求める者の覚悟
王立貴族学院の昼食堂は、貴族の子女たちが談笑しながら食事を楽しむ優雅な空間だった。
陽光が窓辺のカーテンをやわらかく染め、銀製の食器が光を受けて上品な輝きを放つ。
食器の触れ合う微かな音と、洗練された会話が交わされるこの場所は、単なる食事の場ではなく、貴族たちにとっての社交の場でもある。
そこでの立ち振る舞いは、家名の誇りを示すものであり、慎ましくも優雅でなくてはならなかった。
その一角——
エリオット・アシュフォード、ルシア・ウェストウッド、ヴィンセント・アルスターの三人は、昼食を共にしていた。
それは、学院の中でも特に格式の高い者たちが集う、特別な光景だった。
公爵令嬢であるルシアと、侯爵家の嫡男であるエリオット、そして同じく侯爵家で次男のヴィンセント。
彼らが一堂に会するテーブルは、食堂の中でもひときわ華やかでありながら、どこか凛とした威厳を放っている。
まるでそこだけ別の空気が流れているかのように、周囲の生徒たちは自然と距離を取り、その場の雰囲気を乱さぬよう気を配るほどだった。
しかし三人は普段と変わらぬ雰囲気。穏やかで形式ばらず、それでいて品を損なわない会話が、食卓を満たしていた。
その優雅な調和は、彼らの立場ゆえの特別なものであり、それを誰もが暗黙のうちに理解していた。
そして、昼食の時間も終わり、次の休憩場所へと移動しようとした矢先、ルシアが教師に呼ばれた。
彼女は静かに微笑み、優雅にスカートの裾を整える。
「お二人ともすみません。行ってまいりますわね」
柔らかな声が響き、ふわりとスカートが揺れる。
美しい瞳に穏やかな微笑みをたたえながら、彼女は席を立った。
その所作は何気ない動作のはずなのに、まるで舞踏会のワルツのように洗練されていて、場の空気を自然と和ませる。
彼女の後ろ姿が食堂の扉へと向かうのを見送ると、途端に場の空気が微かに変わった。
ルシアがいないこの空間に、わずかな沈黙が生まれる。
ヴィンセントは椅子を引き、席を立とうとした。
——しかし、その行動はすぐに遮られる。
「少し話をしないか?」
エリオットの朗らかな声が、静かに流れる空気を変えた。
食堂のざわめきに溶け込むような自然な口調。
しかし、その笑みにはどこか意味深なものが滲んでいた。
「どうせ暇だろ?」
軽やかに付け足された言葉。
それは冗談めいて聞こえたが、ヴィンセントはすぐに悟る。
これはただの誘いではない、と。
「……構いません」
静かに頷くと、エリオットの笑みが少しだけ深まる。
「よし、じゃあ行こうか」
そう言いながら、エリオットは椅子を引き、ゆるやかに立ち上がる。
その動作はゆったりとしたものだったが、その場の空気が僅かに緊張を孕んだことを、ヴィンセントは確かに感じ取っていた。
二人が食堂を出ると、廊下は昼の喧騒とは対照的に静かだった。
「そういえばさ」
先を歩くエリオットが、何気ない調子で話を切り出す。
歩調はゆったりとしているが、その姿勢には隙がなく、まるで舞台の上に立つかのような自然な華やかさがあった。
「君とこうして二人で話すのって、いつぶりだろう?」
ヴィンセントは足を止めずに答える。
「……記憶にありませんね」
「だよね。あったとしても入学前とかかな」
エリオットは微かに笑いながら、何気なく手をひらりと動かす。
それは特に意味のある仕草ではなかったが、妙に目を引く。
彼はいつでも自然体で、それなのに人の視線を惹きつける不思議な雰囲気を持っていた。
「授業が終わってもすぐに車庫に行くし。ひたすら学業に励む……それで、疲れない?」
「……学びを怠るつもりはありませんので」
「ふーん?」
どこか探るような声音。
ヴィンセントは無言で歩を進める。
だが、エリオットの言葉の意図を考えながらも、決して気を抜くことはしなかった。
「君は生真面目だなぁ」
「それは、お褒めの言葉と受け取ってよろしいのでしょうか」
「もちろん」
エリオットは軽く笑みを浮かべる。
その微笑みは、どこまでも柔らかく、気負いがない。
人と接することに慣れた者だけが持つ、心を和ませる笑みだった。
「でも、たまには肩の力を抜いたほうがいいよ。ほら、僕みたいにさ」
