微笑みと挑戦
昼下がりの穏やかな空気は、先ほどまでの談笑の余韻をかすかに残していた。
カップを置くたびに響く陶器の微かな音と、控えめな笑い声が交じり合うこの空間は、どこか心地よい静けさに包まれている。
ふとした沈黙の後、ルシアは紅茶のカップを優雅に傾けながら、まるで何気ない話題を選ぶように問いかけた。
「ヴィンセント様は、もし恋人ができたら、ずっとそばに寄り添ってくださるのかしら?」
その声は柔らかく、けれど不思議と周囲の空気を引き締める。
カップをそっとソーサーに戻す彼女の仕草は優雅で、窓から差し込む淡い光がその横顔をやさしく照らしていた。
「もちろんです」
ヴィンセントは、迷いなく頷いた。その瞳には揺るぎない誠実さが宿っている。
「僕は、大切な人のそばを離れません。その人だけを見て、誰よりも幸せにしたいと思うでしょう。どんな時でも、何があっても、そばにいて支え続けます」
力強く、けれど真摯な響きを持つその言葉に、ルシアはふんわりと微笑んだ。
その表情はほんのわずかに照れたようでもあり、ヴィンセントの胸の奥が温かく満たされる感覚を覚える。
「まあ……素敵ですわ」
上品な声音に紛れる、かすかな甘さ。
その一言に込められた感情は、まるでそっと触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で——だが確かに"期待"が込められている気がした。
もし、この微笑みが自分だけに向けられたものなら。
そう思うだけで、胸の奥に小さな灯がともる。
「……それなら、ヴィンセント様の恋人は、とても幸せになりますわね」
柔らかく、慎ましいその声色が、ヴィンセントに淡い期待を抱かせる。
彼女がエリオットと婚約していることは知っている。それでも、今この瞬間、ルシアは確かに自分に向き合ってくれているのではないか。
「……ルシア様」
ヴィンセントが思わず名を呼んだ、その瞬間だった。
「お二人、本当にお似合いですね!」
「ヴィンセントがルシア様に寄り添う姿、まるで理想の恋人みたいじゃないか?」
令嬢たちが微笑ましげに声を上げると、令息たちもからかうように笑う。
「ねえ、本当に何もないの?」
「ヴィンセント様は、ルシア様の理想にぴったりなのでは?」
ルシアは困ったように微笑んだ。
その微笑みはほんのりと恥じらいを帯び、頬には淡い紅が差している。
そっとカップを持ち上げ、誤魔化すように紅茶を口に運ぶ。その仕草は穏やかでありながら、どこか無防備な愛らしさを醸し出していた。
「……どうでしょう?」
彼女の柔らかな声が静かに響く。
それは肯定でも否定でもなく、ただこの場の空気を優しく包み込むような言葉だった。
だが、その曖昧な答えが、ヴィンセントの胸に小さな希望を残す。
クラスメイトたちはさらに騒ぎ立て、期待と好奇心に目を輝かせていた。
ヴィンセントの胸には、淡い希望と熱が広がっていく。
彼女が自分に向けてくれた微笑み、ふとした瞬間に見せる柔らかな表情。
そのすべてが、彼の心を満たしていく——。
そして——
遠くで立ち去ろうとしているエリオットの心を、さらに引き裂くのだった。
彼の視線は鋭く、その背中には抑えきれない感情が静かに滲んでいた。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
——許せない。
けれど、それを見せるわけにはいかない。
僕は"普通"でなければならない。
完璧な彼女のそばにいるためには、学院の誰からも好かれる、穏やかで寛容な男でいなければならないのだから。
だから、嫉妬を抱いても、それを悟られてはいけない。
君が誰かと親しくしていても、気にしている素振りを見せてはいけない。
僕は、君の自由を尊重し、寛大な婚約者でいなければならないのだから。
——なのに。
君が、僕以外の誰かに向ける笑顔が、こんなにも胸を締め付けるのは。
君の目に映る"他の誰か"が、僕よりも近く感じられるのは。
まるで、僕なんて君の中に最初からいなかったみたいに。
喉の奥が、焼け付くように痛い。
ルシアは、僕の隣にいるはずだった。
彼女の笑顔を、最も近くで受け止めるのは僕であるべきだった。
それなのに——どうして。
いつの間にか、僕の知らないところで、君は別の時間を過ごしている。
僕の知らない君が、そこにいる。
君のすべてを知りたいと願っているのに、知らないことが増えていく。
それが、耐えられなかった。
「エリオット、考え事?」
廊下を歩いていると、すぐに誰かが声をかけてくる。
学院の友人たちが、何気なく僕を呼ぶ。
「いや、ちょっとね。」
僕は何事もなかったかのように微笑んでみせる。
軽く肩をすくめ、笑い声を乗せると、相手はそれ以上深く追及することなく、また雑談へと戻っていった。
——これが、僕の"普通"だ。
学院では、誰もが僕を好いている。
僕は侯爵家の嫡男として、次期当主としての振る舞いを心得ている。
人望を得ることが、君の隣に立つための最低条件だから。
だから、僕は努力した。
社交でも、学問でも、何一つ手を抜かず、誰からも認められるように。
誰とでも気さくに話し、学院のどの貴族よりも信頼されるように。
その結果、僕はこの学院で誰からも好かれる存在になった。
ルシアに釣り合うために、僕は"完璧な婚約者"になった。
それなのに。
どうして、君は僕を見ないんだ?
