新たな関係
王立貴族学院での昼下がり、三人で過ごす時間はいつしか当たり前のものになっていた。
授業の合間や中庭の陽だまりのテラス。
穏やかな午後には、決まって紅茶を囲みながら会話を交わす——そんな日常が続いていた。
しかし、今日はいつもと違う。
広く開放的なテラスではなく、学院の奥にある談話室を借りていた。
外の喧騒から隔てられた静寂の空間。
ここなら、誰かに話を聞かれることもない。
それが、今日この場を選んだ理由だった。
窓から差し込む柔らかな陽の光が、白磁のティーカップを照らしている。
光を受けて透き通る琥珀色の紅茶が、静かな室内にほんのりとした温もりを添えていた。
テーブルを囲むのは、エリオット、ルシア、そしてヴィンセント。
談話室の奥、柔らかな陽の差し込むソファに、エリオットとルシアは並んで腰掛けている。
二人の間に自然な距離がありながらも、親しい者同士の空気がそこにはあった。
ローテーブルを挟んだ向かい側には、ヴィンセントが静かに座っている。
それぞれのカップに口をつけながら、三人は穏やかな空気を保ち、談話を交わしていた。
しかし、その奥には、わずかな緊張が滲んでいる。
今日は、ただのお茶会ではない。
ある大切な報告をしなければならなかったから――。
しばらく和やかな会話が続いたあと、エリオットがふとティーカップを置く。
陶器がローテーブルに触れる、小さく澄んだ音が、室内に静かに響いた。
「ヴィンセント。先日は、ルシアを守ってくれて本当にありがとう」
エリオットの穏やかな声音が、その場の空気をわずかに引き締めた。
落ち着いた声色に、わずかに感謝の滲む響き。
エリオットの瞳が、まっすぐにヴィンセントを見据えた。
「ヴィンセントは怪我、大丈夫?」
その言葉に、ヴィンセントは少し背筋を正し、端正な顔立ちに淡い微笑を浮かべる。
「ええ、軽い打撲で済みました。ルシア様をお守りできてよかったです」
エリオットの問いに、淡々と答えるその口調はいつも通り冷静だった。
しかし、どこか安堵の色が見え隠れしている。
「ヴィンセント様がいなかったら、どうなっていたかわかりません。本当にありがとうございます」
ルシアはゆっくりと頭を下げ、感謝の意を示す。
その姿はいつもながらに淑やかで、柔らかな声音が室内に心地よく響いた。
ヴィンセントはルシアの姿を見て、ほんの少し目を伏せる。
そして、静かに首を振りながら、微笑んだ。
「そんな、礼を言われることではありませんよ。私がルシア様をお守りするのは、当然のことですから」
彼の声は穏やかだったが、その裏には確かな想いがある。
ルシアが幸せであること、それが彼にとって何よりも重要なことだったから。
エリオットは、ティーカップを持ち上げ、一口紅茶を含む。
琥珀色の液体が喉を通り、ふわりと香りが広がる。
「それでも、助けてくれて感謝してるよ」
静かに揺れた紅茶が、光を反射しながら波紋を描く。
「君がいなかったら、僕は後悔していたかもしれない」
エリオットの言葉に、ヴィンセントがわずかに眉を寄せる。
「ルシアのそばにいるべきなのに、彼女を護ることができなかったから」
その言葉には、微かな悔恨の色が滲んでいた。
ルシアは、そっとエリオットの袖をつまむ。
まるで、その後悔を打ち消すように、彼を慰めるように。
エリオットは、その小さな仕草に気づくと、穏やかに微笑んだ。
「ずいぶん仲が良くなられたのですね」
ヴィンセントが、静かに二人を見つめながら言う。
その瞳はどこか柔らかく、しかしわずかに寂しさを含んでいた。
「ふふ、そう見えますか?」
「ええ、お二人の様子を拝見していると、以前とは違った雰囲気を感じます」
「君のおかげだよ」
エリオットは、そう言いながらルシアの指をそっと絡めた。
「素直になることの大切さに気付かされたからね。これからは隠さず、思う存分ルシアを愛するよ」
ルシアの頬が、ふわりと赤く染まる。
視線を落とし、指先がかすかに揺れる。
「エ、エリオット様……。うれしいですけれど、人前ではあまり……」
ルシアは戸惑いながら、困ったように視線をそらす。
