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選択の行方


午後の講義が終わり、王立貴族学院の中庭には柔らかな陽光が降り注いでいた。


心地よい風が木々を揺らし、学院の生徒たちは思い思いに談笑しながら庭園を歩いている。

時折、小鳥のさえずりが響き、のどかな時間が流れていた。


その中をルシア・ウェストウッドは、ヴィンセント・アルスターと共に歩いていた。

陽光に照らされた白百合のような彼女の姿は、この庭園のどんな花よりも美しく、気品に満ちていた。


ヴィンセントは、彼女の隣を歩きながら、どこか満ち足りた表情を浮かべていた。


「ルシア様、今日の講義もお疲れさまでした」


「まあ、ヴィンセント様も」


ルシアは、ふわりと微笑みながら彼を見上げた。

午後の陽光が庭園の緑を優しく照らし、木々の葉がそよ風に揺れている。その光景の中で、彼女は穏やかに微笑んだ。


「今日もご一緒できて、楽しかったですわ」


その言葉に、ヴィンセントの心は歓喜で満たされた。

彼女が、自分との時間を楽しんでくれている。それがどれほど嬉しいことか、彼自身が一番よく理解していた。


彼は静かに微笑みながら、ほんの少し歩幅を緩めた。


——しかし、その瞬間。


「ルシア」


柔らかな声が響いた。


二人が振り向くと、そこにはエリオット・アシュフォードがいた。

彼は、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべながら、ルシアをじっと見つめていた。


学院の生徒たちが、さりげなくその様子を窺う。

エリオットは侯爵家の嫡男であり、誰もが憧れる存在。

そんな彼が、今、この場でルシアを求める視線を向けている。


「もうすぐ夕刻だし、一緒に帰らないか?」


「……!」


ヴィンセントは、一瞬だけ表情を変えたが、すぐに穏やかな微笑を保ったまま、ルシアへ視線を向けた。

そして、静かに口を開く。


「講義が終わったばかりですし、少し休憩されてからご帰宅のほうがよろしいのでは? もしお時間があるようでしたら、テラスでお茶でもいかがでしょう」


エリオットは、微笑んだままヴィンセントを見た。

その視線は穏やかでありながら、どこか試すような色を帯びている。


「それは構わないけれど……」


「?」


「ルシア、君はどっちがいい?」


——選択権を、ルシアに委ねる。


その言葉に、ヴィンセントの眉が微かに動いた。

今までのエリオットなら、こんな問いかけはしなかった。

彼はルシアの自由を尊重し、誰と時間を過ごそうとも咎めなかった。


だが——今の彼は違う。


ヴィンセントも、ルシアの返答を待つ。

学院の生徒たちもまた、静かに息を潜めて成り行きを見守っている。


ルシアはゆっくりとまばたきをし、視線を二人の間に巡らせた。


エリオットの穏やかな笑み。

ヴィンセントの優しい眼差し。


どちらを選ぶのか——。


その緊張が、周囲の空気を張り詰めさせていく。

そして、ルシアは静かに唇を開いた。


「……そうですわね」


彼女の瞳が、わずかに揺れる。

ヴィンセントとエリオット。二人の間にある空気は、かつてないほど張り詰めていた。

学院の生徒たちも、遠巻きに彼らのやりとりを見守っている。

そして——


「……せっかくですし、今日はエリオット様と帰りますわ」


その瞬間、エリオットの唇がゆるく弧を描いた。


「嬉しいよ、ルシア」


その声音は柔らかく、あくまで自然な響きを持っていた。しかし、その目には確かな勝利の色が浮かんでいる。


ヴィンセントは、一瞬息を呑んだ。

だが、すぐに穏やかに微笑んで見せる。


「……分かりました。また明日、お話ししましょう、ルシア様」


「ええ、また明日」




ルシアが微笑むと、ヴィンセントは一礼し、その場を去った。

