◆023元勇者、家出する
『転移魔法って、世界、超えられるかな』
馬鹿じゃないの、と思った生まれたてのサキュバスの提案はしかし、私のそれまでの価値観を徹底的にぶち壊してくれた。
土じゃない何かで覆われた地面。中に人が入って高速で動く魔道具。天を衝くほどの摩天楼に、ドラゴンのような速度で遥か上空を翔ける何か。
食事には塩や砂糖がぜいたくなほどに使われ、そのうえで多種多様なハーブやスパイスが複雑な味を作り出している。
しかも、うっかりしていると毒かどうかも気にせずに飲み込んでしまうほどに美味しい。
その上、私をすべての柵から解放してくれたあまねは、私のことを愛してくれた。
聖教国で勇者になるべく育てられた私にとって、愛というのは未知のものであった。尊敬や崇拝はあっても、愛はない。勇者として国を救い、人々を守り、そして平和になってから聖教国の王族に嫁ぐ。そこで初めて真実の愛というものを教えられ、女の幸せを手に入れるのだと言われて育ってきた。
そんなものか、と特に疑問を抱くことすらなかった。
勇者候補から外れた者がどこかに嫁いだだとか、そんな話を聞いても何も感じることはなかった。
剣を鍛え、魔法を鍛え、兵士を鼓舞し、戦場で刃を振う。
それが私の全てだった。
私が戦えば、それだけで少しでも多くの命を助けることになると教えられ、その通りにしていた。
どこでその歯車が狂ったのか。
私は戦後を見据えだした各国に疎まれた。同盟国だったはずの兵士たちに矢を射かけられ、従者は私の馬に剣を突き刺した。
血まみれになりながらはいずり回った後、傷口からだくだくと血を流したおかげか、頭に昇った血も減った。そして、幾分か冷静になった私が改めて見た戦場は地獄だった。
何のために生きているのか。
何のために戦っているのか。
殺し、殺され、また殺し。
私がしているのはただただ命を奪うことだ。誰一人として助けてなどいなかった。
むしろ、彼らを死地へと引き込み、殺していたのだ。
死にたいと思った。
だが、あまねはそんな私を認め、愛してくれたのだ。
方法を知らない私に対し、時に優しく、時に情熱的に。
全てが終わったあと、熱を持ちながらも気怠い身体であまねを抱きしめるのが好きだった。
もちろんあまねがサキュバスであり、性的な興奮や快楽が人間でいう食事と同じようなものであることは分かっている。いや、分かっているつもりだった。
それでも、勇者ではなく、私を欲してくれるあまねが好きだった。
あまねは美しい。
サキュバスは整った容姿を持って生まれるが、それを差し引いてもあまねには目を引きつけるような魅力があった。
自然、あまねのそばには他の人間も侍るだろうとは思っていた。
女で複数の配偶者を持つことはあまり聞かないが、男であれば一般的だ。教皇も四人の妻を持っていたし、ヴァリアル二重帝国の皇帝に至っては30人の貴人が名を連ねる大ハーレムだと聞いたことがある。
あまねには男としての意思があるらしいので、あまねがそうしようと言えば、あまねの女である私に否はなかった。
妻は異議を唱えず、ただ支えるものだと教わっていたからだ。
だが、私の胸の内は暗い炎がぶすぶすと煙を上げていた。
あまねに、私だけを見て欲しかった。
一番だって、特別だって、言って欲しかった。
「……ばかみたい」
私は、あまねに自分との関係を訊ねたことはない。
恋人であることを望み、そうであるかのように振舞っていたが、その実、否定されることを恐れていたのだ。
だから、あまねが私をどう思っているかは知らない。
聞かなかったのだから知る権利もない。
なのに。
「何が勇者よ」
自分勝手に嫉妬して、あまねに八つ当たりして、飛び出してきてしまった。
勇気なんて、欠片もない。
私は撮影スタジオを飛び出して、当てもなく街を彷徨っていた。まだ日は高い時間の筈だが、太陽の位置が分からないくらい雲は厚い。スマホも置いてきてしまった。
あまねは、私を心配してくれているだろうか。
それとも、ルルやタマキ、そしてあの柚希という女でも良いかと私を捨ててしまっただろうか。
ぽつり、雨が降り出す。
「……あまね」
捨てられたくない。
ひとりぼっちになりたくない。
あまねと、一緒にいたい。
雨はみるみる間に激しくなって行き、あっという間に、私はびしょぬれになった。あまねと買った、服。
「……雨宿り、しなきゃ」
雨で周囲が傘を差しているのを良いことに、私は跳躍してビルの上まで移動する。流石にひとっとびとは行かないが、ちょっとしたでっぱりを足場に何度か跳躍すれば簡単に届く。
打ち付ける雨で白く見える街並みを見下ろす。
「……お店、は、ダメ」
お金の類は持っていないし、この国では全ての国民が『身分証』なるものを持っているらしいので、万が一身元検めでも行われればあまねに迷惑を掛ける可能性もある。
あまねは私を見捨てるだろうか。それとも、助けにきてくれるだろうか。
再びそう考えていたことに気付き、我ながら未練がましくて笑えてしまう。
「……あれは……難しいか」
電車と呼ばれる魔道具の停車場は屋根付きだが、人が多いので紛れるのも難しいだろう。 むしろ、その道を支える陸橋の下なんてどうだろうか。
行くだけ行ってみるか、と雨の中に身を躍らせる。
