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愛を知る


王立貴族学院の庭園は、いつもより穏やかだった。

手入れの行き届いた草花がそよ風に揺れ、静けさの中に小鳥のさえずりが響いている。


庭園の奥まった一角、そこは彼と彼女にとって馴染みの場所だった。

昼休みほど長くはない中休みの時間、学院の喧騒から離れ、二人だけの静かな時間が流れていた。


石造りのテーブルには、整然と並べられたティーセット。

湯気を立てる銀のポットが、芳醇な香りを漂わせている。


二脚の椅子に腰掛けるのは、久しぶりに二人きりとなったヴィンセント・アルスターとルシア・ウェストウッド。


カフェの奥、窓際の席。

大きな窓から差し込む陽光はやわらかく、カップに注がれた紅茶の表面に金色の輝きを落としていた。

ふわりと広がる上品な茶葉の香りが、ほのかに甘く、心を落ち着かせる。


外の喧騒は遠く、この空間だけが、まるで時間の流れを忘れたかのように静かだった。


ヴィンセントは、ゆっくりとカップを手に取り、琥珀色の紅茶を口に運ぶ。

ほどよい温度の液体が喉を潤し、微かな渋みとともに、香りが鼻腔をくすぐる。


カップを静かに戻し、彼は微笑を浮かべた。


「こうして二人でゆっくり過ごすのは、久しぶりですね」


柔らかく、けれどどこか懐かしさを滲ませる声音だった。

ルシアは、ティースプーンを軽く揺らしながら、ゆるやかに頷く。


「そうですわね。最近は三人で過ごすことが多かったものね」


ティーカップの中の紅茶が、彼女の仕草に合わせて静かに波を描く。

そこに映る陽光が、きらきらと細かな輝きを放った。


ここ最近はルシアの婚約者、エリオット・アシュフォード含む三人で過ごす時間が増えていた。


——否、二人きりさせることを、エリオットが意図的に避けていた。


ヴィンセントは、細く息を吐き、ふとカップの縁に視線を落とした。


その事実は明白だった。

あからさまに、そして巧妙に、エリオットはルシアを囲うようにして、彼女との時間をヴィンセントから遠ざけた。


共にいる時間を増やし、彼女の意識を自分に向けさせるように。

そして、二人きりになる隙を決して与えないように——。


それがエリオットの“愛”なのか、“支配”なのか、ヴィンセントにはまだわからなかった。

けれど、今こうして、彼の目の前には、誰の手にも触れられていないルシアがいる。

それが、どれほど貴重な時間かを理解していたからこそ、ヴィンセントは静かに口を開く。


「ルシア様」


彼は、カップをそっと置き、改めて彼女を見つめる。


陽光に照らされた彼女の横顔は、まるで光そのもののように繊細だった。

どこまでも柔らかく、儚げで、それなのに目を離すことができない。


「エリオット様と、婚約者らしく過ごせて……お幸せですか?」


問う声は、ごく穏やかだった。

ルシアの手が、カップの取っ手を持つ指が、わずかに動きを止める。


ほんの一瞬の静止。


けれど彼女は、何事もなかったかのように、再び紅茶を口に運んだ。

その表情には微笑が浮かんでいる。

だが、それはどこか遠く、輪郭の曖昧なものだった。


カップを置く音が、静寂の中に優しく響く。


「そうですわね……」


言葉を紡ぎながら、彼女はティースプーンの柄を指先で軽く転がす。


「エリオット様は、私にたくさんのものをくださいますわ。優しさも、温もりも、幸福も」


彼女の声は穏やかで、感謝に満ちているように聞こえた。

しかし、それでも——


「……」


ふっと、彼女の瞳が細められる。まるで、そこにある何かを確かめるように。

ヴィンセントの指先が、膝の上で微かに動く。

それはまるで、彼女の言葉に触れようとするかのように。


——いつもの彼女なら、どう答えたのだろうか。


彼女ならばきっと、「ええ、幸せですわ」と微笑んでいただろう。

彼の問いに迷うことなく、曖昧な言葉を返すことなく。


けれど、今の彼女は、何も言わなかった。

ヴィンセントは、相手の沈黙を責めることなく、ただその反応を受け止める。

彼女の揺らぎを、確かに感じ取った。


そして、ふと別の問いを口にする。


「以前のあなたは、愛がわからないと言っていた」


彼は、静かに言葉を続ける。


「最近はどうですか?わかりそうですか?」


ヴィンセントの静かな問いかけに、ルシアは一度ゆっくりと瞬きをした。

その瞳の奥に、何かを考える色が宿る。


淡い陽光がカフェの窓辺から差し込み、琥珀色の紅茶に細かな光の粒を落とす。

カップの縁に指を添えたまま、彼女は視線をわずかに伏せると、小さく息を吸い、そしてゆっくりと口を開いた。


「……誰も私自身を見ていない気がする、あの気持ちはなくなってきています」


彼女の声音は淡々としていたが、その言葉には確かに微かな変化があった。

まるで、胸の奥に沈んでいた何かを、一つひとつ拾い上げて確かめるような響き。


「お二人のお気持ちは、ちゃんと私自身に向いている……と、受け止められています」


ルシアはそう言いながら、そっとカップを持ち上げた。

指先がわずかに強くなった気がするのは、気のせいだろうか。


琥珀色の液体が静かに揺れる。

唇に触れた紅茶の温もりが、彼女の胸の奥へと穏やかに染み込んでいく。

ヴィンセントの表情が、わずかに緩んだ。