「……エリオット様のようにはなれません」
「ははっ、それは残念」
そんな他愛ないやり取りを交わしながら、二人はゆっくりと歩き続けた。
だが、ヴィンセントは気づいていた。
エリオットがこのまま会話を終わらせるつもりなど、ないことを。
「そうだ、君に聞きたかったことがあるんだ」
そう言いながら、エリオットはふと歩みを緩めた。
「……なんでしょう?」
「君、ルシアのこと、今どう思ってる?」
その問いは、まるで何気ない話題の延長線上にあるかのように紡がれた。
だが、その言葉が放たれた瞬間、空気が微かに揺らぐ。
ヴィンセントはそれを見逃さなかった。
——やはり、これが本題か。
「……何をおっしゃりたいのですか?」
「いや、ただの雑談だよ」
エリオットは微笑む。
それは、親しげで柔らかいのに、どこか測り知れない余裕を含んでいる。
「でもさ、僕は君とこうして話す機会があまりないからね。ちょっと聞いてみたくなったんだ」
「……」
ヴィンセントは答えず、ただエリオットを見据えた。
その視線には警戒が滲んでいるが、同時にわずかばかりの感心もあった。
彼は普段からエリオットの軽薄な態度を快く思ってはいない。
それでも、こうして会話の主導権を握り、相手の懐へと滑り込む手腕は、認めざるを得ないものだった。
「まぁ、いいや。この場で突っ込んだことを聞くのも野暮だしね」
エリオットは片手を軽く振りながら、再び歩き出す。
緊張をほどくような仕草のはずなのに、妙に計算されたもののように見えた。
「落ち着いて話せる場所にでも行こうか」
ごく自然な言い回しだったが、それは暗に「ここでは話せないことがある」と告げるものだった。
「……お望みの場所へどうぞ」
ヴィンセントは静かに返し、二人は再び歩き出す。
互いに表情は崩さず、一見穏やかに会話を交わしながら。
けれど、その間に流れる空気は、食堂にいたときのものとは決定的に異なっていた。
まるで、静かに火花を散らすように。
言葉の奥に潜む思惑が、絡み合うように漂っていた。
学院の敷地の片隅、ひっそりと佇む東屋。
そこは、学院の喧騒から切り離された静謐な場所だった。
高く伸びた木々がその周囲を優しく囲い込み、風が枝葉を揺らすたびに、木漏れ日が穏やかに揺らめく。
学院から少し距離のあるこの場所は、昼間とは思えぬほどに涼しげで、わずかに湿った空気が肌を撫でるたび、どこか現実離れした空間に迷い込んだかのような錯覚を覚えた。
学院のざわめきは遠く、ここには二人の呼吸と、時折吹き抜ける風の音しか存在しない。
エリオットは、まるでこの静寂すらも愉しむかのように、椅子の背もたれへと優雅に身を預けていた。
何気ない仕草にもどこか余裕があり、組んだ足をゆるやかに揺らしながら、指先で肘掛けを気まぐれに撫でる。
その動作に意味はない。
いや、本当にそうなのか——。
彼のすることすべてが計算されたものなのではないかとさえ思えてしまう。
一方のヴィンセントは、そんな彼を真正面から見据えていた。
背筋を正し、表情ひとつ動かさず、静かにその言葉を待つ。
膝の上で軽く手を組む姿は、まるで学院の片隅ではなく、決闘の場にでも立っているかのようだった。
対照的な二人——どこまでも軽やかに微笑むエリオットと、少しの隙も見せぬヴィンセント。
今この場でどちらが優勢なのかは明らかだった。
「ヴィンセントはさ」
静寂を破ったのは、エリオットの柔らかな声音だった。
まるで何気ない雑談をするかのように、軽やかで、どこか人を安心させる響き。
「ルシアとどうなりたいの? 婚約者の座を奪いたいわけ?」
ゆるやかに問いかけながら、エリオットの瞳が細められる。
その口元には笑みが浮かんでいるが、目だけは冷静に相手を測るような鋭さを帯びていた。
まるで、ヴィンセントの本音を探るための網を、巧みに張り巡らせているかのように。
だが、ヴィンセントはその視線を正面から受け止め、迷いなく答える。
「そんなつもりはない」
揺るぎない声音。
まるで、感情というものをすべて押し殺したかのような静けさだった。
「私は、ルシア様が幸せであることが望みです」
