白百合の休日
王都の朝が柔らかな陽光に包まれる中、ヴィンセント・アルスターは公爵家ウェストウッドの屋敷へと馬車を走らせていた。今日は、ルシア・ウェストウッドと二人で市井を見聞する日——ずっと楽しみにしていた、待ち望んだ日だった。
学院や社交界では幾度となく顔を合わせてきたが、こうして正式に彼女を迎えに行くのは初めてのことだった。その事実が、胸の奥に静かな高鳴りを生む。
この日をどれほど心待ちにしていたことか。
ヴィンセントは内心の昂りを抑えるように深く息を整え、窓の外に広がる朝の景色へと視線を移した。
貴族としての格式をわきまえ、エリオットの婚約者である彼女に余計な感情を抱くべきではないと頭では理解している。
それでも、心の奥底にある期待を完全に消すことはできなかった。
今日は、二人きりの一日なのだから。
屋敷の執事に案内され、広々とした応接室で待つこと数分。扉が静かに開き、聞き慣れた優雅な声が響いた。
「お待たせしましたわ」
その瞬間、ヴィンセントは思わず息を呑んだ。
当たり前だが、彼女はいつもの学院の制服ではなく、社交界で纏うような華やかなドレスでもなかった。
淡いオフホワイトのワンピースが、彼女の華奢な体を優しく包み、動くたびにふんわりと軽やかに揺れる。
繊細な刺繍が施されたレースの袖が細い手首を彩り、普段よりも柔らかく穏やかな印象を与えていた。
肩の力が抜けた雰囲気がどこか親しみやすく、学院で見かける完璧な貴族令嬢の姿とは違う、少しだけ素顔に近い空気を纏っている。
「……可愛らしすぎる」
気づけば、心の内に留めておくはずの言葉が、するりと口をついて漏れていた。
自分でも驚いて、思わず目を瞬く。
「や、えっと……今のは、その、つい……」
慌てて言い繕おうとするものの、うまく言葉が出てこない。
もっと気の利いた褒め言葉をスマートに伝えられたなら良かったのに。
けれど、女性に不慣れな自分には、それがあまりにも難しかった。
きっと彼女の婚約者のように、社交的であったら自然に思うままの賛辞を紡げたのだろう。
「気の利いたことが言えず、本当に申し訳ない……」
今日はもう少し落ち着いて、彼女をスマートにエスコートするつもりだったのに。
こんなにも愛らしいルシアを前にして、慌てふためく自分が情けなくて、どこかに逃げ出したい気持ちになる。
けれど、そんな戸惑いも——彼女の微笑みがすべて包み込んでくれた。
ルシアはふわりと頬に手を添え、恥じらうように、それでも穏やかで優しい笑みを浮かべる。
「ふふ、お気になさらないでくださいませ。本心からのお言葉、とても嬉しゅうございますわ」
その言葉に、胸が熱くなる。
「普段とは違う装いですので、少し落ち着かない気もしておりましたの。でも、褒めていただけて安心いたしましたわ」
ルシアは優雅に微笑んだあと、ワンピースの裾をそっと摘んで、くるりと小さく回る。
レースの裾がふわりと広がり、柔らかな布地が春のそよ風のように揺れる。
その軽やかな動きが、彼女の柔らかな微笑みと相まって、まるで光そのものが舞い降りたかのような錯覚を覚える。
「どうでしょう? 変ではありませんか?」
そんな無邪気な仕草に、ヴィンセントの心臓が不意に高鳴った。
いつもの端正で気品ある彼女とは違う、どこか少女らしい素朴な一面が垣間見えた。
学院では決して見せない表情。その瞬間、彼女の新しい一面に出会えた気がして、胸の奥が甘く痺れるようだった。
「……とても素敵です。まるで、ルシア様のために陽だまりが生まれたかのようですね」
思わず口にした言葉に、ヴィンセント自身が驚いた。
普段なら慎重に悩み選ぶはずの言葉が、彼女の前では自然と零れ落ちてしまう。
けれど、ルシアは驚くこともなく、ふんわりと微笑んだまま軽く首を傾げた。
「まあ……そんなふうに言われたのは初めてですわ」
彼女の頬にわずかに紅が差す。