「そうですか……それは、よかった」


静かな声音に、確かな安堵が滲む。


彼は紅茶の湯気越しに彼女の表情をそっと見つめる。

柔らかな陽光のもと、彼女の横顔は儚げな美しさを纏い、どこか遠い景色を見つめているようだった。


けれど、彼はまだその先の言葉を待っていた。


そして——


彼女の口から紡がれた言葉は、再び沈黙を伴うものだった。


「けれど……私自身が愛を持ち、誰かに向けるというのは、まだよくわからなくて……」


ルシアの声音は、迷いを孕んでいた。

それはまるで、霧の中を手探りで進むような、不確かでぼんやりとした不安。

その想いがどこから来るのか、ヴィンセントには分からなかった。

彼女が何を求め、何を恐れているのか——それは、彼の知るところではない。


けれど、確かなのは、彼女が今、それを“言葉”にしたということだった。


カップをそっと置く。

小さな陶器が受け皿に触れ、微かな音を立てる。


ヴィンセントは、静かに視線を上げた。


「……ルシア様」


彼女の名を呼ぶ声は、柔らかく、優しく、けれどどこか深く響く。

まるで、迷いを持つ彼女の手を引き寄せるかのように。


カフェの喧騒は遠く、まるでこの空間だけが切り取られたかのような静けさに包まれていた。

陽光が二人の間を照らし、琥珀色の紅茶の輝きを淡く映し出す。


そして——


ヴィンセントは、そっと微笑み、まるで導くように優しく問いかけた。


「……少し、ルシア様のお気持ちを整理してみませんか?」


ヴィンセントの問いかけに、ルシアの指が、カップの取っ手をゆっくりとなぞる。

その仕草はまるで、心の中を探るような慎重さを帯びていた。

彼女のまつげがわずかに震え、琥珀色の紅茶に視線を落とす。

静かに揺れる液面に、淡い光が映り込んでは消えていく。


「あなたが、本当に求めているものは何なのか……ゆっくりと考えてみるのも、悪くないかもしれません」


ヴィンセントの言葉が静かに落ちる。

庭園の奥では、風に揺れる木々がささやくようにざわめき、遠くから小鳥の囀りが聞こえていた。


彼は、ルシアの表情をじっと見つめながら、手元のティーカップをそっと置く。

その指先には迷いはなく、むしろ静かな確信があった。

ルシアは微かにまつげを震わせながら、手元のカップを見つめたまま指先で縁をなぞる。



長い沈黙。



彼女は、何かを言おうとしている。

けれど、その言葉は喉の奥で引っかかるように、なかなか口から零れなかった。


ヴィンセントは、急かすことなく、ただ彼女が言葉を紡ぐのを待った。

彼女の微細な仕草にさえ、注意を払うように。


やがて、ルシアの唇がわずかに動く。


「……」


けれど、すぐにその言葉を飲み込むように、視線を外した。


「ルシア様が以前おっしゃっていた、『あなたを深く愛し、ほかの方に微笑まず、あなただけを特別に大切にする人が理想』というのは、お変わりありませんか?」


静かに問いかけると、ルシアの肩が小さく揺れた。


彼女の瞳が驚いたように見開かれる。

まるで、予期していなかった言葉に戸惑うように、一瞬だけヴィンセントを見つめた。


けれど、すぐに視線を逸らし、持っていたカップをそっと口元へ運ぶ。


「……!」


その仕草には、完全に不意を突かれたという驚きが滲んでいた。

口元へ運んだティーカップを、ゆっくりと傾ける。

けれど、その仕草はどこかぎこちなく、いつものような優雅さがわずかに乱れている。


「わ、忘れてください……」


掠れるような小さな声が風に乗り、ティーカップの縁を揺らした。


「……あの時は少し、心が拗ねていたのです……」


どこか申し訳なさそうな口調だった。

言葉を選ぶように、慎重に紡がれるその声音は、普段の彼女らしくないほど繊細だった。

ヴィンセントは、その反応に静かに目を細める。


「そうですか」


彼の声は、低く、優しく、けれどどこか探るような響きを孕んでいた。

ルシアがどれほど気丈に振る舞おうと、この話題から逃げたいと望もうと——

彼は、このまま流すつもりはなかった。


今、この瞬間、彼女の心の奥に何があるのかを知りたかった。


ヴィンセントは、ふっと僅かに微笑むと、手元のカップを持ち上げる。

けれど、その瞳だけは彼女から逸らさなかった。まるで、彼女の心の奥底を覗き込むように。


「では、今はどのような方がお好きですか?」


問いかける声は、先ほどよりもさらに柔らかく、けれど核心を突く響きを孕んでいた。


ルシアは、再び口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込む。

カップの中の紅茶をじっと見つめ、ゆっくりとスプーンでかき混ぜながら、まるで答えを探すように唇をきゅっと結んだ。


窓の外では、庭園の木々が風に揺れ、遠くで小鳥の囀りが響いている。

けれど、このカフェの片隅だけは、まるで時間が止まってしまったかのように静寂が支配していた。


そして、ようやく——


「……それは……」


迷いを含んだ声が落ちる。


「私を深く愛してくれる方……というのは、今も変わりません……」


その言葉が庭園に溶けると、ヴィンセントの胸の奥に、名状しがたい何かが広がった。


「……」


彼女は、愛されることを求めている。

けれど、それだけなのだろうか?


