友情
「ぜぇ、ぜぇ、ごめんお待たせ……あれ?」
息せき切って席に戻って来たテレスだったが、今度はアンディが座っているはずの席が空になっている。慌てて周囲を見渡すと、舞台上に立つ親友の姿が目に留まった。
「いつの間にあんなところに……!」
スポットライトの光を浴びながら、アンディは教祖の前に膝をつき、カールマンは忠誠を誓う彼をじっと見降ろしている。周囲には幌巣を始めとする信者たちがずらりと並び、二人のやり取りを見守っていた。
「すいません。すいません! ちょっと通してください……アンディ!」
テレスは客席の間をすり抜けながら舞台へ続く階段を駆け下りた。その声に反応したのか、ふいにカールマンが横を向き、こちらに視線を合わせた。
さらに舞台の前に詰め寄っていた観客たちも十戒で割れる海のごとく左右にさっと広がった。前に進もうとあがいていたテレスは唐突な反応に対処できず、勢いあまって階段を転げ落ちた。
「どわぇっ!」
奇抜な叫び声を上げ、正面の段差に頭から突っ込むテレス。そんな彼の様子をただ遠巻きに見つめるだけで、助け舟一つ出さない周囲の人々。
「ステイン君、彼ですか? 君にとって最も大切な友というのは」
「はい先生。おっしゃる通りです」
膝を着いたまま恭しく返事をするアンディ。カールマンはテレスの方に歩いて行くと、よろよろと起き上がる彼に向かって手を差し伸べた。
「ようこそ。テレス・ニコマコス君。壇上へお上がりください」
「あ、はぁ。どうも……」
カールマンに言われるがままに、テレスは舞台へと上がった。
「ステイン君から話は聞いています。フィリップス大学の留学生として本場の賢人に教えを乞うため、ハルマゲドニアからはるばる亜帝内まで来たそうですね?」
「あ、はい」
「今日来たばかりだそうですが、どうでしょう? 我が教団はお眼鏡に適いましたかな」
「えぇ?」
予想外の質問に困惑するテレス。自分が抜け出している間にどんなやりとりがあったのかは知らないが、律儀に質問に答えるとしたら、少なくとも序盤の狩暮とのやり取りだけでもノーと答えるには充分だと思った。無理もない。あんな茶番劇で教団を好きになれというのなら、思い上がりもはなはだしい。
一方でそんな感情をこの状況で口に出すほど、彼は愚かではなかった。どういうわけか舞台に無理やり引き上げられてから、いや、カールマンがこちらを見た時点ですでに会場の視線を釘付けにしてしまっている。下手に本音を言うとどんな目に遭うか解らない。
「あーっと……す、素晴らしい教団だと思います」
「タレス教団や、ピタゴラス教団よりも?」
「へっ?」
「貴方の眼から見て我が教団は、有名な二つの教団よりも賞賛に値するかと聞いているのです」
「えっと……」
今度はまた随分と無茶な質問だ。確かに昼間、幸運にもピタゴラス教団に出くわした。だが彼らの儀式まで見る余裕などなかった。タレス教団に至ってはまだお目にかかってすらいない。そんな現状でゴルギアス教団と比べてどうかなどと問われても答えようがないではないか。
「すいません。それを判断するのは、さすがに性急すぎると思います。何しろ僕はつい半日前、亜帝内に着いたばかりで、どちらの教団の活動もまだ本格的に見ていません」
「なるほど、ごく当たり前の回答でしょうね。しかし」
カールマンはテレスに振り向けと言わんばかりに、彼の背後を顎でしゃくった。
「彼にそんな悠長な時間はないようですよ」
振り向いたテレスの視界に、一本のナイフを握るアンディの姿が飛び込んできた。彼はその切っ先と同じくらい鋭い眼差しを親友に向け、今にも飛びかかろうとしている。
「アンディ……どういうことなの」
「彼に多額の借金があると聞いていないようですね。まぁ当然でしょうが」
「借金?」
「この教団でこれからもお世話になるために、亜帝内で貯めていた全財産を先生に差し出した。それでも足りないと言われたから、会社の金にまで手を出したんだ」
「なんだって!? アンディ、何故そんなことを」
「決まってるだろ。弁闘術を習得したいからだ。そもそも俺みたいな余所者は、他の教団では門前払いされる。カフェでも話しただろ? ここは違う。金だ。金さえ払えばどんなに卑しい身分の者に対しても、弁闘術を教えてくれる……友達を騙して入団させるようなクズでもだ」
「それどういう意味?」
「そのまんまだよ」
「僕を騙したの?」
「……」
「僕のためを思って連れて来たんじゃなかったの? それも全部嘘だったの?」
「…………」
「黙ってないで何とか言ってよ、アンディ!」
「ああそうだよ! お前がここに入団すれば紹介料が手に入る。しかもハルマゲドニアからの留学生となれば、教団の名を海外に売れる絶好のチャンスだ。俺の借金をチャラにできるだけの莫大な金が転がり込んでくる。
