秘めたる焦燥
サロンへ向かう廊下を歩きながら、エリオットはふと隣を歩くルシアの横顔に視線を向けた。
彼女はいつも通り優雅で、端正な学院の制服に身を包み、整えられた美しい髪が歩くたびに微かに揺れている。その姿は優雅で、誰もが憧れる「社交界の白百合」としての威厳と気品を纏っていた。
二人が婚約者同士であることは、学院内の誰もが知っている当然の事実。しかし、普段あまり共に過ごす姿を見せることがないため、並んで歩く光景は珍しく、廊下を行き交う生徒たちは思わず視線を向けた。囁き声が小さく広がり、物珍しさと羨望が入り混じった空気が漂う。
社交界の白百合と称され、誰もが憧れる公爵令嬢、ルシア・ウェストウッド。
陽気で快活、誰からも愛される貴公子、エリオット・アシュフォード。
そんな二人が並び立つ姿は、季節の花々が咲き誇る庭園のように華やかで、通り過ぎる者たちの目を自然と惹きつけていた。
けれど、エリオットの意識は周囲の視線には向かない。ただ隣にいるルシアだけを見つめていた。彼女は変わらず完璧な微笑を湛えているのに、今日はなぜか違って見える。
その瞳の奥に潜む、ほんの小さな揺らぎに、彼の心が敏感に反応してしまう。
——エリオットは気づいている。
彼女の完璧な微笑みの奥に、ほんのわずかに揺れる影を。
寄り添う距離は変わらないのに、どこか遠く感じる心の隙間を。
その違和感は小さな棘のように、エリオットの胸の奥に静かに突き刺さる。
彼女は確かに自分のもののはずなのに——彼女の心は、今どこにあるのだろうか。
「先日は楽しめたかい?」
エリオットは、あくまで何気ない調子を装い、軽やかな声で問いかけた。
その言葉は、ふとした会話の延長のように自然に聞こえるが、内心では喉元に渦巻く苛立ちを必死に抑えていた。
「まあ、突然どうなさいましたの?」
ルシアは変わらず穏やかな微笑を浮かべ、やわらかな声で返す。
その完璧な笑顔の裏に、一瞬だけ揺れる瞳の光。その微かな違和感を、エリオットは見逃さなかった。彼女がこの話題を予期していたことを、表情の奥に隠された小さな緊張感が物語っている。
「いや、ヴィンセントと出かけるって言っていたからさ」
エリオットは軽く肩をすくめ、何でもないことのように話を続けた。
探っていることを悟られないように、口元には余裕の笑みを浮かべて。しかし、その目の奥には冷たい光が微かに宿り、ヴィンセントという名前を口にした瞬間、胸の奥で熱い棘が突き刺さる感覚を覚える。
「ふふ、とても楽しい時間でしたわ」
ルシアは少しだけ唇の端を上げ、淡く微笑んだ。
その笑顔は柔らかく、完璧な礼儀を保ちながらも、どこか余裕すら漂わせている。
その一瞬、エリオットは心の奥で何かが軋む音を聞いた気がした。
「へえ、どんな所に行ったのかな?」
エリオットはあくまで無邪気を装い、さりげなく探る。口調は軽やかだが、その瞳には鋭さが宿ってしまう。
「そうですわね……市場や、王都で評判のカフェ、それから工房街にも足を運びましたの」
ルシアは変わらぬ穏やかな微笑みを保ったまま答える。しかし、その声の奥にほんの少しだけ、柔らかい温度が感じとれた。
「なるほど、ヴィンセントは真面目だからね。どの場所でも君にしっかり説明してくれたんだろう?」
エリオットは微笑んだまま、軽く茶化すように言う。
しかし、その言葉には見えない棘が潜んでいた。
「ええ。でも、ヴィンセント様は社交があまり得意ではないご様子で、その分、とても素直な感想をたくさん聞かせてくださいましたの」
ルシアの言葉は、どこか温かな余韻を含んでいた。
その響きが、エリオットの胸を静かに苛立たせる。
「その素直さにつられて、私も気負わず自然体でお話ししてしまいましたわ。おかげで、とても心地よい時間でしたの」
その言葉が、鋭い刃のように胸元へ突き刺さる。
心地よい時間? その響きのひとつひとつが、エリオットの理性を静かに、しかし確実に蝕んでいく。
表面上はいつもの穏やかな微笑みを崩さないまま、内側では黒い感情がじわじわと広がっていくのを感じた。
「ふーん……君がそんなふうに言うなんて、珍しいな」
エリオットは軽く笑いながらも、わざと気だるげな口調で呟く。その声音は柔らかいのに、言葉の端々には無意識の苛立ちが滲んでいる。
彼は歩みを少し緩め、ルシアの横顔をちらりと窺った。
「まあ、私は誰とでも穏やかに接しているつもりですわ」
