庭園の誓い
社交界で淑女の鑑——そう称される令嬢がいた。
ルシア・ウェストウッド。
公爵家の末姫。気高く、淑やかで、どこまでも優雅な令嬢。
彼女は「社交界の白百合」とも囁かれる存在だった。
儚げな微笑み、慈愛に満ちた瞳、誰もが憧れずにはいられない優雅さ。
王立貴族学院は、国内でも屈指の名門校であり、貴族の子息・令嬢たちが集う場であった。
学問、剣技、礼儀作法——全てが最高水準で教えられ、ここでの評価は将来の立場を左右する。
その中でもルシアは、群を抜いて目立つ存在だ。
生まれ持った気品と優雅さ、公爵令嬢として完璧な振る舞い。
生徒たちは彼女を尊敬し、憧れの眼差しを向けている。
そんな彼女に、長年、想いを寄せ続けている男がいた。
「……ルシア様」
名を呼ぶ声には、かすかな震えがあった。
貴族学院にある庭園の片隅、静かに花が咲き誇る中——
彼女の前に立つのは、侯爵家の次男、ヴィンセント・アルスター。
誠実で、穏やかで、知的な青年。
学問に秀で、冷静で論理的な思考を持つ彼は、社交界でも高潔な人物として知られている。
しかし今、その理知的な瞳には、隠しきれない切実な想いが宿っていた。
「……ヴィンセント様」
ルシアは、静かに彼を見つめる。
微笑みは柔らかく、声には温かな響きがあった。
彼女の長い睫毛が揺れ、淡い微笑みを浮かべる。
ヴィンセントは名を呼ばれ、手を胸の前で強く握った。
まるで、心臓の震えを鎮めるように。
「私は……あなたにお伝えしたいことがあって、こうしてお時間をいただきました」
低く穏やかな声が、かすかに震えた。
「あなたが……社交界に咲く美しい白百合のような存在であることは、誰もが知っています」
ルシアの長い指が、そっと制服の袖を撫でる。
優雅な仕草。けれど、その指先にはわずかな力がこもっている。
「ですが、私はただ、あなたの美しさだけに惹かれたわけではありません」
ヴィンセントは、真っ直ぐにルシアを見つめた。
「あなたの優しさ、あなたの誇り高き振る舞い、そして……あなたの温かさに、私は心を奪われました」
風が吹く。
庭園に咲く花々が揺れ、木々がざわめく。
しかし、二人の間の静寂は破られない。
「もちろん、あなたにはすでに婚約者がいることを存じています」
ヴィンセントは、静かに息を吐く。
「それでも……私は、どうしてもこの想いを伝えずにはいられませんでした」
ルシアは、そっと目を伏せ、ゆっくりと瞬く。
その仕草はどこまでも優美で、静かな気品に満ちている。
やがて、困ったようにふわりと微笑んだ。
「……まあ」
小さく、しかしどこまでも柔らかな声が漏れる。
彼女の瞳には、驚きと、どこか申し訳なさが宿っていた。
「お気持ちを伝えてくださったこと、とても嬉しく思います」
ルシアの声は穏やかで、そよ風のように優しい。
彼女はヴィンセントをそっと見つめ、静かに息を吐く。
「けれど……私には、婚約者がございます」
言葉を選びながら、優しく微笑む。
「ヴィンセント様のお気持ちは、とても大切なものです。だからこそ……私にはお応えできないことを、とても、心苦しく思います」
ヴィンセントの目がわずかに揺れる。
ルシアの優雅な微笑みは、揺るがないまま。
「あなたに、彼は相応しくない…。彼の普段の態度は目に余るのです……。私ならあなたを一人には決して……」
ルシアは、そっと伏し目がちになる。
そして、ふわりと微笑む。
「……ご心配いただき、ありがとうございます」
優しげな声が、穏やかに響く。
「でも……私は、大丈夫ですわ」
温かな光がその顔を照らし、咲き誇る花々が彼女を引き立てる。
優雅で、どこまでも美しい佇まい。
