埋められていく距離
王立貴族学院の朝は、いつもと変わらず穏やかに始まった。
広々とした中庭には、楽しげに談笑する貴族子女たちの姿がある。
その中心には、侯爵家の嫡男であり、学院内で最も人望のある青年——エリオット・アシュフォードがいた。
「いやあ、それはちょっと言いすぎだろ?」
エリオットは軽く肩をすくめ、周囲の笑いを誘う。
「エリオット様、本当にお優しいですわ。断れない性格なのですものね」
「まったく、俺が代わりに断ってやろうか?」
「はは、それは勘弁してくれよ。これでもうまくやってるつもりなんだ」
学友たちの笑い声が響く。
エリオットは、誰に対しても分け隔てなく接し、どんな話題にも気さくに応じる。
彼は、侯爵家の跡取りとしても、貴族社会の一員としても申し分ない立ち振る舞いを見せていた。
ふと、時計に目を向ける。
「そろそろ時間だな。それじゃあ、ルシアを迎えに行ってくるよ」
ルシア・ウェストウッド——公爵家の令嬢であり、彼の婚約者。
「社交界の白百合」と称され、気品と穏やかな微笑みをたたえる彼女の存在は、常に注目の的だった。
エリオットの言葉に、周囲からいくつかの視線が集まる。
「迎えに、って……最近、本当にずっと一緒にいるよな」
「まあ、婚約者なんだから当然じゃないか?」
「それはそうだけど、今まで迎えに行くなんてなかった気がするが……?」
エリオットは軽く笑いながら肩をすくめる。
「君たち、婚約者同士が一緒にいるのをそんなに不思議がるものか?」
「いや、そうじゃなくて……前はあまり学院で話してるところを見なかったからさ」
「そりゃあ、僕たちはクラスが違うからな。でも、学院生活に慣れてきたことだし、僕が迎えに行けば何かと便利だろ?」
まるで何の変哲もない、婚約者としての義務を果たしているだけだと言わんばかりの態度だった。
そして、その場にいた誰もが納得し、それ以上は深く考えなかった。
——それでいい。
エリオットの狙い通りだった。
まずは周囲にエリオットがルシアのそばにいることを"当然"のこととして根付かせる。
誰も違和感を覚えず、疑問すら抱かないように。
彼女自身も、"エリオットの隣が一番自然な場所"だと受け入れるように仕向けるのだ。
談笑を終え、エリオットは廊下を歩きながらルシアの教室へ向かう。
途中、何人かの生徒と軽く挨拶を交わすが、足を止めることはしなかった。
やがて目的の扉の前に立つと、彼は何気なく壁にもたれかかる。
数分後、扉が開き、ルシアが姿を見せた。
「……エリオット様?」
「待ってたよ、昼食に行こう」
「ええ。あの……お待たせしてしまいましたか?」
「全然。君を待つのも楽しいから気にしないで」
ルシアは少しだけ戸惑ったように視線を伏せた。
しかし、それ以上は何も言わない。
それでいい。
「行こう、ルシア」
そう言って歩き出しながら、さりげなく彼女との距離を詰める。
すれ違う生徒たちが、何の違和感もなく二人の姿を受け入れているのを感じながら。
もう、誰も疑問に思わない。それこそが、エリオットの思い描いた"理想の形"だった。
気づけば、最近はルシアが彼の隣にいることが日常になっていた。学院の誰もが、それを見慣れた光景として受け入れはじめていた。
その変化に、違和感を覚える者はいない。
——ヴィンセント・アルスターを除いては。
ヴィンセントは、ルシアの微笑みを遠くから見つめていた。
エリオットと過ごす時間が増えた彼女は、穏やかに笑っている。
しかし——それは、本当に幸せな笑顔なのだろうか?
「……あなたは、どうしてそんな風に笑うんだ?」
私は、彼女の本当の笑顔を知っている。
ふとした瞬間に、無邪気に微笑み、心から楽しそうに目を細める彼女を。
だが、今の笑顔は違う。
目元はわずかに伏せがちで、口角の上がり方もどこかぎこちない。
それは、心からの笑顔ではなく——作られた表情のように見えた。
婚約者と過ごす時間が増え、幸せであるはずなのに。
それが彼女の望んだ形だったのなら、私は何も言うつもりはなかった。
「ルシア様が幸せなら、それでいい」そう思っていた。
それで、納得するつもりだった。
けれど。
その笑顔が、本当に彼女の望んだものなのだと、果たして言えるのか?
ヴィンセントは、ルシアを遠くから見つめる。
彼女の傍らで、エリオットが楽しげに微笑んでいた。
彼の隣にいるルシアは、静かに微笑んでいる。
しかし、それは、かつてヴィンセントが見た彼女の笑顔とは違った。
「……これは、違う」
小さく呟いたその言葉は、ヴィンセント自身に向けられたものだった。
覚悟を決めたはずだった。
ルシアが幸せであるならば、それを受け入れると。
だが、その笑顔が偽りのものであるならば——。
私は、どうすればいい?