彼女の望む“愛”とは、一体どのようなものなのか——。


静かにカップを置き、ヴィンセントは視線を落とす。

そして、もう一度問いを投げかけた。


「では、理想の関係はいかがですか?」


その言葉に、ルシアの指がわずかに震え、持っていたカップの取っ手を強く握る。


「私は……求められたい、ですわ……」


「求める?」


思わず聞き返すと、ルシアはそっと顔を上げた。

その瞳は、どこか怯えたようで、それでいて何かを求めるように、僅かに潤んでいた。


「えぇ……」


彼女は、小さく息を吸い、震える声で続ける。


「エリオット様がそばにいない間に思いましたの……私は、必要とされたいのだと……」


「そばにいる必要がない、と言われてしまうのは……とても、悲しかったのです」


震える声が風に乗って消えていく。

彼女の肩がわずかに揺れ、まつげが震える。


ヴィンセントは、一瞬息を呑んだ。


この言葉を、どれほどの思いで口にしたのか。

どれほどの孤独を感じ、どれほどの不安を抱えていたのか——。


ルシアは、誰にでも優しく微笑む。

彼女のその穏やかさは、学院の誰もが知っている。


けれど、その微笑みの奥に、こんなにも脆く、壊れそうな想いを抱えていたとは。


「ルシア様……」


ヴィンセントは、思わず、消えてしまいそうな彼女の名を呟く。


ルシアは俯き、まるで今にも泣き出しそうな表情をしている。

彼女の細い指先が、カップの取っ手から離れ、そっと膝の上に置かれる。


「私は、私を見ていてほしい……そばにいてほしい……」


唇を噛みしめながら、彼女は絞り出すように言葉を紡ぐ。


「私の気持ちを求めてほしい……」


涙を堪えるかのように、ぎゅっと手を握りしめる。


「他の方を見ないで、私だけを愛してほしい……」


そう囁いた彼女の声は、ひどく儚げで、今にも壊れてしまいそうだった。


ヴィンセントの喉が詰まる。


彼女の言葉の奥には、孤独の影が見え隠れしていた。

いつも完璧に微笑み、誰からも愛される存在として振る舞う彼女の、隠された本心。


「ルシア様……」


彼は、そっと手を伸ばし、彼女の肩に優しく触れる。

驚いたように微かに体がこわばるが、拒む様子はなかった。


ルシアの細い肩越しに、窓の外の庭園が広がる。

花々が風に揺れ、まるで彼女の気持ちを映すように、ゆらゆらと揺蕩っている。


「……あなたは、決して不要な方ではありません」


ヴィンセントの穏やかな言葉が、静かに空気に溶けた。


その瞬間、ルシアのまつげがわずかに震える。

彼女の白く細い指が、スカートを軽く握りしめた。

その仕草には、ほんの少しの戸惑いと、それでもどこか安堵の色が滲んでいた。


淡い陽光が窓から差し込み、琥珀色の紅茶の表面を揺らす。

ふわりと頬を撫でる春の風に、彼女の美しい髪が微かに揺れた。


「……ありがとうございます」


小さく零れたその言葉は、まるでかすかな羽音のように繊細だった。

ヴィンセントはその声音を確かに拾いながら、そっと目を細める。

けれど、それ以上の言葉はなかった。


ただ、ルシアは再び視線を落とし、静かにカップを手に取る。

指先は小さく震えている。

けれど、その震えを自覚しているのかどうか、彼女の表情には微かな影が落ちていた。


まるで、自分の心の中にあるものを、確かめるように——。

そして、彼女がまさに小さく息を吸い込み、何かを口にしようとした、その瞬間。




「待たせてしまったかな?」


軽やかで落ち着いた声が、優しい風のように二人の間に滑り込んだ。



ヴィンセントがゆるやかに視線を向けると、庭園の小道をゆっくりと歩いてくるエリオット・アシュフォードの姿があった。


陽光を受けた髪が、やわらかく輝いている。

