0ー魔女王、賢者の守護者となるー
何時から、生きているのかが分からない。
気が付くと其処は森だった。自然に囲まれ、木々に覆われた緑の世界に彼女はいた。
目覚める以前の記憶を全て失っていた彼女が最初に覚えたのは、血に濡れた手が握り締めていたペンダントに刻まれた“Morgan”だった――……。
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――世界の終焉ってこういうのを言うのかね……
地上を見下ろす空が青かったのはもう何ヵ月も前の話。暗黒に染まった空の下、視界に広がる黒い絶望を遠い場所から眺める一人の女性。艶のある紫色の癖のある長髪。長い睫毛に縁取られた翡翠色の瞳が空から降ってきた凶悪で強大な絶望を感情の読めない色で眺めていた。凛とした美貌に似合う、陶器のように白い背中と豊満な胸元が大きく開かれた黒いドレス。自身の容姿に絶対の自信があるからこそ着用出来る。
今、世界は終焉を迎えようとしていた。
外宇宙から召喚された邪神の眷族と人間との戦争が起こったのは半年前。圧倒的な力を有する邪神の眷族に人間は為す術もなく一瞬にして蹂躙された。世界がたった一体の邪神の眷族に終焉を迎えさせられるのは目前だったその時――あの五人が現れた。
「ほ~う。頑張っておるのう~」
世界の命運がかかっているというのに、呑気な年寄り口調で女性の背後に来たかと思えば後ろから両腕を回した。豊満な胸を腕に乗せるように抱き締めると「おい」と刺のある声が。
女性が発した声だ。
「今『五大王』が命懸けで戦っているというのにお前は何をしておるのじゃ」
「人のことを言える立場かのう?なら、お主も混ざったらいい。彼等はきっと泣いて感謝するぞい。世界最高峰の魔術師“魔女王”モーガンが遂に戦場に立つと」
「馬鹿を言え。死んでも御免じゃ。後、彼奴等はあたしが嫌いだ。見るだけで吐きそうな顔をされる相手の助け等誰がするか」
「うむうむ。それで良いぞ~。お主が行ってしまったら、我輩一人で此処にいないといけなくなる」
“魔女王”モーガン。それが女性の名。
世界最強にして最高峰の魔術師。500年前から生き続けるモーガンには、ある秘密が存在するが今は関係のない事柄なので説明はまた何れ。
モーガンに抱き付いて、更に片方の胸を下からタプタプさせて遊んでいる男が実は『賢者』だと言っても誰も信じない。『賢者』とは、凡百魔術と知識を兼ね備えた唯一の存在。叡知を極めし『賢者』の存在は毒でもあり、甘美な蜜でもある。表世界で『賢者』の姿を、存在を知る者も、術もない。裏世界でのみ、彼の存在は語り継がれていく。
「のうモーガン。この戦い、何方が勝つ?」
「お前が言う台詞とは思えんな。『賢者』が世界に興味を抱くか?」
「我輩は知的好奇心に溢れておるからのう。何にでも興味を抱く。思っていたものと違うと判断すれば興味は失せる。邪神の眷族に『五大王』は勝てるかのう」
「だからこそ、お前は見届けたいと願って此処にいるのだろうが」
「うむ」
突如、空から黒雷が幾筋もの光を作り大地を抉った。遠く離れた場所からでも伝わる轟音。世界が悲鳴を上げるかのように大地が揺れる。二人には、遠くの戦場の光景が鮮明に見える。身体強化魔術の一つ【千里眼】を使用することで数千キロ離れた場所の景色を細部まで目に入れられる。空を覆う黒。禍々しい魔力を纏い、異形な怪物が咆哮と共に雷を発射した。また、怪物の体には、巨大な黒い塊があった。
「あれが本体じゃのう」
「だろうな」
「だが」と続けたモーガンの翡翠色の瞳が金色の閃光に鋭い視線を送った。神速の風を纏った金髪の美少女が邪神の眷族に向けて風の魔術方陣を展開。術式を目にし、何の魔術を使用しようとしているか即座に判断したモーガンは「はあ」と溜め息を吐いた。
「本体だと気付かぬな」
金髪の美少女が放った風の魔術が怪物の顔を直撃。耳もつんざく悲鳴が周囲一帯に響き渡る。少女や少女の仲間の顔には一つの安堵が浮かべられた。今の一撃で怪物の顔は潰れた。飽くまで顔だけ。
黒い塊に大きな一つ目が開かれた。禍々しい魔力は一層濃くなり、軈て、潰した怪物の顔が一瞬にして再生された。顔を青くし、絶望に落とされた面をする彼等にモーガンは呆れたように息を吐いた。
「あの程度で本当に倒せたと思うのが間違いだ」
「辛辣だのう。一度は、共に旅をしていた仲間だと言うのに」
「さっきも言ったが向こうはあたしを嫌っている。あたしも嫌いだ。どっちも仲間だと思うておらん。時に、さっきからお前は何をしておる」
「うん?何とは?」
「惚けるな」
「仕方ないのじゃよ。モーガンの胸が柔らかくて触り心地が良すぎるのが悪い」
「人の胸のせいにするでない」
本当にこの男は今の状況を理解しているのだろうか。下からタプタプさせて遊んでいるかと思えば、行為はエスカレートして本格的に胸を触ってきた。厭らしさが一欠片もないのが男に性的な下心が全くないから。柔らかくて、触り心地が良いから触っているだけ。モーガンが言葉で咎めても行動を止めないのは、止めても無駄だと長年の付き合いで理解しているので。