しかし、エリオットの胸の奥には、言い知れぬ焦燥が広がっていた。


——彼女は、本当にどちらを選ぶのか。


エリオットは、静かに拳を握りしめ、視線をルシアに向ける。

その瞳には、深い執着と、決して揺るがぬ独占欲が宿っていた。





ルシアとエリオットは並んで学院を後にした。

学院の門の前には、アシュフォード家の馬車が静かに待機している。


エリオットは微笑みながら馬車の扉を開け、彼女を招き入れた。


「ありがとうございます、エリオット様」


「どういたしまして」


ルシアが優雅に馬車へ乗り込むと、エリオットもその隣に腰を下ろす。

扉が閉じられ、御者の合図とともに馬車が静かに動き出した。


窓の外の景色が流れていく。夕方の柔らかな陽光が車内に差し込み、淡く影を作る。

けれど、エリオットの視線は一瞬たりともルシアから離れなかった。


——この距離が、彼女を探るには最適だった。


「……最近、僕のそばにいてくれるようになったね」


低く、甘やかに響く声。

それはまるで、肌に直接触れるような感覚を伴っていた。


ルシアが微かに顔を傾ける。


「まあ……婚約者なのですもの」


けれど、エリオットが欲しいのはそんな答えではなかった。


「……違うよ」


囁くような声音とともに、エリオットの指がそっと彼女の髪に触れる。

細くしなやかな髪を絡め取り、指先でゆっくりとなぞる。

さらりと流れるその感触を惜しむように、何度も撫でた。


「君が、僕を選んでくれることが増えてきた気がする」


低く滲む声と、熱を帯びた指先。

それだけで、馬車の狭い空間に甘く張り詰めた気配が漂う。


「……そうですか?」


ルシアの静かな問いに、エリオットは満足げに微笑む。


「うん。僕としては、嬉しい限りだけどね」


絡め取った髪をほどき、指先をそのまま彼女の頬へと滑らせる。

そっと触れた肌は、期待を裏切らないほど柔らかかった。


「ルシア」


「……はい?」


「僕が君だけを特別に扱ったら……君は、僕だけを見てくれる?」


指先が、頬を撫でる。

その動きは、まるで彼女の輪郭を記憶するかのように、ゆっくりと。


「君はそういう人が好きなんだよね?」


囁くような声が、直接、鼓膜をくすぐる。

息を潜めたくなるほどの距離。


それなのに、ルシアはすぐに答えない。

ただ、ゆるやかに瞬き、微笑みを浮かべるばかり。

その曖昧な仕草が、たまらなく焦れったい。


「……え?」


彼女の唇が、微かに震える。

その動きが、エリオットの欲望に小さな火を灯す。


「……エリオット様、それを……どうしてご存じなのですか?」


ふっと、小さく揺れた呼吸。

その変化を見逃さず、エリオットは唇を緩める。


「そんなの、君を見ていれば分かるさ」


ふわりと微笑むルシアの表情を眺めながら、指先をもう一度頬から滑らせる。

まるで、その温もりを確かめるように——。


ルシアが軽く瞬く。

そして、困ったようにふわりと微笑んだ。


それなのに——


エリオットの胸の奥では、何かがざわめく。

その微笑みの奥にあるものが、まだ見えない。

だからこそ、もっと深く確かめたくなる。


ゆっくりと指を滑らせ、彼女の頬から顎へと流れた。

細く優美なラインをなぞるように、ゆっくりと。


「驚いた?」


低く、艶を帯びた声が彼女の耳をくすぐる。


「少し、ですわ」


「ふふ、なんだか君らしいね」


指先が、彼女の唇の端をかすめる。

ふわりと震える、柔らかな感触。

触れた瞬間、彼女の唇が微かに動くのを感じた。

それだけで、指先から甘い痺れが広がる。


もっと触れたい。

もっと、確かめたい。


「ねえ、僕以外を見なくてもいいよね?」


声が、ひときわ低く落ちる。

それは甘い誘いでもあり、支配の証でもあった。

