近づく距離と確信
王立貴族学院の朝は、いつもと変わらない静謐な空気に包まれていた。
格式ある石造りの建物が規則正しく並び、敷石が敷かれた中庭には、涼やかな朝の光が差し込んでいる。
整然と手入れされた庭園の花々が風に揺れ、季節の移ろいを静かに告げていた。
そこを行き交うのは、貴族の子女たち。気品ある制服に身を包み、優雅な足取りで登校する彼らの姿は、まさにこの学院が誇る伝統と格式を体現していた。
しかし、最近はどこか違う空気が漂っていた。
その変化は、微細でありながらも確かに存在している。まるで、誰かが小さな一石を静かな湖面に投じたかのように、見えない波紋がっていた。
その中心にいるのは、公爵家ウェストウッドの令嬢、ルシア・ウェストウッド。
「社交界の白百合」と称され、誰もが憧れの眼差しを向ける存在だ。彼女が学院の中庭を歩くだけで、周囲の空気が自然と華やぐのだから不思議だった。
「おはようございます、ルシア様」
穏やかな声が、朝の澄んだ空気の中に柔らかく溶け込む。
声の主は、侯爵家アルスターの次男、ヴィンセント・アルスター。
冷静沈着で知られる彼の落ち着いた佇まいは、華やかな貴族たちの中でもひときわ静かな存在感を放っている。
ルシアはその声に気づき、ゆっくりと振り向いた。
長い睫毛の影が頬に落ち、透き通るような瞳が彼を捉える。その瞬間、ふわりと微笑んだ。
「おはようございます、ヴィンセント様」
それは学院の誰もが見慣れた、淑女の鑑とされる完璧な微笑み——そのはずだった。
だが、彼だけは気づいてしまう。
ほんのわずかに揺らぐその表情の奥に、他の誰にも見えない小さな違和感が潜んでいることに。
その表情が、いつもとは少し違うことに。
微かに緩んだ口元、ほんのり柔らかな瞳の揺らぎ。形式的な挨拶以上の、かすかな温もりが宿っていることに。
ヴィンセントの胸は、ひそやかに高鳴る。
けれど彼は、変わらぬ穏やかな表情で微笑み返した。
ルシアとヴィンセントが、先日の街への外出以来、以前よりも明らかに距離を縮めていることは、クラスの誰の目にも明らかだった。
それまでもヴィンセントは、優れた学識と礼儀正しさでルシアに一目置かれていたが、彼女はあくまで公爵令嬢としての矜持を保ちながら、貴族令嬢らしい適切な距離感を守っていた。
——だが、最近は明らかに違う。
ルシアの視線は、ヴィンセントを探すように向けられることが増えていた。
彼が話すたび、ほんの少しだけ頬が緩む。返される言葉には、以前にはなかった親しみの色が滲んでいる。
そして、なにより——彼女は少しだけ気を許したような仕草を見せるようになったのだ。
例えば、ふとした瞬間に視線が重なった時、すぐには逸らさずに優しく微笑むこと。
会話の合間に、さりげなく彼の意見に耳を傾け、頷きを返すこと。
そんな些細な変化が、ヴィンセントにとっては何よりも特別な証となっていた。
学院という格式に縛られた世界の中で、ほんのわずかな心の揺らぎ。
それは、誰よりも繊細に彼の心を震わせた。
——確かに、彼女は今、少しだけ自分に近づいている。
そう思えるだけで、ヴィンセントの胸は温かなもので満たされるのだった。
「ルシア様、よろしければ後ほど、書庫へご一緒しませんか?」
ヴィンセントが穏やかな声で誘うと、ルシアは一瞬だけ瞳を伏せた。
長い睫毛が頬に淡い影を落とし、その仕草はまるで静かな湖面に落ちる一滴の雫のように、儚く美しかった。
「今日はサロンでお茶会の予定がございますの……」
ルシアは申し訳なさそうに微笑み、こちらに視線を寄越す。
その声には、どこか寂しげな響きが混じっていた。
「そうでしたか。無理を言ってしまいましたね」
ヴィンセントは柔らかく微笑みながらも、ほんの少しだけ残念そうな色を滲ませる。
「日を改めましょうか?」
そう優しく気遣う声に、ルシアは小さく首を振った。瞳をそっと上げ、少しだけためらうように言葉を紡ぐ。
「いえ……少しの時間になりますが、ご一緒してもよろしいかしら? ひとときでもご一緒できたら嬉しいものですから……」
