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理想と狂気の境界線


アシュフォード公爵邸の一室。

灯りは落とされ、窓の外には静かな夜の帳が広がっている。

バルコニーへと続く大きな窓から、淡い月明かりが差し込み、ぼんやりと床を照らしていた。


エリオット・アシュフォードは、その夜、自室の書斎で一人、机に肘をついていた。


窓の外には静かな夜の帳が広がり、月明かりが淡く差し込んでいる。

薄暗い部屋に灯る蝋燭の炎は、わずかに揺らぎながら壁に不規則な影を落としていた。

その揺らぎはまるで彼の内面を映し出すかのように、不安定で、どこか落ち着かない。


指先が、無意識に机の縁をトントンと叩く。

そのリズムは不規則で、心のざわめきと同じように、静寂の中に微かな音を刻んでいた。


思考が止まらない。

頭の中で繰り返されるのは、ルシアの笑顔と、彼女が他の誰かに向けた柔らかな声。


——ルシアは、何を思っているのか?

——なぜ、僕以外の誰かと過ごす時間を「楽しかった」と語るのか?


彼女が他の誰かに心を寄せているとは思わない。

そんなことは、あり得ない。あり得てはならない。


ルシアは誠実で、婚約者としての立場を何よりも理解している。

彼女が誰かに気を許しているように見えても、それはただの社交の一環。

優雅で穏やかな彼女の微笑みは、誰に対しても平等で、慈愛に満ちたもの。


——ただ、それだけのはずだった。


そんなことは分かっている。頭では、きちんと理解している。


——なのに、どうして。


胸が、ひどく締めつけられる。


彼女が微笑むたびに、彼女の言葉が誰かを優しく包み込むたびに、

"もし、その言葉が僕にだけ向けられていたら"と考えてしまう。

そのたびに、喉が渇くような感覚に襲われる。

心臓が、まるで内側から掴まれているかのように重く、苦しい。


ルシアの笑顔を見ていると、まるで自分もその光の中にいるような錯覚を覚える。

けれど、その光は誰にでも平等に降り注ぐもので——僕だけのものではない。


もしも彼女が、僕にだけ向けられる微笑みを浮かべたなら。

僕の言葉にだけ、あんな風に、嬉しそうに頷いてくれたなら。


そんなことを願うたび、喉が詰まる。

それほどまでに——彼女が欲しい。


欲しい、という言葉では足りないほどに、彼女が必要だった。


呼吸の一つ一つに、彼女の存在が滲み込んでいる。

彼女が視界に入らなければ、息が詰まる。

彼女の声を聞かなければ、不安が膨れ上がる。


なのに、僕は彼女に触れることすらうまくできない。

触れようとすれば、壊してしまいそうで。


ルシアは優しい。

それは、誰もが知っている事実だ。


彼女は誰かを拒むことができない。

すべての人に対して、穏やかで慈愛に満ちた態度を取る。


だからこそ——僕だけを求めてくれることは、きっとない。


その事実が、苦しくてたまらない。


「……ルシア」


エリオットは静かに名を呼んだ。

その名は、甘く、同時に鋭い棘のように舌に残る。

何度繰り返しても、その痛みは薄れなかった。


僕だけを見てくれなくてもいい。

僕だけを求めてくれなくてもいい。


そう、思おうとしているのに——。


もし、彼女が僕以外の誰かを選ぶことになったなら?

もし、彼女が誰かに心を許し、"特別"を与えることがあったなら?


その時、僕は笑っていられるのか。


——いいや、無理だ。


笑えるはずがない。

許せるはずがない。


彼女が遠ざかるなんて、そんなことが起こってしまったら。


僕は、どうなる?


——どうして、僕では駄目なんだ。


指先が強く机を叩く。

不規則だったリズムは、いつの間にか規則的なものへと変わっていた。


まるで、自分を落ち着かせるように。

あるいは、決意を固めるように。


——僕は、彼女をこのまま手放すつもりはない。


手に入れるためなら、どんな手を使ってでも。


彼女が微笑む相手は、僕だけでいいのに。

彼女の言葉が優しく届くのは、僕だけであるべきなのに。

彼女の瞳が映す世界は、僕一人で満たされるべきなのに。


——そう思うのは、おかしいだろうか?


