花の妖精
今朝は、普段とは違う静けさをまとっていた。
ここは侯爵家の広大な領地の一つ、その中心にある領主邸。
エリオット・アシュフォードは、婚約者とともに領地の祭りに参加するため、この地を訪れていた。
普段は貴族らしく整えられた学院の制服を纏う彼も、今日はいつもとは違う装いだった。
祭りの賑やかな雰囲気に合わせ、市民たちと浮かないよう仕立てられた、ゆったりとした軽やかな衣服。
けれど、ただの平服ではない。洗練されたデザインと上質な生地が、彼の端正な顔立ちとすらりとした体躯に、普段とは違う色気を纏わせていた。
硬すぎない襟元が彼の喉元を覗かせ、さらりとした布地が体の動きに合わせて優雅に揺れる。
貴族らしい格式を残しつつも、肩の力を抜いたその姿は、いつもの彼とはまた違う魅力を引き立たせていた。
——彼女は、どんな顔をするだろうか。
そんなことを考えていたとき——。
「お待たせしましたわ」
透き通るような、鈴の音のような声がエントランスに響いた。
エリオットは、思わず息をのむ。
そこに立っていたのはエリオット婚約者、ルシア・ウェストウッド。
しかし、いつもの"社交界の白百合"ではなかった。
ふんわりと揺れる白を基調とした軽やかなワンピース。
薄手の布地には繊細なスズランの刺繍が施され、微かな風を受けるたび、まるで花々が囁き合うかのように優雅に揺れる。
髪には小さな花冠。
それが彼女の柔らかな髪にぴったりと馴染み、まるで童話の中の妖精姫のように可憐な雰囲気を漂わせていた。
普段の彼女は、落ち着いた気品を纏い、社交界の令嬢らしく静かに微笑む。
だが——今日のルシアは違う。
可憐で、儚げで、あまりにも美しく、そして、"可愛らしい"。
それは、彼にだけ見せる秘密の姿なのではないかと錯覚してしまうほどに。
「……社交界で"白百合"と呼ばれている君だけど、今日の君は白百合よりもスズランのほうが似合いそうだね」
気づけば、自然と微笑んでいた。
ルシアは、彼の言葉にわずかに瞬きをする。
「スズラン……?」
「うん。白百合らしい気品ある姿も魅力的だけど、今日の君はもっと……愛らしくて可憐で、守りたくなる感じだよ」
まるで、儚い花にそっと指を添えるような声音で囁く。
ルシアの頬が、わずかに朱に染まったように見えた。
「まあ……ありがとうございます」
ルシアは、ふっと視線を逸らしながら、小さく息をついた。
照れを悟られまいとするかのように、ワンピースのレースをそっと摘まみ、指先でなぞる。
「……エリオット様も、今日は雰囲気が違いますのね」
そう言いながら、ようやく彼の方へと視線を戻す。
微笑みを浮かべてはいるものの、その頬にはまだ淡い熱が残っているようだった。
ルシアは、柔らかな微笑みを浮かべながら、彼の装いに視線を落とす。
いつもより肩の力が抜けた、ゆったりとした布地のシャツ。
普段の洗練された貴族の姿とは異なり、無造作な余裕をまとったその佇まいは、彼の持つ色気をより際立たせていた。
「ふふ、珍しいですね。いつもより……少し、気楽な感じがいたしますわ」
「そう?」
エリオットは口元にいたずらな笑みを浮かべると、ひとつ肩をすくめた。
「お姫様がこんなに可愛いんだから、僕もそれに見合う騎士でいなくちゃね」
そう言いながら、彼はふわりとルシアの手を取った。
驚く間もなく、さらりとした感触が手の甲をくすぐる。
「今日は、君のためだけの騎士でいるよ」
白い肌へ落とされた口づけ。
優雅な仕草に見えながらも、その唇が触れる瞬間は驚くほどゆっくりで、名残惜しげだった。
微かな震えが彼女の指先に広がるのを感じる。
「エリオット様……」
名前を呼ばれた途端、胸の奥に甘い衝動が広がる。
ルシアの瞳は揺れ、戸惑うように彼を見上げた。
伏せられたまつげが小さく震え、そっと息を飲む仕草。
──可愛らしく、愛おしい。
ふと、彼女の視線が自分の喉元へと向かうのを感じる。
普段はきっちり留められている襟元は、今日はゆるく開かれていた。
その視線の意味に気づくと、エリオットの唇がふっと笑みを描く。
「……ふふ、見惚れてくれているの?」
軽やかに囁くような声。
優しく揺れる金の瞳が、まるで彼女の反応を楽しむようだった。
「っ……!」
彼女の肩が小さく跳ねた。
言葉を返そうとしても、なかなか出てこないらしい。
「君にそんな風に見つめられると、僕も少し照れるな」