エリオットは、ただの婚約者ではいたくない。ルシアの世界のすべてになりたかった。


けれど——


彼女は何も言わない。

ただ、穏やかに微笑んでいる。

その沈黙が、エリオットをさらに焦らせる。


「……それとも、まだ足りないの?」


彼女を試すように、囁くように。指先でまたそっと髪をすくい上げる。

手のひらに広がるシルクのような柔らかさ。

絡め取るほどに、その質感が心を惑わせる。

撫でながら、彼はそっと耳元へと唇を寄せた。


「僕は、もう君の望むようにしているつもりなんだけどな」


熱を帯びた囁きが、彼女の肌を甘くくすぐる。


「ねえ、ルシア。君は……どんな人が好ましいのかな?」


吐息がかかるほどの距離。

囁く声が、鼓膜を撫でる。

まるで、彼女のすべてを奪い去るように——。


不意に投げかけられた問いに、ルシアがわずかに瞬く。


夕陽に照らされた髪が淡く輝き、長い睫毛がふるりと揺れる。

その仕草はどこまでも儚く、指先でそっと触れて確かめたくなるほど。


彼女は、意図を探るように一瞬だけ間を置く。

そして、柔らかく微笑んだ。


「まあ……どうしてそのようなことを?」


穏やかで、かすかに驚きを滲ませた声音。


エリオットは肩をすくめ、何気ない会話の延長のように微笑む。

だが、その手は彼女の髪を絡め取ったまま、ゆっくりと撫で続けていた。


「君とは、これからずっと一緒に生きていくことになるんだ。だから、君に快く思ってもらいたい」


指を絡めながら、囁くように告げる。

それが真意なのか、それともまた試すような言葉なのか——

エリオットの瞳に揺れる光が、それを曖昧にしていた。


「君は、僕にどうしてほしい?」


婚約者としての当然の問いに思わせながらも、その声音には探るような響きが滲む。

ルシアはふと窓の外へと視線を向けた。


夕暮れに染まる学院が遠ざかり、馬車の車輪が静かに石畳を転がる音が一定のリズムを刻む。

空は茜色に染まり、世界が緩やかに夜へと移ろう時間。


やがて、ゆるやかに彼女の唇が動いた。


「……優しい方が素敵ですわ」


「それから?」


絡めた指に、わずかに力がこもる。


「……特別に、大切にしてくださる方」


その言葉が落ちた瞬間、エリオットの手がぴたりと止まった。

まるで、心の奥に鋭い刃を突き立てられたかのようだった。


「……特別に?」


ゆっくりと問い返す。

ルシアは変わらぬ微笑を湛えたまま、静かに彼を見つめていた。


「誰かにとって、特別な存在でありたいと思うのは……ごく自然なことではありませんか?」


優しく、どこまでも穏やかで、少しの揺らぎもない声音。

それが、エリオットの胸を深く刺し貫く。


「君はさ……ヴィンセントみたいなのがタイプなの?」


努めて冷静に問いながらも、指先にわずかに力がこもる。

ルシアの睫毛が、かすかに揺れた。


「いえ、そういうわけでは……」


少しだけ息を吸い込む。

それから、微かに微笑む。


「けれど、ヴィンセント様は……博識で、お優しいですから……」


心臓が嫌な音を立てる。


——僕がどれだけ君を愛していると思う?

——どれだけ、ずっと、ずっと君を見てきたと思う?

——君のすべてを知りたくて、誰よりも大切にしてきたのに。


なのに、君の口から出てくるのは、ヴィンセントの話か?


「それだけの理由?」


自分でも驚くほどに、声が低く落ちる。

ルシアは瞬きをしただけで、すぐには答えない。


「……ヴィンセント様は、おそばに、いてくださるのです」


その言葉に、喉がひりつくような感覚を覚える。


「……」


「私のことを、ずっと考えてくださっているのです……」


胸の奥で、軋むような音が響いた。


ずっと考えている?

誰よりも僕の方が、君のことを想っているというのに?


どうして、それが伝わらないんだ……!