ルシアは変わらぬ微笑みを浮かべながら、静かに答える。相変わらず完璧な淑女らしい顔だ。
だが、エリオットはその微細な変化を見逃さない。
ほんのわずかに伏せた睫毛、その影に隠された僅かな躊躇いが、彼の神経を刺激する。
「いや、そういうことじゃなくてさ」
エリオットは足を止めかけたが、すぐに歩を再開する。
その間にも彼の視線は、横目でしっかりとルシアを捉えていた。表情は変わらず柔らかく、それでも瞳の奥には鋭い光が宿っている。
「君が誰か特定の人との時間を、そんなふうに楽しそうに話すのは珍しい気がしてね」
その言葉は、無邪気な観察を装った、静かな探りだった。
エリオットはその返答を待ちながら、心の奥で答えを恐れている自分に気づく。
ルシアは一瞬だけ視線を宙に彷徨わせ、ふっと微笑んでまつげを伏せる。その仕草は優雅で、まるで本音を巧みに隠す仮面のようだった。
「ふふ、初めての市井散策で浮かれてしまったのかもしれませんわね」
その穏やかな口調の奥に、曖昧な余白が残される。
エリオットは微笑みを保ちながらも、その余白の意味を探るように、ルシアの横顔をじっと見つめていた。
心の奥底で、彼女の世界に自分以外の誰かが入り込んだことへの苛立ちが、静かに、しかし確実に膨らんでいくのを感じながら。
「……そう」
ただその二文字を絞り出すまでに、彼の心の中では様々な感情が渦巻いていた。
素直な感想? 自然体で? それはつまり、自分が与えられていないものを、ヴィンセントが与えたということなのか。
エリオットは笑顔を保ちながら、ルシアの言葉を心の中で何度も繰り返した。
その響きが、まるで自分の価値を試されているかのように感じられる。
彼は誰よりも社交的で、場を和ませ、完璧な貴族として振る舞う術を知っている。
人々の心を掴むために必要な言葉は選び抜かれ、洗練された態度は常に整えられている。
だからこそ、「素直な言葉」 などというものは、彼の辞書には存在しないものだった。
そして気づく。
ルシアもまた、自分の前では常に完璧な淑女の仮面を纏っていることに。
彼女の本心は、その奥に隠されていて、自分が見ているのは仮面の一部に過ぎない。
今まで、ルシアが誰かに心を寄せる姿を見たことはなかった。彼女は誰からも崇められ、敬われ、遠巻きに憧れられる存在だった。だからこそ、自分以上に彼女にとって特別な存在が生まれるはずがないと、疑うことすらしなかった。
自分こそが、彼女にとって唯一無二の存在であると。
彼女を籠の中に閉じ込める必要などないと思っていた。ただ隣に立ち、自由に空を飛ばせておけばいい。それでも、彼女の心は常に自分のもとに戻ってくると信じていたからだ。
けれど——
今、目の前にいるルシアは、知らない顔をしている。
隠しているが、ほんの少しの言葉、些細な笑顔。その一つひとつが、自分の知らない感情の片鱗を映し出している。
それは彼女が自分以外の誰かに向けた、初めての心の揺らぎだった。
その存在が、ヴィンセントであるという現実が、静かに、しかし確実に胸の奥を蝕んでいく。
「ヴィンセントは確かに優しいからね。きっと君のことも丁寧に気遣ってくれたんだろう」
その言葉はあくまで平静を装いながらも、無意識に棘を含んでいた。
ルシアはそれ以上何も言わず、ただ穏やかに微笑んだ。
その沈黙が、エリオットにとっては最も残酷だった。
返事がないということは、肯定も否定もされないまま、嫌な想像だけが膨らんでいってしまう。
エリオットは微笑みながらも、視線の奥に押し込めた感情が静かに滲んでいた。
表向きは朗らかで余裕のある婚約者の顔を保ちながら、内心では抑えきれない苛立ちと焦燥が胸の奥で燻っている。
けれど、彼女を睨むことなんてできない。
ただ、胸の奥が締めつけられるほどに愛おしいだけなのだ。
この手に閉じ込め、どこにも行かせず、自分だけのものにしてしまいたいという衝動が、静かに膨れ上がっていく。
「よそ見をするな、婚約者なのだから」と叱ることができたなら、どれほど楽になっただろう。
だが、ルシアは自分の立場をわきまえ、誠実に僕を尊重してくれている。
彼女が道を踏み外すことは決してない。それはわかっている。
それなのに――彼女の心は、ほんの少しずつ、僕ではない誰かへと傾いている気がする。
心に嘘はつけない。
彼女が衝動的な過ちを犯すことはないだろう。婚約者であり続けてくれるとも思う。
けれど、心がここになければ、それにどんな意味がある?
