ふわりと制服の裾が舞い、彼女の体が宙に浮く。
驚きに瞳を瞬かせる間もなく、エリオットはそのままくるりと一回転すると、まるで宝物を愛でるように目線より高く持ち上げた。
「どうしたんだい? 講義は?……まさか、僕に会いに来てくれたの?」
彼の声は軽やかで甘く、見上げるルシアへと届けられる。
彼女の頬にかすかな紅が差し、目元には戸惑いの色が見えながらも、ふっと緩んだ表情がどこか嬉しそうに見えた。
「エリオット。落ち着け」
呆れたようなヴィンセントの静かな声が、二人の間に割り込んだ。
しかし、エリオットはまるで聞いていないかのように、ゆっくりとルシアを胸へと引き寄せる。
優しく支え直し、そのまま肩にそっと顔を預けさせると、まるで赤子をあやすように穏やかに抱きしめた。
彼女の柔らかな髪がふわりと揺れ、エリオットの首元をくすぐる。
「やぁ、ヴィンセント。ふふっ、ルシアがわざわざ僕に会いに来てくれたんだよ? 落ち着いてなんていられないさ」
満足げに微笑むエリオットの腕の中で、ルシアの頬はますます熱を帯び、羞恥に震える肩を押し隠すようにぎこちなく身を縮める。
「それで、どうしてここへ?」
戸惑いに言葉を詰まらせるルシアの代わりに、ヴィンセントが冷静に答える。
「講義が自習になったので、書庫へ行く予定だったんです。昨日、あなたが実技があると言っていたから、そのついでにお誘いしたんだ」
「……ヴィンセント、君ってやっぱりいいやつだったんだな」
「……ルシア様を喜ばせたかっただけだ」
ヴィンセントはそっけなくそう告げるが、エリオットは気にする素振りもなく、ますます甘やかすようにルシアを抱き寄せた。
「ルシア、本当に嬉しいよ」
優しく囁きながら、エリオットの指がそっとルシアの髪を梳く。
愛しげに触れ、指先で柔らかな髪を絡め取ると、そのまま滑らせるようになでた。
「……っ」
ルシアが小さく息を呑む。
それを感じ取ったエリオットは微笑を深め、今度は背をゆっくりと撫でる。
まるで安らぎを与えるように、指先でなめらかな生地越しに優しくなぞりながら、時折ふんわりとした髪に触れた。
「ふふっ……ルシア、なんだか力が抜けてきたみたい?」
そう呟くと、彼の手は自然と彼女の腕へと移り、包み込むように掌を添えた。
親指でそっと生地越しにさするように撫でながら、その温もりを確かめるようにする。
「エリオット」
ヴィンセントが再び咳払いするように名を呼ぶと、エリオットはあからさまに名残惜しげな仕草を見せながらも、動きを止める。
だが、それでもルシアを手放すことはしなかった。
まるで呼吸するように自然に、当たり前のように、彼の指は常にルシアへと触れている。
背を撫で、腕を包み、時折髪を梳く。
その動作すべてが愛おしげで、彼にとっては何の疑いもなく「当然のこと」なのだとさえ思わせるほどだった。
けれど——。
ルシアの赤くなった顔は、抱き上げられているせいでエリオットの視線には入らなかったものの——
彼の肩越しにいた学友たちには、はっきりと見えてしまっていた。
「エリオットー! お前何一人だけ婚約者と楽しんでるんだ……よ……?」
駆け寄ってきた学友たちの声が、不自然に途切れた。
誰もが 息を呑む。
視線の先。
エリオットの肩にもたれかかるように抱かれたルシアが——。
普段はどこまでも穏やかで気品に満ち、どんな場面でも完璧な淑女である 「社交界の白百合」 が——。
今、あまりにも かわいらしい表情 をしていた。
ふるりと揺れる睫毛。
羞恥に染まり、頬をくすぐるように広がる淡い紅。
伏せた瞳の奥で戸惑いながらも、ほんのりと滲む幸福の色。
こぼれそうな吐息を押し殺すように、きゅっと噛みしめられた小さな唇。
「……っ」
誰かが、喉を鳴らす。
「……嘘だろ……」
「ルシア様が……こんなお顔を……?」
「……あまりにかわいらしくて、息が……」
戸惑い、羨望、そして抑えきれない ときめき が、稽古場の空気を震わせる。
誰もが知っていた。
彼女は気品に満ち、常に優雅な微笑みを湛え、どんなときも完璧な貴族令嬢であることを。
だが今、エリオットの腕の中で彼女が見せた表情は——。
あまりにも甘く、いじらしく、心を攫うほどに愛らしい。
エリオットにすべてを預けるように、頼るように抱かれるルシア。
彼にだけ許した、誰も見たことのない 恋に染まる顔。
「……エリオット……ずるい……」
誰かが掠れるような声で呟く。
触れられたら、どんなに幸せだろう。
あの表情がたった一度でも、自分に向けられたなら。
そんな考えが脳裏をよぎり、 慌てて振り払う。
彼女のこの表情は、エリオットだけのもの。
その事実が、どうしようもなく胸を締めつける。
まるで吸い寄せられるように、誰もが彼女を見つめてしまう。
一瞬でもいい、もう一度——そう思わせるほどに、彼女は かわいらしく、甘やかに、そこにいた。
だが、その視線を受け止めることが許されるのは、世界でただ一人—— エリオットだけだ。
学友たちは、ただ呆然とその光景を見つめることしかできなかった。
「……エリオット」
沈黙を破ったのは、ヴィンセントだった。
「ん?」
エリオットはゆるりと顔を上げ、何の疑問もなく穏やかに答える。
