夜の帳の中で
馬車の車輪が静かに回る音だけが、夜の空気に溶けていく——。
エリオットは、静かに窓の外を眺めていた。
ルシアを彼女の屋敷まで送り届けた帰り道。
夕食会は、いつも通りだった。毎週行われる両家の習わし。
婚約者として、共に食事をし、穏やかに言葉を交わす。
普段なら、心地よい時間のはずだった。
けれど——
今夜の食事は、まるで味がしなかった。
ルシアが優雅にナイフとフォークを操る姿を目にしても、
彼女がそっと微笑みながら、食後の紅茶を口に運ぶ姿を見ても、
いつもなら愛らしいと思える仕草すら、まともに目に入らなかった。
頭の中にこびりついているのは、彼女がヴィンセントと二人きりで話していた光景。
食事の間、気にしないふりをして、他愛もない話を続けた。
彼女も、何も変わらず、いつも通りの微笑みを向けてくれた。
けれど、何度ルシアの瞳を覗き込んでも、その奥にある真意を見極めることはできなかった。
彼女は、何を思っていた?。
ルシアの微笑みは、ヴィンセントに向けた時も、今と同じだったのか?
考えないようにすればするほど、余計に意識してしまう。
だからこそ、会話に集中しようと努めた。
気軽な話題を選び、ルシアの反応を引き出し、その笑顔を保たせるように振る舞った。
だが、それが余計に苛立ちを募らせる。
彼女は、まるで何事もなかったかのように微笑んでいる。
変わらずに、僕を婚約者として受け入れてくれている。
ならば、何を不安に思う必要がある?
彼女は、僕の婚約者だ。
「……っ」
エリオットは、馬車の中で、握りしめた拳をそっと開いた。
そこには、ほんの少し前までルシアの手があった。
白く柔らかく、触れれば溶けるような、儚い温もり。
彼は、何度もその指を撫で、絡め、確かめるように握っていた。
——彼女が、確かに自分のものであると。
「……っは」
小さく息を吐き、エリオットは額を押さえた。
顔が熱い。頭が痛い。
体の奥底から、何かが込み上げてくるのを感じる。
その原因は、わかっている。
ヴィンセント・アルスター。
彼が、ルシアに告白をした。
彼が、ルシアに愛を囁いた。
彼が、ルシアの瞳を覗き込み、彼女の心を求めた。
「……っ!」
エリオットの喉の奥が焼けるようだった。
拳が震える。思い出すだけで、胸の奥が狂おしいほどに疼く。
ルシアは、自分を選んだ。それは疑いようのない事実だ。
彼女は、穏やかに微笑みながら、はっきりと言った——。
「私は、エリオット様の婚約者として、その立場を大切にしております」
それなのに。
それなのに。
彼女がヴィンセントと二人きりで話していたという、その事実が、どうしても消えない。
彼女の視線が、彼女の声が、彼女の微笑みが、他の男に向けられていた。
そのことが、許せなかった。
彼女は、僕のものなのに。
——もし、彼女が、ヴィンセントに心を動かされていたら?
——もし、彼がもう少し強引に、彼女の心を奪おうとしていたら?
そんなこと、ありえないとわかっているのに、想像するだけで、血が沸き立つ。
「っ、ふ……はは……っ」
乾いた笑いが漏れる。
馬車が、侯爵家の正門の前で止まった。
扉が開き、執事が静かに一礼する。
「お帰りなさいませ、エリオット様」
「……ああ」
エリオットは、何事もないように微笑みながら馬車を降りた。
まるで先ほどまで何もなかったかのように、軽やかに屋敷の中へ足を踏み入れる。
「すぐに部屋に戻るよ」
「かしこまりました」
執事の返答を背中で聞きながら、エリオットは一直線に自室へと向かった。
ドアが閉まる。静寂が広がる。
エリオットは、深く息を吐いた。
「ルシアは、僕のものだよね?」
そう、何度も確認した。そう、何度も確かめた。
それなのに。
なぜ、こんなにも落ち着かない?
「っ……は」
エリオットは、手袋を乱暴に外し、デスクに叩きつける。
そのまま、ゆっくりと手を開く。何もない。
そこに、ルシアの指はない。
先ほどまで握りしめていた、あの柔らかく、繊細な指が
——もう、ここにはない。
「……ルシア」
彼女を思うだけで、喉が焼けるように熱い。
彼女が、自分だけを見ていない瞬間が、耐えられない。
僕以外の男と、会話を交わした彼女が、許せない。
——この胸の内を、どうにかしたい。
どこかで、冷静な自分がそう囁く。
だが、その理性の声は、もうかき消されそうだった。
彼女に触れたい。
彼女の声を聞きたい。
彼女の微笑みを、誰よりも近くで見つめたい。
先ほど別れたばかりなのに、今すぐにでも、馬車を出し、ルシアのもとへ向かいたい。
彼女の手を取り、その腕を抱き、誰にも見せない顔をさせたい。
「……っ」
エリオットは、椅子に座り込み、頭を抱えた。
こんな感情を、彼女に悟らせるわけにはいかない。
ルシアは、僕に微笑んでくれる。
僕に優しい言葉をかけてくれる。
彼女は、僕の婚約者だ。
だから。
だからこそ——。
「……あと少し……もう少しだけ……」
エリオットは、ぎゅっと拳を握りしめた。
指先が食い込むほどに力を込めても、胸の奥からこみ上げる衝動は鎮まらない。
もう少し。
あと少しだけ、彼女の温もりを感じていたかった。
あと少しだけ、彼女の声を聞いていたかった。
彼女の手を離した瞬間から、何かが欠けてしまったような気がする。
「……会いたいな」
ポツリと零れた言葉に、自嘲気味な笑みがこぼれる。
たった今、彼女を送り届けたばかりだというのに。
今すぐ馬車を出せば、まだ間に合う。
彼女の屋敷に戻り、もう一度彼女の手を取れば——。
エリオットは、ゆっくりと目を閉じた。
衝動を抑えるように、深く息を吐く。
ダメだ。
そんなことをすれば、ルシアに不審がられる。
彼女はまだ、僕を疑ってはいない。この感情を悟られてはいけない。
「……もう少し、抑えないとね」
静かに呟いた声は、誰にも届かない。
ただ、部屋の静寂に溶けていった。
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