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肩越しの気配


工房街に足を踏み入れると、街の雰囲気ががらりと変わった。


市場の賑わいとは対照的に、ここでは職人たちが黙々と作業に打ち込む音が静かに響いている。槌音、金属の擦れる音、織機がリズムを刻む音が、まるで街全体がひとつの楽器のように奏でられていた。


店先には繊細な細工が施されたアクセサリーや装飾品がずらりと並び、陽光を受けてそれぞれが異なる輝きを放っている。その光景は宝石箱をひっくり返したかのようで、思わず足を止めたくなる魅力があった。


「まあ、見てくださいませ。とても可愛らしい髪飾りですわ」

ルシアの声が少しだけ弾んでいる。


彼女が立ち止まったのは、小さな工房の店先だった。

ショーケースの中で特に目を引いたのは、淡い花の装飾が施された銀細工の髪飾りだった。繊細な彫刻が光を受け、まるで本物の花びらがそこに咲いているかのような儚さを湛えている。


「ルシア様に、きっとお似合いになると思います」

ヴィンセントは、無意識にその言葉を口にしていた。視線は髪飾りよりも、すでに彼女の横顔へと向いている。

「そう思います?」

ルシアはふんわりと微笑みながら、そっと髪飾りに指先で触れる。そのしなやかな仕草に、ヴィンセントの喉がかすかに鳴る。


「ええ……誰よりも、ルシア様が一番お似合いです」

その一言は、飾りではなく彼女自身への賛辞だった。


ルシアは一瞬驚いたように瞬きをしたが、すぐにふわりとした微笑みに戻る。けれど、その瞳の奥には戸惑いと、どこか期待するような淡い光が揺れていた。


「よろしければお試しください」


店主の勧めを受け、ヴィンセントはルシアからそっと髪飾りを受け取る。

その瞬間、指先がほんのり震えるのを自覚し、思わず息を浅く整えた。


「失礼いたします」


ヴィンセントは慎重に、けれどどこかためらいを隠せないまま、ルシアの正面に立ち、そっと体を寄せる。彼女の絹のような髪が指先にふわりと触れた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。


髪への接触に、ルシアのまつ毛が微かに震える。目を伏せた彼女の頬は、ほんのりと桜色に染まっていく。ヴィンセントはその色づきを見逃さなかった。


「……」


髪飾りをそっと留め終えると、彼は思わず息を飲む。近すぎる距離。かすかに触れる吐息。

そして、ふわりと香るルシア自身のほのかな香りに、頭がくらりと揺れる。

柔らかく甘いその香りが、胸の奥深くにまで染み込んでいくようで、理性が微かに揺らぐのを感じた。


「とても……お似合いです」

ヴィンセントの声は、思わず囁き声に変わっていた。自分でも驚くほど低く、熱を帯びている。


ルシアは顔を上げ、彼を見つめ返した。その視線が絡んだ瞬間、時間がふと止まったような錯覚に陥る。彼女の瞳に映る自分の姿が、あまりにも近くて、息をすることすら忘れてしまいそうだった。