ルシアは控えめに微笑みながらそう告げた。
その言葉は穏やかで柔らかく、けれどどこか胸の奥に温かな余韻を残す。
——ひとときでも、ご一緒できたら嬉しい。
その一言が、ヴィンセントの心にまるで光が差し込むように響いた。
まさか彼女が、自分と少しでも一緒に過ごしたいと思ってくれたなんて——。
その事実だけで、胸が跳ね上がる。理性が追いつくよりも先に、心が歓喜で膨れ上がり、抑えきれない鼓動が早鐘のように鳴り響く。
「も、もちろんです! そのお言葉だけで、十分すぎるほど光栄です」
声がわずかに上ずったことに気づき、慌てて咳払いをして取り繕う。
それでも頬の熱は誤魔化しきれず、視線を逸らす瞬間に赤く染まった顔が露わになる。
ルシアの微笑みが視界の隅で揺れて、また胸がきゅっと締めつけられるようだった。
たったそれだけのやり取りなのに、まるで世界が二人だけで満たされているかのような錯覚すら覚える。
その瞬間、ヴィンセントの心は確かに、ルシアという存在でいっぱいになっていた。
二人のやり取りは、周囲の生徒たちの目を自然と引きつけていた。
学院内の廊下を歩く者たちは、ちらりと視線を投げ、興味深げにささやき合う。
ルシアは学院内で誰もが一歩引いた敬意を持って接する絶対的な存在だ。
そんな彼女が、特定の相手と親しげに会話を交わす姿は、誰にとっても新鮮で、少しだけ驚きを伴う光景だった。
「……ヴィンセント様とルシア様、最近とても仲が良いですわね」
「ええ、なんだかまるで恋人同士のようにも見えてしまいますわ」
小声で交わされるささやきが、微かな風に乗ってヴィンセントの耳に届く。
普段ならば気にも留めない言葉。しかし今だけは、その響きがやけに鮮明で、心の奥に静かに落ちていく。
ちらりとルシアに目を向けると、彼女はその噂を聞いているはずなのに、気にする素振りも見せず、ただ穏やかな微笑みを浮かべていた。
その笑顔はどこまでも自然で、まるで周囲の視線や噂話すらも優雅に受け流すかのようだった。
——いや、違う。
ヴィンセントは気づく。その微笑みは、ただ無関心なのではない。
むしろ、どこかでそれを“受け入れている”ように見えた。
まるで、その囁きが否定する必要もないものだとでも言うように。
心の奥で静かに広がる、熱と疼き。
彼女が自分の隣にいることを、まるで当然のように受け入れてくれている——その事実が、何よりも嬉しく、そして愛おしかった。
「それでは、参りましょうか?」
ルシアが優雅に歩き出す。
その後ろ姿を見つめながら、ヴィンセントはそっと微笑み、彼女の隣へと歩み寄った。
二人の距離は、言葉では説明できないほど、確実に近づいていた。
午前の講義が終わり、ルシアとヴィンセントは約束通り書庫へ向かった。
学院の書庫は高い天井と大きな窓から差し込む柔らかな光が静寂を包み、重厚な木製の書棚が整然と並んでいる。背表紙の革装丁が年月の重みを物語るその空間には、知の香りが満ちていた。
「どのあたりの本をお探しですか?」
ヴィンセントが穏やかに尋ねると、ルシアは少し首を傾げ、微笑んで答えた。
「歴史書を少し。先ほどの講義で気になることがありまして」
「なるほど。それなら、こちらの書棚に良いものがあります」
彼は軽く手を差し伸べ、自然な所作でルシアを案内する。
その手の動きはどこまでも紳士的で、しかしルシアの隣に立つ彼の横顔には、静かな高揚感が宿っていた。ルシアは礼を言いながら、ほんの少しだけ距離を縮めてその後を歩く。
本棚の前に並び、ヴィンセントが一冊の本に手を伸ばした瞬間、ふとした偶然で二人の手が触れた。
「……」
一瞬の静寂が、二人の間に流れる。
ルシアは驚いたように目を瞬かせ、指先をそっと動かした。
そのまま手を引くが、その動作はわずかに遅く、拒絶の意図は感じられなかった。むしろ、指先に残る温もりを惜しむかのような、淡い余韻がそこにはあった。
ヴィンセントの喉が無意識に動き、胸の奥が熱を帯びる。
——今なら、彼女をもっと深く知ることができるのではないか?
