-始まり-
冷たい地面と、少しの風。青臭い匂い。私は何処かの森に捨てられていた。
事の経緯はそう難しいわけでもない。ただの口減らしである。
両親は、私に物心が付いた時には死んでいて、
その頃からか……私の眼は光を失ってしまっていた。
村に住んでいた私は、物知りなおばあちゃんの元で育てられることになり、
目が見えないなりに、様々な知識を吸収していった。
村人達も、初めは同情してくれて、助けてくれることもあった。
だけど、おばあちゃんの死後、状況は変わってしまった。
知識は有っても何もできない私を次第に村人たちが疎み始め、
嘲り、不満が音で伝わって来る……。
呪いの子、災いの子だと。
遂には村から連れ出され、どこかの森に置いていかれて今に至った。
抵抗する気力も、歩く力もあるはずが無く、
暗く冷たい闇の中を独りぼっち。
光の無い世界、それは私にとってはいつもの事。
それでも、辛くない訳ではない……私にだって感情はある。
溜息が漏れ、唇が震え、嗚咽と共に暖かい雫が頬を伝うも、
それで何かが変わる訳でも無い。
私は誰にも愛されずにこのまま朽ち果てていくのだと悟って、
いっそこのまま死んでしまおうかと、全てを放棄し、地面に寝そべった。
五感の一つを失うとそれを補う為に他の感覚が異常に発達する。
それは私も例外ではなく、鼻や耳の感覚が鋭くなっている。
動物達の鳴き声、草木を掻き分ける音、
そういった音だけが私の世界を彩るのだ。
だから……私は気付く事ができた。
動物達の音や匂いに紛れ、ゆっくりと近づいてくる何かの気配を……。
動物とは違っている……確かな気配を。
私のよく知っている……人間と言うモノの音を。
人売りか、賊か。森の中に居る人間は大抵良くないモノが多い。
私は逃げようと急いで立ち上がろうとして、ふと思い止まる。
どうして逃げる必要があるのだろうか?
今の私は失うものなんて何もないじゃないか。
死にたいと望んでいたじゃないか。
でも、死にたいとは思っていても体は言うことを聞かず、
少しでも延命したいと言う気持ちは先走る。
「ねぇ、そこにいるのは誰?」
私が気配の方へと声を掛けてみれば、
それは私のすぐ近くまで来て立ち止まった様だ。
「これは……驚いたな。こんな森の奥に人がいたとは」
気配は、息を飲んだ様な音の後、言葉を発した。
少しこもっていて聞こえ辛いが……男の声だ。
マスクでもしているのだろうか。
暫く、静寂が訪れた後、彼はまた音を奏でた。
「どうしてこんな所で座り込んでいるんだ? もう夜遅くなると言うのに」
彼の音は、口調の割には何処か優しく、安心できるような音で、
私は少しほっとした。これなら直ぐに襲われることはないだろう。
なので、私は……少しばかり飢えていた会話、と言う音を奏でたいと思った。
「連れてこられたの。森の奥……だったかな……そこまで」
「連れてこられた? 盗賊とかにか?」
「ちがう」
「では、誰なんだ?」
「…………村の人。 私の住んでた所の」
彼はまた驚いた様に息遣いをした……ように思える。
思える、と言うのは彼がマスク? をしていて音がうまく聞こえないからだ。
それに、普段なら私は音や匂いで大体の位置がわかるが、
彼にはあまり匂いがしない。
どういう感情を抱いているのかの音も分かり辛い。
でも、嘘はついていない……そんな気がした。
今度は此方から話しかけてみようか。
「あなたは、何故こんな所に居るの?」
「俺は……ずっとこの森に住んでるんだ」
「……森に住むって、変わってるね」
「そうか? まぁそうだろうな。他の人より変わっていなければ、
ここには住んで居なかったかもしれないな」
”他の人より変わっていなければ”
彼のその言葉は何かを含んでいるような気がした。
でも、その何かは……きっと私も知っている。
私は、男に対して、親近感を沸いてしまった。
「……あなたも何か事情が……?」
「そう言うことだ」
「じゃあそのマスクもその事情の一つだったりする?」
「……! あ、ああ……」
息遣いの音が変わった……これは……恐怖?