「然し、選択を誤ったのう。ウーラノスは、今の【シルフィード・ブレス】で魔力を使い果たしたと見える。怪物が本体だと見誤るからだのう」
「だが、本体である塊の目が開いたんだ。あれで分からんなら只の阿呆だ」
「おや、アレースが向かって行ったわい」
「やられているがな」
「黒雷をまともに食らってしまったのう。さて、次は誰が動く」
アレースと呼ばれた男は、黒雷を正面から防御もなしに食らって、黒い塊となって地に堕ちた。息をしているのかさえ不明なアレースに銀色を靡かせて華奢な少女が駆け寄った。白い魔術方陣を展開された。
「【リザレクション・プリーマ】か。流石はセレーネじゃな」
「そうじゃのう。おや、今度はアヌビスとケリドウェンが向かって行ったわい」
男の呑気な声に釣られ、モーガンは視線を変えた。灰色のウルフヘアーの屈強な肉体を持つ男性と根暗な雰囲気が漂う黒髪長髪の優男が本体へ突進して行った。二人とも、己が持つ最強の威力を誇る無属性と闇属性の魔術を放った。二つの属性は放出途中に融合し、更なる脅威となって邪神の眷族の本体へ襲い掛かった。
直撃した強大な魔術攻撃。手応えはあった。事実、塊の半分が抉られた。後は一気に力を押し通すだけ。セレーネに再生魔術を施されたアレースが戦場に復帰した。空中には、アレース、ウーラノス、セレーネ、アヌビス、ケリドウェンの五人が集結した。『五大王』と呼ばれる5人の内、4人の力がアレースに集まる。四人の魔力を使い、渾身の魔術を放とうとしている。
黒雲が世界を覆い、禍々しい魔力の濃さが格段に増した。半分の大きさになっても尚、衰えを見せない邪神の眷族。モーガンは男の手を胸から離すと数歩前へ出た。
「おや?やっぱり、加勢するのかや?」
「もっと近くで見たいと思ってね。成功するか失敗するかは如何でもいいが、世界の命運を賭けた一撃の行方を」
「我輩も同意見だ」
「だから」とまた『賢者』はモーガンに抱き付いた。今度は胸を掴んでない。「傍にいておくれ」恋人でもないのに、異性を惑わせる甘い声。男の甘言に惑わされないのは、世界中何処を探してもモーガンしかいない。「好きにしな」とは、モーガンの言葉。極光の輝きが二人のいる遠い場所まで届いた。目を覆いたくなる眩しさがアレースの剣に集中する。“覇王”の名に相応しい聖属性の魔導剣士の聖剣が、四人の魔力を吸収し、世界最高峰の聖属性の魔術を放とうと機会を窺っている。
邪神の眷族の本体からも最高密度に達した魔力球が作られていく。『五大王』と謂われる英雄5人の力と本来なら人間をあっという間に蹂躙させられる力を持つ邪神の眷族の――最高の力が衝突すれば、恐らくこの一帯の土地所か、大陸の半分が消滅する。
モーガンが無言で左手を前方へ翳した。心臓に近い左手が魔力が一番多く流れる。故に、魔術師は世界共通で左手で魔術を行使する者が一般的である。
『五大王』と邪神の眷族の力――光と闇――が衝突した。その刹那、たった一言の適当な呪文で“魔女王”は、他に使い手がいるとするならば『賢者』しかいないとされる超級の硬度と強度を誇る結界を中心部へと展開した。
世界に被害が及ばないようにする為の手段。結界は、二つのエネルギーが広範囲に広がらない為のもの。白と黒が交ざり合い、途方もない魔力と魔力のぶつかりによって生じた破壊の力がモーガンが展開した結界を襲い掛かった。
「う、ううっ……くうっ……!」
術者にも、多大な負荷がかかる。襲い来る激痛と衝撃に美しい顔が苦痛に歪む。
だが、耐えねば――。
「仕方ないのう」
やれやれといった感じで『賢者』が左手をモーガンの左手に乗せた。何時、如何なる時も中立を貫く『賢者』が初めて世界に、……他人に干渉した瞬間である。
『賢者』から送られる魔力がモーガンが展開した結界の維持を強固にした。不安定に揺らいだ結界が安定した。
「これは貸しじゃぞ?モーガン」
「はっ……どういう気の変化じゃ」
「さてのう。ただ、このままだとお主が死んでしまうかと思っただけだのう。お主が死んでいなくなれば、我輩はとても寂しいからのう」
「ほざけ」
素直に“ありがとう”を言えばいいのに、熟自分は素直じゃないな、とモーガンは自嘲する。それが自分だと言い聞かせ、意識は結界の維持へ飛ばしているのに、耳元で囁かれる声だけは確りと拾った。
「この貸しは長い年月をかけて返してもらうぞい」
モーガンがその意味を問う事はなかった。否、出来なかった。
力と力のぶつかり合いの最中、急激に世界が輝きに包まれた。
『五大王』でも邪神の眷族でもない。全く別の第三の力が――
「――――……」
視界が真っ白になる直前、声なき言葉を紡いだ『賢者』は静かに笑った……。
「――……ん……」
不意に意識が浮上した。
ゆっくりと瞼を開け、広がる世界。まだ覚醒し切れてない頭でぼんやりと眺める。モーガンの目に最初に映ったのは緑。地面に生えた草だった。
此処は?一体、何が起きた?