その言葉に、エリオットの指が肘掛けをゆるくなぞる。
かすかに鼻を鳴らし、組んでいた足を静かに組み替えると、小さく肩をすくめた。
「ふーん。じゃあ、もし幸せじゃなかったら?」
言葉自体は軽やかだったが、その意味するところは決して軽いものではない。
それでもヴィンセントは迷わなかった。
「その時は——」
落ち着いた声音で、ただ淡々と告げる。
「その座をいただきます。私がルシア様を幸せにしてみせる」
場が、ふっと静まり返る。
乾いた風が吹き抜け、木々がわずかにざわめく。
それ以外の音は、何もなかった。
エリオットの指の動きが止まる。
完全な静寂。
しかし、次の瞬間——
エリオットは小さく笑みを深めた。
肩をすくめ、まるで聞き流すように、肘掛けへと預けていた体をわずかに起こす。
「じゃあ、幸せなら?」
問いかける声音は柔らかく、それでいて鋭い。
「それなら」
ヴィンセントは、ゆっくりと視線を合わせた。
「その幸せを壊す必要はないでしょう。おとなしく身を引き、見守りますよ」
淡々とした口調。
まるで当然のことを述べるかのような静けさと、そこに揺るぎない確信を乗せて。
その返答に、エリオットの目が僅かに細められる。ほんのわずか、楽しげに。
だが、彼はすぐに表情を緩め、まるで何事もなかったかのように微笑を浮かべた。
その笑みは柔らかく、どこか親しげですらある。
——まるで、この会話そのものを愉しんでいるかのように。
「なるほどね。それならさ、もういいんじゃないかな?」
エリオットはゆるやかに椅子の背もたれから身を起こし、優雅な仕草で足を組み直した。
その動きに無駄な力はなく、まるで水面を撫でる風のように滑らかだった。
「最近のルシアは、幸せそうだよね? 少なくとも、僕にはそう見える。君もそう思わない?」
問いかけながら、彼は指先を軽く動かし、肘掛けをゆっくりとなぞる。
その動作は何気ないもののはずなのに、不思議と視線を惹きつける。
「それに、君のおかげで気づかされたんだよ。改めて、ルシアを大切にしなきゃなってさ。やっぱり婚約者として、ちゃんと彼女のそばにいないといけないってね」
言葉を紡ぎながら、エリオットはわずかに顔を傾け、瞳を細めた。
微笑を湛えたまま、ゆったりと瞬きを挟む。
それだけで、まるで誘うような甘やかさが滲む。
「僕らの関係を改善させてくれて、ありがとね?」
声色は軽やかだったが、最後の言葉だけはわずかに低く、唇の端に僅かな弧を描く。
それは、見ようによっては感謝のようにも、嘲弄のようにも思える曖昧な表情。
そして、それをエリオットはわざと作り出していた。
ヴィンセントの指先がかすかに強張る。
エリオットの言葉には明確な意図が込められていた。
ルシアの婚約者としての立場をより確固たるものにし、ヴィンセントの存在を排除しようと、それとなく突きつける言葉。
「……エリオット様は、ルシア様を本当に幸せにできるのですか?」
静かに放たれた問いに、エリオットは瞬き一つせず、薄く微笑んだまま目を細める。
「なに?」
「どういう意味?」
「あなたのそれは、愛し慈しむ温かなものではない。執着や、所有欲といった暗いものではないんですか?」
ヴィンセントの声は低く、しかし静かに熱を帯びていた。
冷静に見据える彼の視線の奥に、何か強い決意が宿っているのを、エリオットは見逃さなかった。
だが、彼は微笑を崩さない。
「……随分と大袈裟な話になったね」
エリオットは肩を軽くすくめ、肘掛けに肘をつきながら、指先で唇の端をなぞる。
考えているのか、それともただ気まぐれに触れたのか——その曖昧さが、さらに彼の余裕を際立たせた。
「縛りつけ、自由を取り上げて依存させた先に、幸せはあるのですか」
再び投げかけられた言葉に、エリオットの指がぴたりと止まる。
その一瞬の間に、微かな静寂が落ちた。
どこか遠くで風が吹き抜け、枝葉がわずかに揺れる音が耳に届く。
それ以外に、何の音もなかった。
そして——
「……君は、僕のやり方が気に入らないの?」
エリオットはふっと笑みを深め、ゆっくりと身を乗り出した。
わずかに傾けた顔、そのまま囁くような声音で問いかける。