「まあ……ありがとうございます」

ルシアは微笑むが、その表情はどこか揺れていた。彼女の指が無意識に髪飾りに触れ、ヴィンセントの手と再びかすかに触れ合う。

その小さな接触に、ヴィンセントの胸は静かに、けれど確かに熱く満たされていった。


「本当に、よくお似合いです。まるで、貴族街の庭園に咲く朝露を纏った美しい花のようだ」

低く、穏やかに紡がれたその言葉に、ルシアの頬に淡い紅が差す。

「まあ……」

彼女は驚いたように微かに目を見開き、すぐにふわりと微笑んだ。

「ふふ、それほどまでに?」

問いかけは柔らかく、どこか照れ隠しのようでもあった。


「ええ。言葉にするのが惜しいくらいに、綺麗です」

ヴィンセントの声には、隠しきれない想いがにじんでいた。穏やかな微笑みの奥で、彼の心はひどく熱を帯びている。


ルシアは一瞬、視線を逸らすように髪飾りへと指を伸ばしたが、その手をそっと髪に添えながら微笑む。

「……それなら、このままつけていようかしら」

その言葉に、ヴィンセントの胸が高鳴った。ただの髪飾りが、今は二人の距離を縮める特別な存在に思える。


「でしたら、私に贈らせてください」

ヴィンセントは自然な流れで店主に代金を渡し、髪飾りを再びルシアのために整える。その手つきは優しく、まるで宝物を扱うようだった。


「まあ、それではまるで——」

ルシアはふと口をつぐみ、くすくすと笑った。その笑い声は鈴の音のように澄んでいて、ヴィンセントの胸の奥を甘く震わせる。


「何か?」

思わず問いかけると、ルシアは首を軽く傾けながら微笑む。

「いいえ、なんでもありませんわ。ただ……髪飾りを贈られるのは、なんだか特別な意味があるように思えて」

その言葉に、ヴィンセントは心臓が跳ねるのを感じた。


「そうかもしれませんね」

けれど、彼は穏やかさを崩さず、優しい笑みを返す。

「でも、今日の記念に……ルシア様に受け取っていただけると、嬉しいです」


ルシアは一瞬、まつげを伏せた。光がその長いまつ毛の影を頬に落とす。

「……」

沈黙の中、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、微かな戸惑いと、それを包み隠す優雅な微笑みが宿っていた。