わざとらしく軽やかな口調で囁くと、ルシアは急いで視線を逸らす。
「そ、そんなことは……!」
「そう? じゃあ、勘違いだったかな」
彼はからかうように片目を閉じ、肩をすくめる。
普段は堂々としている彼女が、ほんのわずかでも動揺を見せるのが、たまらなく楽しい。
「勘違い、ではないですけれど……」
「あはは、揶揄ってごめんね?光栄だよ。君に見惚れてもらえるなんてね」
ルシアの耳まで赤く染まっているのを見て、エリオットは満足げに微笑んだ。
「僕のお姫様、今日は僕から目を離さないでいてね?」
そう言って、片目を閉じながらウィンクをすると、ルシアは恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、そっと微笑んだ。
エリオットの指が、彼女の手をもう一度そっと握り直す。
——この手を取ったからには、もう逃がさない。
彼の瞳には、そんな決意の色が宿っていた。
「さあ、行こう」
甘く囁かれる声とともに、二人はゆっくりと祭りへと歩みを進めていった。
数日前。
王立貴族学院のカフェテラスには、穏やかな午後の陽光が降り注いでいた。
広々とした庭園を見渡せる特等席で、エリオットとルシアは、婚約者としてティータイムを過ごしていた。
白い陶磁のティーカップから、ほんのりとした花の香りが立ち上る。
穏やかな風がルシアの髪を優しく揺らし、彼女の落ち着いた微笑みを際立たせていた。
そんな彼女を眺めながら、エリオットはふとカップを置くと、何気ない調子で口を開いた。
「そういえば、今度侯爵家の領地で花祭りがあるんだけど、よかったら一緒に行かないかい?」
スプーンを動かしていたルシアの手が、ふと止まる。
「お祭り……ですの?」
少し驚いたような表情を浮かべた彼女に、エリオットは朗らかに続ける。
「うん。街中が花で彩られて、屋台もたくさん出るし、音楽隊の演奏もある。華やかで賑やかなお祭りだよ」
彼はカップを軽く揺らしながら、楽しげな口調で言う。
「舞踏会やガーデンパーティーとは違って、もっと気軽に楽しめるから、きっと気に入ると思う」
ルシアはティーカップを持ち上げると、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。
そして、カップの縁からそっとエリオットを見つめる。
「ルシアも、こういうの好きそうだと思ったんだけど……どうかな?」
エリオットは、彼女の小さな反応も見逃すまいとじっと見つめる。
ルシアはふわりと微笑んだ。
「ええ、とても素敵ですわね。エリオット様とお祭り……とても楽しみですわ」
言葉とともに、ほんのりと頬が染まる。
エリオットは、その瞬間、胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。
——可愛い。
こんなふうに、少しだけ戸惑いながらも自分を信じて言葉を紡ぐルシアが、たまらなく愛おしい。
「よかった。決まりだね」
エリオットは片目を閉じて軽くウィンクし、満足げに微笑む。
ルシアはくすくすと小さく笑い、そっとティーカップを持ち直した。
二人を乗せた馬車は、花祭りが開かれる広場へと向かい、石畳の道をゆっくりと進んでいた。
窓の外には、色とりどりの花飾りが揺れ、風に乗って甘い花の香りがふわりと馬車の中まで届く。
朝から続く穏やかな陽光が、車内の空気をさらに柔らかく包んでいた。
エリオットは、向かいに座るルシアの横顔を眺めながら、静かにカップを傾ける。ティーセットの銀の縁が光を反射し、淡く輝いていた。
「今年も見事な景色だな」
何気なく呟きながらも、彼の視線は窓の外に向けられているようでいて、実際にはルシアからほとんど離れない。
外の華やかな祭りの景色よりも、エリオットにとって最も興味深いのは目の前の彼女だった。
花祭りの話をしたとき、ルシアは控えめに微笑みながら「素敵ですわね」と言った。
その小さな笑顔を、エリオットはあの日から何度も思い出していた。
——なんて愛らしいんだろう。
そんなことを考えるたび、喉の奥がじわりと熱くなる。
彼女は何気ない一言や仕草ですら、無意識のうちにエリオットの心を掻き乱す。
「そろそろ着くよ」
穏やかに告げながら、エリオットは自然な仕草でルシアの手を取った。
その動きに、ルシアの肩がわずかに揺れる。