けれど、その仕草すらも愛おしくて、エリオットは楽しげに微笑む。
「ルシアを常に愛でていたいけど……でも、そうだね。こんなかわいい顔、他の人には見せたくないからね」
その言葉に、ルシアはますます頬を染めた。
「二人きりの時に取っておこうかな」
「……っ」
恥ずかしさに、俯いてしまうルシア。
そんな彼女を見ながら、エリオットは優しく指を絡める。
その光景を見ていたヴィンセントは、ふっと微笑んだ。
この二人の間に流れる空気が、もう自分が入り込む余地のないものだと理解する。
そして——いつまでも続きそうな甘い雰囲気を切るように、
ヴィンセントが静かに息をつき、問いかける。
「それで、お二人とも数日お休みされていましたが……体調は大丈夫なのですか?」
エリオットは、ゆっくりとカップを置くと、ヴィンセントに視線を向けた。
「……あー、そのことで話があって、今日ここを借りたんだ」
いつもとは違う、真剣な声色。
「その、僕とルシアは——」
「エリオット様、お待ちください」
ルシアが慌ててエリオットの袖を掴んだ。
彼の言葉を遮るように、顔を伏せながら、けれど決意したような声音で言葉を紡ぐ。
「……ヴィンセント様には……私から、お伝えさせてください」
「ルシア様……?」
ヴィンセントが驚いたように目を瞬く。
ルシアは、ぎゅっと手を握りしめると、深く息を吸った。
喉の奥がかすかに震える。
けれど、それを飲み込み、しっかりと前を向く。
「ヴィンセント様……先日、エリオット様と正式に……より深い関係となりました」
その瞬間——
「なっ……!」
ヴィンセントの表情が凍りつく。
淡々としていた彼の瞳に、抑えきれない感情が宿った。
「……ルシア様、その、深い関係というのは……?」
まるで信じられないものを見るような目で、ヴィンセントは彼女を見つめる。
ルシアは、彼の反応を正面から受け止めるように、視線を逸らさず、静かに頷いた。
「……きっと、ご想像されている通りのこと、ですわ」
その言葉を聞いた瞬間——
ヴィンセントの椅子が大きく軋む音が響いた。
勢いよく立ち上がると、まるで制御できない衝動のままに、エリオットへと詰め寄る。
「貴様……!」
低く押し殺した声が、かすかに震える。
次の瞬間、エリオットの襟元を掴んだ。
「……まさか、あの日、ルシア様が不安で弱っているのにつけこんで、無理やり……!!」
「……っ」
エリオットは襟を掴まれたまま、ヴィンセントを見据える。
「おいおい、どういう前提で話してるんだ?」
「答えろ、エリオット!!!」
鋭く怒気を含んだ声が、談話室に響き渡る。
エリオットはヴィンセントの手首を掴み、無理に振りほどこうとはしないまま、静かに言った。
「君に、あの日のことを深く語るつもりはないよ」
「待ってください! ヴィンセント様!! 違うのです!!」
ルシアが驚いたように息を呑み、慌てて席を立つ。
スカートの裾を踏みそうになりながらも、ヴィンセントの腕をぎゅっと掴んだ。
「ルシア様!あなたは 優しすぎます! すべてを受け入れる必要はありません!! 婚姻前に手を出すなど、許されることではない!!!」
「ルシアが正式にといっただろう? 両家の当主に認められている」
「それでも!!! ルシア様のお気持ちはどうなる!!!」
「僕は無理に何かをしたつもりはないよ」
ヴィンセントの拳に、さらに力がこもる。
怒りの色を帯びた瞳が、エリオットを射抜いた。
「ルシア様は怯えていた。あの日は、不安で、受け入れるしかなかったのだろう!!!」
「そんな言い方をしないでください!」
ルシアの必死な声が、二人の間に割って入る。
目に涙を滲ませながら、懸命に言葉を紡いだ。
「その、わたくしが……!! すべてを、もらってほしいと、エリオット様に願ったのです…!」
必死に、言葉を紡ぐ。
頬は真っ赤に染まり、指先が小さく震えている。
「っ…!……ルシア様……?」
ヴィンセントの指先が、わずかに震える。
「そんな……ルシア様が、自ら……?」
信じられないというように、彼は困惑したように視線を彷徨わせる。