どんなに周囲に称賛されても、どんなに社交の中心にいても——
君が僕を見てくれないのなら、それに何の意味がある?
君が僕のそばにいないのなら、こんな人気など、何の価値もない。
学院中の誰もが僕を慕っている。
それなのに、僕が心から求めている君だけは、僕の手の届かない場所にいる。
君は、僕の知らない場所で、誰と会い、何を話し、どんな気持ちでいるのだろう。
僕は、それを知ることができない。
——それが、たまらなく怖い。
無意識に、拳を握り締めていた。
指先が冷え切っている。
「……僕は君の何なんだ?」
思わず、低く呟いていた。
誰にも聞かれないほどの小さな声だったが、自分の中に響くには十分だった。
君は、僕の婚約者だ。
それなのに——どうして、こんなにも遠い?
僕が君に与えた自由は、君が笑顔で過ごせるためのものだった。
僕が君を縛らないようにしたのは、君が息苦しくならないようにするためだった。
そのはずなのに。
今、君は僕の隣にいない。
——間違えたのか?
どこで、何を間違えた?
僕が寛大であろうとしたことか?
君の意思を尊重しようとしたことか?
君の幸せを第一に考えたことか?
それとも——僕が、君の本心を見抜けなかったことか?
気づけば、微かに震えていた指を、ゆっくりとほどいた。
"普通のふり"を崩さないように、深く息を吐く。
そう、間違いだったのなら、もう迷う必要はない。
それなら、"正しい方法"を選ぶだけだ。
ルシア、君は僕の婚約者だ。
君の隣にいるべきは、僕だ。
そして、それを君自身が望むように仕向ければいい。
無理に手を伸ばして、君を引き寄せる必要はない。
君が"自ら"僕のもとへ戻ってくるように。
——そのために、僕は何をすればいい?
答えは、ひとつしかない。
君の世界が"僕の存在"なしでは成り立たないようにする。
君が僕の優しさを必要とし、僕の手を求めるように仕向ける。
強制はしない。
君の"選択"で、僕を選ばせる。
——そうすれば、もう誰にも奪われることはない。
そう決めた瞬間、胸の奥で揺らいでいた何かが、静かに落ち着いた。
答えはもう出た。
僕が、君の世界の"絶対"になる。
ルシアが、それを望んだのだと"思わせる"ように。
僕は、やり方を変えるだけだ。
エリオットは学院の廊下を歩いていた。
すれ違う生徒たちに、いつものように微笑みかけながら。
——まるで、何事もなかったかのように。
学院の誰もが知る、陽気で気のいい男の、いつも通りの笑顔。
しかし、その笑みの奥には、"何か"が生まれようとしていた。
君を独占したいという欲望。
君を離したくないという執着。
それらをすべて隠しながら、"普通のふり"を続ける。
——君が、僕の名を呼ぶその日まで。
ルシアは、テラスの談笑が終わるころ、静かに紅茶を飲み干した。
「さて、そろそろ戻りましょうか」
彼女が立ち上がると、クラスメイトたちも笑顔で頷いた。
「楽しかったですわ! ルシア様、またお話ししましょうね!」
「ええ、ごきげんよう」
彼女は優雅に微笑みながら、テラスを後にする。
ヴィンセントもまた、ルシアの隣を歩きながら、どこか名残惜しげだった。
ルシアと並んで歩く足音が、静かな学院の石畳に柔らかく響いている。その音だけが、今の二人を包む世界のすべてだった。
温かな陽射しが木々の隙間からこぼれ、彼女の淡い髪を優しく照らす。その光景すらも、ヴィンセントにとっては呼吸を忘れるほど美しく、息が詰まりそうだった。
彼女は隣で、いつも通り穏やかな微笑を浮かべている。
優雅で、静かで、何も変わらないはずのその姿が、今日だけは胸を締め付けて仕方がなかった。
あのテラスでの会話、ルシアの何気ない言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
——私だけを特別扱いしてくださる方
その一言が、心の奥底に突き刺さって抜けない。
静かに燃える火種が、今や全身を焼き尽くす勢いで広がっている。
「ルシア様……」
気づけば、足が止まっていた。
ルシアが立ち止まり、こちらを振り返る。
