◆058 めしべとおしべがごっつんこ
道場には人の気配がある。
気配を読む、なんて何かの達人みたいな技はおれには使えないけれど、全員が魔力をもっているためなんとなく感じることができるのだ。
立派な上がり框に座って靴を脱ぐと、そのままぺたぺたと素足で道場の中へと進んでいく。サンダルだったこともあって、木材の感触が何とも気持ちいい。
中にいたのは土御門夫人とリア、そして葵ちゃんだ。いや、もう一名いるけどそれは今のところは無視だ、無視。
葵ちゃんは現在、頭の上に何かの図鑑みたいなのを何冊か乗っけた状態でびしっと立っており、それをリアと夫人で駄目だししている最中であった。
「顎はもっと引きなさい」
「視線はもっと高く。俯いていると、自信がないと思われて貴族家から侮られますのよ」
「梓さんは小学生の時にこのくらいは難なくやっています。葵さんもがんばりなさい」
「指先にも意識を集中なさい! 優雅さに欠けていますわ!」
今までとは毛色が違い過ぎてコメントし辛いけれど、これはこれでなんとも厳しい訓練だ。
こんな訓練をすることになった理由は、東京ドームでの一件が終わり、一夜明けた後まで遡る。
朝、土御門邸で顔合わせをしたんだけれども、ちんちんを失った葵くんは死ぬほど落ち込んでいるかと思いきや、ケロっとした顔をしていた。
「ええっと、落ち込んだりは……?」
「いえ。大丈夫です」
憑き物が落ちたかのような顔をした葵くんが言うには、《命枯らす樹》に取り込まれたときに、あの植物幼女の経験した記憶と感情が流れ込んできたらしい。断片的だったけれど、焼き付くような強烈な感情は、人間を、特に男を憎悪するものだった。
それが元々の葵くんの気持ちと良い感じに中和されて、例のコンプレックスはかなり落ち着いたらしい。
とはいえ、がっちりムキムキな男になりたいという願望は残っているらしく、『逆転の聖杯』をお願いされてしまった。中和されてなお残るってどんだけ強い願望もってたんだよ……!
「いや、良いんだよ。良いんだけどさ」
渋々取り出した聖杯の中に溜まっていた液体は、緑とピンクというなんともすごい組み合わせをしている。前回のはレインボーだったのに、何で今回は二色?
しかも、イメージ的におれと植物幼女の色だ。
もしかして、魔力にも偏向性というか、属性みたいな偏りがあったり?
そんなことを考えたんだけど、
「知らん。聞いたことがない」
「んー、どうでしょう? あまねさん自身の魔力はもちろんのこと、植物幼女の魔力もあまねさんが解呪したあとのものですし、別に害はないと思いますけど」
「申し訳ありませんおねえさま。存じませんの……この罰は如何様にも……!」
とのことだった。
……リアさんや。
そんな期待に満ちた眼差しでおれを見つめても、何もしませんからね。
ええ、しません。昨日ちょっとリアが意識を飛ばしちゃったのはミスだから。決して狙ってやったわけじゃないから!
興が乗ったとか夢中になり過ぎたとかそういうのじゃないから!
犬耳と犬尻尾が幻視できそうな状態で『待て』をしてるリアを放置して、葵くんに聖杯を渡すと、葵くんは何の躊躇もなくそれを飲み干した。昨夜のうちに家族からは了承を得たらしいので、問題は何もない。
「……どう?」
「……人面樹スムージーの味がしますね」
き、聞きたくなかった情報だ……!
まがりなりにもおれの魔力が入ってるだろうに、よりにもよって妖怪料理の味がするのか。
いやでもこないだ葵くんが飲んでたのって人面樹と桃だった気がするし、おれの方は桃!
桃でお願いします! ゲテモノ扱いされたくないっ!