ルシアは、じっとヴィンセントを見上げたまま、彼の袖を握りしめていた。
「私は……」
ルシアの唇が、かすかに震える。
「私の気持ちは、決して一時の迷いなどではありません」
その声音には、確かな決意が宿っていた。
ヴィンセントは、気持ちを落ち着かせようと一度息を吐き、静かに目を閉じる。
そして、エリオットをじっと見据えた。
「……エリオット」
静かに、しかし確かに、名を呼ぶ。
その声に、エリオットは軽く息を吐くと、肩をすくめて微笑んだ。
「いや、違うよルシア」
優しく、けれどどこか切なげな微笑み。
「君が願った、なんて言わないでいいんだよ。僕だって限界だったんだ」
静かに紡がれる言葉。
「ルシアは僕の気持ちを受け止めて、それに答えようと考えてくれた。その事実だけで十分だよ」
その言葉に、ルシアの瞳が大きく揺れる。
彼女の胸の奥が、熱く疼いた。
「エリオット様……」
彼の優しさが、深く胸に染み込んでいくようだった。
ヴィンセントは、ゆっくりとエリオットの襟元を掴む手を緩める。
まるで、何かを振り払うように、重く息をついた。
「……本当に……無理やりでも、同情でもないのですね?」
心配の色を滲ませ、真剣に問う。
ルシアは一瞬驚いたように瞳を瞬かせた。
そして——
「ええ……私が自ら望んだのです」
柔らかく微笑んだ。
それは、彼女の心からの笑顔だった。
彼の手は、今しがたまで掴んでいたエリオットの襟元をゆっくりと離れ、力なく宙を彷徨う。
呑み込もうとするが、まだ完全には理解しきれないのか、ヴィンセントは困惑したままの表情で立ち尽くしていた。
深く息をつき、視線を落とす。
「……そう、ですか」
絞り出すように、低く呟く。
感情を抑え込もうとするが、胸の奥が重く疼くのを感じた。
ふと、ルシアへ視線を向ける。
彼女はまだしっかりと彼を見つめ返していた。
その瞳に迷いはない。
ヴィンセントは、軽くまばたきをすると、静かに席へ戻った。
力なくソファへ腰を下ろし、深く背もたれに預ける。
「……失礼しました」
深く息を吐き、手を膝の上で組む。
冷静さを取り戻しながらも、まだ心の奥底では整理がつかない感情が渦巻いていた。
エリオットもまた、ヴィンセントが落ち着くのを確認すると、ゆっくりと席に腰を下ろした。
軽く襟元を整えながら、ふっと息をつく。
「……まったく、君は相変わらず真面目だね」
冗談めかしながら微笑むが、ヴィンセントはそれには応えず、静かにティーカップへと手を伸ばした。
しかし、指先がわずかに震えているのが見えた。
エリオットがそんな彼の様子をちらりと確認した後、隣のルシアへと視線を向ける。
彼女も、ようやく落ち着きを取り戻したのか、そっと息を整えた。
しかし、自分の口から「無理やりではなく、自ら望んで……」と言ったことを思い返し——
「……っ!」
ルシアの頬が、一気に紅潮する。
無意識のうちにエリオットを見上げると、彼の視線に気づき、すがるような瞳を向けた。
けれど、その目が合った瞬間、さらなる羞恥がこみ上げ——
「……っ……!」
恥ずかしさに耐えきれず、エリオットの胸元にそっと顔を押し付けた。
息を詰め、身じろぎもせず、ただエリオットの温もりに縋るように身を寄せる。
「ふふ……そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
エリオットは、彼女の髪を優しく撫でながら、柔らかく微笑んだ。
指先が彼女の絹のような髪を梳くたびに、その感触が心地よく、思わず指に絡めたくなるほどだった。
「……エリオット様」
ルシアの小さな声が、彼の胸元にくぐもる。
エリオットはそんな彼女を愛おしそうに抱き寄せ、そっと囁いた。
「大丈夫。ルシアがどんな気持ちで僕のそばにいるのか、もう十分にわかってる」
ルシアは、胸元に顔を埋めたまま、そっと息を吐いた。
彼女が今、何を感じているのか、言葉にしなくてもわかる。
恥ずかしさに耐えきれず、けれどエリオットから離れることもできない——
それが、ただただ愛おしい。
まるで、すべてが自分のものになったと確かめるように、エリオットはもう一度、彼女の髪を撫でた。