「では、ありがたく受け取らせていただきますわ」

その声はささやくように柔らかく、けれど確かにヴィンセントの胸に響いた。

嬉しそうにふわりと笑うその仕草はあまりにも穏やかで、美しかった。

指先の温もりが心に焼き付き、甘く痺れるような感覚に包まれる。


——彼女が、もっと自分に心を開いてくれたのではないか。

——彼女が、少しでも自分に気持ちを寄せてくれているのではないか。


そんな淡い期待が、胸の奥で静かに膨らんでいく。彼女の存在が、気づけばもう、彼の心の大部分を占めていた。


「ルシア様」

ヴィンセントは、抑えきれない感情が胸を締めつけるように波打つのを感じながら、そっと彼女の名を呼んだ。

「はい?」

ルシアは、穏やかな微笑みをたたえたまま顔を上げ、その瞳が静かに彼を捉える。瞳の奥に、何か淡い影が揺れているように見えて、ヴィンセントの鼓動はひときわ強くなる。


「私は……あなたを大切にしたい」

その言葉は、慎重に選んだはずなのに、口にした瞬間、熱を帯びて彼の胸の奥から溢れ出す。

「あなたが寂しさを抱えたり、不安に思ったりすることがないように」


ルシアはふっと、胸の奥で小さな波紋が広がるような表情を浮かべ、微かにまつ毛を伏せた。

「……まあ」

小さな吐息が唇からこぼれ、淡い紅が頬に差す。


「もし私がエリオット様の立場なら——」

ヴィンセントの声が、ほんのわずかに震える。それでも、真っ直ぐに彼女の心へ届くように、静かに続けた。

「あなたを誰よりも幸せにしてみせる」


ルシアは再び視線を落とし、指先でそっと髪飾りをなぞる。淡い光がその指先に宿り、儚げな空気を纏う。

「ヴィンセント様は……とてもお優しいのですね」


その言葉に、ヴィンセントは首を横に振った。

「優しいのではありません。ただ……あなたが幸せでいることを願っているだけです」

その瞳はまるで、彼女の奥深くに潜む感情に触れようとするかのように、真剣で、真摯だった。


ルシアは静かに視線を外し、遠くの街並みに目を向けた。けれど、その指先はわずかに震えていることに、ヴィンセントは気づいていた。

「私が、幸せでいることを?」

その問いは、まるで自分自身に問いかけるかのような響きだった。


「ええ」

ヴィンセントは即答した。その声は低く、けれど揺るぎない。


再び沈黙が訪れる。ルシアは静かに目を閉じ、ほんのひと呼吸置いてから、ゆっくりと顔を上げた。

「……それは、嬉しいですわ」

その声はまるで、ガラス細工のように繊細で、触れれば壊れてしまいそうなほど儚かった。


けれど、ヴィンセントには——


その言葉の奥に、確かな温度を感じ取っていた。それは拒絶ではなく、むしろ小さな炎のように揺れる感情の欠片。


二人の距離は、今までで一番近づいていた。

その距離は、単なる物理的なものではない。心が、確かに触れ合っている。


それが錯覚なのか、それとも本当のものなのか——

ヴィンセントは、確かめずにはいられなくなりそうだった。彼の胸は静かに、けれど確実に彼女への想いで満たされていく。


そして、そっと手を伸ばし、彼女の手の上に自分の手を重ねた。

「……あなたが微笑んでくれるなら、それだけで私は……」

その先の言葉は、静かに飲み込んだ。けれど、その沈黙の中に、彼の想いはすべて詰まっていた。





ルシアを公爵家の屋敷へ送り届ける馬車の中、先ほどまでの賑やかな街の空気とは異なり、名残惜しい静寂が二人を包んでいた。


窓の外では夜の帳が静かに降り始め、王都の景色が薄闇に溶け込んでいく。

馬車の車輪が静かにその上を転がる音だけが、心地よいリズムとなって響いている。


ルシアはその景色を眺めながら、ふと視線をヴィンセントへと移した。

「今日は……とても楽しかったですわ」

彼女の柔らかな声が、馬車の静寂を優しく切り裂く。

その瞳は夜の光を映して、どこか寂しさを含んだような微かな輝きを宿していた。


「私もです」

ヴィンセントは短く答えたが、その言葉には一日を共に過ごした余韻と、まだ終わってほしくないという未練が滲んでいた。彼の視線は、ルシアの微笑みの奥に潜む感情を探るように、優しくも切実だった。


「こんなに楽しい一日を過ごしたのは、ずいぶんと久しぶりでしたの」


ルシアはそっと髪に触れ、先ほどヴィンセントから贈られた髪飾りを指先でなぞる。その仕草は、まるで彼との時間を思い返し、胸の中で確かめるかのように映った。


ヴィンセントの胸が熱くなる。

彼女の指先が髪飾りを撫でるたび、自分の存在が彼女の心の片隅に残っているのではないかという、甘くて切ない希望が芽生えていく。


「もう、こんなふうに過ごすことは……難しいかもしれませんわね」


ルシアの声は穏やかでありながら、どこか名残惜しさを隠しきれない響きを帯びていた。その言葉の奥に潜む感情に、ヴィンセントは胸が締めつけられるような思いを抱く。


こうして二人だけで過ごす時間を作るのは、簡単なことではない。

彼女には婚約者がいる。エリオット・アシュフォード——その瞳の奥に秘めた、決して触れてはならない深い何かを思い出す。

幾度もこのような機会を望むことなど、彼が許すはずがない。


けれど、それでも——。


「もし……あなたが望んでくださるなら、また……」


ヴィンセントは、心の奥から湧き上がる想いを抑えきれず、言葉を紡ぐ。その声は震えもせず、ただ真っ直ぐだった。


ルシアは一瞬だけ彼を見つめ、何かを言いかけたようだった。

けれど、すぐに微かに首を振るように、悲しそうな微笑みでその続きを飲み込んだ。

まるで、これ以上の言葉は望んではいけないと、言い聞かせているように。


沈黙が二人の間に降りた。しかし、その沈黙は冷たいものではなかった。


ヴィンセントはただ、祈るように彼女を見つめ続ける。明確な約束など交わせないことは、痛いほど理解している。

けれど、心の奥底で願わずにはいられなかった。再び彼女と、同じ時を過ごせる日が訪れることを。


その願いだけが、静かに胸の中で灯り続けていた。






やがて馬車はウェストウッド公爵家の玄関前に静かに停まる。

車輪の音が途切れ、外では従者たちが馬車を迎えるために控えている気配が微かに伝わる。

扉はまだ開かれておらず、外の冷たい夜気も車内には届かない。


ルシアはゆっくりと身を起こし、膝の上に置いていた手を整える。しかし、すぐには降りようとせず、ヴィンセントの方へと静かに向き直った。薄暗い車内で彼女の瞳がかすかな光を受け、穏やかに揺れている。


