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攻防と決意


王立貴族学院の朝は、いつもと変わらず静謐だった。


整然とした足音が石造りの廊下に響き、格式ある建物の中には貴族子女たちの穏やかな談笑が広がる。

広々とした庭園には爽やかな風が吹き抜け、朝の陽光が煉瓦の壁に淡く反射していた。


ウェストウッド公爵家の令嬢、ルシア・ウェストウッドが学院の門をくぐると、門のそばに立つアルスター侯爵家の次男、ヴィンセント・アルスターの姿が目に入った。


彼は変わらぬ穏やかな笑みをたたえながら、礼儀正しく頭を下げる。


「おはようございます、ルシア様」


背筋をぴんと伸ばし、姿勢の崩れひとつない所作。その誠実さが伺える立ち振る舞いは、貴族らしい品格を感じさせるものだった。


「おはようございます、ヴィンセント様」


ルシアの声は柔らかく、落ち着いた響きを持っていた。彼女の声音は、周囲の穏やかな朝の空気によく馴染んでいる。


二人はそのまま並んで学院へと歩き出す。朝日が寄り添う影を長く引き、石畳に映し出していた。


最近では、こうしてヴィンセントと並んで歩く姿が学院内でも珍しくなくなっていた。

彼は常に穏やかで、さりげない気遣いを忘れない。ルシアの言葉には必ず真剣に耳を傾け、時には静かに微笑みながら応じる。

その誠実な態度と、どこまでも丁寧な距離感は、周囲の目には心地よい調和を生み出しているように映った。


そして、そうした変化は学院内でも噂になりつつあった。


「ルシア様とヴィンセント様って、いつもご一緒ですわよね」

「ええ、本当にお似合いですわ」


そんな囁きが、すれ違うたびに聞こえてくる。

ルシアの表情に変化は見られなかったが、隣を歩くヴィンセントがふと視線を落とす瞬間があった。

その眼差しには、言葉にせぬ複雑な色が滲んでいた。



そして、その朝も変わらず、アシュフォード侯爵家の嫡男、エリオット・アシュフォードが姿を見せる。


「おはよう、ルシア」


朗らかで明るい声が、二人の間に割り込むように響いた。

ルシアは足を止め、ゆっくりと振り向く。その動作は慎重で、どこか静けさを孕んでいた。


陽光を受けた髪がやわらかく揺れ、エリオットはいつものように人懐っこい笑みを浮かべている。


彼がこうして声をかけるのは、決して珍しいことではなかった。

ここ最近は特に、彼と過ごす時間が増えている。



だが——今日の彼は、いつもとは違った。



社交的で陽気で、誰にでも優しい侯爵家の嫡男。それは変わらない。

だが、その瞳には、これまでとは異なる光が宿っていた。


「ねえ、ルシア。今日の昼食は一緒にどうかな?」


まるで当然のよう誘いの声をかける。以前にも増して自然な態度。

けれど、その言動には、確信にも似た重みがあった。


その瞬間、ヴィンセントが微かに視線を落とす。


一瞬だけの躊躇。

それを、ルシアはどう受け止めたのか——彼女の表情は変わらない。

だが、次の瞬間、ヴィンセントが静かに口を開いた。


「申し訳ありません、エリオット様。ルシア様には、すでに私とご一緒する約束がありますので」


落ち着いた声音。だが、その表情には僅かな緊張が滲んでいた。

しかし、エリオットはそれを気にする素振りもなく、穏やかな微笑を浮かべたままだった。


「そうか、それは残念だな。そしたら、また今度一緒に過ごしてね。」


そう言いながら、エリオットは懐から小さなベルベットの小箱を取り出した。

手のひらに収まるほどの上品な黒の箱は、金の装飾が施され、丁寧に磨かれていた。


「そういえば、ルシア。これを受け取ってくれないかな?」


ヴィンセントの表情が、わずかに強張る。

ルシアは何も言わない。


エリオットは、小箱の蓋をそっと開いた。

中には、繊細な銀の細工が施された小さなブローチが収められている。


「これは?」


ルシアの声音は変わらず、穏やかだった。


「君に似合いそうだと思って、用意してたんだ」


エリオットは、どこまでも気さくな笑顔を浮かべる。


「僕がそばにいなくても、これをつけてたら僕のことを思い出すだろう? ほら、君のそばに僕がいるって感じるようにさ」


いたずら交じりにそう言いながら、軽く肩をすくめてみせた。

その言葉に、ルシアはわずかに瞬きをする。そして、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます、エリオット様。とても素敵な贈り物ですわ」