その静かなやり取りを、ヴィンセントはじっと見つめていた。
二人の間に流れる、穏やかで温かな空気。
言葉を交わさずとも伝わる確かな想い。
ルシアは——本当にエリオットを望んだのだ。
無理やりでもなければ、流されただけでもない。
彼女自身の意志で、彼を選んだのだ。
そう理解した瞬間、ヴィンセントは静かに目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に鈍い痛みが広がる。
しかし、それを表には出さず、静かに飲み込む。
彼女が望む相手は、自分ではなかった。
そして、その想いは、確かに本物だった。
——ならば、自分はどうするべきなのか。
「……エリオット様」
再び、名を呼ぶ。
ヴィンセントの視線が、まっすぐにエリオットを捉えた。
その眼差しには、先ほどまでの怒りも疑念も、もはやなかった。
代わりに——静かで、揺るぎない覚悟が滲んでいた。
エリオットは、ルシアをそっと抱き寄せながら、彼を見つめ返す。
「何?」
「……あなたは、変わりましたね」
ヴィンセントの声は、どこか感慨深げだった。
「以前のあなたは、誰にでも優しく、誰にでも分け隔てなく接する方でした」
「そう? 別に今も周りへの態度は変えてないよ」
エリオットが肩をすくめると、ヴィンセントはゆっくりと首を振る。
「いえ……今のあなたは違います」
ヴィンセントは、まっすぐにエリオットの瞳を覗き込む。
そこに映るのは——たった一人の存在。
「今のあなたは、ルシア様しか見ていない」
エリオットは、一瞬まばたきをした。
そして、口元に小さな笑みを浮かべる。
「ふふ、そうかもね? もう、後悔したくないし。ルシアは僕のすべてだからね」
まるで当たり前のことを言うように、穏やかで、けれど確信に満ちた声音だった。
ルシアは、その言葉に息を呑み、ゆっくりと顔を上げる。
エリオットはそっと彼女の頬を撫でた。
触れる指先が、愛しさを滲ませるように、彼女の肌を優しくなぞる。
ルシアは静かに目を伏せ、彼の手にそっと頬を寄せる。
エリオットはその仕草に微笑み、彼女の指を優しく絡めた。
まるで、彼女のすべてを包み込むように。
その仕草が、彼の想いの深さを物語っていた。
ヴィンセントは、深く息を吐いた。
それを理解した瞬間、胸の奥にあった何かが、静かに崩れていくような感覚を覚えた。
受け入れなければならないとわかっていた。
それでも、どこかでまだ迷いがあったのかもしれない。
だが——
今、彼の目の前にいるルシアの姿は、これ以上ないほどに穏やかだった。
エリオットに寄り添う彼女の表情は、静かで、柔らかくて——
まるで、それが彼女にとっての自然な姿であるかのように見えた。
ヴィンセントは、ゆっくりと目を閉じ、そしてもう一度開いた。
そこには、確かな答えがあった。
彼女はエリオットを選んだ。
そして、エリオットもまた、彼女を選んだのだ。
「ルシア様」
その名を呼ぶと、ルシアがはっと瞬きをした。
彼の声音が、どこか優しくなっていることに気づいたのかもしれない。
「あなたの愛は……わかりましたか?」
ヴィンセントは静かに問いかける。
ゆっくりと、慎重に言葉を選ぶように——けれど、その瞳はまっすぐにルシアを見つめていた。
ルシアは、驚いたように少し目を瞬く。
けれど、すぐに考え込むように視線を落とし、ふっと息を吐いた。
それから、そっとエリオットの方を見上げる。
彼女の大きな瞳が、静かに揺れた。
エリオットは、その視線に気づき、優しく首をかしげた。
「ん?」
まるで「どうしたの?」とでも言うように、穏やかで、いつも通りの彼。
それを見たルシアの表情が、ふっと和らぐ。
エリオットの優しさは、いつだって彼女を包み込む。
そして、今も変わらず、そこにある。
ルシアは、彼をまっすぐに見つめた後、ゆっくりとヴィンセントへと向き直る。
「……ええ」
その声は静かで、けれど確かな響きを持っていた。
「私の愛は、昔からずっと……ここにあったみたいですわ」
その瞬間、ヴィンセントは全てを悟った。
——この笑顔を、奪うことなどできるはずがない。