エリオットの目は優しさを装いながらも、その奥には独占欲と支配欲が冷たい光のようにひそんでいる。
彼女が微笑むたび、その理由が自分ではないことへの悔しさが、じくじくと心を焼いていく。
ルシアをこの手に閉じ込めてしまいたい。
何も考えられなくなるほど、彼女のすべてを支配したい――。
——どうして、僕だけを見てくれない?
その叫びは、声にならないまま胸の奥に押し込められ、彼の微笑の奥で静かに、しかし確実に燻り続けていた。
彼女は自由でいい。ただし、心だけは、自分だけのもののままでなければならない。
その理不尽なまでの独占欲が、静かに、しかし確実にエリオットの胸の奥で燃え広がっていた。
「ですが、私は婚約者がいる身ですもの」
ふいに、ルシアがふわりと微笑みながら言葉を紡ぐ。
その微笑みは相変わらず穏やかで、完璧な貴族令嬢としての優雅さに満ちていた。
しかし、その瞳がほんの一瞬だけ、エリオットの目をまっすぐに捉える。その視線はあまりに真っ直ぐで、曇りひとつない透明さが、かえって彼の胸に不穏なざわめきを生じさせる。
「エリオット様がいてくださるのに、他の方に目移りすることなどありませんわ」
その言葉は、一見すると愛らしく忠誠を誓うかのように聞こえる。
けれど、エリオットの心には別の感情が生まれていた。
まるでそれが、彼を安心させるための言葉ではなく、試すような響きを含んでいるように思えてならなかった。
「……そうか」
彼は無意識に拳を握りしめかけ、すぐにそれをほどく。
手のひらにうっすらと汗が滲んでいることに気づき、心の奥で苦笑する。彼女のたった一言で、これほどまでに動揺する自分が滑稽に思えた。
「……ルシア」
呼びかける声は、思った以上に低く掠れていた。
ルシアは足を止め、静かに振り返る。
その顔には変わらぬ穏やかさが宿っている。疑念も不安も微塵もないような、完璧な笑顔。
「どうしました?」
その問いかけは柔らかく、まるで彼の動揺を包み込むような優しさすら感じられる。
しかし、それがかえってエリオットの胸を締めつける。彼はほんの少しだけ視線を逸らし、息を整える。
「僕は……君のことを信じているよ」
ようやく絞り出したその言葉は、思っていたよりも重く響いた。自分自身に言い聞かせるような、確かめるような響きがそこに宿っている。
ルシアは一瞬だけまばたきをした後、ふわりと微笑んだ。
「ええ、それはよく存じておりますわ」
その返答はあまりにもあっさりとしていて、彼の胸にまた別の痛みをもたらす。
疑問すら抱かぬようなその口調が、逆に彼の不安を刺激するのだ。
彼女は本当に、自分のことを婚約者として見ているのか? それとも——。
エリオットは答えを求めるようにルシアの横顔を見つめた。
しかし、彼女の顔はあまりに完璧で、感情の揺らぎを一切感じさせない。
それがひどく悔しかった。
沈黙のまま二人は歩き続け、やがてサロンの前にたどり着く。
扉の前でルシアは立ち止まり、エリオットに向けて最後の微笑みを浮かべた。
それは誰が見ても完璧な微笑みだったが、エリオットにとっては、何かが欠けているように思えてならなかった。
その答えを知ることはできないまま、二人はサロンの扉を開けた。
サロンに足を踏み入れた途端、華やかな笑い声と紅茶の香りが迎え入れた。
格式高い貴族の子女たちが談笑し、優雅にティーカップを傾ける中、ルシアとエリオットが姿を現すと、まるで波紋のように一斉に視線が集まった。
「ルシア様、お待ちしておりましたわ」
「ご一緒できて嬉しいですわ」
少女たちの声が甘やかに響く。
その視線は憧れと敬意に満ち、ルシアの存在がまるでこの場の光そのものであるかのように、皆の目に映っていることがわかる。
ルシアは穏やかな微笑みを浮かべ、優雅に会釈を返した。
その柔らかな佇まいは、まるで聖母のような慈愛に満ち、そこにいるだけで場の空気を一層華やかにする。