まぁ人面樹が入ってる時点で味は想像できないんだけども。
「何か変化はありそう?」
「あっ……えっ!?」
葵くんは戸惑いながらも、体内の魔力をぐるぐると渦巻かせる。その回転数が一定を超えたところで、カッと眩しい光を放つ。
「お、おおおおお!?」
一瞬だけめまいがするような光を放った葵くんは、次の瞬間には170cmくらいのすっきりした体格の男へと変貌していた。
葵くん自身も自らの手のひらや身体を確かめるように動いて、それから確信とともに喜色をあげた。
「お、男に……男になれたぞ!?」
やや高めだけれども、ハッキリと性別が分かる声。
まだ細めではあるけれど微妙に肩幅も大きくなり、がっしりした雰囲気だ。
というか、なれたって……自分でも本当はそう思ってたんだね……。
「すごい! 本当に男になった! やった! やったぞ!」
逆転の聖杯を握りしめながらガッツポーズを取る葵くんだが、次の瞬間その表情が驚愕に彩られた。ぴたりと動きを止めたその姿に皆が訝し気な視線を送る。
なんだろう。ケーキだと思って食べたら和菓子だった、みたいな。これじゃない感というか、納得してなさそうな感じでもにょもにょしていたので、理由を訊ねてみる。
「どうしたの? 何か問題でもあった?」
「あー……えーと……」
葵くんは口ごもり、視線を彷徨わせた後に、
「何か、あの妖魔の魔力とあまねさんの魔力が変に作用したみたいです」
「と言うと?」
「……なんか、女の子にもなれるっぽいです」
言いながら再びの魔力操作。
ぐるぐるぐるー、カッ、ぼふんっ。
気が抜ける音がして、葵くんが元の姿――といったら怒るだろうけど、どうみても女の子にしか見えない姿へと戻る。
確認はしてないけれどアレもついてなくて、男の娘ではなく女の子だろうね。胸も心なしか膨らんだような気がする。
今までのイメージもあって、その方がしっくりくるんだけどさ。
「……なんで!?」
「俺が知りたいですよっ!?」
おれの質問に逆切れした葵くんをなだめたのは環ちゃんだ。
どうどう、と手で制した後で軽く頭を振る。何かを考えているらしい。
「例えばですけど、植物って雌株、雄株に別れているタイプとそうじゃないタイプのがあるじゃないですか?」
中学校で習った気がする。
めしべとおしべが一つの花につく奴と、一つの株に雌花・雄花がつく奴。そして環ちゃんが言ったような、株ごとに雌雄の区別がつけられる奴があったような。
そしておしべとめしべがごっつんこすると実ができるんだよね。そこだけ真面目に勉強したから覚えてる。
「あの《命枯らす樹》は雌雄同株だったってことじゃないですかね?」
「そ、そんな……」
「まぁでも、切り替えられるなら別に良いんじゃないですか? どっちかを選んで生きてけば良い訳ですし」
確かにそうだ。
その気になれば生やせるというのは羨ましい。
場合によっては、おれもそんな感じでも良いかも知れない。だってそうすれば配信も続けられるし!
「半陰陽や両性具有に比べればずっと苦労は少ないんじゃないですかね。どっちかに固定しちゃえば普通の人と何も変わらないわけですし。男性に見えますよ」
「男性として、……男として……!」
あっけらかんと告げる環ちゃんに対して葵くんが何か決意をしたような表情になる。そして再び魔力を体内で操作し、男性の姿になる。
やや中性的ではあるもののはっきりと男性っぽさを感じる姿は、乙女ゲームの可愛い系キャラとか美しい系のキャラクターが務まるほどにカッコいい。
葵くんは真剣な表情で環ちゃんを見つめると、聖杯を持っていないほうの手を差し出して頭をさげた。その顔は真っ赤に染まっている。
「た、環さん! 好きです! 付き合ってください!」
「うん無理。私が好きなのは女の子だし」
「……………」
ひ、酷い……!
あまりにも平然と言われたためか、葵くんは理解するのにたっぷり10秒近く掛けた。表情が抜け落ち、ぽと、と手に持ったままだった逆転の聖杯を取り落とすと、膝から崩れ落ちる。
膝と地面との間には聖杯が転がっており――
カシャンッ。
「エッ」
葵くんの膝によって、緑色の金属らしき何かで出来ていた聖杯はあっさりと砕けた。
「う、うう、うっそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
待って! 待って待って待って!
おれの夢が! 希望が! 聖杯が!
「せ、聖杯が……おれのちんちんが……!」
壊れちゃった……!