静かな声色。けれど、その響きには、どこか慎ましやかな温かみが滲んでいるようにも感じられた。


彼女はそっとブローチを手に取る。

指先で銀細工の繊細な模様をなぞる仕草は、どこまでも優雅で、慎重なものだった。


ヴィンセントは、そのやり取りを黙って見守っていた。けれど、その瞳には一瞬だけ、複雑な光がよぎる。


「また後で、ルシア」


エリオットは軽やかに笑い、手をひらひらと振る。


「そのブローチ、嫌じゃなければ毎日着けてね?」


彼の声はあくまでも穏やかで、軽やかだった。


けれど、その場を去る彼の背中を見つめながら、ヴィンセントはどこか言い知れぬ違和感を抱かずにはいられなかった。





エリオットの変化は、明らかだった。


学院の食堂で、彼は一人紅茶を飲みながら考えていた。

昼食の時間も過ぎ、賑やかだった空間は徐々に落ち着きを取り戻しつつある。

けれど、まだ数人の学生たちが談笑を続けていた。


「エリオット、お前が一人とは珍しいな」


柔らかな笑い声とともに、数人の学友が彼の席へと近づいてきた。

彼らは侯爵家や伯爵家の嫡男たちであり、学院の中でも特に社交的な一団だ。

普段、エリオットの周りには自然と人が集まり、彼自身も談笑の中心にいることが多い。

だが今朝は珍しく、一人で紅茶を口にしていた。


「何を考え込んでいるんだ? まさか恋煩いか?」


「さて、どうかな」


エリオットはゆったりとカップを傾け、穏やかな笑みを浮かべる。


「ルシアが愛おしすぎて、少し考えすぎているのかも」


一瞬の静寂のあと、学友たちが一斉に笑い声を上げた。


「おいおい、さらっと惚気るなよ」

「お前が言うと、妙に真剣に聞こえるんだが」


エリオットは軽く肩をすくめ、悪びれた様子もなく微笑んだ。


「はは、申し訳ないね」


「まあ、実際羨ましい話だよ。ルシア様ほどの女性を婚約者に持てるのは、お前くらいのものだろう」

「気品があって、優雅で、完璧な女性だよな」


学友たちは口々にルシアを褒め称える。その言葉に、エリオットは薄く微笑んだ。


「確かに、彼女は誰に対しても優しいからね。でも、それだけじゃないんだよ」


カップをそっと置きながら、ゆっくりと視線を落とす。そして、どこか懐かしむように目を細めた。


「ルシアは、僕の前ではもう少しくだけた顔を見せてくれるんだ」


「ほう? それはどういうことだ?」


「たとえば、紅茶を飲んでいるときにね。少し熱かったら、微かに目を細める。でもすぐに何事もなかったように飲み込んで、優雅に微笑むんだ。あの仕草が、たまらなく可愛らしい」