答えは、まだ出せなかった。
学院の廊下を歩くルシアの隣には、当然のようにエリオットがいた。
彼の歩幅に合わせて静かに並ぶその姿は、婚約者同士として誰もが納得する絵になる光景だった。
「エリオット様?」
ルシアがふと足を緩め、穏やかな声で呼びかける。
「ん? 何?」
エリオットは微笑を浮かべたまま、少し首を傾ける。
「最近……ずっとご一緒ですわね」
その言葉には責める色はなく、ただ淡々とした事実の確認に過ぎなかった。
けれど、その穏やかな声音の裏に、何かを測るような静かな揺らぎが感じられる。
エリオットは、ふと足を止め、ルシアの方へとゆっくりと向き直る。陽の差し込む窓から差す光が、彼の髪に柔らかな輝きを添えた。
「……そうだね。これまではあまり時間が取れてなくて、ごめん」
彼の声は穏やかで、深い反省を滲ませていた。
「ルシアには自由に過ごしてもらいたかったし、婚約者だからって無理に時間を作るのはよくないと思ってたんだけど……
それが逆に、君を一人にしてしまっていたのかもしれないって、思ったんだ」
ルシアは微笑みを崩さぬまま、ほんの少しだけ視線を伏せた。長い睫毛が影を落とし、その揺れが彼女の心の奥底をほんの僅かに覗かせる。
「だから、これからはもう少し、婚約者としての時間を大事にしたい」
彼の言葉は柔らかく、それでいて、否応なくルシアの意識に入り込んでくる。
まるで、それが当然であるかのように。それが彼女にとって"当たり前"になればいい。
エリオットの瞳は優しく微笑んでいる。
だが、その奥底には、燃えるような執着の影がひそんでいることに、彼自身すら気づいていないふりをしていた。
「……まあ、それは光栄ですわ」
ルシアは変わらぬ微笑を浮かべながら、ほんの少しだけお辞儀をする。
その動作は完璧で、隙などどこにも見当たらない。
しかし、エリオットは見逃さなかった。
微かに揺れた瞳の奥に、一瞬だけ浮かんだ曇りを。
それは戸惑いなのか、疑念なのか、あるいは別の何か。
彼女は気づいているのかもしれない。
彼が、ただの"理想の婚約者"を演じているわけではないことを。
だが、ルシアがそれを問うことはない。
エリオットも、それを追及しようとはしなかった。
今はまだ、その時ではないから。
ただ静かに微笑んだまま、二人は歩みを再開する。
「婚約者だから、一緒にいるのは当然」その考えが、少しずつ、彼女の中に根を張るように。
そう思わせるための、穏やかな支配。
ルシアはしばし沈黙したのち、柔らかく微笑んだ。
彼女の笑みは、どこまでも優雅で、まるで彼の言葉をすべて受け入れたように見える。
——しかし、エリオットにはわかっていた。
彼女は、まだ本当に納得しているわけではない。
一瞬、何かを考えるように間を置いたその表情。微かに揺れた瞳。
彼女の心の中で、疑問が浮かんでは消えている。
だからこそ、今は焦る必要はない。
ゆっくりと、少しずつ、確実に——
彼女が"エリオットのそばにいること"が心地よいと思うようにしていけばいい。
食堂に近づく頃、ふと足を止めたエリオットは、ルシアの前に立ち、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
軽やかな口調で、ふとこぼれるように言葉を紡ぐ。
「……君って、本当に可愛いよね」
その一言に、ルシアの表情がわずかに固まる。
完璧な淑女としての微笑みが一瞬だけ崩れ、驚きと戸惑いがその瞳に浮かんだ。
頬がほんのりと紅潮し、唇がわずかに震える。
「え……エリオット様?」
普段なら決して見せない慌てた声色。
思わず目を逸らし、視線のやり場に困るように指先でスカートの端をつまむ仕草。
エリオットはその反応に満足げな笑みを浮かべ、さらに一歩近づく。
「ふふ、君のそんな表情が見られるなんて、思わなかったな」
彼はわざと軽く笑いながら、少しだけ首を傾げる。
「僕は、もったいないことをしてたんだなぁ。今まで、君の淑女らしい面しか知らなかったから」
ルシアは動揺を隠すように小さく咳払いし、再び優雅な微笑みを取り戻そうとする。
しかし、わずかに赤く染まった頬は隠しきれない。
「そ、そんなこと……。エリオット様、突然……」
声が少し上ずるのを自覚したのか、彼女は慌てて口元に手を添えた。
エリオットはその様子にさらに柔らかな笑みを浮かべ、穏やかな声で続けた。
「ごめん、驚かせたね。でも……今まではあまり伝えてこなかったから」
彼の声は少しだけ低く、けれど優しい響きを帯びていた。
「これまで、素直になれなくてごめん」
ルシアは息を整えるようにそっと目を伏せ、静かに答える。
「いえ……これまでも十分、婚約者としての役割はこなしてくださっていましたわ。」