エリオットもその隣で微笑み、表向きは朗らかで余裕のある婚約者の顔を保っているが、その実、彼女の些細な変化を見逃すまいと探るような視線を向けていた。
「まあ、ルシア様。今日もとってもお美しいですわ」
令嬢ぼ一人が憧れと羨望の入り混じった瞳で声をかける。
「ふふ、そんなふうにおっしゃっていただけるなんて。お優しいお言葉、とても嬉しいですわ」
ルシアはふんわりと微笑み、優雅に会釈する。
その柔らかな表情と言葉が、まるで春の風のように場の空気を和らげ、自然と周囲の令嬢たちを惹きつけていた。
エリオットはルシアの横顔を盗み見る。
その瞳の奥に、ほんのわずかな陰りが宿っているように感じた。普段なら気づかないほどの微細な揺らぎ。しかし、今の彼にはそれが鋭く胸に刺さった。
周囲の令嬢たちは次々と二人に声をかけ、ルシアとエリオットの存在を華やかに彩る。
けれど、エリオットの耳に響くのは、ルシアの柔らかな声と、彼女がふと見せる僅かな沈黙だけだった。
そんな中——
「エリオット様、どうかしら? 今日のお茶、お気に召しました?」
その令嬢は、わざとらしいほど甘い声で問いかけ、エリオットの袖にそっと指先を添えた。
控えめな仕草の中に、意図的な親密さが滲む。周囲の視線を気にもせず、あえて彼との距離を詰めるその態度は、貴族令嬢として慎みを欠いていた。
以前からエリオットに好意を寄せている令嬢だった。
エリオットは、これまで曖昧な優しさを見せつつも、確実に距離を保ってきた。
しかし、今日は違う。
エリオットは、わざと視線を逸らさず、にこやかな笑みを浮かべたまま令嬢の目をまっすぐに見つめる。そして、ごく自然な流れで彼女の手に軽く触れた。
その指先は、ほんの一瞬——礼儀としては少し長すぎるほどの時間、意味深に留まった。
「うん、美味しいよ。それに、君のおかげで余計に美味しく感じるかも」
その言葉は、社交辞令にしては甘すぎた。
令嬢はその瞬間、嬉しさを隠しきれないように頬を紅潮させ、目を輝かせた。
そして、わずかに視線をずらし、ルシアへと向ける。その顔には、得意げな笑みが浮かんでいた。
「あら!光栄ですわ。エリオット様にそう言っていただけるなんて。先日もエリオット様は私の選んだお茶を褒めてくださいましたものね」
その言葉は、まるで何気ない一言のようでいて、ルシアへの当てつけとして放たれた鋭い刃だった。
ルシアは淡い琥珀色の紅茶を優雅に口元へ運び、穏やかに微笑んでみせる。
その表情は完璧な貴族令嬢としての優雅さを保っていたが、エリオットは見逃さなかった——ルシアの指先がほんのわずかにカップの持ち手を強く握り締めたことを。
すぐに微笑みを整え揺らぎを覆い隠したが、ほんの一瞬、ルシアの瞳がかすかに揺れたように見えた。
——今、少しだけ強く握った。
君は……本当に何も感じていないわけじゃないんだな。
エリオットの胸の内で、言い知れぬ愉悦と焦燥が同時に燃え上がる。それは、確かに彼が求めていた反応だった。
彼女の心の奥には、確かに自分への感情が存在している。その事実だけで、胸の奥がひどく満たされるのだった。
「エリオット様は本当にお優しいのね。こんな素敵な方に婚約者がいらっしゃるなんて、世の女性たちは悲しんでしまいますわ」
「エリオット様は、もっと私たちともお話ししてくださるべきですわ。学院中の誰もが、エリオット様のお話に耳を傾けたいと思っておりますのよ」
「ねぇ。ルシア様は、エリオット様がお忙しくて寂しくなったりしませんの?」
その問いが投げかけられた瞬間、サロンの空気がわずかに変わった。
軽やかな笑い声が止まり、周囲の視線が一斉にルシアへと集まる。
エリオットは、ほんの僅かな期待を胸に彼女の横顔を見つめた。
彼女は、何かを感じてくれているのだろうか――。
だが、ルシアは変わらぬ微笑みを浮かべたまま、ティーカップを静かにソーサーに戻した。
その優雅な仕草の中に、感情の揺らぎは一切見えない。
「寂しい、ですか?」