彼の歩みは迷いなく、まるでここに自分が加わるのは当然であるかのようだった。


軽やかな足取り、涼やかに微笑む唇。

変わらぬ優雅さを湛えた佇まいは、学院一の社交家である彼そのものだった。


「講義が少し長引いてしまったんだ。二人とも、ゆっくりお茶を楽しめていたなら何よりだけど——僕も混ぜてもらっていいかな?」


自然な口調でそう言いながら、彼はルシアとヴィンセントの間に視線を巡らせる。


けれど——


その穏やかな微笑は、次の瞬間、わずかに揺らぐこととなった。




エリオットの澄んだ瞳がルシアの顔を捉えた瞬間、彼の表情が僅かに変化する。


「……ルシア?」


一歩、ルシアへと近づいた。


彼女の頬には、かすかに朱が差していた。

けれど、それは陽光のせいではない。

目元もほんのりと赤く、まつげがわずかに濡れているようにも見えた。


エリオットは、一瞬何かを言いかけるように口を開いたが、その言葉を飲み込む。

代わりに、彼の瞳が僅かに細められた。


「どうしたんだ……?」


その問いかけは、まるで慎重に選ばれた言葉のようだった。


けれど、そこに滲んだ感情は明らかだった。

微細な異変を感じ取ったのだろう。

彼の瞳が彼女の表情を鋭く捉えた次の瞬間、微笑はすっと引かれ、まるで焦燥を帯びるような色が滲んでいく。


風が吹いた。


木々がざわめく音が、遠くから聞こえる。

けれど、彼の視界には、ルシア以外のものは何も映っていなかった。


「泣いているのか?」


そう問いかける声は、かすかに緊張を孕んでいた。


ルシアは、ふるりと小さく首を横に振ると、手の甲でそっと目元を拭った。

その仕草はゆったりとしていて、まるで何事もなかったかのように優雅だったが、彼女のまつげはまだ微かに震えていた。


「……いいえ、大丈夫ですわ。ただ、少し感傷的になってしまっただけですの」


紅茶のカップをそっと置きながら、彼女は穏やかに微笑んだ。

けれど、それはどこか脆く、儚げで、心の奥底に沈む感情を完全に隠しきれてはいなかった。


エリオットは、じっとその微笑を見つめる。

いつもの彼女なら、もう少し柔らかに、何の曇りもなく微笑むはずだ。

しかし今のルシアは、どこか遠くにいるようで、彼はそれが無性に気にかかった。


その胸のざわめきを悟られまいとするように、彼は小さく息をつき、次の言葉を選ぶように口を開いた。


「……本当に? 何かあったのなら、言ってくれないと困るよ」


優しく、けれどどこか焦燥を帯びた声音。

ルシアが「大丈夫ですわ」と答えたとしても、それをそのまま信じることができない。


彼女はいつも自分の気持ちを押し込めてしまう。

そうやって、優しく微笑んで、誰にも気を遣わせないように振る舞う。

けれど、彼はそれを“良し”とは思えなかった。


「ルシア」


彼は彼女のそばに歩み寄り、そっと覗き込むように顔を近づけた。

その瞳が、真剣な色を帯びる。


「……何があったの?」


ふとした沈黙。

ルシアは僅かに目を伏せ、唇を噛むようにして、何かを考えているようだった。

しかし彼女は心配させまいと、ふんわりとした微笑を浮かべ、静かに首を横に振る。


「エリオット様、そんなに心配そうなお顔をなさらないで」


そっと手を伸ばし、彼の袖口を指先で軽くつまむ。

そのわずかな仕草に、エリオットは息を詰めた。


けれど、その答えに納得はできなかった。


「ヴィンセント、君と何を話していたんだ?」


その問いは、穏やかながらも確かな警戒心を孕んでいた。

エリオットの視線が鋭くヴィンセントへと向けられる。



その瞬間、ヴィンセントはふっと唇を緩めた。


「強いていうなら……エリオット様のせいです」


「……え?」