「……エリオット様?」
驚いたように彼を見上げる彼女の表情は、予想通り愛らしい。長い睫毛が瞬き、琥珀色の瞳が不安げに揺れている。
エリオットは、そんな彼女を見て満足げに微笑んだ。
「……人混みで離れたら大変だからね」
あくまで何気ない調子で言いながら、絡めるように指を絡ませる。
「……え?」
ルシアの唇から小さな声が漏れたが、エリオットは何もなかったかのようにそのまま手を引いた。
「ほら、行こう?」
戸惑いながらも、ルシアは小さく頷き、エリオットの手をそっと握り返す。
——このまま彼女を離さずにいられたら。
そんな考えが一瞬頭をよぎる。
彼の心の奥に、欲望にも似た感情がふつふつと湧き上がる。しかし、それを口にするわけにはいかない。
エリオットは軽く息を吐き、もう一度手の感触を確かめるように指を絡ませた。
馬車が広場の端で止まり、扉が開く。
エリオットは先に降りると、手を差し出した。
「ルシア、おいで」
彼の手を取ると、ルシアはそっと馬車を降りる。
その瞬間——彼女の表情が変わるのを、エリオットは見逃さなかった。
「……まぁ……!」
驚きと喜びが入り混じった声が、彼女の唇から零れ落ちる。
広場は、花々に彩られていた。
通りには色とりどりの花飾りが揺れ、花冠をつけた人々が楽しげに歩いている。
広場の中央には噴水があり、その周囲にも花々が飾られ、風に乗って甘く優しい香りが漂っていた。
エリオットは、目を輝かせるルシアを見つめながら、ふっと微笑む。
「綺麗だろう?」
ルシアが視線を巡らせながら頷くのを見届け、彼は続けた。
「でも、今日一番綺麗なのは君だよ」
低く甘やかな声で囁くと、ルシアの頬にふわりと朱が差す。
彼女は何か言おうとしたのか、一瞬唇を開いたが、すぐに視線を逸らした。
エリオットはその反応に、心の奥がじわりと熱くなるのを感じる。
——どうしてこんなに惹かれてしまうんだろう。
こんな表情をする君を、他の誰かに見せたくない。
誰にも気づかれないように、そっと奪ってしまいたい。
そんな衝動を抑えながら、エリオットは満足げに微笑んだ。
彼は繋いだ手の力を少しだけ強めた。
「君がこんなに可愛いと、今日はずっと君に夢中になってしまうな」
彼の言葉に、ルシアが小さく瞬きをする。
「……エリオット様?」
「だって、君がこんなに楽しそうにしてるからね」
軽く冗談めかした口調で言いながら、エリオットはもう一度ルシアの横顔を見つめる。
「君がどんな顔をするのか、もっと見たくなるんだ」
彼の言葉に、ルシアの睫毛がわずかに震えた。
「そんなふうに……言われると、少し恥ずかしいですわ」
そう呟くルシアの頬は、すでに赤く染まっている。
「恥ずかしがらなくていいんだよ。今日は、僕だけに可愛い顔を向けてね」
そう言って、エリオットはそっと彼女の手を引く。
「さあ、楽しもうか」
彼の言葉とともに、二人の花祭りが始まる——。
祭りの広場には、華やかな屋台が軒を連ね、風に乗って甘く香ばしい匂いが漂っていた。
花冠をつけた人々が行き交い、談笑する声が響き、遠くでは音楽隊が軽快な旋律を奏でる。
けれど、エリオットの視界に映るのは、ただひとり——ルシアだけだった。
彼女の手を握る指に、ほんの少し力を込める。
彼女は戸惑いもせず、繋がれた手をそのままに歩いている。
それだけで、心の奥にじわりと甘い熱が広がった。
——今日は、君を僕に夢中にさせる
どこを見ても美しく楽しい景色ばかりだけど、君の記憶に一番残るのは、僕でなければならない。
「わぁ……」
ルシアの小さな声が漏れる。
その声音に、エリオットはそっと視線を向けた。
彼女の目がある屋台の前で留まっている。
「どうかした?」
「この焼き菓子、珍しいですわね」
視線の先には、香ばしく焼かれた菓子が並んでいた。
薄く焼かれた生地の間に蜂蜜とナッツが練り込まれ、ふんわりと甘い香りが立ち上る。
「興味ある?」
「ええ、見たことのないお菓子でしたの」
ルシアが珍しそうに眺める。
その小さな興味を逃さず、エリオットはすぐに店主に声をかけた。
「じゃあ、ひとつください」
焼きたての菓子が手渡されると、エリオットはそれを軽く持ち上げ、ふとルシアを見つめた。
「せっかくだし、半分こしよう?」
「ふふ、ありがとうございま……す?」