ルシアはそっとティーカップの縁に指を添え、考えるようにまつげを伏せた。その長い睫毛の影が頬に落ち、まるで静かな湖面に映る月のように淡く揺れる。
「いいえ、そのように感じたことはありませんわ。」
その言葉は、涼やかに響いたが、エリオットの胸には冷たい針のように突き刺さった。
問いかけた令嬢が目を丸くし、驚きの色を隠せず更に問い返す。
「まあ……どうして?」
ルシアは穏やかな微笑みを保ったまま、柔らかな声で言葉を紡ぐ。
その瞳はどこまでも澄んでいるのに、ふとした瞬間、かすかな翳りが宿ったようにも見える。
「だって、エリオット様が以前おっしゃったのですもの。婚約者だからといって、特別に時間を共にしなくてもいい。私たちはそれぞれ自由に過ごすべきだ、と」
その言葉は、刺すような鋭さではなく、まるで柔らかな絹の布越しに伝わる温かな記憶のようだった。ただ、そこに滲むのは無邪気な同意ではなく、少しだけ寂しさを抱えたような響き。
「……!」
エリオットの表情が一瞬だけ強ばる。
ルシアはただ、過去に彼が口にした言葉を繰り返しただけ。その言葉には何の非難も責めもない。
それなのに、胸の奥に鈍い痛みが走るのはなぜだろう。
ルシアは、ふわりと微笑みを深め、淡々と続けた。
「私はなるべく、婚約者であるエリオット様のご意向に従おうと思っておりますの。ですから、私は私で自由に過ごしておりますわ」
ティーカップを静かに置くと、その指先はどこまでも優雅で揺るぎない。
「最近は、よくご一緒に穏やかな時間を過ごす方もできましたの。ですから、寂しく思うことはございませんわ」
令嬢の一人が、興味深そうに声を上げる。
「まあ……それでは、ルシア様が近頃ヴィンセント様とご一緒に過ごされるのは、そういったお考えからでしたのね?」
その無邪気な言葉に、サロンの空気が少しだけ張り詰めるのを感じた。
エリオットは微笑みを保ちながら、胸の奥で蠢く感情を必死に押し殺していた。
「ルシア様って、本当にお心が広いのですわね。普通のご令嬢なら、ご婚約者様が忙しくされていたら寂しく思うものなのに」
令嬢たちの話し声が静かに広がる。その何気ない言葉の波紋が、エリオットの胸の奥深くまで染み込んでいく。彼は無意識にティーカップを持ち上げたが、指先に力が入りすぎていることに気づく。
喉元が詰まり、何も言葉が出てこない。ただ微笑みを作り続けることで、自分の内側のざわめきを誤魔化そうとする。
「それにしても、ヴィンセント様ったら本当にお優しいですわよね」
「ルシア様とご一緒する時間が増えたことで、きっとますますお近づきになったのでしょう?」
「もしかして、エリオット様よりもルシア様と過ごす時間が長いのでは?」
令嬢たちの試すような言葉が、次々と降り注ぐ。
エリオットは心の中でその言葉を振り払おうとしたが、無意識に拳を膝の上で握りしめていた。
そんな空気を和らげるかのように、ルシアが静かに口を開いた。
彼女の声は、まるで冷たい水面に一滴の温かな雫が落ちたように、周囲の空気を穏やかに変えていく。
「皆様、どうか誤解なさらないでくださいませ」
ルシアは微笑みを絶やさず、けれどその瞳の奥にわずかな翳りを宿していた。
その微かな陰りは、見る者の心にほんの少しだけ寂しさを滲ませる。
「ヴィンセント様とは、エリオット様のご厚意により、クラスメイトとして親しくさせていただいておりますの」
その言葉は、誤解を解くためのものだったはずなのに、どこか儚げな響きを帯びていた。
まるで、言葉の奥に隠された想いを覆い隠そうとするかのように。
「……ええ?」
令嬢たちが驚きの声を漏らす。その中でもルシアは微笑みを保ち、穏やかに続けた。
「エリオット様ご自身が、おっしゃっていたのですわ」
その声はどこまでも優しく、どこまでも柔らかい。
しかし、ふとした瞬間、微かに寂しさが滲んだ気がした。
「クラスメイトとしてこれからも僕の婚約者と仲良くしてあげてよ、と――」