エリオットは小さく笑い、そっと囁くように告げる。
「これまでは”婚約者”として、最低限の顔しか見せてこなかった。
でも——これからは一人の”男”として、君に向き合うよ。覚悟してて?」
その瞬間、ルシアの動きが止まった。
そして——
「ルシア様」
後ろから、タイミング悪く、別の声が響いた。
振り向くと、そこにはヴィンセントが立っていた。
整った制服の襟元をわずかに緩め、知的な眼差しをルシアに向けている。
彼の表情は穏やかで誠実そのものだったが、その奥には微かな緊張が滲んでいた。
エリオットは、自然な笑みを浮かべる。
口元は柔らかく上がっていたが、その瞳の奥には確かな警戒の色が潜んでいた。
その一瞬の感情すら、完璧な仮面の下に隠して。
「ヴィンセント様」
ルシアが優雅に微笑む。
——ほんの少しだけ、嬉しそうに見えた。
その微笑みは普段と変わらないはずなのに、わずかに瞳が輝いた気がする。
彼女の頬の緩みは、社交的な笑顔とは少し違う。
エリオットの胸がわずかにざわめいた。
「先ほどの講義でご一緒だったグループ学習の件なのですが、もう少し語り合いたいと思いまして」
ヴィンセントの声は、どこまでも落ち着いていて誠実だった。
彼は決して押し付けがましくもなく、ただ彼女の知識と意見に敬意を抱いていることが伝わる口調だった。
「もしお時間があれば、昼食のあと、お茶でもしながらご一緒できればと」
ルシアは、微かに瞳を瞬かせた後、ふわりと微笑んだ。
「まあ……お誘い嬉しいですわ」
彼女の声は柔らかく、どこか弾んでいるようにも聞こえる。
——気のせいかもしれない。
けれど、彼女が"誰かとの時間を楽しみにしている"ように見えるのは、何故だろう?
エリオットの心の奥が軋む。
——放っておくべきではなかったのかもしれない。
エリオットはルシアに自由を与えたつもりだった。
必要以上に縛らず、寛大な婚約者であろうとした。
彼女の学院生活を、尊重してきたつもりだった。
それが間違いだったのか?
彼女は、これまでと違い、誰かと並んで微笑むことを当たり前に思い始めている。
それがもし、ヴィンセントだったら?
僕が何もしなければ、彼女はこのまま——
「それなら、僕も一緒でいいか?」
気づけば、言葉がこぼれていた。
エリオットの声は軽やかで、まるで何気ない提案のようだった。
しかし、その裏には鋭い刃が隠されている。
微笑みを保ったまま、視線だけでヴィンセントを射抜くように見据えた。
ヴィンセントの眉がわずかに動く。
その一瞬の変化を、エリオットは見逃さなかった。
彼の心の奥にある焦りや苛立ちを、表情の揺らぎから正確に読み取る。
——やはり、二人きりで話したいんだろう?
でも、それは許さない。
「それなら、皆でお茶をしませんか?」
ルシアが穏やかに微笑んだ。
その提案は、場の空気を和らげるための完璧なバランス感覚から生まれたものだった。
まるで、誰の心にも波風を立てないように。
それが、彼女の本質であり、"社交界の白百合"と呼ばれる所以だった。
だが、エリオットの中には、小さな満足感が生まれていた。
ルシアが"誰の意図も汲み取らずに"振る舞う限り、この関係は崩れない。
彼女の選択の中に、今後もずっと"エリオットが含まれる"ことが重要なのだから。
「いい提案だね、ルシア」
エリオットは静かに頷いた。
その声は優しく、温かい。誰が聞いても婚約者としての穏やかな気遣いにしか聞こえないだろう。
ヴィンセントは小さく息を吐き、微かに頷いた。
そのわずかな沈黙に、エリオットは勝利の余韻を感じていた。
ルシアが微笑んだ。
まるで、その場の均衡を取るように、完璧な笑みで。
だが、エリオットにはわかっていた。
彼女の微笑みの奥に、一瞬だけ"僅かな迷い"が見えたことを。
それが何なのかはわからない。
けれど、彼女の心の奥にある"何か"が完全に彼のものになったわけではないことを——。
エリオットは静かに微笑み、ヴィンセントは目を伏せる。
彼女が微笑んでいる限り、彼女は何も気づいていないのだろう。
その無垢な微笑みが続く限り、エリオットの心の奥底に潜む真実は、誰にも知られることはない。
——まだ、今は。
けれど、このまま時間が経てば、彼女は理解するだろう。
——エリオットは、もはや"自由にするつもりはない"のだと。
そしてその時、彼女はもう逃れられない場所にいることに気づくのだろう。
けれど、その時にはもう遅い。
彼女の世界は、すでにエリオットという名の檻で囲まれているのだから。
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