既に靴の中に溜まる程に水浸しなので今更少しくらい濡れても変わらない。人目に付かず、雨風を凌げる場所があれば魔法で乾かすことも可能なのだ。誰かに見られない程度の速さで、急ぐ。
道路が飲み込まれるようにして、電車の通り道の下を通っていた。ばしゃばしゃと水音が響き、湿った空気にどぶ臭いにおいが鼻を突く。
裏通りみたいな雰囲気の場所を選んだこともあり、汚い代わりに人はいない。
「《清潔》《暖乾》」
パァッと魔力を放出し、汚れと雨水を取り除く。
「……はぁ……どうしよ」
何かの印章だかサインだかのような落書きが所せましと描かれた壁に寄りかかると、これからについて思案する。金は持っていない。スマホも置いてきてしまった。
行く当てなどあるわけもない。
とはいえ、家に戻りたくもない。
自分勝手な言い分なのはわかっているけれど、あまねが別の女と褥をともにするのは見たくない。かといって今はあまねと冷静に話をできる気もしない。
ダイゴ……は連絡がつかない上にあまねにすぐ話してしまいそうなので頼りたくない。
タマキに至っては、多分だがあまねを焚きつけていた。熱くなりやすいあまねの性格は困ったものだとは思う。タマキの時しかり、ルルの時しかり。
とはいえ、あの真っ直ぐで一生懸命なあまねに、私自身も救われたのだ。
私がいた世界で、味方のはずだった人間に裏切られた時。
私のそれまでを全て否定されたような、そんな気持ちの中に沈んで、どこにも居場所などないと嘆き、死んでいないことを悲しんだあの時。
「だったらおれが作ってやるよ!」
何も関係がないはずだったのに。
それどころか魔族を幾人も屠った人間の筆頭なのに。
磨き抜かれた紫水晶のような瞳から、私のためにぽろぽろと涙を零してくれた。
ああきれいだ、なんて他人事のようにそれを見ていた私に、
「だからおれと逃げよう!」
あまねは手を伸ばしてくれたのだ。
居場所を作ってくれると、そう言って。
「……居場所……なくなっちゃう……」
溜息とともにしゃがみ込み、膝を抱えるようにして顎を乗せる。
ちゃんと居場所作ってよ、ばか。
流れる雨水に私のぼやきが溶けて流れる。
その時だった。
「んぁー? 妖気を感じたからきてみりゃ、いつかのおっかねぇ娘じゃねぇか」
ぼんやりと揺らめく闇から、カエル頭の半魚人が顔を出した。
思わず飛び退いて拳を構える。
何も持たずに飛び出した私に、武器などあるはずもない。魔力を循環させて身体強化を発動する。
「いやぁ待て待て。戦る気はねぇよ」
「ふむ」
鎌短剣のような爪がゾロリと生えた手を上に持ち上げ、軽く手を振る。
「言ったろ? 妖気を感じたから、仲間が生まれたかと思ってきてみたんだよぉ」
あまねが眠っている間に柚希から聞き出したところによれば、この世界では魔力のことを妖気や呪力、法力など、宗派や扱う術によって様々な呼び方をするらしい。
ならば、私が身綺麗にするために使った魔法を感知したということだろうか。
それほど大きな魔力を使ったわけでもないのにこの短時間で現れるとは……
「それで? 世間話でもしにきたのか?」
「ん、まぁそんなところだ」
「ならば自己紹介でもしたらどうだ?」
私のことばにボリボリとカエルの頭を掻く。鋭い爪で掻いて痛くないのだろうか、とも思うが半魚人はそんなことは意に介さず、横に裂けた瞳で私を見つめた。
「自己紹介か。それも悪かねぇな。俺ぁダゴン教団のディープワンっていう。見ての通り、妖魔だ」
「……クリスという。見ての通り、人間だ」
無難に応えながらも、こいつが自ら名乗ったことを受けて体内の魔力を限界まで練り始める。
私の知る限り、モンスター――この世界では妖魔、妖怪と呼ばれるらしいが――には碌な知性がない。稀に永い時を過ごし、世を亡ぼすほどの魔力を得た個体のみが知性を得ることがあるが、基本的には本能のままに生き、そして死ぬ。
永い時と膨大な魔力を得たモンスターはまず、ことばを得る。
童のような、意味のないことば遊びを楽しみ、やがて複雑化していき、名を得るのは最後だ。
私の知る限り、名を得たモンスターなど古龍や高位精霊くらいのものだ。大都市を滅ぼした【死と妄執の王】も伝承としては伝わっているが、正直眉唾としか思えないようなおとぎ話の世界の話である。逆に言えばおとぎ話に出てくるレベルにならなければ自ら名を名乗ったりはしないのだ。
「クリスかぁ。お前さん、人間辞める気はないかぁ?」
「何? どういうことだ?」
「簡単な話よぉ。俺の知ってる外法で人外の化生にしてやる。それだけ妖気を操れるのに、ただの人間にしとくのは勿体ねぇからなぁ」
エルフや天使を堕墜させるようなものか。
魔族の使う外法と似たような手段を持っている、ということなのだろう。
「目的はなんだ?」
「なぁに、簡単なことよ。俺が指示したニンゲンをぶっ殺しゃいい。俺たちが畏れをバラ撒けば、畏れが俺たちを強くしてくれる。化生の生活は楽しいぜぇ」
なるほど。
サキュバスが精気を糧とするように、このモンスターは『畏れ』とやらをエネルギー源とする訳か。
「嫌いな人間はいねぇか? それどころか、人間そのものに嫌気がさしてたりはしねぇか? なんならあの飼い犬のメス妖魔も連れてきても良いぞぉ?」
半魚人のことばに、私は口の端が自然と吊り上がるのを感じた。
「……良いタイミングで来てくれた」