「ルシア様の顔、見えてしまっているぞ。いいのか?」
「え……?」
ふと、エリオットは気づき、振り返る。
学友たちは一様に顔を赤らめ、視線を彷徨わせながらも、ルシアから目を逸らせずにいた。
誰もが言葉を失い、呆然と見つめている。
「……?」
訝しみながら、エリオットは腕の中の彼女に視線を落とす。
何がそんなに彼らを惹きつけているのか——。
確かめるように、ゆっくりと腕の力を緩め、ルシアの体を軽く起こした。
肩に預けられていた彼女の重みがわずかに離れ、そっとその顔を覗き込む。
そして——。
息を呑む。
彼女の表情は、いつも以上に、いや、普段のどんな瞬間よりも いとおしかった。
紅く染まった頬。
揺れる睫毛の奥に滲む涙。
恥じらいに震えた唇が、戸惑いながらかすかに開く。
見られていないと 油断していたのか、普段よりも ふわりと緩んだ表情 をしていた。
それは、 無意識のままに彼へと甘えている証拠。
胸が締めつけられるほど、 愛おしい。
「ルシア……」
思わず名を呼ぶと、ルシアの睫毛が小さく震えた。
次の瞬間、はっとしたように肩をすくめ、さらに頬を染める。
「……っ」
緩んだ顔をエリオットに見られてしまったことに戸惑っているのか、今にも泣きそうなほどの表情を浮かべる。
その姿が、 たまらなく愛おしい。
エリオットの瞳が、わずかに細まる。
喉を鳴らし、腕の中の彼女をさらに優しく抱き寄せた。
—— こんな顔、誰にも見せたくない。
その思いが、甘く滲む。
「そうか……」
静かな声が落ちる。
「君たち、見てしまったんだね?」
誰も否定はしない。
ただ、沈黙だけが広がった。
「……まあ、仕方ないよね」
エリオットはふっと微笑む。
「でも」
彼の声が少しだけ低くなる。
「君たち、今日の模擬戦……手加減はしないから」
「……え?」
「覚悟、できてるよね?」
学友たちが一斉に息を呑む。
「ちょ、ちょっと待てエリオット」
「見たのは不可抗力だろう!」
「ル、ルシア様!婚約者がこんな心狭くていいんですか!?」
彼らの視線が、ルシアへ向かう。
「え……あの……」
困惑しながら、ルシアはエリオットを見上げた。
まだ頬には紅が差したまま、瞳は涙を湛えたように微かに揺れている。
「ルシア……?」
エリオットは僅かに目を伏せると、抱く腕に無意識のうちに力を込めた。
まるで、 彼女が離れてしまわないように。
それは自覚のないままの動作だったが、その僅かな力の変化に、ルシアの肩が小さく跳ねる。
「ルシア様、本音でいいんですよ」
ヴィンセントが、淡く微笑む。
ルシアは迷うように一瞬まつげを伏せ、それでも小さく微笑んだ。
「私は……エリオット様に、独り占めしたいと思っていただけて……とても、うれしいですわ……」
「……!」
エリオットの目が輝きを増し、彼女をさらに抱き寄せる。
「ルシア……! 大好き!」
「っ……! でも、エリオット様……そろそろ恥ずかしいので、おろしてください!」
顔を真っ赤に染めながら、そっと抵抗するルシア。
エリオットは名残惜しそうにしながらも、ゆっくりと彼女を地面へと降ろした。
そして、ちょうどその時、講師の呼ぶ声が響く。
「少し寄っただけですし、私たちもそろそろ書庫へ向かいましょうか」
ヴィンセントが落ち着いた声で言い、ルシアも小さく頷く。
「そうですわね」
「……もう行ってしまうのかい?」
エリオットが温もりを惜しむように、わずかにルシアを抱き寄せる。
ルシアはふふっと微笑み、優しく言った。
「ふふ、一応自習の時間ですから」
そう言いながら、そっとエリオットの腕の中から身を引く。
「エリオット様、またお昼ご一緒しましょうね。実技、頑張ってくださいませ」
彼女は、穏やかで優雅な笑みを浮かべる。
「……そっか、寂しいけれど、ルシアがそう言うなら、頑張るよ」
エリオットはゆっくりと彼女を解放しながら、どこか未練を残すように微笑んだ。
「皆様も、お怪我なさらないよう、お気をつけて頑張ってくださいませね」
ルシアが優しく学友たちにも声をかけると、彼らは感激したように頷く。
「ルシア様……!」
「ルシア様に応援されるなんて、もう負ける気がしない!」
「……君たち、あまり調子に乗らないでよね」
そんな軽いやり取りの後、エリオットもしぶしぶながら稽古場へと戻ろうとする。
だが——。
数歩進んだところで、ふと足を止めた。
不思議そうに彼を見つめるルシア。
その視線を受けながら、エリオットは迷いなく一歩戻る。
そして、そのまま 彼女の額にそっと唇を落とした。
「……!」
突然の仕草に、ルシアは息を呑む。
彼の唇が離れたあとも、指先が頬をそっと撫でる。
なめらかな肌を確かめるように、愛しげに滑らせながら。
「ルシア、それじゃあ行ってくるね」
低く甘やかに囁き、唇が微かに弧を描く。
「い、いってらっしゃいませ……」
頬を真っ赤に染め、震える声で見送るルシア。
エリオットは満足そうに微笑みながら、一度だけ振り返る。
そして、ゆっくりと踵を返し、ようやく稽古場へと戻っていった。
残された空気には、彼の余韻が色濃く滲んでいた。
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