ふわりと揺れる髪、ゆるやかに瞬く睫毛。その瞳が、ただ静かに自分を見つめているだけなのに、心臓が痛いほど高鳴る。
呼吸がうまくできない。けれど、このままではいられなかった。
「今日のお話、とても楽しかったです」
彼女の視線がわずかに和らぐ。
そんな平凡な言葉しか出てこない。
いや、違う、こんなはずじゃない。
伝えたいのは、そんなありふれた感想じゃない。
胸の奥が熱くて、苦しくて、言葉にしなければ押し潰されてしまいそうだった。
「……ですが、どうしてもお伝えしたいことがあって」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
ルシアはまばたきを一度しただけで、何も言わずにこちらを見つめている。
「私は……あなたが愛おしくてたまらないのです」
口にした瞬間、心が剥き出しになった気がした。痛みと熱が同時に込み上げる。
抑え込んできた全てが、堰を切ったように溢れ出していく。
ただ隣にいるだけで、満たされていたはずだった。学院では学友として、何の隔たりもなく言葉を交わし、共に学び、笑い合うことができる。
それだけで十分だと、そう思っていた。
けれど——違った。
学院の外では、あなたの隣にいるのは私ではない。どんなに近くにいるつもりでも、それは限られた時間の中だけのこと。
あなたの婚約者は、私ではない。あなたの未来をともにするのは、私ではない。
その現実を改めて思い知らされるたび、胸の奥がひどく痛んだ。
隣にいるだけで、こんなにも苦しい。こんなにも、愛おしい。
喉の奥が熱を持つ。
どうして、私はあなたの隣に立つことを許されないのか。
どうして、あなたをこんなにも求めているのに、触れることすら叶わないのか。
胸が苦しくて、息が詰まりそうだった。
「……私は、あなたの隣に立つ資格がありません」
ルシアの指がわずかに動いた。
けれど、それは何かを拒む仕草ではなく、ただ一瞬、風に揺れただけのように見えた。
「学院では、こうして普通に話せる。でも、学院の外では違う。私は……あなたの隣にいることを許されない」
彼女のまつげが、ふわりと揺れる。
学友として、今はこうしていられる。でも、本当は——それ以上の関係で、あなたを支えたい。
楽しい時も、つらい時も、あなたの一番近くで寄り添いたい。あなたが皆に愛されることは、何よりも嬉しい。
でも、その中で、私は誰よりもあなたを想っている。
そう胸を張って言いたいのに——。
「……私は、あなたのことを心から大切に思っています」
声がかすかに震えた。
伝えたところで、何が変わるわけでもない。
そんなことは分かっている。
それでも——伝えずにはいられなかった。
ルシアの唇が、かすかに動いた。
けれど、それは言葉ではなく、ただ呼吸の動きに過ぎなかった。
何かを言いかけたようで、けれど結局、彼女は何も言わなかった。
——否定しなかった。
それだけで、ひどく救われる気がした。
「……私は、今はあなたの隣に立つ資格がない。でも、それでも——あなたのそばにいたいと願ってしまうんです」
ルシアはふっとまつげを伏せ、そっと息を吐く。
「もし、あなたが望んでくださるのなら。求めてくださるのなら——私は、どうとでもしてみせます」
この手が届かないのなら、どうすれば届くのか。
何をすれば、あなたの隣にいられるのか——。
ルシアは、そっと目を伏せる。
それは、まるで申し訳なさそうにも見えて、けれど——ただ静かだった。
だからこそ、私は、最後の言葉を紡ぐ。
「……答えはいりません」
「ただ……知っていてほしいんです。この気持ちを」
ルシアは、ふわりと微笑んだ。
それは、いつものように穏やかで、優しい微笑み。
何かを約束するものではなく、何かを期待させるものでもない。
ただ、静かにそこにある微笑みだった。
それだけで、今は十分だった。
二人は再び歩き出す。
けれど、その距離は、もう以前のものとは少しだけ違っているように思えた。
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