「今日は、本当にありがとうございました。ヴィンセント様のおかげで、素敵な時間を過ごせましたわ」


その声は柔らかく、形式的な挨拶ではないことが伝わる。

微笑みの奥に、確かな感謝の色が滲んでいた。


ヴィンセントは喉元に込み上げる想いを必死に押し殺し、かろうじて穏やかな微笑みを浮かべる。

けれどその笑みは、ほんのわずかに揺れていた。


「それでは……」

ルシアはそう呟き、名残惜しさを隠すように静かに馬車の扉に手を伸ばそうとした、その瞬間——。



衝動に駆られるように、ヴィンセントの手が彼女の手首を掴んでいた。



軽い力だったが、不意を突かれたルシアはわずかによろめき、ヴィンセントの腕の中へと引き込まれた。その華奢な身体を、気づけば後ろから抱きしめていた。


「ヴィンセント様……?」


耳元で囁かれたその声は、かすかに戸惑いを含んでいる。


ヴィンセントは答えることができなかった。

ただ、どうしようもない衝動に突き動かされるまま、彼女の肩へと額をそっと預ける。


彼女の温もりが、じわりと腕の中に広がっていく。華奢な肩越しに伝わる鼓動、ふわりと香るかすかな甘い香り。それらすべてが胸を締めつけた。


「……すみません」


かろうじて絞り出したその言葉は、震えていた。

謝罪のつもりだったが、実際には何に対するものかもわからなかった。

ただ、あふれ出す感情を押し込めるには、それしか言葉が見つからなかった。


腕の中に、ルシアがいる。


柔らかな髪の感触、すぐそこに感じる呼吸の気配。

そのすべてが、現実とは思えないほど鮮明で、愛おしく、そして痛かった。


このまま彼女が自分の前から消えてしまうのではないか——

そんな恐怖が、胸の奥に静かに広がっていく。


けれど、ただ抱きしめているだけでは永遠に繋ぎ止められないことも、理解していた。


喉の奥が熱く締めつけられ、堰を切ったように感情がこみ上げる。

視界がじわりと滲みそうになるのを必死に堪え、震える呼吸を押し殺した。


声に出せば、崩れてしまいそうで——

その瞬間、すべてが壊れてしまう気がして、唇を固く閉ざすしかなかった。


彼女は動かない。

ヴィンセントの中で、時間が止まったように感じられる。

抱きしめたまま、沈黙が続いた。


ほんのわずかに伝わる、肩越しの気配。

彼女が何かを考えていることは、言葉がなくてもわかる。緊張が、微かな静けさに混ざり合う。


けれど次の瞬間、彼女はふっと小さな息を吐いた。

その微かな吐息がヴィンセントの頬をかすめ、心の奥を酷く揺らす。


そして、こわばっていた肩の力がゆっくりとほどけていくのを感じた。

それに呼応するように、ヴィンセントもまた、離すまいと必死に抱きしめていた腕の力をそっと緩める。


その瞬間、ルシアがふっと身を預けてきた。

ほんのわずかな重み。それでも、確かに感じる温もりがヴィンセントの胸に静かに広がる。


軽やかで華奢なその身体が、確かに自分の腕の中にある——

その事実が、心を締めつけるような安堵と共に、どうしようもない愛しさとなって込み上げてきた。


次に伝わってきたのは、華奢な手がそっと彼の頭に添えられる感触。

指先が静かに髪を撫でる。

その仕草は、まるで幼子を慰めるかのような、迷いのない優しさに満ちていた。


胸の奥に張り詰めていた何かが音もなく崩れ落ちていく。

言葉にならない想いが、熱となって心の奥で滲んでいった。



「お嬢様?」


外から使用人の呼びかける声が聞こえた瞬間、ヴィンセントの全身がびくりとこわばる。

それでも、ルシアは彼の頭を撫で続けたまま、穏やかな声で静かに応えた。


「……大丈夫ですわ。少し、二人でお話がしたいので、戻っていてください」


その柔らかな口調は落ち着いていて、まるでヴィンセントの乱れた心を静かに鎮めるかのようだった。



しばらくの沈黙の後、外で控えていた使用人たちの足音が静かに遠ざかり、やがて屋敷の扉が閉じられる微かな音が聞こえる。

彼らの気配が完全に消え、馬車の中は静寂に包まれた。


今、ここには本当に二人だけ。

外の世界から切り離されたような、密やかで閉ざされた空間に、ただ二人の鼓動だけが静かに響いていた。


ヴィンセントは唇を開こうとして、けれど言葉が喉の奥で絡まったまま、どうしても出てこなかった。

胸の内に渦巻く感情は、まるで張り詰めた糸のように脆くて、ひとたび声にすれば、すべてが崩れ落ちてしまう気がした。


無理に言葉にすれば、きっとこの静けさの中で、形のない想いが壊れてしまう——

そんな予感に、ただ黙り込むしかなかった。

やがて、ルシアがぽつりと呟く。


「明日は、学院ですわね」


その穏やかな声が、張り詰めた沈黙に小さな波紋を広げた。ヴィンセントはまだ彼女の肩に額を預けたまま、微かに頷く。


「そういえば、中庭の噴水のそばに新しいベンチが置かれていましたわ。お気づきになりました?」


その穏やかな声が、波のように彼の荒れた心を静かに撫でていく。


どれほどの時間が経ったのか、わからない。ただ、ルシアは独り言のように、けれどヴィンセントがいつでも返事を返せるような穏やかな声で、途切れ途切れに言葉を紡ぎ続けてくれた。