彼が見ていたのは、「社交界の白百合」と称されるルシア。
だが、彼女の本質はそこにはない。
ヴィンセントは、侯爵家の次男として堅実な努力を積み重ねてきた。
兄ほどの華やかさはないが、その誠実な人柄は信頼されていた。
ルシアとは長い付き合いだったが、彼女を遠くから見つめるばかりだった。
そんな彼が今、ついに想いを告げたのだ。
彼女の幸福を何よりも願い、自らが支えになりたいと——。
しかし、それは彼の一方的な理想に過ぎなかったのかもしれない。
ルシアの望む幸せとは一体なにを指すのか。
——これこそが、ヴィンセントの敗因だった。
その瞬間——
「おーい!ルシアー!」
柔らかな夕暮れの光が庭園を包み込む中、その声はまるで風を切るように響いた。
静寂を優しく揺さぶる明るい響き。
ヴィンセントは、その声を聞いた瞬間、ゆっくりと視線を上げた。
ルシアと向かい合いながらも、彼女に向けようとしていた言葉が喉の奥で詰まる。
現れたのは、侯爵家の嫡男にして、ルシアの婚約者——エリオット・アシュフォード。
快活で、誰に対しても気さくで、社交界でも広く慕われる存在。
その陽気な微笑みは、まるで太陽のように人々を和ませる力を持っていた。
彼がいるだけで場の雰囲気が和らぎ、誰もが気を許してしまう。
そんな彼が、歩幅も軽やかに庭園へと足を踏み入れた。
「やっと見つけた!ここにいたんだね」
エリオットの声は穏やかで、まるで何気ない世間話をするかのような調子だった。
しかし、その言葉の裏には、微かな探るような色が滲んでいるようにも感じられる。
ルシアは、ふわりと瞬きをした。
「エリオット様……?」
柔らかな驚きが、彼女の微笑みに微かに浮かぶ。
「ん?」
エリオットは、変わらずに笑顔を崩さず、ゆるやかにルシアのもとへと歩み寄る。
彼の足取りには迷いがなく、彼女の隣に立つことが、当然であるかのようだった。
「先にお戻りいただくようお願いしましたのに……」
ルシアの声は静かで、けれどどこか申し訳なさそうな響きを含んでいた。
「多少待つくらいなら、別に構わなかったからさ」
エリオットは肩をすくめながら、さりげなくルシアへと視線を向ける。
夕暮れの光が、彼女の髪を優しく照らし、暖かな輝きを帯びていた。
「両家の習わしだろ?週に一度は婚約者同士で夕食を共にするってさ。今日もその日だから、そろそろ戻ろうかと思ったんだけど……」
エリオットは、軽く目を細めながらヴィンセントへと視線を向ける。
「ヴィンセントと話してたんだね」
彼の声音はどこまでも自然で、気負いも押し付けがましさも感じさせない。
それでも、ルシアとヴィンセントが二人きりでいる状況に、僅かに目を細める。
自然な問いかけだったが、どこか空気の流れが変わるのを感じた。
「用事っていうのは、もう終わったの?」
エリオットの笑顔は崩れない。
しかし、その瞳には微かに冷ややかな光が浮かぶ。
ルシアは、その問いに一瞬だけ迷うようにまつげを伏せた。
言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「いえ、それは……まだもう少し……」
彼女の声音はいつもと変わらず穏やかで、しかしどこか困惑が滲んでいた。
エリオットは、その言葉を聞くと軽く首を傾げ、口元に小さな笑みを浮かべる。
「そっか」
彼は、無邪気な調子で続けた。
「話に割り込んじゃって悪かったね」
そう言いながらも、彼女の手にそっと触れる。
「ここで待ってるから、続けて?」
柔らかく、優しい声だった。
けれど、その優しさの中には、微かに違う色が混ざっている。
ヴィンセントの肩が、僅かにこわばった。