そう語る彼の声には、どこか慈しむような響きがあった。その一言に、学友たちは呆れたような表情を見せる。


「お前、細かすぎるだろ! そんなところまで観察してるのかよ」

「はは、まるで恋する詩人みたいだな」


エリオットは軽く肩をすくめたが、その瞳には確かな愛情が宿っていた。


「それから、この間、耳元でささやいたとき——」


紅茶を軽く揺らしながら、ゆっくりと語る。


「頬を赤く染めていたよ。でも、それをごまかそうと一生懸命隠す姿が、たまらなくかわいかった」


「……それ、俺らがやったら確実に引かれるよな?」

「間違いない。お前だから許される行動だよ」

「これだから美形は……」


学友たちは口々にため息混じりに言い合う。だが、エリオットはどこまでも余裕の笑みを崩さない。


「いいなぁ、俺もそんなルシア様を見てみたい」


「はは、見せるわけないだろ」


エリオットはさらりとカップを持ち上げながら、満足げに微笑む。


「可愛いルシアが見られるのは、僕だけの特権だからな」


その言葉に、学友たちはまたも苦笑しながら肩をすくめた。


「まったく、お前には敵わないよ」

「まあ、お前以外ルシア様に釣り合うやつ他にもいないしな」


エリオットは再びカップを持ち上げる。そして、ゆったりと紅茶を口に含みながら、満ち足りた微笑を浮かべた。


「そう言われると、ますます大切にしなくてはならないな」


「お前みたいな婚約者がいるルシア様は幸せ者だな」


エリオットはカップを置き、ゆっくりと指で縁をなぞる。その仕草は、どこか考え込むようなものだった。


「いいや。僕のほうこそ、彼女を愛せることを幸運に思うべきだろうね」


静かな声。その言葉に、学友たちは一瞬目を見開く。


そして、次の瞬間——


「お前、やっぱりめちゃくちゃ惚れ込んでるじゃないか!」

「なんだか、いいな。お前たちって、もう夫婦みたいな安定感があるよな」

「いや、まだ結婚していないけどな」


エリオットは少し微笑みながら、視線をカップの中へ落とした。


「いずれ、そうなるさ」


彼は静かに紅茶を口に運ぶ。

彼にとって、ルシアはただの婚約者ではない。彼が守るべき、唯一無二の存在だった。


——周囲の認識は、既に出来上がってきた。



ルシアの婚約者は、自分でなければならない。

それが、誰もが疑わない「当然のこと」となっているのなら——。


ならば、それをもっと明確にしていけばいい。


「エリオット、そろそろ俺たちも行くが、お前も来るか?」


「いや、今日は少し考え事がある。悪いが、先に行ってくれ」


学友たちは「そうか、じゃあまた後でな」と軽く頷き、特に気にする様子もなく歩き出す。

エリオットは、紅茶のカップを静かに置いた。




そして、視線を向けた先に、ルシア・ウェストウッドの姿があった。


柔らかく美しい髪を揺らし、穏やかに微笑む彼女の隣には——当然のように、ヴィンセント・アルスターがいる。


変わらずヴィンセントがルシアの隣にいる。

いままでそれを許していたのは、"優しい婚約者"の自分だった。


彼女の自由を尊重し、彼女が求めるものを与える。

それが、今までの僕のやり方だった。


けれど、それでは足りなかった。


——僕は、もう違う。


ルシアが望んでいたのは、"自分だけを特別扱いしてくれる人"。


ならば、そうしてあげよう。


今までのように、ただ余裕を見せているだけではダメだ。


ルシアにとって、僕が特別な存在であることを、もっと強く印象づける必要がある。

それと同時に、彼女の周囲にも、それを認識させなければならない。


周囲を牽制しつつ、僕は変わらず気さくな婚約者として振る舞う。

けれど、少しずつルシアの世界を僕で埋め尽くしていく。


彼女が無意識のうちに、僕を頼らずにはいられなくなるように——。


エリオットは紅茶のカップを指先で軽く回した。


例えば——


「ルシアは可愛いから、ほかに取られないようにね」


こんなふうに、皆の前で冗談めかして言ってみるのはどうだろう。


軽い冗談めかして口にすれば、ルシアは穏やかに微笑むだろう。

だが、それを聞いた周囲はどう思うか。


「婚約者である僕が、ルシアを手放すつもりはない」


そう、暗に伝えることができる。


それとなく人々の意識に刻み込めば、"エリオットはルシアを愛している"という認識が自然と広がる。

そうなれば、周囲も無意識に気を遣い、二人の間に割って入ることを控えるかもしれない。


これまで築いてきた人望が、こういう場面で生きてくる。


——それでいい。


ルシアの心の中に、少しずつ"僕がそばにいること"を刷り込んでいけばいい。


けれど、それだけではまだ足りない。

もっと確実に、僕が必要な存在であることを認識させなければならない。


そして、いずれは——


僕がいなければ、不安になるように。

なくてはならない存在になってみせる。





エリオットは、白磁のカップをゆっくりと持ち上げる。

紅茶の表面に映る自分の表情は、いつもの柔らかな微笑みを保っていた。

けれど、その奥にあるものは、今までとはまったく異なるものだった。


彼はそっと唇をカップに寄せ、一口だけ紅茶を飲むと、静かに微笑む。

その微笑みは、"変わらない"ように見えて——もう、決して同じものではなかった。

エリオットはゆっくりと立ち上がる。


僕は、ルシアを手に入れる。


——ルシアは、僕のものだ。


彼女は、僕以外の誰かを求めるべきではない。


僕だけが、彼女の隣にいるべきだ。

僕だけが、彼女の世界を満たすべきだ。


エリオットは、静かに拳を握りしめた。


もう、決して引かない。

この戦いに、負けるつもりはないのだから。


お読みいただき、誠にありがとうございました。

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