僕は婚約者なのだから、それくらい望んでもいいはずなのに。


ルシアは、穏やかで、優しくて、完璧な令嬢だ。

誰に対しても分け隔てなく接し、どんな相手にも微笑みを向ける。


それは、彼女の美徳であり、だからこそ皆が彼女に惹かれるのだと分かっている。

けれど——それが、僕をどれほど苦しめるかを、彼女は知らない。


彼女の視線の先に、僕以外の誰かがいるだけで、心がざわつく。

彼女が僕以外の誰かに微笑むたび、喉の奥がひどく乾く。


彼女は、僕の婚約者だ。

それなのに——どうして、僕以外にもその微笑みを許してしまうのか。



けれど——。



僕は"普通のふり"をしている。

僕は誰からも愛されるべき侯爵家の嫡男で、学院でも慕われる存在でいなければならない。


君を愛しすぎるあまり、誰彼構わず牽制してしまうような男になってしまえば、

それは君の誇りを傷つけることになる。


そんなのは、絶対にだめだ。


僕は、君の幸せを願う"理想の婚約者"でなければならないのだから。

優雅で、穏やかで、寛大で、すべてを包み込む余裕を持った男として、君の隣に立つ。


それが、完璧な君に相応しい、最良の婚約者だと信じていた。


けれど、それでは足りなかった。


ルシアの言葉が、耳の奥で反響する。


「誰にも微笑まず、私だけを特別扱いしてくれる方」


あの時の彼女の瞳。静かで、穏やかで、それでいてどこか遠く見えた。


——あの時彼女は、何を考えていたのか?


微笑みは変わらないのに、遠くから盗み見た彼女の瞳の奥には、確かに何かがあった。

それを言葉にすることはなく、ただ穏やかに微笑んでいた。


もし、僕が寛容であることが、君の望む愛し方ではなかったのなら?

もし、僕が彼女に自由を与え、誰に対しても公平であろうとすることが、君を苦しめていたのなら?


それなら——僕は、変わらなければならない。


だが、すべてを変えることはできない。


僕には、守らなければならないものがある。

家名、地位、人望——それは単なる名誉ではなく、君を守るための武器だ。

それを失えば、僕はただの無力な男になる。


人望を捨てるわけにはいかない。

それがなければ、ルシアを守る力も失われる。


だから、嫉妬に狂い、君を閉じ込めるような真似はできない。

一度でも本当の僕を見せてしまえば、箍が外れてしまう。


独占欲をむき出しにし、誰彼構わず牽制し、君を僕だけのものにしようとしてしまう。


けれど——そんなことをすれば、人望を失った僕では、

周囲に君を奪われてしまうかもしれない。

君を愛そうとするほど、そばにいることすら許されなくなってしまう。


ならば、どうすればいい?

何度も自問する。


力で囲い込むか? だが、それでは君を守るどころか、逆に遠ざけることになる。

君は優しいから、誰かが傷つくことを望まない。僕が周囲と敵対すれば、君はきっと僕から離れてしまうだろう。


ならば、婚約者としての権利を強く主張するか? いや、それも違う。

君は僕の隣にいることを受け入れてくれているが、決して「縛られている」と感じさせてはいけない。そう感じさせてしまったらルシアの心は手に入らない。


どうすれば——どうすれば、君を手放さずに済む?


