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変化する関係


書庫の空気は、静謐で心地よいものだった。

古い紙とインクの香りがほのかに漂い、窓から差し込む午後の陽光が、本の背表紙を優しく照らしている。


ヴィンセント・アルスターは、一冊の書を開きながら、向かいに座る二人を意識していた。


ルシア・ウェストウッドとエリオット・アシュフォード——

学院においても社交界においても、婚約者同士として認識されている二人。

以前の彼らの関係は、たしかに婚約者という名の下に成り立っていたが、それ以上でもそれ以下でもなかったように思う。


エリオットは学院ではルシアに必要以上に関わらず、社交の場では婚約者としての役割を果たす。

ルシアも、それを当然のことのように受け入れていた。


けれど——

今は違う。


二人がエリオットの領地に出かけて以来、二人の関係には明らかな変化があった。

ヴィンセントは静かにページを捲りながらも、視線の端で二人を観察していた。


書庫で並んで座る二人の距離は、以前より格段に近い。

少し前までなら、ルシアは本を読んでいるとき、エリオットの隣にいながらも、穏やかな空気を保ちつつ適度な距離を置いていた。


だが今は——


ルシアは、何気なくエリオットの方へ顔を向けることが増えた。

書をめくる手を止め、ふわりと微笑みながら、ほんのわずかにエリオットへと身体を寄せる。


エリオットの方も、そんな彼女を甘やかすように微笑み、気づけば書を読む手を止め、ふとルシアへと視線を向ける。


「ねえ、ルシア。ちょっと手を出してみて?」


「……? こう、ですか?」


ルシアが差し出した手を、エリオットは何の躊躇もなく取った。

そのまま指を絡めるようにしながら、ふっと微笑む。


「……冷たいね。やっぱりここは少し肌寒いかな?」


「そうですわね……本を読んでいると、つい忘れてしまいますけれど」


ルシアの手を包み込むように、エリオットは指を軽く擦り合わせた。


「こうしてたら、少しは温まるかな?」


ルシアが小さく瞬きをする。


「……あ、あの」


彼女が戸惑いながら見上げると、エリオットは軽く肩をすくめた。


「ふふ、ルシアの手、綺麗だからつい触りたくなるんだよね」


「……っ」


ルシアの頬に、ふわりと朱が差す。

その反応に、エリオットは満足げに微笑んだ。


「そんなに可愛い反応されると、もっと触りたくなるな」


「エリオット様……」


ルシアが軽く視線を逸らしながら、微かに身じろぐ。

その小さな仕草が、エリオットにとっては愛しくて仕方ないのだろう。


「……少しは警戒してくれないと、僕も理性が持たないんだけどな?」


掠れた声で囁かれ、ルシアはさらに頬を染める。


——甘い。


ヴィンセントは、微かに息を吐いた。

これまでの二人にはなかった距離感。


それが、たった数日でこんなにも変わるものなのか。


エリオットがルシアを見つめる眼差しは、以前のような想いを隠しきったものではなく、明らかに独占したいという感情が見えてきている。


そして何より——ルシアもまた、それを拒んでいない。


「……お二人とも、随分と親しくなられたのですね」


ヴィンセントの何気ない一言に、二人の動きがぴたりと止まる。

ルシアは一瞬だけ瞬きをし、ふわりと微笑んだ。


「ええ……。先日の花祭りで、今まで以上にたくさんお話をしましたの」


「そうだね。君といろんなことを話せるようになって、前よりずっと距離が近くなった気がするよ」


エリオットはそう言いながら、ルシアの髪に指を滑らせる。


「ほら、さっきから本に夢中になりすぎて、髪が少し乱れてる」


「……え?」


ルシアが戸惑う間もなく、エリオットの指が彼女のこめかみに触れる。

そっと流れるように髪を整え、指先がかすめるたびに、ルシアの肩が微かに震えた。


「……っ」


頬がますます赤くなり、戸惑ったように彼を見上げる。


「ふふ、そんなに緊張しなくてもいいのに」


エリオットの声は、どこまでも甘やかだ。


「君の髪に気安く触れられるのは、婚約者の特権でしょ?」


彼の言葉に、ルシアは小さく唇を噛みしめる。


——そうだ。


今の二人は、婚約者らしくなった。