お前は本物の賢人に教えを乞うために来たんだろ? 先生はその条件に当てはまる人だ。お前が今この場で入団することが、俺にとっても、お前にとっても、教団にとってもプラスになる。お前は俺の友達である以前に、金のなる木なんだよ!」
最後は捨て鉢同然に吐き捨てるような言い方で、アンディはナイフを振り回し唾を飛ばした。その姿は傍から見れば友情など欠片も持ち合わせていない卑劣な悪党にしか見えなかったが、テレスだけは彼の瞳の奥底に、行き場のない葛藤に苛まれた苦悶の色を見出した。
「ねえアンディ、それだったら、手に持っているものを放してくれよ。刃物を向けられたまま落ち着いて会話なんてできるわけない。いつもの君ならそれぐらい解りきったことじゃないか。 暴力で全てを解決しようとする人なんて、君が一番嫌いなタイプだったはずだよ。いくら切羽詰まっているか知らないけど、自分を見失わないで」
「俺は自分を見失ってなんかいない! お前が素直に入団すれば済む話なんだよ!」
「だから入団してほしいならそんな物騒なもの向けないでって言ってるじゃん。そもそも僕の選択肢がここで今すぐ入団するか、君に殺されるかの二択しかないって時点でおかしいでしょ。いくら借金があるか知らないけど、その馬鹿でかい指輪やイヤリングを売るとか、僕を教団に売る前に出来ることがいくらでもあるじゃない。
ひょっとして君、本当は気づいてるんじゃないの? もし今後、僕が他の教団について詳しく知ったら、こんなところに入ろうなんて二度と思わないってさ。このゴルギアス教団が本当は大したことないって、君自身が心の底で認めているんじゃないの? だから今夜の時点で入団させようって、そういう魂胆で――」
「黙れ!」
会場内の視線は、今や全て舞台上の二人に注がれていた。アンディは刃物を手放すことなく、じりじりとテレスの方に歩み寄って来る。汗の滲んだ顔がスポットライトに照らされ、余裕のなさを浮き彫りにしている。一方、追い詰められているはずのテレスは冷や汗一つ垂らさず、あくまで冷静な声色で話を続けた。
「さっきのカールマンへの返答も踏まえて、この際だからはっきり言うよ。ここは他の教団とまるで比べ物にならない、ろくでもないカルト教団だ。派手なパフォーマンスで誤魔化して、肝心の弁闘術について全く教えようとしない教祖。そのことに疑問一つ覚えずむやみに全てを受け入れようとする信者。教団側はそんな信者に借金をこさえさせるほどの金の亡者ときた。ショーが始まった時からずっと思ってた。ここには頭のおかしな連中しかいない!」
「頭がおかしいなんて失礼しちゃうわね。金は天下の回り物。この世界の真理でしょう?」
アンディの傍に立っていた幌巣が、凍りつくような嘲笑を響かせる。
「幌巣さん。ここは僕にケリをつけさせてください。テレス、君がどうしても俺の言うことを聞かないなら、本当に殺すぞ!」
「やってみなよ。君が本当に、ゴルギアス教団に魂を売ったのならさ」
「なんだと?」
「カフェで会った時から、君が何かしら良くないことに首をつっこんでいるのは気づいてた。昔からそうなんだよ。僕の前では自立した頼りがいのある兄貴分でいるつもりなんだろうけど、本当の君は、常に何かにすがってないと生きていけない臆病者なんだ!」
「てめええええ!!」
アンディが猛牛のような雄たけびを上げて、テレスに向かって突撃する。ことの成り行きを見守っていた観衆の中には、思わず目を伏せる者もいた。しかしテレス自身は身じろぎ一つ、瞬き一つせず向かってくるナイフを見つめている。
「…………!」
「どうしました。ステイン君。怖いのですか」
カールマンの声が劇場に響き渡る。穏やかな口調だがどこか相手をからかうような雰囲気が漂っている。幌巣の顔にも失望と侮蔑が浮かんでいた。彼らの視線の先には、ギリギリの所で踏み止まっているアンディの姿があった。
「彼はもう私たちの仲間にはなり得ない。早くとどめを刺しなさい」
「殺人犯になるのが怖いのですか? 心配いりませんよ。君の忠誠心に免じて、上手く事故として処理します。捕まることはありません」
「さあ早く、そいつを殺せ!」
「殺せ!」
「「殺せ!」」
会場に響き渡る、殺せコールの大合唱。客席の観衆も、舞台を取り囲む教団の幹部たちも、一体となってアンディを煽る。この狂ったショーを止めさせようと動く者は誰もいない。
「……!」
「……」
会場の熱気に反して、当人たちの間に流れる空気はまるで時間が止まったかのように静かなものだった。アンディは動かない。テレスも動かない。
「…………テレス」
先に動いたのは、アンディだった。
「俺たち、友達だよな?」
「そのナイフを下ろさない限り、違う」
「うわあああああああああああっ!!」
会場のボルテージが最高潮に達した。アンディが覚悟を決め、テレスの胸にナイフを突き立てようとした、その瞬間
「ほあたぁー!」