思わず目を瞬かせるエリオットに、ヴィンセントは肩を竦め、ゆるりとした口調で続ける。


「ルシア様が寂しく感じるような時間を作ったのは、エリオット様でしょう?」


「そ、それは……」


不意を突かれたようにエリオットが言葉に詰まる。



彼の戸惑いをよそに、ルシアが小さく笑みを浮かべた。

まるで、二人のやりとりが微笑ましく思えるかのように。


「ふふ、エリオット様が遅かったから、少し寂しくなってしまっただけですわ」


その言葉を聞いた瞬間、エリオットの表情が一変する。

彼の中にあった警戒や焦燥は、一瞬にして形を変え、深い後悔と愛しさに塗り替えられた。


「……ごめんね、ルシア。次は走ってくるからね」


彼は軽く息をつきながら、申し訳なさそうに微笑んだ。

その言葉に、ルシアの微笑はさらに柔らかくなる。


「ふふ、廊下は走ってはいけないのですよ?」


ルシアがくすくすと微笑みながら紅茶に口をつけると、エリオットも安堵したように小さく笑った。

彼の眉間に刻まれていた緊張が解け、いつもの柔らかい表情へと戻っていく。


「そっか。じゃあ、次は早歩きにするよ」


エリオットの軽やかな冗談に、ルシアは楽しそうに目を細めた。

彼女の手元で揺れる紅茶の表面に、窓の外の木々が淡く映り込む。



そのやり取りを静かに見つめながら、ヴィンセントは心の奥に去来するものを噛み締めていた。


彼女が笑っている。


エリオットの隣で、まるでそれが当然であるかのように微笑んでいる。


それが幸せなのならば、彼は何も言うべきではない。

そう思いながらも、胸の奥に残るざらついた感情が、容易に消えてくれないことを知っていた。



——けれど、それも束の間。


「……さっきのお話、エリオット様には、内緒にしてくださいませね?」


耳元に感じる微かな吐息。


ふいに耳元に近づいたルシアの囁きに、ヴィンセントの思考は一瞬で止まる。


「……っ」


彼女の柔らかな声が、まるで空気を震わせるように、耳元にふわりと流れ込む。


近い。


あまりにも。


すぐそばで感じる彼女の温もり。

かすかに甘い香りが絡みつき、心臓の鼓動がわずかに速まる。


彼は何かを言おうとするが、喉の奥で言葉が絡まり、出てこなかった。

一瞬の静寂。


そして、ルシアは何事もなかったかのように、優雅にカップを傾ける。

まるで、先程の出来事はほんの戯れだったかのように。


けれど——


それを、一部始終見ていた者がいた。


「……ルシア」


エリオットの声が、先ほどよりもほんの少しだけ低くなる。

ヴィンセントに向けられたその視線は、どこか冷ややかで、明らかに釘を刺すような色を帯びていた。

彼の瞳が、僅かに細められる。


「今なにを話していたの?」


その問いかけに、ルシアは微笑みながら、ゆるりとティーカップを揺らす。


「ふふ、秘密ですわ」


彼女のあどけない笑みが、余計にエリオットの表情を曇らせる。

ルシアは無邪気に微笑んでいる。

しかし、その微笑の裏にあるものは、誰にも知ることができない。


「ヴィンセント?」


静かに投げかけられる名前。

それは、エリオットの意図を察するには十分だった。


「……いや、私も聞かなかったことにいたしましょう」


ヴィンセントは、まだ耳元に残る温もりと、自身の顔の熱を悟られまいと、そっと紅茶を口に含んだ。


けれど——


「……ちょっと待ってよ」


ふいにエリオットが、軽く眉を下げながら二人を交互に見つめる。


「君たちだけで内緒話をして、僕だけ仲間外れかい?」


唇を尖らせるような仕草で拗ねるその様子は、一見すると冗談めいているように見えた。

だが、ヴィンセントはその声色の奥に、ほんの僅かに滲むものを感じ取っていた。