——彼女の心に、少しでも触れることができるのではないか?
そんな思いが、理性の壁を静かに揺さぶる。
「……この本など、いかがでしょう?」
声がわずかに掠れたのは、感情を抑えきれなかったからかもしれない。
ヴィンセントは慎重に選んだ一冊を差し出す。その表紙は古びているが、深い青の装丁が静かな品格を漂わせている。
「まあ……素敵ですわね」
ルシアは本を受け取り、そっと背表紙を指先で撫でる。
その動きは静かでありながら、どこか繊細な優美さを感じさせた。
ページをめくる彼女の横顔が、柔らかな光に照らされて儚く美しく映る。
ヴィンセントはその横顔に見惚れたまま、思わず声を漏らす。
「……ルシア様」
彼女がゆっくりと顔を上げ、ふわりと微笑んだ。
その微笑みは誰に向けられたものでもない、確かにヴィンセントだけのものだと、彼は信じたくなった。
その瞬間、静寂な図書室の中で、二人の距離がわずかに近づいた気がした。
心の奥で響く淡い鼓動が、確かなものとして刻まれていく。
ページを閉じたヴィンセントは、ふと顔を上げ、静かに肩の力を抜くように体をほぐした。
程よく続いた沈黙の余韻が心地よくもあり、どこか緊張を残していたのかもしれない。
その気配に気づいたのか、ルシアが穏やかな声でそっと問いかけてきた。
「少し外の空気を吸いませんか?」
ルシアの穏やかな提案に、ヴィンセントは自然と頷いた。
学院の庭園は静かな午後の光に包まれていて、気持ちのいい風が穏やかに頬を撫でる。
木々の間からこぼれる光が二人の影を寄り添うように重ねた。
並んで歩くその距離は、以前よりも自然で、心地よいものになっていることにヴィンセントは気づいていた。
「こうしてご一緒する機会が増えましたわね」
ルシアがふと微笑みながら口を開く。
その声は春風のように柔らかで、けれど心をくすぐるような優しさを含んでいる。
「ええ、私は……とても嬉しく思っています」
ヴィンセントの声は少しだけ低く、胸の奥から溢れる想いが自然と滲んでいた。
気づけば、彼女の隣を歩くこの瞬間が、かけがえのない宝物になっている。
「まあ、ヴィンセント様はお優しいのですね」
ルシアは微笑んで、ふと耳元の髪に触れた。
その仕草が無意識のものなのか、彼を意識したものなのか、ヴィンセントには分からない。ただ、彼の胸は甘く満たされていく。
少し沈黙が流れた後、ヴィンセントはそっと問いかけた。
「その髪飾り、気に入っていただけましたか?」
彼の声は静かで、けれどほんのわずかに緊張が滲んでいた。
ルシアはふわりと微笑み、指先で髪飾りに触れる。
その仕草だけで、胸が締めつけられるほど愛おしく感じる。
「ええ、とても。身につけていると、あの日のことを思い出しますわ」
彼女の言葉は、春の陽だまりのように温かく、ヴィンセントの胸に静かに広がった。
「そんなふうに思っていただけて光栄です」
ルシアが自分との時間を思い出してくれる、その事実だけで心が弾む。
「とても楽しかったから……つい思い返してしまいますの」
ルシアはふと彼の方へ視線を向ける。
その瞳には、どこか秘密を共有するような親しみが宿っていた。
「それは、私も同じです。あの日のあなたの笑顔が、今も胸に残っています」
ヴィンセントは立ち止まり、ルシアの横顔を見つめる。
その声は、心の奥底から溢れるままに紡がれていた。
「まあ……」
ルシアはふと足を止め、わずかに顔を赤らめた。
ほんの少し俯いた彼女の横顔が、柔らかな日差しに照らされて輝いている。
「私がルシア様を笑顔にできたなら、それだけで十分です」
ヴィンセントは静かに続けた。けれど、本心はそれだけでは到底足りない。
彼女の隣にいることだけでは、もう満足できない自分がいる。
——ルシア様は、どう思っていらっしゃるのだろうか?