「まさかね。君ほど真面目な男が、そんな風に僕を疑うなんて」
ヴィンセントの睫毛がわずかに揺れた。
「私は、あくまで事実を述べているだけです」
「そうか」
エリオットは小さく笑う。
その笑みはどこまでも柔らかく、けれど冷ややかな余裕が滲んでいた。
彼はゆったりと椅子に身を預け、喉元に触れるように指を滑らせる。
その仕草は何気ないものでありながら、どこか艶めいた雰囲気を漂わせていた。
指先が喉をなぞる軌跡を追うように、微かに喉が動く。
「でもさ、考えてみて?」
すっと目を細め、ゆるやかに足を組み直す。
肘掛けにかけた手の甲を軽く反らせながら、エリオットは低く囁くように言った。
「そもそも、ルシア自身がそれを受け入れているなら、それは“幸せ”なんじゃないかな?」
「受け入れていれば、そうでしょう。でも——」
ヴィンセントは言葉を切る。
「あなたは、洗脳のように、刷り込もうとしているではありませんか」
風が、再び吹き抜ける。
エリオットはその言葉に、微かに目を細めた。
「……それを決めるのは君じゃないよ、ヴィンセント」
言葉の端々には、冷えた鋼のような響きがあった。
だが、エリオットは微笑を崩さない。
まるで確信に満ちた賭けに勝利した者のように、ゆるやかに椅子の背もたれへと身を預ける。
その動作はあくまで優雅で、わずかに指先が宙を撫でるように動く。
けれど、その瞳の奥には抑えきれない熱が宿っていた。
「確かに、僕のは所有欲、嫉妬、支配欲——その類の感情だよ。でも、これは確かに愛なんだ」
静かに紡がれたその言葉は、決して軽いものではなかった。
「僕は、あの子が愛おしくてたまらない。手放したくない。すべての感情を独占したいし、独占されたい。それの何が悪い?」
低く甘い声音が、静かな東屋の空気を震わせる。
その響きは、温かくもあり、ひどく冷たくもあった。
ヴィンセントの睫毛がわずかに揺れ、彼はゆっくりと瞳を細めた。
「……」
しかし、言葉は発さず、ただ静かに首を振る。
エリオットは、その反応を見ながら小さく笑った。
「なんで?」
その声音は、いたずらを仕掛ける前の戯れのように軽い。
しかし、目元にはわずかに影が落ちていた。
「二人の世界で生きることはいけないことなのかい?」
エリオットは肘掛けにかけていた手をゆっくりと上げ、顎を軽く指でなぞる。
まるで考え込むような、しかしどこか艶やかな仕草だった。
「僕は社交もうまくやれるし、ルシアだって皆に敬愛されている。何も問題ないさ」
それは、ただの強がりではない。
事実、エリオットは学院一の人気者であり、人々の中心にいる存在だった。
彼にとって、誰かに好かれることは息をするほどに自然なこと。
彼自身が望むかどうかに関わらず、人は彼を求め、彼の周囲に集まってくる。
しかし——
「……あの人は、皆に愛されるべきだ。年相応に友を作り、笑い合い、穏やかに過ごせる方だ」
ヴィンセントの低く落ち着いた声が、その思考を断ち切るように静かに響いた。
その言葉には、確かな信念がある。
彼はただルシアを想っているだけなのだ。
エリオットはゆっくりと瞳を細めると、口元に小さな笑みを浮かべた。
「ねぇヴィンセント」
呼びかける声は、ふっと耳元に吹きかかる風のように柔らかい。
「それはルシアが望んだの? それとも君の願望?」
鋭い問いだった。
「どうしたいのかは、ルシア本人にしかわからないよ。押し付けるだけなら、僕の気持ちも君の気持ちも差はないはずだ」
ヴィンセントの眉がかすかに寄る。
だが、その反応を愉しむように、エリオットはゆるやかに体を起こし、肘掛けに預けていた手をふわりと持ち上げる。
指先で唇の端をなぞるように触れ、静かに微笑んだ。
「僕は、無理に皆に愛される必要はないと思っているよ」
穏やかな声音。
しかし、その奥底には、鋭く冷えた棘が潜んでいた。
「君のいう『友と笑い合う』って、まさに僕の生活じゃないか。君が思うほど、いいものではないよ」
エリオットはふっと細く息を吐く。
「そんな理想の押し付けをするなら、潔く身を引いてくれないかな」
それは、最終通告のような言葉だった。