「そう……事情があるなら残念。
あなたの音、聞こえ辛いから、
出来ればマスクを外して貰いたかったの……」
「…………」
いや、恐怖じゃない……これは不安……か。
どうやらマスクを外すのに抵抗があるようだ。
すっかり黙ってしまった相手に、私も言葉を掛けれず静寂が生まれる。
それからどのくらい経っただろうか。
数分? 数時間? 分からないが……結構な時間が経った頃、
彼に動きがあった。
布の擦れる音、金具の音、何かが落ちた音。
「これで……いいか?」
彼の声を聞き私は驚いた。
マスクを外すのに抵抗があったように思えたが、それを外したのだ。
しかし……それ以上に驚いたのは彼の音に対して。
とてもクリアな音、透き通っていて……美しい音。
「え、うん……よく聞こえるようになった。ありがとう」
「ああ……」
「でも、どうして? 事情があったんでしょ?」
「別に外すことには抵抗はない。……ただ、その後の反応が嫌なだけだ」
「なるほど……」
私としては、今の所、声が良く聞こえるようになった位しか感じない。
その”反応”をしていなければ良いのだけれど……。
「……私は、その嫌な反応をした?」
「……いや、反応していないな」
「良かった。ならもっとお話ししてもいい?」
「……ああ、いいぞ」
どうやら、彼が私に持っていた不安の音は消えたようだ。
お互いに少しだけ心が解け、その後も他愛無い会話を交わし続ける。
気がつけば、涼しげな気温に夜を知らせる虫の音が鳴り始めていた。
肌寒い空気に体を震わせ、上に顔を向けて呟く。
きっと、空には綺麗な景色があるのだろう。
雲一つない、星の夜空が。
「もうこんな時間……楽しい時間はあっという間だね……」
少しだけ切なく呟けば、隣に居た彼がそうだな。と相槌を入れる。
「……夜になるとここはすごく冷えるぞ。森から出た方が良い」
「出る……? ここから?」
「あぁ。村に帰れなくても他の場所に行けば、
優しい誰かに会えるかもしれないだろう?」
優しい誰か……。私を育ててくれたおばあちゃんを思い出すが、
直ぐに頭を振るう。もう私は、優しさを信じられない。
「嫌……もう関わりたくない……!」
追い出された時に、深く傷ついた心は関わりを拒んでしまっている。
「…………」
「あ……ごめんなさい……」
つい声を荒げ悪感情をぶつけてしまい、急いで謝罪をすれば、
「いや……いい。大丈夫だ」と返ってきた。
「……もう一つ、帰れない理由があるの」
それに、先程の発言から、彼は恐らく、私の”事情”を知らない。
彼は、不安を乗り越えてマスクを外してくれた。
なら、私も……そうするべきだろう。
言葉の続きを待っている彼に、私は意を決して音を紡いでいく。
「眼が……見えないのよ。 両親が亡くなってから直ぐにね」
すると、彼の音が納得と罪悪感で埋まっていった。
「そうか……道理で……いや、何でもない。
帰ると良いなどと……酷な事を言ったな」
「気にしてない……何も……」
私にはもう帰る場所はない。戻っても幸せなどない。
でも、最後に訪れたこの時間は少しだけ楽しかった。
「お前は……これからどうするんだ……?」
「……行く場所も、する事もないから……。
このまま……静かに朽ちて行くと思う」
少し皮肉めいた笑いを彼に見せる。
これを言ったのは失敗しただろうか。
冗談でも希望を見せた方が、罪悪感を覚えさせずに済んだかもしれない。
私は、空気を切り替えるように彼に質問する。
「あなたは帰らないの? もう遅いよ?」
「あ、ああ……」
あぁ、ダメだ。悲しいという音が響いている。
どうせなら、綺麗に別れるべきだった……。
「……もしあなたが乱暴な人なら……、
お互いに、こんな気持ちでお別れにならなかったのかな」
これは違うだろう。彼に対して罪悪感が強くなり、
つい言葉が漏れてしまった。
「えっと……私なら気にしなくて良いよ。
最後に会話できて楽しかったから……満足」
楽しかった……それは本音なのだ。
彼との会話は嘘偽りなく、素直に話す事ができた。
だから満足だ。
私は草むらに横になり耳を済ました。
虫の鳴き声と動物の鳴き声……このまま静かに死んでいくのも悪くない。
まだ、彼はそこに居るが、どんな表情をしているのだろうか。
悲しい顔か……面倒そうな顔か……。
どうしてか、彼の顔を見てみたいな、なんて思ってしまった。
とっくに、光を求める事は諦めていた筈なのに……。
想像したらおかしくて、少し口角が上がってしまう。
会ってわずかだというのに、名前も知らない人の事を知りたいだなんて。
でもこれ以上望むのは……ダメだ。
私は、冷たい眠気に身を委ねる。
これ以上、希望を持ちたくない。
裏切られて、絶望したくない。
だが……。
「……お前も、一緒に来るか?」
「え……?」
私は、その言葉に体を起こした。
幻聴だろうか。こんな私に、価値の無い私に……彼は何と言った?
一緒に……? あり得ない。
だが、彼の口から出た音は……心の底からの優しさで溢れている。
間違いない……今まで掛けられたことの無い優しさだ。
人に頼らないと決めたばかりなのに、
その音は私の心を深く突き刺し、
刺された所からは熱く心地良い何かが溢れ出す。
「……? 泣いているのか?」
「……眼は見え無くても、涙は出るの」
私は急いで頬を伝うそれを拭った。これ以上迷惑は掛けられない。
「嫌だったか?」
「違う……その逆。嬉しい……」
そう思ったときに私は悟った。やはり死にたくなかったんだと。
でも……一緒に行った所で……と不安でいっぱいになった。
「でも、いいの? 私……何も出来ない」
「そんな事、これから見つけていけばいい」
「……私はまだ……生きていても良い……?」
「そうだ。帰ろう……俺の……いや、俺達の家に」
こんな事、許されるのだろうか……。
私は、望んでも良いのだろうか。
直ぐ近く、私の目の前に手を差し伸べてくれている彼に、
私は手を伸ばして……止まる。
その前に、大事な事を聞く必要があった。
「その前に……ひとつだけ聞きたい事があった」
「ん?……何だ?」
「私……まだあなたの名前……知らない」
「ああ、それは確かにそうだ。だが、それはお互い様だろ? じゃあ……」
そう言うと、膝を付く音と共に直ぐ近くに気配を感じた。
恐らく……目の前にしゃがみ込んでいるのだろう。
「俺はストック。固くなる必要も、敬語も要らない」
「私……は、アイリス。これからよろしく……お願いします?」
そして、私達は握手を交わした。
これが私と彼の出会い。そして始まり……。
「さて、立ち上がれるか? 無理そうなら抱えて行くが……」
「大丈夫、多分歩ける……でも腕が欲しい」
「腕……? あぁ、そう言う事か」
そう返した彼の手を頼りに、私は立ち上がると、袖を掴んで歩いていく。
私は、彼に何を返していけるだろうか。
そんな思いを心に秘めながら。