その控えめな照れが、また一段と可憐で、ヴィンセントの胸の奥をくすぐる。
「本心です。とてもお似合いで……見惚れてしまいました」
言葉を重ねるほど、頬の熱がじわりと広がっていくのを感じる。
こんなにも、言葉を飾る余裕もないくらい、けれど伝えずにはいられない気持ちは初めてで、
自分でも何を言っているのか、少しわからなくなるほどだった。
けれど、ルシアはその不器用な褒め言葉さえも優しく受け止め、微笑んでくれる。
その笑顔は、春の陽だまりのように温かくて、ただ見ているだけで胸がいっぱいになる。
「ありがとうございます、ヴィンセント様。そんなふうに言っていただけて……とても嬉しいですわ」
ルシアはそっと視線を落とし、淡く微笑んだまま、胸元でそっと指を絡める。
その小さな仕草さえも、ヴィンセントにはたまらなく愛おしく映った。
「それに……ヴィンセント様も今日の装い、とても素敵ですわ」
ルシアは、まるで花がほころぶような笑顔を浮かべ、そっと瞳を細める。
不意の言葉に、今度は自分が戸惑う番だった。
耳の奥まで熱くなるのを感じながら、必死で平静を装う。
「あ、ありがとうございます……」
情けないほど不器用な返事。
けれど、彼女は変わらず優しく微笑んでくれている——それだけで、胸がいっぱいになった。
「それでは、参りましょうか?」
ルシアは彼に向かって、そっと手を差し出した。
ヴィンセントは一瞬、その手の白さと繊細さに見惚れてしまう。
だが、すぐに我に返り、丁寧にその手を取る。
「ええ、ご案内させていただきます」
差し出された手は驚くほど柔らかく、指先から伝わる温もりが心臓を直撃する。
学院では決して交わすことのない距離感に、胸が妙に騒がしくなる。
扉の前で一歩先に立ちながらも、ルシアは信頼しきった様子でヴィンセントの腕にそっと手を添える。
その自然な仕草が、まるで長年の恋人同士のように思えてしまい、ヴィンセントは心の中で慌ててその考えを振り払った。
「気をつけて、足元が滑りやすいですから」
馬車のステップに差し掛かった瞬間、ヴィンセントは自然と手を差し伸べた。
ルシアは微笑みながらその手を取る。
「ありがとうございます、ヴィンセント様」
その小さな感謝の言葉が、胸の奥に温かく響いた。
馬車の扉が静かに閉まり、二人だけの空間が生まれる。
ヴィンセントは心の鼓動を抑えきれないまま、密やかな喜びを噛み締めていた。
今日という特別な時間が、どうか少しでも長く続いてほしいと願いながら。
王都の市場は朝から賑わいを見せていた。
貴族の屋敷が立ち並ぶ通りを抜けると、活気あふれる商人たちの声が飛び交い、焼きたてのパンや果実の甘い香りが風に乗って漂う。
人々のざわめき、色とりどりの布や宝石が並ぶ露店、そして無邪気に走り回る子どもたち――そのすべてが、生き生きとした世界を形作っていた。
ルシアは目を輝かせながら、興味深げにあたりを見渡す。
「まあ……こんなに活気があるなんて。普段は馬車の窓越しにしか見ていなかったので、新鮮ですわ」
その声は、まるで初めて宝石を手に取った少女のような、心からの驚きと喜びが滲んでいた。
ヴィンセントはそんな彼女の横顔を見つめながら、自然と微笑みがこぼれるのを止められなかった。
「今日は、存分に楽しんでください」
「ええ、せっかくの機会ですもの」
ふわりと軽やかな笑みを浮かべながら、ルシアは露店に並ぶ色とりどりの果物へと視線を落とした。
「ルシア様、こちらの葡萄などいかがですか?」
私が指差した先には、陽の光を受けて透き通るように輝く紫色の葡萄が並んでいる。
「まあ……とても美味しそうですわね」
店主が勧めるままに、ルシアは一粒の葡萄を摘み、慎ましく口元へと運ぶ。
その瞬間、彼女の表情がふっと驚きに染まった。
「……っ、とても甘いですわ」
思わず漏れた声に、彼女自身も驚いたのか、口元にそっと手を添える。そしてふわりと微笑み、瞳がほんの少し潤む。