「……あら…ええと、それは……」
ルシアは申し訳なさそうに、そっとヴィンセントを見やる。
その眼差しには、彼を気遣う色が浮かんでいた。
エリオットは、そんなルシアの仕草を見逃さなかった。
微笑みながらも、軽く指先でルシアの手を撫でる。
「どうする?」
エリオットの声は優しく、穏やかだった。
だが——その手は、決してルシアを離そうとしない。
それでも、簡単に引き下がることなどできなかった。
ヴィンセントは、唇を引き結び、静かに息を整える。
「ルシア様……先程もお伝えしましたが…私は、あなたをお慕いしています」
彼の声は、強くも、どこか必死だった。
「エリオット様があなたの婚約者であることは、重々承知しています。それでも、私は——」
「ねえ、ヴィンセント」
エリオットが、微笑みながら言葉を遮る。
「……まだ、言うの?」
「……っ!」
エリオットの手に絡め取られたルシアの指が、わずかに震える。
彼の声は、どこまでも朗らかだった。
あくまで穏やかで、軽やかに。けれど、その瞳の奥には揺るがぬ何かが秘められている。
ヴィンセントは息を呑む。
目の前の男は、ただ陽気なだけの人物ではない。
「君がルシアを大切に思っていることは、十分伝わったよ」
エリオットは静かに言葉を継ぎながら、ルシアの手を軽く包む。
まるで当たり前の仕草のように、けれどどこか意図的なものを感じさせる手つきだった。
「だけどね、誰がどう思おうと……ルシアは僕の婚約者なんだ」
柔らかな微笑みの下に潜むのは、決定的な事実を突きつける冷静さ。
軽い口調ではあるが、それが揺らぐことはない。
「君がどう思っても……それだけで、変えられるものじゃないよ」
ふっと息を吐き、エリオットはルシアの手をそっと握り直した。
普段は自由にさせているつもりだった。
それでも——
彼女が、自分の許可なく誰かのものになるなど、ありえない。
ヴィンセントの拳が僅かに震える。
強く指を握りしめ、視線を落としたまま、しばらく沈黙が流れる。
「……それは」
「ルシア」
エリオットは、優しく微笑みながら、ルシアの瞳を覗き込む。
「君の気持ちを、聞かせてくれる?」
ルシアは静かにエリオットを見上げた。
彼の指がそっと絡め取る手を、ほどこうとはしない。
そして——
「……ヴィンセント様」
ルシアは、ヴィンセントへと視線を向けた。
その眼差しはどこまでも優しく、そして静かだった。
「私は……エリオット様の婚約者として、その立場を大切にしております」
ヴィンセントの胸が軋んだ。
「……っ」
喉が詰まりそうになる。
覚悟はしていたはずなのに——彼女の口から直接それを聞くと、思っていたよりも重く響いた。
「あなたの想いをいただけて、とても光栄でした。でも……」
ルシアは、わずかに目を伏せた。
まるで言葉を選ぶように、一瞬だけ唇を噛み、それから柔らかく微笑んだ。
「私の気持ちは……エリオット様と共にあります」
それは、はっきりとした拒絶ではなかった。
しかし、ヴィンセントの胸に突き刺さるには十分すぎる言葉だった。
ヴィンセントは、ぎゅっと拳を握りしめた。
わかっていた。
わかっていたはずなのに——
「……そう、ですか」
彼は、静かに息を吐いた。
肩の力が抜け、目を伏せる。
「お邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
その言葉は、どこか固く、絞り出すようだった。
「気にしないでよ」
エリオットは、あくまで陽気な声で応じる。
「ルシアはみんなの憧れだからさ。君みたいに、彼女を好きになるのは仕方がないよね」
ヴィンセントは、それを聞いて静かにまぶたを閉じた。