ルシアが受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間——。
エリオットは、ふっと手を引いた。
「……?」
ルシアが不思議そうに瞬きをする。
彼は、そのまま焼き菓子をルシアの口元へと運んだ。
「ルシア、あーんして?」
「え、エリオット様……!」
声はどこまでも甘く、深みを帯びた響きを持っていた。
ルシアは一瞬だけ戸惑ったが、やがて小さく口を開けた。
その仕草が、愛おしい。
エリオットは、彼女の唇がそっと菓子に触れる瞬間をじっと見つめた。
彼女のふんわりとした唇が、焼き菓子にそっと触れる。
小さく口を動かしながら、彼女はもぐもぐと咀嚼していた。
その無防備な仕草に、喉の奥がじわりと熱くなる。
彼女の艶やかな唇から、どんな言葉を引き出せるだろうか。
この可愛らしい仕草を、自分以外の誰に見せるというのか。
「……おいしい?」
エリオットは、微かに掠れた声で囁く。
ルシアは照れながらも、小さく頷いた。
「それはよかった」
優雅に微笑みながらも、心の奥でふつふつと熱が滾るのを感じる。
——綺麗だ。
——今日の楽しさも、幸福も、すべて僕の存在と結びつける。
——もっと、僕以外のことを考えられなくしたい。
そのまま、エリオットは指を伸ばし、ルシアの唇の端についた小さな蜜をそっと拭う。
「……っ」
ルシアが僅かに驚いたように瞬きをする。
その反応が、たまらなく愛おしい。
彼女の戸惑う瞳をじっと見つめながら、エリオットは拭った蜜を自分の唇へと持っていった。
指先を舐めるように、ゆっくりと口に含む。
「……甘いね」
わざと低く抑えた声が、ルシアの鼓膜を揺らすのを感じる。
「え……?」
ルシアが一瞬驚いたように彼を見つめる。
その瞳の奥には、明らかな戸惑いと、僅かに揺れる熱が浮かんでいた。
エリオットは唇の端を僅かに持ち上げ、意地悪な笑みを浮かべる。
「君のおかげで、さらに甘くなったみたいだ」
囁くように告げながら、彼はそっとルシアの顎に蜜を拭った手と反対の指を添えた。
「……あ」
ルシアの唇が微かに震える。
そのまま、エリオットは彼女の顔を覗き込むように近づけた。
「ねぇ、君も試してみる?」
「えっ……?」
ルシアの瞳が揺れる。
冗談のつもりなのか、本気なのか——彼の深い瞳には、からかうような色と、隠しきれない情熱が滲んでいる。
「今度は君の番だよ」
エリオットは、指先に残る蜜を、再びルシアの方へと差し出した。
彼女がその意味を理解した瞬間——頬がみるみるうちに赤く染まる。
「……冗談、ですわよね?」
「さぁ、どうだろう?」
彼は悪戯っぽく微笑みながら、指先を彼女の唇へとさらに近づける。
「……ルシア、ほら」
そっと、低く囁く。
彼の指先がルシアの唇に触れるか触れないかの距離まで近づく。
緊張したように、彼女の肩がわずかに揺れた。
「……っ」
ためらいがちに、彼女の瞳が揺れる。
エリオットは逃げられないように、彼女の顔を支え、じっと見つめる。
「僕から君に……甘いおすそ分け」
ルシアの唇が、僅かに開いた。
その瞬間——
「……エリオット様、意地悪ですわ」
彼女が小さく呟き、恥ずかしそうに視線を逸らす。
けれど、その仕草に、エリオットは確かな満足を覚えた。
「ふふ、君が可愛すぎるのが悪いんだよ」
そう囁くと、エリオットは、指先に残った甘さをゆっくりと舌で拭った。
「やっぱり特別甘いね」
あえて低く抑えた声が、彼女の耳に届くように囁かれる。
ルシアの頬がさらに赤くなり、そっと唇を引き結ぶ。
その反応に、エリオットの胸がひどく熱を帯びた。
——君の頭の中を、僕でいっぱいにしてしまいたい。
彼は、ルシアの手をもう一度しっかりと握り直した。
甘い罠を張り巡らせながら、エリオットは微笑を浮かべる。
彼の視線の奥には、明らかにひとつの決意があった。
この時間が終わるまでに、ルシアはきっと——。
「……今日一日、僕だけを見ていてね?」
囁く声は、甘く絡みつくように落ちた。
「僕以外のことなんて、考えられないくらいに——」
言葉にできない熱が、彼の指先に宿る。
そのままルシアを導くように、エリオットは手を握り直し、歩き出した。
祭りの喧騒の中で、彼の計画は着々と進んでいた。
彼女がそれに気づくこともなく——。
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