ヴィンセントはゆっくりと目を閉じる。
一度だけ、深く息をついた。
——しかし、その瞬間、ふと脳裏に浮かんだのは、学院の光景だった。
廊下を歩けば、誰かが気さくに声をかけ、教室に入れば、いつも中心には彼がいる。
エリオット・アシュフォード。
人々を惹きつけ、何気ない言葉ですら周囲を朗らかにし、どこにいても誰かが彼の名を呼ぶ。
——そう、それは、まさに理想の姿だった。
誰からも好かれ、慕われ、賑やかな輪の中心にいる彼の姿は、かつてヴィンセントが「そうでありたい」と願ったものだったのではないか。
その事実に、ヴィンセントは一瞬、言葉を失った。
「……っ」
理解した瞬間、彼の頬が熱を帯びる。
そんな馬鹿な。
冷静であることが何よりも大切なはずだった。
ここで動揺を見せるべきではないと分かっているのに、こみ上げる羞恥に僅かに肩が揺れる。
その様子を見ていたエリオットが、ふっと小さく息を漏らした。
「やっぱりね」
彼は微かに笑いながら、指先を肘掛けに滑らせる。
まるで、そこに刻まれた何かをなぞるかのように、ゆっくりと。
「君、僕のこと嫌いそうな顔してるけど、本当は羨ましかったんだ?」
その声音は軽やかだが、まるで甘く絡め取るような響きを帯びていた。
「……違います」
咄嗟に否定したが、声音がわずかに上ずる。
エリオットはその反応に満足したように目を細め、ゆっくりと足を組み替える。
「まぁ、わかるよ」
軽やかな口調とは裏腹に、その言葉にはどこか苦味が滲んでいた。
「皆に囲まれるって、一見、すごくいいことのように思えるんだろうね。でも、それは君が“輪の外”にいるからそう思えるんだよ」
ヴィンセントの眉がわずかに動く。
「……どういう意味ですか?」
「誰かといることが好きなわけじゃないんだ、僕は」
エリオットは淡々と告げた。
まるで、長年抱えていたものを無造作に取り出すかのように。
「君が思っているほど、人に囲まれるのは楽しいことばかりじゃない。僕はただ、“そういうもの”として生きてるだけだよ」
「……そういうもの?」
「貴族の社交なんて、結局は“見せかけ”だ」
エリオットはふっと笑い、ゆるやかに目を細める。
その表情には、冷めた諦念と、微かな虚しさが混じっていた。
「人に囲まれているとね、いつの間にかそれが当たり前になって、たとえ疲れても、それを捨てることはできなくなる。だって、それをやめたら、皆が僕に抱いている“エリオット・アシュフォード”は崩れてしまうからね」
彼は軽く肩をすくめながら、指先で髪をかき上げる。
その仕草は何気ないもののはずなのに、どこか艶やかで、ひどく儚い印象を与えた。
「どこに行っても誰かがいる。期待され、求められ、応え続ける。でも、誰も本当の僕を見ていない」
そう言った瞬間、エリオットの指先が肘掛けをなぞる。
まるで、そこに刻まれた何かを確かめるように、静かに。
「皆が求める“陽気なエリオット”を演じ続けるしかないんだよ」
ふっと微笑む。
だが、その唇の端には、どこか虚しげな影が滲んでいた。
「君には、そんな生活が羨ましく思える?」
「……」
ヴィンセントは何も言えなかった。
エリオットの語る世界は、ヴィンセントにとって未知のものだった。
誰かに囲まれることを“当然”として生きる——その息苦しさを想像したことすらなかった。
しかし、その時——
ルシアと出掛けたカフェでの光景が、脳裏に浮かんだ。
──ルシア様が、あの日、窓辺で紅茶を口にしながら語った言葉。
「私は、周りの方々に優しくしていただいておりますの。社交界でも、学院でも、皆さまが敬意をもって接してくださいますわ。でも……それが本当に“私自身”を見てくださっているのかどうか、時々わからなくなることがあるのです」
窓の外から差し込む淡い光が、彼女の瞳に映り込み、まるで霞のように揺れていた。
紅茶の湯気が、ゆっくりと立ち昇る。
その時の彼女の表情は、今もはっきりと思い出せる。
「私は……どういうものが“愛”なのか、まだ知らないのかもしれませんわ」
その時、ヴィンセントは息を呑みながら、彼女の手が僅かに揺れるのを見た。
皆に愛される事を望んでいなかったのか……?