「先日ご覧になっていた書物、続きをお読みになりましたか?」


「……まだ、読めていません」


かろうじて返した言葉は、かすれそうなほど小さかった。


「ふふ、きっとお忙しいのでしょう。でも、またお話を聞かせてくださいな」


その優しい声色が、ヴィンセントの心にそっと染み渡る。


「……もう、大丈夫?」


ルシアは優しく問いかけた。

その声はまるで、長い夜の静けさを包み込む月明かりのように柔らかかった。


ヴィンセントは、ゆっくりと顔を上げる。ルシアの手の温もりが、まだ額に残っている。


「はい……駄目ですが、大丈夫です」


「ふふ、どちらなのかしら?」


くすくすと笑うその声は、さきほどまでの包容力のある大人びた雰囲気とは違い、少女のような無邪気さがあった。


ヴィンセントは胸が締めつけられ、最後にもう一度、彼女をきつく強く抱きしめた。

どうしようもなく、愛しくて、名残惜しくて。


けれど、やがてそっと腕の力を緩める。ルシアは静かにその腕から離れ、馬車の扉へと向かう。


「では……改めて、今日はありがとうございました」


微笑みを湛えながら、優雅に一礼する。


「最後に、また素敵な思い出をいただいてしまいましたわ」


その言葉は、まるで宝石のように胸の奥に輝きを残す。


「おやすみなさいませ、ヴィンセント様。どうか、よい夢を」


扉が静かに閉じられた後、ヴィンセントは拳を強く握りしめ、震える手で顔を覆った。

彼の胸の奥には、溢れる思いがまだ静かに燃えていた。


——今すぐにでも追いかけたい。

——彼女を手に入れたい。

——でも、それは許されない。


自分は、彼女の婚約者ではないのだから。


その現実が、胸の奥に冷たい刃のように突き刺さる。それでも、今日の彼女の笑顔と温もりは、確かに彼の中に残っていた。それが、甘くて苦い、愛しさの証だった。





馬車がヴィンセントの屋敷へ戻る間、彼はただ黙って夜の街を見つめていた。

揺れる灯りが窓越しに流れるように映り込み、石畳に反射した光がまるで遠ざかる思い出の断片のように揺らめいていた。


胸の奥で甘く苦しい感情が絡み合い、どうしようもなく彼を苛んでいた。

名残惜しさと焦燥感、そして確かに芽生えてしまった抗えない想いが、静かな夜の空気に混ざり込んでいく。


屋敷に着くと、ヴィンセントは使用人たちの声も聞こえないふりをして足早に自室へ向かった。


扉を閉めた瞬間、背中を預けるように扉にもたれ、深く、長い息を吐き出す。その吐息さえも、まだルシアの面影を含んでいるかのようだった。


窓際へと歩み寄り、夜空を仰ぐ。月は淡く光を放ち、静かに世界を照らしている。

「……ルシア様」

誰にも届かない、小さな声で彼女の名を呟いた。その響きは胸の奥で波紋を広げ、今日一日を鮮明に蘇らせる。


市場で見せた無邪気な笑顔、カフェで交わした言葉、紅茶のカップを持つ優雅な指先、自分が贈った髪飾りを何度も撫でる仕草。

そして、馬車の中で抱きしめたときの温もり。


それら全てが愛おしく、苦しく、胸の奥を熱く満たしていく。思い出すたびに、心臓が痛いほど脈打つ。

「私は……もう、引き返せないのか」

自嘲気味な声が静寂の中に溶けていった。


彼女とこうして過ごすまでは、寂しそうな彼女を支えられたらそれで十分だと思っていた。エリオットといて幸せになれるのであれば、それでもよかった。ただ、彼女が幸せなら、それで——。


だが、今日確信した。


誰よりも深く、誰よりも強く彼女を想っているのは、自分なのだと。


エリオットは、本当に彼女を愛しているのだろうか?

あれはただの執着ではないのか?


社交的で、人々の中心に立つ彼は、誰にでも分け隔てなく優しく、変わらぬ笑顔を向ける。けれどその傍らで、肝心のルシアを放置している。そのくせ、こちらへは牽制するような視線を投げかけてきて——。


あの矛盾した態度は、一体なんなのだ。あんな男に、彼女を幸せにできるのか?