痛む頭。以前にも、似たような状況だった時がある。何時の頃の記憶か脳の引き出しを探りつつ、モーガンは時間を掛けて起き上がった。
モーガンの記憶が覚えている限りでは、邪神の眷族と『五大王』の力のぶつかり合いで被る被害を最小限に抑えるべく周囲に結界を張り、その途中に謎の輝きが発せられた。そこまでは覚えているが、そこから覚えてない。
「……マーリン?」
無意識に出たのは人の名前。ずっと自分に引っ付いていた、セクハラ『賢者』は何処へ?
はっ、と他者の気配を感じ取ったモーガンが見ると。そこにいたのは、菫色の髪をした赤ん坊が静かに寝ていた。
「……」
赤ん坊に掛けられている服は、どこをどう見てもマーリンが着ていた服。
「あ……」
淡い青の光の粒子がフワ……と浮いた。見れば、自分の心臓付近にある紋様が浮かび上がっていた。
「“天空の女神”……」
それは、この世界に生きる者ならば誰もが知っている神の名前。『千年聖教会』が奉る天空より落とされし救いの聖女。
そこでモーガンは一つの昔話を思い出した。
一つの時代が終わる時『賢者』は眠りに就き、世界に大きな異変が起きる時『賢者』は目覚める――と。
『賢者』の眠りは“死”を意味する。普通の人間と違う所がある。肉体は滅びても魂は冥土へは行かない。『賢者』はその肉体が滅びると同時に新たな肉体へ魂が移り生まれ変わる。但し、重大な欠陥があった。永久の時を生きる『賢者』の凡百魔術と知識が全て失われる。新たな時代を迎え、孵化するまで『賢者』は無能となる。
それを護る存在こそ『守護者』と呼ばれる護衛役。代々、護衛役は一人しかいない。死の間際、『賢者』は己が全てを預ける『守護者』を決める。
今回の『守護者』はモーガンが選ばれた。歴代『守護者』の中で最強の力を有する“魔女王”が。その証拠にモーガンの心臓付近に浮かんだ“天空の女神”。これが『守護者』である唯一の証。
「うう……」
「!」
マーリンそっくりな赤子が唸った。
そっと抱き上げたモーガンは、小さな命に身震いした。あの『賢者』が大人の力を借りないと生きられない赤ん坊になってしまった。
モーガンに抱かれたマーリンは、安心した微笑を浮かべてすーすー眠っている。
「……これが貸しかい」
最後、マーリンは言っていた。
『この貸しは長い年月をかけて返してもらうぞい』
あれは、こういう意味だったのか。
赤子特有の柔らかな頬を人差し指で突いた。
「はは……上等だよ。マーリン」
モーガンは、大人のマーリンが着ていた服で赤ん坊となったマーリンを包んだ。ゆっくりと立ち上がり、森の中を歩き始めた。
目的地はない。ただ、進むだけ。
『賢者』の護衛役『守護者』には、ある重大な秘密があった。
赤ん坊となった『賢者』が目覚める時、預かった力と知識を『賢者』へ返さなければならない。返還方法は単純。『賢者』に喰われるだけ。肉体も、魂も、『守護者』の全てを喰らう事で『賢者』は本来の姿と力を取り戻す。喰われた『守護者』は『賢者』の中で永遠に生き続ける。
「あんたの言った通り、長くなりそうだね……」
――邪神の眷族と人間の間で勃発した戦争。大きな犠牲を出しながらも、本来であればあっという間に滅ぼされていた人間達の抵抗によって世界は救われた。主に大きな功績を残した5人の英雄は『五大王』と呼ばれ、世界中の人々の崇高なる存在となった。
だが、彼等は知らない。恐らく、これからも知る事はない。『五大王』が表で活躍する傍ら、裏で彼等を密かに助けていた影の立役者がいたことを。但し、その立役者は表に名を上げるつもりも彼等に知らせる気も微塵もない。
影の如く、誰の目にも映らない道を行く。
それが『守護者』になり、いつか『賢者』が孵化するまで『賢者』を護る役目を与えられた“魔女王”モーガンである。
読んでいただきありがとうございました!