◆016 次期勇者 リアーナ
「リアーナ。教皇猊下より勅命を賜った」
保護者兼上司である枢機卿から告げられたそれは、私の心をかき乱すのに充分なものであった。
教皇猊下からの勅命は、一言でいうのならば粛清である。
本国で勇者として活動されていたクリス・ゼリエール様が人族を裏切り、勇者の証でもある神代の秘宝を持ったまま出奔したというのだ。
俄かには信じられないことだけれど、クリス様とパーティを組んでいた福音騎士のイスカールが私の補助となってこの粛清任務に当たることとなったので、少なくともクリス様が出奔したこと自体は嘘ではないらしかった。
「次期勇者、か」
猊下からの勅命では、クリス様を粛清した後、秘宝のサークレットは私がそのまま引き継ぎ、勇者として人族を救うことまでが内容として認められていた。
つまり、私が次の勇者となるのである。
「クリス様……何故ですか」
枢機卿が去ったあと、独りぼっちの宿舎で呟いた私のことばは、冷たい石壁に吸われるように消えていく。
そもそも私がゼリエール聖教国に身を置くことになったのは、クリス様が切っ掛けであった。
5年ほど前だろうか。
当時、まだ候補の一人であったクリス様は修行を兼ねて冒険者として活動されていた。聖教国周辺に湧いたモンスターを狩ることで魔法と剣技を磨いていたクリス様は、その日もモンスターの討伐依頼で私の村を訪れたようだった。
心の奥底に刻まれた恐怖が、昨日のことのように思い返される。
寄生魔蟲ヴィガバラド。
当時は名前も知らなかったが、私の村に降りかかった災厄は、そんな名前であった。
紐のような身体のそれは、人に取り付くと体内を食い荒らして化け物へと変える。化け物に変わった者はヴィガバラドの次なる宿主を求めて彷徨うようになるのだが、私の住む村はそれに侵されていたのだ。
始まりは、猟師をしていたジャックおじさんだった。
季節は秋。
降雪に備えて豚を潰し、塩漬けを作るがてら肉料理が増える季節で、私を含めて誰もがウキウキするような時期だったと記憶している。
猟から帰ってきたというジャックおじさんが人を集めていた。
聞けば、大きな熊を仕留めたもののおじさんも怪我をしてしまったため、冷却と血抜きのために川に沈めて放置してきたんだとか。
人を集めていたのは、沈めた熊を運ぶ人手が欲しかったからであった。
夕飯に豚だけでなく熊肉も並ぶ、と意気揚々と出発した村の男衆を尻目に、おじさんは場所だけ伝えて「少し休む」と家に戻ってしまった。
そして夜。
独り身のジャックおじさんが困っているだろうと、母や妹とともに豚肉と葉野菜の煮込みを差し入れにいったのだが、扉を開いた瞬間に異臭が鼻をついた。
糞尿の不快な匂い。
思わず固まってしまった私と妹に鍋を渡した母は、そのまま家屋へと足を踏み入れた。そして、すぐに闇夜を引き裂くような悲鳴があがった。夕食入りの鍋を放り出して駆け込めば、うずくまる母と、母を見据えながらも血まみれの口をクチャクチャと動かすジャックおじさんがいた。
おじさんは獣のように四肢全てを使って自身を支えていたけれど、どこか血色が悪く、まるで人間ではない何かに見えた。
「リアーナ! 逃げなさいっ!」
私の姿を認めた母は、絶叫するようにそう告げた。
私を庇うために広げた腕。
その右手は指がいくつか欠けており、鮮血を滴らせていた。
立ちすくんだ私を庇うように身を広げた母に、ジャックおじさんは跳びかかった。覆いかぶさるように母に取り付き、服の上から肩口へと齧りついた。
再びの絶叫。
それに押されるようにして逃げ出そうとした私の目に映ったのは、服ごと噛みちぎった母の肩肉をクチャクチャと咀嚼するジャックおじさんだった。
急いで逃げ出した私は、入口で立ち尽くす妹の手を引いて走り出す。
とはいえ、小さな村に木霊した母の絶叫を聞きつけた人々が既に集まり始めていた。うまくことばにすることができなかったが、大人たちは何とか理解してくれたのか家屋へと入っていく。
そして、今度は男の絶叫が響いた。
私たちは家に戻されたけれど、ジャックおじさんは気が触れたのだと聞かされた。
大怪我をして寝込んでしまった母を看病しながら父に聞いた話だと、止めに入った村人に襲い掛かり、母以外にも四人に大きなけがを負わせたらしい。
父はことばを濁したが、ジャックおじさんは何をしても止まらず、結局は村人たちが殺したのだと言うことを子どもながらに理解した。