以前のようにただ形式的に隣にいるだけの関係ではなく、エリオットは明確にルシアを求め、そしてルシアもまた、それを受け入れている。


エリオットは、もうルシアを学院で"放っておく"ことはないのだろう。

祭りを境に、彼らの心には明らかな変化が生まれたのだと分かる。


そして何より——


ルシアが、幸せそうだった。

それだけは、疑いようのない事実だった。




「ヴィンセント様?」


ルシアが、不思議そうに彼の名前を呼ぶ。

ヴィンセントは、本を閉じ、微かに微笑んだ。


「いえ、邪魔をしてしまいましたね」


「そんなこと言わないでよ、ヴィンセント。むしろ君ももっと話に加わればいいのに」


エリオットが軽く肩をすくめながら言う。その声音には以前よりもいくらか余裕が見えた。

ヴィンセントは静かに彼を見やった。


「では……何を話せばいいのです?」


「うーん……そうだな。例えば、ルシアのこととか?」


エリオットが悪戯っぽく微笑みながら、指先でルシアの髪を弄ぶ。その指がふわりと細く美しい髪を滑り、柔らかな絹糸を撫でるように優しく動く。


「……っ」


ルシアは微かに肩を揺らした。


「僕は、まだまだ知らないことが多いからね。例えばルシアのクラスでの様子とか…。クラスメイトのヴィンセントの方が知っていることというのはどうしてもあるだろう?」


ヴィンセントは、エリオットの言葉の真意を測るように視線を向けた。


「ルシア様のことを、より深く知りたいと?」


「もちろん。婚約者だからね」


エリオットの声は、以前とは違い、明らかな熱を帯びている。ルシアへの好意を見せつけるような、迷いのない響き。


以前の彼なら、この問いにどう答えていただろうか。


今までの曖昧な態度の彼とは違う。

エリオットは明確にルシアを求め、ルシアもまた、それをよしとしているように見える。


「……ずいぶんと変わられましたね」


「うん?」


エリオットがゆるく眉を上げ、少しだけ笑みを深める。


「それって、僕がルシアと距離を縮めすぎてるってこと?」


「いいえ」


ヴィンセントは、静かに首を振った。


「ただ……エリオット様が、これほど分かりやすく心を砕かれるようになるとは、少し意外でしたので」


「そう見える?」


エリオットが軽く笑いながら、指先でルシアの手を弄ぶ。


「……ねえ、ヴィンセント。君から見て、僕たちはちゃんと婚約者に見えてるかな?」


ヴィンセントは、その問いを受けて、しばし黙考する。


「そうですね……」


視線を落とし、考えを巡らせる。


「……少なくとも、今のエリオット様は、以前よりずっと、ルシア様を大切にされているように見えます」


そう告げると、エリオットは小さく笑った。


「あはは、今さらそんな当然のことを言われるなんて……以前の僕は、随分ひどかったんだろうね」


「いえ。ただ、今のエリオット様の姿を見て、そう思っただけです」


エリオットは、少しだけ考えるように視線を落とし——


「……だったら、もっとルシアを大切にしなくちゃね」


そう呟いた声には、確かな熱が宿っていた。


「……やはり、変わりましたね」


「変わったかもね」


エリオットは、少し照れくさそうに肩をすくめる。


「……そう見えるだけ、というわけではないんですよね?」


ヴィンセントの言葉に、エリオットは一瞬だけ目を細めた。


「どういう意味?」


「エリオット様は、変わられたように思えます。しかし……本当に、そうなのでしょうか」


「ずいぶん含みのある言い方だね」


エリオットは軽く笑うが、その笑みの奥には探るような視線があった。


「まだ信じられない?」


ヴィンセントはすぐには答えなかった。ただ、じっと二人を見つめる。


「はは、君はやっぱり真面目だね」


その言葉とともに、この問答は十分だと言うかのように、彼は再びルシアの手を握った。

そのまま、優しく、穏やかな視線を向ける。




ヴィンセントは、もう一度二人を見つめ、静かに本を開いた。

まだ、答えを出すには早い。


だから、もう少しだけ——見極めよう。


書庫の静けさの中で、また一つ、時間が流れていく。


お読みいただき、誠にありがとうございました。

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