「僕も最近、ずっとそばにいるよ?」


低く落とされた声に、ルシアの肩がわずかに揺れた。


「僕とヴィンセントは違うの?」


彼の問いに、彼女の瞳が微かに揺れる。

そして、小さく息を吐いた後——


「……エリオット様は……」


かすかに震えた声音が、静かな馬車の中に落ちる。

エリオットは鋭く目を細めた。


「エリオット様は……私を遠ざけたではありませんか……」


——泣きそうな声だった。


その言葉が、鋭い刃のように胸を貫く。


同時に——

愛しくて、たまらなかった。


君が、僕を失うことを怖がっていたなんて。

君が、僕に突き放されたことで傷ついていたなんて。

そんなにも、僕を必要としていたなんて——。


その事実が、嬉しくて、焦燥と嫉妬に塗れた胸の奥に、甘い痺れをもたらした。


エリオットは、丁寧にゆっくりと指を滑らせる。

頬を撫で、顎のラインをなぞり、そっと髪をかき上げた。


けれど、君は知らない。


本当は、離れたくなんてなかったことを。

君を放り出すつもりなんて、一度もなかったことを。

僕がどれだけ理性を押し殺して、君に自由を与えようとしていたかを——。


「今、ほかの方にとられそうになって焦っているだけなのでしょう?」


その言葉に、喉がひくりと動いた。


「ルシア……」


「また私の周りから人がいなくなれば、私を放るのでしょう?」


静かに落とされたその言葉に、エリオットの指先がわずかに強ばる。

言葉が喉の奥で絡まり、すぐには返せなかった。


彼の沈黙を見届けるように、ルシアはそっと彼の手を振り払う。

その動作は決して強いものではなかった。

けれど、確かな意志が込められていた。


エリオットの指先から、ふわりと温もりが抜けていく。

その瞬間、身体の奥底から込み上げるものがあった。


「そんなつもりじゃなかった……」


掠れる声で呟きながら、エリオットはそっと彼女の手を追う。

触れたい。

もう一度、温もりを取り戻したい。


ルシアの指先が離れようとした瞬間、彼は片方の手を伸ばし、その華奢な手を優しく包み込むように握る。

彼女が驚きにわずかに目を見開くのを感じながら、もう一方の手でそっと頬に触れた。


「僕は……君を縛りつけてはいけないと思ったんだ。君が、のびのびと学院で過ごせたらって思っていた」


低く穏やかな声が、ふわりと彼女を包み込む。

指先は頬をなぞるように撫で、握った手にはほんのりと力が込められる。

離れたくない——そう訴えるように。


「でも、それが間違いだったなら……僕はどうすればいい?」


吐息がかかるほどの距離で囁く。


「君が、遠ざけられたと感じていたなんて……知らなかった」


触れるか触れないかの距離で、そっと彼女の頬に指を這わせる。

人差し指の背で優しく撫でるたび、彼女の肌が熱を帯びるのを感じる。


「僕は、君のそばにいたかったよ」


まるで懺悔のように、彼はその言葉を落とす。


「君の自由を守ることが、君を傷つけるなんて思わなかった」


「……エリオット様」


低く甘く、彼の名を呼ぶ声が心を揺さぶる。


「君は、昔からずっと僕の特別な女の子だよ」


手のひらで頬を包み込み、その温もりを確かめるように撫でる。

ルシアの瞳が揺れた。

その震えが、彼の心を満たしていく。


——僕を必要としている。

その確信が、静かに彼の独占欲を煽る。


「君との時間をちゃんと持つから……」


もう絶対に、手放したりしない。


「だから……君の一番を、僕にくれる?」


囁きながら、そっと指先で唇の端をなぞる。

ひくりと、かすかに動く柔らかな唇。彼の指先に伝わる、微かな震え。

そこに触れてしまえば、もう理性など残らなくなる気がして——。


だから、すんでのところで指を止める。

じわりと、焦らすように。

ルシアの息が、ほんのわずかに詰まるのを感じる。


——この手を、もう二度と離させるつもりはない。


ルシアは、しばし沈黙する。

長く感じるその間に、エリオットの指が無意識に彼女の頬を撫でていた。

意識するつもりなどなかった。

けれど、確かめずにはいられなかった。


この温もりを、失いたくないと——。


やがて、ルシアは微笑む。

けれど、それはどこか寂しげな笑みだった。


「……考え、させてください」


その瞬間、エリオットの胸が軋むように痛む。

鋭く、刺すような痛み。


指先にかすかに力を込める。

それでも、彼女はそっと手をほどこうとする。

だが——


エリオットは迷うことなく、もう一度握り直した。

逃がしたくない。

手放したくない。


「……ルシア」


名を呼ぶ声は、ひどく甘く、かすかに震えていた。

彼女の瞳が、ふわりと揺れる。

そのかすかな動揺すらも、狂おしいほど愛おしくて、どうしようもなくて——。


けれど、怖かった。


今すぐ、僕だけを見ていると言ってくれればいいのに。

なのに、ルシアは黙ったまま、ただ指先を揺らしている。



その沈黙が、エリオットの理性を焼いた。



お願いだ、僕を見てくれ。僕だけを見てくれ。

僕のことだけを考えて、僕の名前だけを呼んで、僕の隣にいてくれ——。


そう言ってくれなきゃ、嫌だ。

胸の奥が軋む。痛い、苦しい。


どうして迷うんだ?僕じゃ足りないのか?

他の誰かが、君の心を占めているのか?


そんなこと、許せるわけがない。


視線を落とす彼女が、まるで僕以外の何かを想っているようで、たまらなく怖い。

手を離せば、君はもう戻らないのか?

僕以外を選ぶのか?