エリオットの表情が引きつる。
確かに、そう言った。
完全に自業自得だ、余裕を演じたせいで、こんなことになるとは。
ここまで自分の首を絞めることになるとは考えていなかったのだ。
そもそも、あれはただの建前に過ぎなかったのに。
ルシアが誰かと親しくなることを、本心では微塵も許せるはずがなかった。
心の奥では、自分だけが特別な存在であるはずだという確信があったはずなのに、その脆い期待が今、音を立てて崩れていく。
自分が、ルシアへの執着を隠すために、余裕のある婚約者を演じた。
その余裕が、皮肉にも彼女との距離を生むことになるとは思いもしなかった。
「まぁ、それはずいぶんヴィンセント様のことを信頼されているのですね」
令嬢の一人が、興味深そうに微笑んで声を上げる。
その表情には無邪気な好奇心が滲んでおり、軽い世間話の延長のようだった。
「お二人とも侯爵家のご子息ですし、何かと通じ合う部分も多いのでしょうね」
「以前から親しくされていたのかしら? 幼少期に交流があったのですか?」
「それでしたら、ヴィンセント様にルシア様をお任せするのも安心ですわね。信頼できるお方にお預けするのは、とても素敵なことですもの」
令嬢たちは次々と声を弾ませ、まるで仲睦まじい友人同士の関係を微笑ましく称えるかのように言葉を交わす。その声音には悪意の欠片もなく、無邪気な好奇心と貴族社会特有の軽やかな社交辞令が混ざり合っていた。
紅茶の香りが漂う優雅なサロンの空気の中で、その言葉は朗らかな音楽のように響き渡る。
エリオットは微笑みを崩すことなく、余裕のある態度を完璧に演じていた。
しかし、胸の奥では、冷たい棘が静かに突き刺さる感覚に苛まれている。彼女たちの無邪気な言葉は、まるで見えない糸となって彼の理性を静かに締め付けていく。
ルシアは変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべ、優雅にカップを傾けていた。
その横顔は完璧に整った貴族令嬢の仮面を被ったまま、まるでこの場の空気を何も乱していないかのように静かで美しい。
エリオットは、この状況を打破するために何かを言おうと、口を開きかけた。
だが、言葉は喉の奥で詰まり、声にならない。
心の奥底に渦巻く感情が、適切な言葉として形を成す前に、ルシアの柔らかな声がそれを遮った。
「彼は、本当に優しく、素晴らしい方なのですわ」
ルシアの静かな言葉が落ち着いた空気に溶け込んだ瞬間、サロンの一角にかすかなざわめきが広がった。令嬢たちは微笑みを交わしながら、興味深げに視線を寄せ合う。
その反応は決して無遠慮なものではなく、控えめな仕草の奥に隠された淡い好奇心が滲んでいた。
ルシア・ウェストウッド――その名が意味するのは、ただの公爵令嬢ではない。
社交界の誰もが憧れる存在であり、誰からも一歩距離を置かれるような完璧な存在。
その彼女が、珍しく「素晴らしい」と評する相手がいるという事実だけで、令嬢たちの胸には自然と小さなざわめきが生まれてしまう。
「まあ、ルシア様がそうおっしゃるなんて……」
「ヴィンセント様と、そんなに親しくされているのですね?」
「ご一緒に過ごされるお時間、きっと楽しいのでしょうね」
令嬢たちの声は穏やかで柔らかく、決して無礼な響きではない。
ただその言葉の端々に、ほんの少しの憧れと好奇心が滲んでいた。ルシアの周囲には、これまで特別親しい人物がいたわけではない。それだけに、彼女の隣に立つヴィンセント・アルスターという存在は、自然と人々の関心を集めてしまう。
それが友情なのか、それとも別の何かなのか――事実は重要ではない。
重要なのは、ルシアがこれまで誰にも向けなかった親しみの視線を、誰かに向けたという事実だった。
「ルシア様のご学友としてヴィンセント様がいらっしゃるのは、とても心強いですわね」
「お二人で歩かれているお姿、とてもお似合いでしたわ」