考えを巡らせるうちに、ふと気づく。


——そうだ。


君が、僕だけを求めるようになればいい。


僕なしではいられなくなればいい。


そうすれば、僕は”普通のふり”をしながら、君を手に入れることができる。

君を縛らずに済むし、君の自由を奪う必要もない。


その代わり——君自身が、僕を手放せなくなるようにすればいい。


ゆっくりと息を吐いた。


この方法なら、誰にも咎められることはない。君の意志を尊重するように見せかけながら、確実に僕のものにできる。

そして何より、君は気づかないまま、僕を選ぶことになる——。




エリオットは、ゆっくりと立ち上がった。

月明かりが窓から差し込み、静かな夜の空気が冷たく頬を撫でる。

だが、その冷たさすらも、彼の内に渦巻く熱には及ばなかった。


蝋燭の炎が揺れ、壁に映る影がゆらゆらと揺らぐ。

まるで、彼の心の奥に生まれた"何か"が、ゆっくりと形を成していくかのように。


静寂の中で、思考は鋭利な刃となって研ぎ澄まされていく。


君を縛らず、君の意志で僕を選ばせる。


——それこそが、完璧な支配だ。


君が僕以外に頼れないようにする。

彼女の世界に、僕以外の男を存在させない。


僕なしでは、何もできないように——徐々に、確実に。


方法は、いくらでもある。


君が誰かと楽しげに話すたび、疑念を植え付ける。

君の心の隙間に「僕が一番の理解者なのではないか」という思いを静かに根付かせればいい。


小さな違和感を積み重ねる。

その些細な積み重ねが、やがて君の心の大部分を占めるようになる。


気づけば、君の世界の中心は僕で埋め尽くされるだろう。


そうすれば、君は僕を頼るしかなくなる。


そして、君が困ったとき、心が揺れたとき、必ず僕が手を差し伸べる。

何かを決断しなければならない瞬間、迷ったとき、君のそばに僕がいる。


柔らかく、慎重に、けれど確実に。

君の思考に、僕の言葉が染み込んでいくように。


それは、強制ではない。

ただ、気がつけば、僕の存在が君の思考の一部になっているように仕向ければいい。


そのうち、君にとって僕が唯一の安らぎとなり、唯一の拠り所となるだろう。


君にとって、僕が「必要」な存在になるように。




エリオットは、ふと書棚に目を向けた。

整然と並ぶ本の中に、見覚えのある一冊があった。


それは、かつてルシアが勧めてくれた恋愛小説。


「エリオット様、こういうのはお読みになりませんの?」


無邪気な笑みとともに彼女が手渡してくれたあの時の情景が、まざまざと脳裏に蘇る。

ルシアの指先がそっと本を押し出しながら、控えめに微笑んでいた。


彼女がどんな気持ちでそれを差し出したのかは分からない。

単なる会話の一環だったのか、それとも——。


——分かるはずがない。


ルシアの心の内は、いつも穏やかで、決して揺らぐことはないように見える。

彼女の微笑みが示すものを、誰も知ることはできない。


——僕にはそれがたまらなく恐ろしい。


エリオットは、本の表紙を指先でそっとなぞる。

硬質な紙の感触が、妙に生々しく胸に響く。


『僕だけを求めて』


かつて他愛のない台詞に思えたその一文が、今のエリオットには鋭い刃のように心を抉る。

今なら理解できる。これは単なる願望ではない。


——欲望の本質であり、彼の中で膨れ上がる執着の核だった。


君が、僕だけを見つめるその瞬間まで——

僕は、この感情を隠し続けてみせる。


そう、"理想の婚約者"としての仮面をかぶったまま、静かに、確実に、君の世界を僕で満たしていく。


——僕は、どこで間違えたのだろう。


寛容であろうとしたことか?

彼女に自由を与えたことか?

それとも、僕が嫉妬を抱いていることを、彼女に隠していることか?


いいや、違う。

間違いなんて、もともとなかった。


すべては計算通り。

完璧な婚約者として、完璧な立場を保つために、必要なことだった。


ただひとつ、誤算があったとすれば——

それは僕の心が、君への執着でここまで膨れ上がるとは思わなかったことだけだ。


君が僕だけを求めるようになれば、すべては解決する。


それができれば、僕は何も変わらず、"普通のふり"をし続けられる。

仮面を脱ぐ必要もない。狂気を見せる必要もない。

君が自らの意思で僕に縋りつき、僕を必要とすればいいだけなのだから。


それは、君を縛るのではなく、君自身に選ばせるという方法。

君が僕の手を求めるようになれば、それは自然な結果となる。

誰も疑問を抱かず、誰にも気づかれることなく。


そう、これは"完璧な支配"のための布石。


エリオットはゆっくりと本を閉じ、机の上にそっと置いた。

その動作すら、まるで儀式のように慎重で静かだった。




「君が僕を求めるようになるまで——」


その言葉を口にしたとき、胸の奥が妙に落ち着いた。

張り詰めていた何かが、するりとほどけていく感覚。


焦る必要はない。

焦燥や嫉妬に駆られ、無理に君を縛ろうとすれば、それは逆効果になる。


君にとって、僕が"安心"であり"拠り所"であることが大切なのだから。


だから、ゆっくりと、慎重に。


この執着を知られたら、君はきっと僕から離れるだろう。

だからこそ、君自身に僕を求めさせなければならない。


——君の心を、少しずつ、静かに蝕んでいくように。


少しずつ、確実に、君の中に僕だけの場所を作っていけばいい。


最初は小さな違和感からでいい。

些細な不安が、やがて疑念となり、そして依存へと変わる。


その場所が大きくなればなるほど、君は僕から逃れられなくなる。

気づいたときには、もう遅い。


君は僕なしでは呼吸すらできなくなっているだろう。


それができれば、君を手に入れることができる。

君の意思で、君の選択で、僕を選ばせることができる。


——完璧な支配だ。


エリオットは静かに椅子に腰掛けた。

まるで全ての答えを得たかのように、穏やかな微笑みを浮かべながら。


指先の震えは、もうない。

鼓動は静かで、冷静さを取り戻していた。


彼の心の中で、一つの確信が生まれた。


——ルシアは、僕のものになる。




けれど、一つだけ問題がある。


ヴィンセント。


あいつがルシアのそばにいる限り、この計画はうまくいかないかもしれない。

不安な時に、助けを求める先を間違えないように……。


このままでは、僕が築き上げようとしている関係に、余計な楔を打ち込まれかねない。

軽く釘でも刺しておくか? とはいえ、その程度であいつが遠慮するとは思えない。


まったく、厄介な男だ。


うまくやらなければ。


——アイツをどうするかが、今後の課題になる。



その夜、エリオットは眠らなかった。

薄暗い書斎で、月光だけが静かに彼を照らしていた。


彼の胸の中で渦巻く愛と執着が、冷たく、けれど確かに彼のすべてを支配しようとしていたから。

その感情は、もう消えることはない。


むしろ、日に日に濃く、深く、静かに根を張っていくだろう。


君が、僕だけを見るその日まで。


お読みいただき、誠にありがとうございました。

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