それは焦燥か、それとも別の感情か——


「ふふ、そういうことではありませんわ」


ルシアが柔らかく笑いながら、カップをそっと置く。


「では、教えてくれる?」


「秘密ですわ」


彼女の笑みはどこまでも穏やかで、まるで何気ない会話のように転がる。

けれど、エリオットの視線は一瞬だけヴィンセントへと向けられた。


「……ルシア」


呼ばれた名前に、彼女が再び微笑む。


「……なんですの?」


無邪気な声。

悪戯が見つかった幼子のような無邪気さにエリオットの怒りも治ってしまった。


エリオットは、ゆっくりと息を吐き、口角を持ち上げる。


「……あー、もう!わかったよ。なんでもない」


「ふふ、そうですの?」


ティーカップを傾ける彼女の手元を見ながら、エリオットは表情を緩めた。

だが、その瞳の奥に、嫉妬の炎が灯っているのを、誰も気づかぬふりをしていた。





ヴィンセントは、彼女の隣で静かに佇みながら、ふと自分の内側にある疑問に気づいた。


ルシア様の望みは、求められること。

それならば、今のエリオット様なら、彼女を本当に幸せにできるのか?


彼は確かに変わった。

以前のようにルシア様を放っておくことはせず、むしろ過剰なまでに彼女のそばにいたがるようになった。

それは、彼女が求めているものと一致しているのだろうか?


——けれど、それでいいのか?


本来、彼女は誰からも愛されるべき人だ。

社交界でも学院でも、周囲に人が集まり、彼女の微笑みに魅せられる者は多い。

彼女が誰か一人にすべてを捧げ、その人だけを見つめることが、本当に彼女の幸せなのか。


それとも——


エリオット様が彼女を放っておいたせいで、彼女の恋愛観が歪んだのではないか?


誰かに必要とされなければならない、誰かのすべてでありたい。

そう思うようになったのは、寂しさを埋めるためだったのではないか?


それなのに——彼女をこのままエリオット様のもとへ戻してしまっていいのか?


しかし。


——私では、彼女の気持ちを満たせない。


ヴィンセントは、拳をそっと握る。


ヴィンセントは、ルシアに皆と笑い合ってほしいと願っていた。

たくさんの人に囲まれ、温かい輪の中で幸せに過ごしてほしい。

そのとき、一番近くで支えることができれば、それでいいと思っていた。


けれど、それは——彼女の望みとは違うのか?


エリオットのように、彼女を貪欲に求め、すべてを独占しようとするのが正しいのか?

彼のように、彼女をただひとりのものにし、周囲を排除し、彼女のすべてを手に入れようとすることが……。


もし、それが彼女の望みならば。


私は——。


「……私は、どうしたら……」


誰に向けるでもなく、微かな呟きが零れた。


ヴィンセントの視界の端で、ルシアは柔らかく微笑んでいた。

エリオットの隣で、彼を見つめるその瞳には、どこか安堵の色が浮かんでいる。


彼女は彼を求めているのか。


それとも、求めることで、自分の価値を確かめようとしているのか。


分からない。


どれだけ近くにいても、どれだけ彼女の声を聞いても、彼女の心の奥底までは見えなかった。


それでも。


たとえ彼女がエリオットにすべてを捧げ、彼のものになったとしても——


私は、この気持ちを消せるだろうか?




そうして、ただ静かに立ち尽くしていた。


風がそよぎ、木々の葉がさざめく音が広がる。

淡い花々が揺れ、その香りが空気の中に溶けていく。


ルシアの心の霧が晴れる日は、果たして訪れるのだろうか。


その答えは、まだ誰にもわからなかった——。


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