軽やかな声とともに、ささやかな笑いがサロンに満ちていく。
その明るさはどこか無邪気で、ただ憧れの人の“親しい方”について語る楽しさに満ちていた。
エリオットは、その輪の中で穏やかな微笑みを崩さずにいた。
その表情は完璧だった。けれど、内側では微かに疼く感情が静かに広がっていく。
ルシアの名が、ルシアの微笑みが、自分以外の存在と共に語られることへの違和感と苛立ちを、決して言葉にはしないまま。
「エリオット様」
ふと、ルシアが静かに口を開いた。その声音は穏やかで、まるで先ほどの騒がしい空気を和らげるかのような柔らかな響きを帯びている。
「そろそろ、お時間ではなくて?」
微笑みを絶やさずに、しかしどこか控えめな気遣いを含んだその言葉に、エリオットはハッと我に返る。
彼女の瞳には責める色も、苛立ちもない。ただ静かに、彼の意志を尊重するような透明な優しさが滲んでいた。
「……ああ、そうだったね」
彼はわずかに目を伏せ、周囲の子女たちへ形式的な笑みを浮かべた後、立ち上がる。
椅子の脚が床をかすかに擦る音が、サロンの華やかなざわめきの中に沈んでいった。
ルシアは優雅に立ち上がり、エリオットの隣に並ぶ。二人は何事もなかったかのように扉へ向かって歩き出すが、エリオットの胸の奥は騒然としていた。
廊下へ出た瞬間、エリオットは無意識に深く息を吐き出す。その息は、まるで胸の内側に溜まった見えない棘を吐き捨てるかのようだった。
「ルシア」
唐突に名を呼んでしまう。彼女の名前を呼ぶことで、どうにか自分の感情の均衡を保とうとするように。
「?」
ルシアはすぐに立ち止まり、ゆるやかに振り返る。
その顔には変わらぬ穏やかな微笑みが浮かび、まるで先ほどのサロンでのやり取りなど、心に何ひとつ波紋を残していないかのようだった。
その無垢な表情が、エリオットの心を不意に締めつける。
「……何でもないよ」
喉元までせり上がった言葉は、結局そのまま飲み込まれてしまう。ただの一言すらも、彼女の前では不器用に形を失ってしまうのだ。
――やってしまった。
エリオットは内心で自嘲気味に思う。ルシアに嫉妬させようとしたのだ。
あのサロンで、誰の目にも明らかな意図を隠し、あえて他の令嬢たちと親しげに振る舞った。
彼女の心を揺さぶることで、自分への特別な感情を引き出せると、そう思っていた。
だが、それは不用意に彼女を傷つけただけだった。
ルシアは終始変わらぬ微笑みを湛え、彼の浅はかな試みなど、まるで気にも留めていないかのように見えた。
その完璧な微笑みの奥に何が隠れているのか、エリオットは知ることができなかった。
ただ一つ、確かに感じたのは、自分の心が思い通りにならない苛立ちと、どうしようもない不安だった。
さらに追い打ちをかけるように、過去に自分が吐いた言葉が、今になって首を絞める鎖となる。
「婚約者だからといって、特別に時間を共にする必要はない」と軽く口にしたあの言葉が、今となっては鎖のように彼自身を縛っている。
きっと今日の会話はすぐに学院中に広まるだろう。
エリオット・アシュフォードは、ルシア・ウェストウッドとヴィンセント・アルスターの親しい仲を認めている――
まるで自分が、その関係を許容したかのように。
そんなこと、許せるはずがないのに。
自分のもののはずの彼女が、他の誰かと親しく語らい、微笑みを交わす。それを認めるふりをするしかない現実が、胸を引き裂くように痛む。
「……けれど、今は、まだ」
今は、まだ、この想いを押し込めておくしかない。
胸の奥に膨れ上がる嫉妬と独占欲が、もうこれ以上抑えきれなくなるのも時間の問題だった。
だが、その時が来るまでは、穏やかな婚約者としての仮面を被り続けるしかない。
この感情が、いつか彼女を手に入れるための力になると信じて――。
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