そんな問いが、不意に胸の奥から湧き上がる。
答えのない問いなのに、彼女の瞳の奥にその答えを探してしまう自分がいる。
すると、ルシアが小さな声で呟いた。
「……それだけでは、少し物足りませんわ」
一瞬、頭の中で考えていたことを彼女に見透かされたのかと思った。
けれど、すぐに気づく。そうではない。
その瞬間、ヴィンセントの心が大きく跳ね上がった。
思わず呼吸が浅くなり、胸の奥で何かが崩れる音がした。
彼女の声は、あまりにも静かで控えめで、気づかなければ通り過ぎてしまいそうなほどだったのに——確かに、確かに彼の胸に深く刺さった。
ルシアは、いつも人の気持ちをおもんばかり、穏やかで控えめな女性だ。
自分の希望や欲を滅多に表に出さない彼女が、今、確かに「足りない」と言ったのだ。
その小さな囁きが、まるで彼を求めているかのように聞こえてしまった。
それは、ただのわがままではない。これは彼女が初めてヴィンセントに見せた小さな「欲望」だった。
それが——私を求めてくれている言葉だなんて。
偶然の言葉ではなく、ルシアも同じ気持ちでいてくれている。
そんな確信が、胸の奥で静かに芽吹いていく。
まるで、何もないと思っていた場所に埋もれていた宝石を見つけたような感覚だった。
ただの宝石ではない。その輝きが、自分だけのものかもしれないと思った瞬間、胸の奥がどうしようもなく熱く満たされていく。
誰かに贈られた宝石よりも、その存在を見つけたこと、そして自分だけが気づけたという事実が、何よりも尊く感じられた。
ヴィンセントの心は歓喜で震えた。
嬉しくて、胸がいっぱいで、どうしようもなく満たされていく。
言葉にならない感情が溢れ、ただ彼女の横顔を見つめることしかできなかった。
「……ルシア様」
再び彼女の名前を呼ぶ。その声は、先ほどよりも少し掠れていた。
彼女がゆっくりとこちらを向く。
微笑みを浮かべながらも、どこか照れくさそうなその表情が、ヴィンセントの心を完全に撃ち抜いた。
ヴィンセントの胸の中は、幸せと恋しさで溢れ返り、今にも爆発しそうだった。
だが、その幸福感は次の瞬間、不意に訪れた足音によって揺らいだ。
「ルシア!」
聞き慣れた声が空気を切り裂くように響く。
その声を聞いた瞬間、ヴィンセントの胸がぎゅっと締めつけられた。
振り向くとそこには、ルシアの婚約者エリオット・アシュフォードがいた。
いつものように朗らかな笑みを浮かべ、軽やかな足取りで二人に近づいてくる。
その姿は太陽のように明るく、周囲の学生たちも自然と視線を向けていた。
彼の後ろでは、彼を慕う学生たちがひそひそと何かを囁き合いながら、興味深そうにこちらを窺っている。
「やぁ、ルシア。……ああ、ヴィンセントもいたんだね」
エリオットは、まるでヴィンセントの存在など気にも留めていなかったかのように、軽く視線を流す。
その表情は穏やかで飄々としているが、目の奥には冷たい光がちらりと覗く。
まるで、そこに立っていること自体が偶然であり、彼にとって何の意味もないとでも言いたげな態度だった。
——白々しい。
ヴィンセントは内心でその態度を冷笑しながらも、表情には微塵の動揺も見せず、静かに返す。
「どうも、エリオット様」
その声には、表面上の礼儀正しさの奥に、鋭い棘が隠されていた。
「ルシア、サロンのお茶会の時間だよ。迎えに来たんだ」
エリオットは柔らかな声で続け、今度は視線をルシアへと移す。
その笑顔は誰が見ても理想的な婚約者のものだったが、ヴィンセントの目には、そこに隠された独占欲がはっきりと見えた。
「あら……エリオット様」
ルシアは一瞬だけ瞳を揺らすが、すぐにいつもの優雅な微笑みを浮かべて応える。
彼女の声は穏やかで、完璧な貴族令嬢の態度を崩さない。
その小さな間が、ヴィンセントにはまるで永遠のように感じられた。
——先ほどまでの、あの表情とは違う。
ヴィンセントの胸が静かに締めつけられる。
つい先ほど、はじめて見せてくれた彼女の小さな欲。
拗ねたような、どこか寂しげな声色。微かに揺れたその瞳と、感情の余韻が滲んでいた柔らかな表情。
あの瞬間、彼女は自分だけに心を開いてくれていたのだ。