それが、あのルシアの言葉の裏にあった感情なのだとしたら。
——エリオット様の今の言葉と、何が違う?
ヴィンセントは、息を詰めた。
それに気づいたかのように、エリオットは薄く微笑む。
けれど、その瞳の奥には、感情の読めない深い闇が揺らめいていた。
まるで、ヴィンセントがその答えにたどり着くことを、最初から見透かしていたかのように。
「ルシアだって、同じだと思うよ」
エリオットの静かな言葉に、ヴィンセントはゆるやかに瞳を上げる。
「……」
「皆に愛されることは、悪いことじゃない。でも、誰かの“理想”のために生きることが、本当に幸せなのかな?」
その問いかけは、静かにヴィンセントの胸を突いた。
ルシアが、皆に囲まれるべき存在であることは間違いない。
彼女の優雅な微笑みは、誰をも穏やかにし、慈愛に満ちた振る舞いは、誰からも愛されるにふさわしいものだ。
けれど——彼女は本当に、それを望んでいるのか?
あの日、カフェで紅茶を前に呟いた言葉の意味を、ヴィンセントはあの時、深く考えられていなかった。
いや、考えようとしなかった。
「……」
ヴィンセントはゆっくりと視線を落とす。
エリオットの言葉が、自分の中にあった“常識”を揺るがしている。
考えがまとまらないまま、瞳を伏せる。
エリオットは、そんなヴィンセントの様子をじっと見つめる。
そして、わずかに唇を歪め、楽しげな笑みを浮かべた。
「君は本当に真面目だね。でも、僕はもう決めてるんだ」
彼の声が、ほんのわずかに低くなる。
それは、静かに獲物を捕らえようとする捕食者のような声音。
「僕は、ルシアを離さない。彼女に何を望まれたとしても」
ヴィンセントの指先が、僅かに強張る。
「……」
エリオットはゆったりと立ち上がると、ヴィンセントを見下ろした。
陽光が彼の肩を撫で、影がその表情を半分だけ覆う。
「君もそろそろ答えを出したら?」
挑発するような声音。
しかし、ヴィンセントはすぐには言葉を返さなかった。
やがて、彼はゆっくりと瞳を閉じ、深く息を吐く。
その呼吸の中で、自分の中にある答えを探し、そして——
静かに目を開く。
「私は、ルシア様が、何を望むのか——それがわかるまではおそばにいます」
それが、彼の出した答えだった。
静かに、しかし確固たる意志を持って告げられたその言葉に、エリオットは一瞬まばたきをする。
そして、口角をわずかに持ち上げながら、目を細めた。
「そう。君もなかなかに頑固だよね」
くすくすと笑いながら、彼はゆるやかに歩みを進める。
そして、ヴィンセントの横を通り過ぎる瞬間、ふっと顔を傾け、低い声で囁いた。
「いいよ、満足するまで見てなよ。でも、僕はもうルシアのそばを離れない。遠慮もしない。婚約者として堂々とルシアとの仲を見せつけていくから」
囁く息が、ヴィンセントの耳元をかすめる。
それは、ひどく甘やかで、同時に容赦のない宣告だった。
陽光が、エリオットの横顔を照らす。
その笑顔は、優雅で、どこか冷たい。
ヴィンセントは、その光景を静かに見つめると、やがてゆっくりと立ち上がった。
「心折れないといいね?」
エリオットの言葉に、ヴィンセントはふっと微笑む。
そして、静かに言葉を紡いだ。
「……かまいません。ルシア様が幸せなら、それでいいのですから」
その瞬間——
学院の鐘が、静寂を引き裂くように響いた。
高く、澄んだ音が空へと溶けていく。
けれど、二人の間に漂う空気は、鐘の音をもってしても拭い去ることはできなかった。
すべてを決めるのは、ルシアだけ。
この関係がどうなるのか、その答えはまだ誰にもわからない——。
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