ルシアの微笑みは、あまりにも優しく、穏やかだった。
彼女の幸福は、ここにある。
自分が守ろうとした大切な人は、すでに誰かの腕の中で守られている。
ならば——
ヴィンセントは、静かに目を閉じた後、ゆっくりと口を開く。
「エリオット様」
エリオットが目を向ける。
「私はこれからも、ルシア様の学友として、ルシア様の幸せを願います」
ルシアは、その言葉にそっと瞬きをする。
「ヴィンセント……」
「ですが、ルシア様の幸せには、エリオット様——あなたが必要なようですね」
ヴィンセントは、かすかに口元を綻ばせた。
「それならば……あなたが道を踏み外さぬよう、これからはルシア様だけでなく、あなたのことも見守ることにします」
エリオットが少し眉を上げる。
「……それってつまり?」
ヴィンセントは、穏やかにエリオットを見つめながら、どこか楽しそうに口を開く。
「これからもお二人のおそばにいさせていただきますので。よろしくお願いします」
晴れやかな笑顔を浮かべていた。
先ほどまでの迷いや葛藤は消え去り、その表情には穏やかな決意が宿っている。
エリオットはその言葉を受け、瞬間驚いたように目を瞬かせるが、すぐに口元に笑みを浮かべた。
「……ふっ、なんだよそれ」
呆気に取られつつも、どこか安心したように肩の力を抜き、小さく笑う。
その隣で、ルシアも微笑みながら、くすくすと喉を鳴らした。
「ふふ……頼もしい味方が増えましたわね、エリオット様」
「いやいや、僕が見守られる立場なのは、なんかおかしい気がするけど……?」
エリオットが苦笑しながら肩をすくめると、ヴィンセントは静かにティーカップを手に取る。
「ルシア様のために、気を引き締めてくださいね」
エリオットは小さくため息をつきながらも、ルシアの柔らかな温もりを感じるように腕を軽く回す。
ルシアが彼に寄り添うように身を預けると、彼は優しく微笑んだ。
「まあ、いいか。これからもよろしくね、ヴィンセント」
「ええ。もちろんです、エリオット様」
「……それ、もういいよ」
エリオットの言葉に、ヴィンセントは静かに目を瞬かせる。
「……?」
「さっき僕のこと、エリオットって呼んだだろ。これからはそれでいいよ。敬語もいらない」
「いや、先ほどのは怒りでつい……」
ヴィンセントがわずかに視線を逸らしながら言葉を濁す。
エリオットは、わざとらしく唇の端を上げ、軽く肩をすくめた。
「じゃあ、名前じゃなくて貴様にする?」
その軽口に、ヴィンセントは小さく息を吐く。
「まさか……根に持ってますね?」
「はは、胸ぐらを掴まれたのなんてはじめてだったからね」
エリオットが愉快そうに笑うと、ヴィンセントはわずかに苦い表情を浮かべる。
「それは……すみません」
短く謝罪しながらも、どこか釈然としない様子でため息をつく。
それでも、エリオットのからかうような態度に、次第に肩の力が抜けていくのを感じた。
「……エリオット」
自然と、その名を口にする。
エリオットは満足げに口角を上げ、ふっと微笑んだ。
「ふふ、やっと素直になったね」
「まったく……」
ヴィンセントは小さく首を振りながら、カップを傾ける。
エリオットは彼の様子を見て、どこか楽しげに微笑んだ。
「それじゃ、改めて。これからもよろしく、ヴィンセント」
ヴィンセントはゆっくりと息をつき、そして真っ直ぐにエリオットを見つめる。
その視線には、もはやわだかまりはない。
「……ええ。ルシア様をもう悲しませるなよ、エリオット」
そう言いながら、ヴィンセントは静かに手を差し出した。
エリオットもまた、その手をしっかりと握り返す。
——新たな関係が、ここに生まれた。
ルシアは、そんな二人のやり取りを穏やかに見つめながら、そっとティーカップに口をつける。
彼女の指先が優雅にカップを持ち上げ、淡い紅茶の香りがふわりと立ち上る。
静かに目を閉じて、その味を確かめるように口に含むと——
その紅茶の味は、いつもよりも少しだけ甘く感じられた。
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