今、エリオットを前にしたルシアは完璧な仮面を纏っている。
そこには、先ほど自分に向けてくれた親しげな愛らしさは影をひそめ、揺らぎすらも優雅さの中に巧みに溶け込んでいた。
——エリオット様には、素顔を見せないのか。
その事実が、ヴィンセントの胸にじわりと広がる。
甘く、そして苦しい痛みとなって。
なぜ自分には見せてくれたのか。
なぜ彼女は、婚約者であるエリオットには見せないのか。
答えのない問いが、ヴィンセントの心の奥で静かに渦を巻いた。
「わざわざ迎えに来てくださるなんて、ありがとうございます」
ルシアの声は柔らかく、礼儀正しい。だが、その目の奥にある小さな揺らぎを、ヴィンセントは見逃さなかった。
「君がいないと、みんな寂しがるからね」
エリオットは微笑みながら、さりげなくヴィンセントに視線を投げかけた。
その目は一見朗らかだが、奥底には鋭い光が宿っている。まるで確実にこちらを牽制する一撃を放つかのようだった。
「ルシア様は魅力的ですからね。誰もがそのおそばにいたいと思うのは、至極当然のことです」
ヴィンセントは穏やかな微笑みを崩さずに応じる。
しかし、その言葉には隠しきれない情熱が滲んでいた。
エリオットの口元がわずかに引き締まる。
しかし、すぐに飄々とした態度を取り戻し、肩を軽くすくめて余裕のある笑みを浮かべる。
「確かにね。でも、誰もが近づけるわけじゃないし。ルシアも困るから皆侍るのを遠慮しているんだけどね」
彼の声は軽やかで冗談めいている。だが、その言葉の裏には確かな刺が潜んでいた。まるで「お前はルシアにとって迷惑だぞ?」と言い聞かせてきているようだった。
二人の視線がぶつかり合う。
微笑みを浮かべたまま、まるで見えない剣を交わすような、緊張感が漂う。
ルシアは困ったように視線を揺らしていた。
細く長いまつげが伏せられ、唇が微かに揺れる。おろおろと視線を彷徨わせるその仕草が、ヴィンセントの胸をかすかに締めつけた。
「あの、ヴィンセント様、今日はお話しできて楽しかったですわ。またぜひご一緒してくださいませ」
ルシアは場を和ませようと、優雅な微笑みをヴィンセントに向ける。その瞳の奥にかすかな揺らぎが見えた。
ヴィンセントはその瞬間、胸の奥で甘く熱いものが膨らむのを感じた。
「もちろん、また喜んでお供させていただきます」
ヴィンセントは微笑みながらも、エリオットに負けじと視線をぶつける。
自分こそが、ルシアの隣にふさわしいのだという確信を込めて。
エリオットは軽く肩をすくめ、余裕のある笑みを浮かべながらルシアの隣へ歩み寄る。
「じゃあ、行こうか、ルシア」
「ええ……」
ルシアはほんの少しだけ戸惑うような表情を見せたが、すぐに優雅な微笑みを取り戻し、エリオットの隣へと並ぶ。
その歩みは穏やかで、けれどほんの少しだけ、ヴィンセントの方を振り返るような気配があった。
エリオットがルシアの手を取ることはなかった。
けれど、二人が自然に歩き出すその姿は、確かに「婚約者」としての立場を示しているように思えた。それが、ひどく眩しく、痛々しく映る。
ヴィンセントはその背中をただ黙って見送るしかなかった。
彼女の髪が揺れるたびに、あの日の記憶が鮮やかに蘇る。あの笑顔も、あの囁きも、あの微かな温もりも、すべてが胸の奥で甘く、しかし鋭い痛みへと変わっていく。
——彼女は、確かに私に心を開いているはずだ。
そう信じたいのに、彼女の微笑みがエリオットに向けられた瞬間、自信が揺らいでしまう。
あの優しい瞳は、果たして誰のためのものなのか。
それを確かめたい気持ちが、胸の奥で叫びを上げる。
彼の足は動かなかった。ただ、静かに拳を握りしめる。
悔しさと、切なさと、どうしようもない想いが混ざり合い、心の奥で渦巻いている。
——それでも、私は信じたい。
彼の恋は、もう後戻りできないほど深く、熱く燃え上がっていた。
その想いが、いつか彼女に届く日を信じて、ヴィンセントは静かにその場に立ち尽くしていた。
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