もし、彼が本気でルシアを幸せにする気がないのなら、私のほうが彼女にふさわしいはずだ。


彼は誰に対しても変わらぬ笑顔を向ける。

——ルシアは、それを寂しいとは思っていないのだろうか?


カフェで交わした会話が胸の奥で再び響く。



『私は、“社交界の白百合”などと呼んでいただき、皆様敬意を持って接してくださいますが……。距離を置かれてしまうことも多いのです。親しいといえる方は、あまりいませんわ。それこそ……ヴィンセント様だけ、ですわね』



あの言葉がただの社交辞令や気まぐれであったとは、どうしても思えなかった。あの瞬間、彼女の瞳には確かに寂しさが滲んでいた。


ほんの僅かな陰りが、ヴィンセントの胸に深く刻まれている。


もし——

もし、私が彼女の婚約者だったなら。


彼女を、たった一人の存在として大切にし、誰よりも幸せにしてみせる。

微笑みの奥に隠された寂しさも、不安も、全て自分の手で拭い去ってみせる。彼女を決して孤独にはさせない。彼女が自分を必要とする限り、そばにいることを誓える。


強く握りしめた拳が震えていることに、ふと気づく。その手をゆっくりと開くと、爪の跡が白く残っていた。


「……ルシア様」

再び彼女の名を呟く。その名前だけで、胸が満たされるのに、同時に満たされない渇きが広がっていく。


——この想いは、もう止められない。


彼女の存在が、気づけばもう、ヴィンセントの心の大部分を占めていた。そして、その事実から目を逸らすことは、もはやできなかった。


彼女がエリオットのものであることが、耐えがたいほどに悔しく、苛立ちとなって胸を締め付ける。

この先あの微笑みが、自分ではなく別の男のために向けられることが、どうしようもなく苦しかった。彼女の未来に、自分以外の誰かが寄り添うという現実が、焼き付くように痛い。


「……私は、どうすればいい?」

呟いた言葉は、夜の静寂に溶けていった。しかし、その問いの答えは、実のところすでに決まっている気がしてならなかった。


ルシアは、今はエリオットの婚約者だ。

——しかし、それは“今のところ”の話だ。


彼女の心が、本当にエリオットに向いているとは限らない。

少なくとも、今日一緒に過ごした時間の中で、彼女の瞳が確かに自分を映していた瞬間があった。


あの微笑み、あの頬の紅潮、ふとした沈黙の隙間に宿る戸惑い——それはただの礼儀や気まぐれとは思えなかった。


そして、もし彼女がほんの少しでも、自分に気持ちを寄せているのなら——


私は、決して諦めるつもりはない。


その想いが心の奥底で静かに、しかし確かに燃え上がる。未練や迷いではない。ただ純粋に、彼女への強い愛情が、ヴィンセントの胸を満たしていく。


「次に会う時には……もう少し、彼女の心へ踏み込んでみよう」

自分でも気づかぬうちに、低く呟いていた。


彼女は確かに線引きをしていた。それは貴族としての立場、婚約者がいる身としての節度、そして淑女としての矜持。しかし、今日、確かにそれが崩れた。

彼女の仮面の奥に隠された素顔、その温もりと脆さに触れた瞬間が幾度もあった。

けれど、明日にはきっと、何事もなかったかのように、また完璧な淑女の仮面をかぶるのだろう。


ならば、彼女が望むままに進めばいい。

彼女が求めるならば、どこまでも近づけばいい。

もっと彼女を知り、もっと彼女の心に触れる努力をすればいい。


そして、彼女にとって“特別な存在”となるのだ。


——ルシアが、本当に求めているのは誰なのか。

それを、愛を知らないという彼女自身に気づかせるために。


ヴィンセントは、窓の外に広がる漆黒の夜空を見つめながら、静かに唇を噛みしめた。

冷たいガラス越しに映る自分の姿が、見慣れたものとは少し違って見える。彼の中で何かが確実に変わり始めている。


胸の奥で燻っていた感情は、もはや抑えきれないほど強く燃え上がっていた。


——もう、後戻りなどできない。


彼女の笑顔、声、仕草、その全てが自分の存在理由となっている。

どれほど苦しくとも、どれほど身を焦がそうとも——


それが、ヴィンセントの選ぶ道だ。



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