絶たれぬ想い
屋敷へと帰る馬車の中で、ヴィンセントは静かに目を閉じた。
車輪が石畳を転がる音が、夕暮れの街並みに響く。
窓から差し込む茜色の光が揺れ、車内を優しく包んでいた。
それでも、ヴィンセントの胸の奥は冷たい静寂に支配されていた。
彼女の言葉が、耳を離れない。
「私は……エリオット様の婚約者として、その立場を大切にしております」
優しく、穏やかで、けれどどこまでも静かな声だった。
彼女の瞳には迷いがなかった。
だが、それでも——。
ヴィンセントはそっと息を吐き、拳を握りしめた。
彼女は、はっきりとエリオットを選んだのか?
それとも、婚約という縛りがあるから、そう言ったのか——。
胸の内には、整理しきれない感情が渦巻いていた。
長年の想いの始まりは幼少の頃。
ヴィンセントがルシアに出会ったのは、まだ幼い頃のことだった。
貴族の子女が集まるお茶会の席で、彼女を見た瞬間、その静かな美しさに目を奪われた。
彼女は他の子供たちと同じように振る舞っていた。
けれど、どこか儚げで、浮世離れした雰囲気を纏っていた。
華やかに笑いさざめく貴族の子女たちの中で、彼女だけは静かに微笑み、ひとつひとつの動作を丁寧にこなしていた。
「ヴィンセント様は、お紅茶がお好きですの?」
「うん。特にアールグレイが好きだよ」
「まあ、素敵ですわ。私は、カモミールが好きですの。ふわりとした香りが心を落ち着かせてくれますのよ」
それが、彼女との最初の会話だった。
あの頃のヴィンセントは、まだ恋というものを理解していなかった。
けれど、彼は幼いながらに思った。
——彼女は、誰よりも美しい、と。
それからも、幾度となく貴族の子女が集う場で彼女と顔を合わせた。
彼女はいつも変わらず、穏やかに微笑んでいた。
しかし、ある時——。
彼女の涙を見た。
貴族の子供たちが集まって乗馬を楽しむ催しがあった日のこと。
ルシアはその日、乗馬には加わらず、屋敷のテラスにひとり佇んでいた。
冬の冷たい風が吹く中、彼女はじっと遠くを見つめていた。
「ルシア様?」
彼が声をかけると、彼女はふっと振り向いた。
「まあ、ヴィンセント様……」
彼女は、いつものように微笑んだ。
けれど、目元が赤かった。
「どうかされましたか?」
彼が尋ねると、ルシアは少しだけ困ったように微笑んで、そっと首を横に振った。
「……いえ、少し、風が冷たかっただけですわ」
嘘だった。
彼女は泣いていた。
その理由を聞くことはできなかった。
けれど、彼はそのとき強く思った。
——彼女を守りたい、と。
それから、ヴィンセントの中で彼女の存在は、ただの少し気になる令嬢ではなくなった。
彼女が笑うたびに心が躍った。
彼女が悲しげな表情を浮かべるたびに、胸が締め付けられた。
気づけば彼女を愛するようになっていた。
「……」
ヴィンセントは、拳を握りしめた。
彼の想いは、今日、ようやく言葉にできた。
けれど、その答えは——。
「私は……エリオット様の婚約者として、その立場を大切にしております」
彼女は、本当にエリオットを愛しているのか?
それとも——。
窓の外に目を向けると、夕陽が沈みかけ、街の灯りがひとつまたひとつと灯り始めていた。
彼の胸の奥に、小さな火が灯る。
「……僕は、彼女を見守る」
もし、ルシアが本当に幸せなら、それでいい。
彼女がエリオットと共にいて、心から笑っていられるのなら——。
でも——もし。
もし、彼女の笑顔が曇ることがあるならば。
もし、彼女がエリオットの手の中で傷つくようなことがあるならば——。
「……その時は、必ず」
ヴィンセントは、強く拳を握った。
この想いが消えることは、まだしばらくなさそうだった。
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