それは慰めなのか、それとも——。
「婚約者の座は譲れないけどさ、クラスメイトとしてこれからも僕の婚約者と仲良くしてあげてよ」
エリオットは、最後まで微笑みながら言葉を紡ぐ。
ヴィンセントは、小さく息を呑んだ。
「……それなら、クラスメイトとしてそばに侍るからな」
彼は、確かめるようにエリオットを見つめた。
エリオットは、微笑んだまま、答えを返さない。
けれど、その目の奥がわずかに細められた。
「……では、失礼します」
ヴィンセントは深く頭を下げると、踵を返し、その場を去った。
ルシアは、その背中を静かに見送る。
そして、そっと伏し目がちにまつげを震わせた。
彼女の手には、まだエリオットの指が絡んだまま——。
庭園の風がそっと吹き抜け、彼女の髪を揺らした。
遠ざかるヴィンセントの後ろ姿は、どこか寂しげに見えたが、ルシアは表情を変えず、ただ静かにその背を見つめ続けた。
「……」
エリオットは、そんな彼女の様子をしばらく眺めていたが、やがてそっと手を伸ばし、彼女の髪を優しく撫でる。
「ルシア?」
彼の声は、普段と変わらず穏やかだったが、ほんのわずかに探るような響きを含んでいた。
ルシアは、ふと瞬きをしてから、ゆっくりとエリオットの方へ振り向いた。
「……大丈夫?」
エリオットが、そっと問いかける。
まるで彼女の表情の変化を見逃すまいとするように、優しく、けれどどこか注意深く。
ルシアは、少しだけ目を伏せ、柔らかく微笑んだ。
「ええ……」
風が彼女の髪を撫でる。
「……お迎え、ありがとうございます、エリオット様」
彼の名を呼ぶ声は、静かで優しかった。
普段と何も変わらぬ、しとやかで穏やかな口調。
エリオットは微笑みながら、彼女の手をそっと握りなおす。
まるで確かめるように、ゆっくりと。
その手は、どこまでも優しく、けれど同時に——
決して彼女を逃さないという意思に満ちていた。
ヴィンセントが去った後、エリオットとルシアは帰宅のために馬車へと乗り込んだ。
馬車の扉が静かに閉じられ、僅かに揺れながら車輪が動き始める。
柔らかなクッションに身を預けると、窓の外に広がる貴族街の風景がゆっくりと流れていった。
エリオットは、息を吐きながら、背もたれに体を預ける。
「……ふぅ」
安堵とも、何かを堪えるような吐息とも取れるその声に反応し、ルシアは小さく首を傾げた。
「お疲れになりましたか?」
彼女の声は相変わらず穏やかで、そっと彼を気遣うような優しさに満ちていた。
エリオットは微笑みながら、ゆっくりと彼女へ視線を向ける。
「……ねえ、ルシア」
「はい?」
ルシアが静かに問い返すと、エリオットはふっと微笑みながら、窓の外に視線を移した。
「僕、さっき、すごく理性的だったよね?」
エリオットの声は、どこか楽しげで、どこまでも軽やかだった。
まるで先ほどの出来事など大したことではなかったかのように。
ルシアは、一瞬だけ彼を見つめ、それからふんわりと微笑んだ。
「ええ……いつも通り、とても素敵でしたわ」
何の迷いもない、柔らかく優雅な声音。
エリオットは、そんな彼女の声を聞くと、そっと目を閉じる。
「……そっか」
静かな囁き。
そして、馬車の揺れに揺られながら、彼はほんの少しだけ、微かに呟いた。
「……もう、限界なんだけどな」
けれど、その小さな声は、ルシアには届かなかった。
馬車は、静かに夜の貴族街を進んでいく——。
執着心や重たい愛情が好きすぎて、自分の理想を綴りたくなり初めて筆を取りました。
至らぬ点も多いかと思いますが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。