それが、惨劇の始まりだった。
朝。
肩と指を食い千切られて寝込んでいたはずの母のベッドは、もぬけの空であった。眠たい目をこすりながらも母を探さないと、と外に向かうと、そこには口元を血まみれにした母がいた。
首の取れかけた、妹の死体を抱きながら。
クチャクチャと何かを咀嚼する音が聞こえ、私は思わず絶叫した。
そこから先は、酷く曖昧な記憶である。
気づけば私は父と二人、家の中に閉じこもっていた。父は何も話さず、ただじっと外の気配を窺うだけで一日が終わった。
料理も駄目だと言われ、塩漬けにしたばかりの豚肉や、やや萎びた野菜を生のまま齧って過ごした。水も、甕に汲んであったものを少しずつ飲んで耐えた。トイレも使っていない壺で済ませた。
「外は、あれがいる」
思い詰めた表情の父に続くようにして微かに開けた木窓の隙間から覗くと、そこは既に私の知る村ではなかった。
そこかしこが赤茶色の染みで汚れた地面。
ふらふらと、熱に浮かされたような足取りで辺りを徘徊する元村人たち。
その中でも目を引く存在がいた。
ドス黒く変色した見た目からは誰のものとも分からなかったが、汚れた服は見覚えがあった。
母だ。
無事だったのだ。
思わず声をあげようとした瞬間、母の顔が私の方を向いた。
「――っ!?」
ドス黒く変色した母の顔。
そこから、どろりと目玉がぶら下がっていた。
驚きと恐怖に悲鳴すらあげられなかったが、どう見ても生きた人の姿ではなかった。
それから三日。
ただただじっと気配を殺す生活が続いた。食べ物が底を尽き、嫌な匂いがし始めた水さえもなくなった。
「食料と水を手に入れてくる」
泣いて止めたが、父は火掻き棒と鉈を手に外へと出てしまった。
――そして、戻ってこなかった。
外を徘徊する者たちを恐れて脱出を躊躇っていた私は、脱水と空腹のためにまともに動けなくなってしまった。そうして、ぼんやりとした意識の中で見たのは、クリス様だ。
「飲めるか?」
ドレスアーマー姿のクリス様は垢だらけで酷い匂いがしたであろう私を抱き上げ、垂らすようにして水を含ませてくれた。
「ゆっくり。……そう、そうだ。水も食料もある。安心しろ、お前は助かったんだ」
祝福のようなことば。
つくりものかと見紛う程の整った容姿。
その時の私には、クリス様が女神様のように見えた。
私を天国へと迎えるためにきた、女神かと思ったのだ。
クリス様は私を抱き上げたまま、家の外へと連れ出してくれた。家の外は夕暮れと見紛うような明るい夜であった。
家という家から火と煙があがり、炎がごうごうと噴き上げて闇夜を照らしていたのだ。
「生き残りはお前だけだ」
「……っ」
「泣くな。せっかくの水分が無駄になる」
零れる涙を拭ってもらっても、乾きすぎて貼り付いてしまった喉からはお礼の一言すら出てこなかった。
パーティメンバーらしき男に薄い麦粥を作るように指示し、そのまま野営をしていた村の外へと運ばれる。
「……クリス様。その娘も連れて行くのですか?」
「不満か」
「――万が一にでも魔蟲に侵されていると、」
「あり得ない。この娘はこれほど衰弱するまで家で寝ていた」
「ですが」
「くどい。魔蟲がついていれば衰弱する前に理性を失くして獣となる。この娘は無事だ」
村を焼く炎に私を放り込みたいのだろう。
クリス様のパーティメンバーは酷く不快気な顔で私を睨んだ。
しかしそれでも引く様子のないクリス様を見て諦めたのか、溜息のようなことばを吐いた。
「……左様ですか」
そして、二日ほど野営地で過ごして私が魔蟲に侵されていないことが本格的に認められた後、クリス様にゼリエール聖教国へと連れて行ってもらえることとなった。
聖教国ですぐに別れてしまい、その後は一度も会えていない。
だが、私をあの地獄から救い出してくれたことを忘れることはないだろう。
孤児院に入り、一〇歳になった時に受けた適性試験の結果を見た私は、一も二もなく勇者候補として訓練を受けることを決めた。
クリス様のお役に立てるように。
受けた恩を、少しでも返せるように。
どんなに辛い訓練も、どれほど理不尽な命令も、クリス様のためだと思えば耐えられた。
私のせいでクリス様の格が下がることがないよう、貴族階級で求められるような言動も必死で学んだ。
――なのに。
「……何故ですか……!」
泣くな、と涙を拭ってくれる彼女はもういない。
ことばも涙も、冷えた石材に吸われて消えた。