その姿が、私にはひどく可愛らしく映った。
「ルシア様、そのお顔……とても可愛らしいですね」
迎えの際の失態から、今日はもういっそのこと素直に思いを口にすると決めていた。
ルシアはヴィンセントの言葉に一瞬目を丸くし、頬をほんのりと染めた。
戸惑いの色が混じるその表情すら、ヴィンセントの心を強く揺さぶる。
「まあ……ヴィンセント様ったら」
彼女はそっと視線を逸らした、けれども頬の赤みは隠しきれない。
そのわずかな照れた仕草が、ヴィンセントの胸に甘く熱い波紋を広げていく。
穏やかに微笑みながら、彼女の表情を目に焼き付ける。瑞々しい葡萄の甘さに驚き、無防備な顔を見せたルシア――そんな彼女を、今まで見たことがあっただろうか。
いつも完璧な淑女の仮面を被り、貴族の子女としての振る舞いを崩さない彼女。
それが、今はどうだ。
風に煽られ小さく揺れる髪が、朝の光を受けてきらきらと輝く。
紅い唇がふっとほころび、その先に僅かに覗く白い歯が、無邪気な少女のようでありながら、どこか大人びた優雅さも漂わせる。
ヴィンセントは、心の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
――素の彼女は、こんなふうに笑うのか。
今までルシアの姿をずっと見てきたはずなのに、その事実をようやく知ることができたのだ。
普段は見せない一面を見せてもらえるほど親しくなれたのだと、その事実に胸が締め付けられる。
彼女の一挙一動が愛しくて仕方がない。
この瞬間が、永遠に続けばいいとすら思えるほどに。
「ルシア様」
気づけば名前を呼んでいた。彼女が不思議そうに首を傾げる。
「……楽しいですね」
胸の奥に溢れる感情をどうにか抑えながら、やっとの思いで言葉を紡ぐ。
「ええ! とっても!」
ルシアは、眩しいくらいの笑顔で応じた。その笑顔が、ヴィンセントの心に深く、鮮やかに焼き付く。
――こんな満面の笑みは、初めて見た。
彼女がこんなふうに笑う瞬間を、自分だけが知っている。その事実が、胸の奥で甘く、熱く疼く。
この笑顔を引き出せたことが、胸いっぱいに広がる温かな幸福感となって満ちていく。
――私が、君を笑わせたい。
――君のそばで、ずっとこの笑顔を守りたい。
――この先も、ずっと、君の幸せの理由でありたい。
その思いが、心の奥から溢れて止まらなかった。
「ヴィンセント様?」
ルシアが首を傾げる。その視線に我に返り、ヴィンセントは少し照れたように微笑んだ。
「……いえ、ただ、ルシア様の笑顔があまりにも素敵だったので」
ルシアは少し頬を染め、また照れ隠しのように視線を逸らす。
「ヴィンセント様は、本当にお上手ですわね」
「いいえ、ただの事実です」
彼女の瞳を見つめながら、穏やかに答えた。その視線の先には、宝石よりも美しく輝く彼女の瞳があった。
「こうして歩いていると、まるで夢のようです」
ふとこぼしたヴィンセントの言葉に、ルシアはきょとりとした表情でこちらを見上げた。
「夢、ですか?」
「ええ。こんなふうに、ルシア様と並んで歩くことができるなんて……まるで夢のようで」
「ふふ、現実ですわよ」
その囁きは、春風のようにやわらかく、ヴィンセントの心をくすぐる。2人たちは微笑み合い、歩き出す。
ヴィンセントは、静かに深呼吸をしながら、再び優しく微笑んだ。
「もっと、たくさんの場所をご案内します。きっと、素敵な発見がまだまだありますから」
「まあ、楽しみですわ」
ルシアは、瞳を輝かせて答えた。
その声が、笑顔が、ヴィンセントの心をさらに温かく満たしていく。
どうか、今日という日が彼女の心に優しく刻まれるものであってほしい。
そんな願いを胸に、ヴィンセントは彼女の隣を静かに歩き続けた。
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