嫌だ。


絶対に、そんなこと、させるものか。



絡めた指先に、僅かに力を込める。

彼女の指を確かめるように、そっと撫でる。


「……考えている間、僕のことで頭がいっぱいになるように」


囁く声が、掠れた。

けれど、甘く、誘うように。


お願いだ。


好きで好きで、どうにかなりそうなんだ。

君が僕を見てくれないと、息が詰まる。

君が僕を選んでくれないと、心が壊れる。


だから、僕を見て。

僕だけを、見てくれ。


お願いだから——。


「少しだけずるさせて?」


囁く声は甘く、けれど、その奥には隠しきれない熱が滲んでいた。

ルシアを手放したくない。

彼の中で燻る焦燥を悟られぬよう、エリオットはゆっくりと指を動かす。


絡めた手をほどき、代わりにそっと顎をすくい上げた。


「……エリオット様?」


測るように名を呼ばれる。

その声が、彼の余裕を試すように揺さぶる。

静かに微笑みながらも、指先には迷いがない。


頬を撫で、耳の後ろへと流れる。

髪をかき上げ、そっと指を滑らせた。


その仕草は、優しく、慎重で——

まるで、確かめるようだった。


「……ずっと僕の事を考えていて?」


吐息がかかるほどの距離。

囁く声は甘く、けれど、ただの誘惑ではない。


彼女の意識を、自分から逸らさせたくない。

この温もりを、彼のものとして焼き付けてほしい。


「君の心が離れないように……ちゃんと、愛を刻んでおくから」


低く甘く、囁くように。


指先が、彼女の首筋をなぞる。

くすぐるように、じわじわと熱を伝える。


囁くように名を呼びながら、彼女の頬を優しく撫でる。

そのまま、指先で耳の後ろの柔らかな肌をなぞると、ルシアの肩がかすかに揺れた。


——可愛い。


その仕草が、たまらなく愛しい。


「ルシア……すぐに顔に出るね」


喉をくすぐるような甘い声。

彼女の指をそっと絡め、ゆっくりと握る。


彼の熱が、彼女の肌に移るくらいに。


「僕のこと、どれくらい感じてくれる?」


指先が、鎖骨の上をなぞる。

ゆっくりと、彼女の温もりを確かめるように。


「ずっと、僕を考えていてほしい」


問いかけるように、指をすべらせる。

首筋の敏感な場所に、ほんのわずかに爪を立てる。


「エリオット、様……」


微かな息遣いが、空気を揺らす。

理性の隙間に、甘い期待が忍び込む。


「そんなふうに名前を呼ばれると……もっと、意地悪したくなる」


微笑みながら、彼女の顎をそっと持ち上げる。


「考えている間も、僕の温もりを忘れないように……」


低く甘い声が、肌に直接触れるように響く。

エリオットの指が、彼女の肩を軽く押し、そっと耳元に唇を寄せた。


「……ここ、すごく熱いね」


耳たぶに触れるか触れないかの距離で囁きながら、指でそっとなぞる。


「ん……」


抑えたような小さな声が漏れる。

それすらも、彼にはたまらなく愛おしかった。


喉の奥で愉しげに笑いながら、頬を撫でる。

ゆっくりと、名残惜しむように指を滑らせた。


「ルシア……今、君の全部が、僕を感じてくれてる」


囁きながら、頬にそっと唇を寄せる。

触れるか触れないかの、淡く甘い口づけ。


そのまま、耳の後ろへと移動し、今度は吐息を落とすように、ゆっくりと唇をすべらせる。

彼女の肩が、わずかに震えた。

甘く低い声が、じわりと耳元に滲む。


「このまま……君を僕の色に染めてしまいたい」


そっと頬を撫でながら、再び唇を寄せる。

耳の裏、首筋、鎖骨——まるで刻み込むように。


彼の熱が、彼女の中に溶け込んでいくように。


「……エリオット様」


戸惑うような声。

それすら、彼を煽る。



ガタン。


突然、馬車が大きく揺れた。


「……っ!」


ルシアの体がわずかに傾ぐ。

エリオットは反射的に彼女の腰を抱き寄せ、しっかりと支える。


「大丈夫?」


「……はい」


ルシアがそっと息を整える。

けれど、エリオットは彼女を離さなかった。

腕の中に収まったままの彼女を見つめ、わずかに目を細める。


「……残念」


「……?」


「そろそろ屋敷に着くみたいだ」


馬車の窓の外には、アシュフォード家の門が見えていた。


「時間切れ、だね」


小さく笑いながら、彼はルシアの手をもう一度強く握る。

そのまま、指先を絡めながら、彼女の耳元へとそっと唇を寄せた。


「……君の一番を僕にくれたら」


甘く低い囁きが、直接肌を撫でる。


「もっとたくさん……甘やかしてあげるのに」


ルシアの指が、彼の手の中でかすかに強張る。

それすらも、彼には心地よかった。


「だから……いっぱい僕のこと、考えてね?」


そっと、耳の後ろに最後の口づけを落とす。


「返事、楽しみにしてる」


そう言い残して、彼はようやく指をほどいた。

けれど、ルシアの手にはまだ、彼の温もりが残っていた。


そして、馬車は静かに止まる——。

──この甘美な余韻を残して。


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