亜帝内の真実
「今から二十五年前。亜帝がキラシュアの中心となることに反発するテロリスト達から国を守るため巨大な壁が建設され、壁内は世界最強の要塞都市国家、亜帝内に生まれ変わった。
クレイトス・ラ・ペリ首相はこの国をより先進的な国にするため、世界中の賢人を招集することにした。亜帝内に唯一直結している港町、鰭府には毎日のように船が行き来し、一時は港に降りてくる人間の十人に一人は賢人とまで言われた。
それだけの数の賢人が集まったので、亜帝内はより賢く、平和な街になりましたとさ……そんな都合よくことが運ぶわけがない」
哲夫はテレスの方に向き直ると、彼が持つ歴史書を指差した。
「その本の最後はでたらめも良いとこだ。賢人たちの集う先進都市国家亜帝内。そんなものは外の連中が夢見た幻想に過ぎない。現実問題として異なる思想を持った賢人が押し寄せた結果どうなったか。
そりゃもう、戦後類を見ない大混乱さ。首相も最初は集まった賢人の中から最も優れた者を自分の目で見極める! なんて息巻いていたが、ふたを開けてみれば大賢人も大噓つきも混じった何百人もの演説家。誰が正しくて誰が間違っているか、なんて区別できるわけがない。
政府ですらそんな状態だったから、せっかく戦争を乗り越えた国民の混乱なんざ惨憺たる有様さ。それに加えて海の向こうから、とんでもないものが乗り込んできやがった」
「とんでもないもの……?」
「ペスト。戦時中に猛威を振るった恐るべき伝染病だよ。亜帝内にやって来た賢人達の故郷で流行っていたものだろう。首相の無責任な発言は国民の頭脳のみならず身体にも深刻な影響を与えた。
俺の両親も、本貴の父親も、ひぃちゃんの母親もみんなペストで死んじまった。それだけじゃない。亜帝内に乗り込んできたペストとソフィストは、先進的で平和な都市国家を目指していたこの国にとって、最悪の結果をもたらしちまった」
哲夫の瞳に暗い影が差す。彼や仲間たちの家族の命を奪った以上に恐ろしいことが起こったというのか。テレスはその眼に氷のような冷たさを感じながら、固唾をのんで耳を傾けた。
「首相自身がペストにかかって死んだのさ。彼と共に亜帝内に繁栄をもたらした著名人たちも、病死や追放の憂き目にあった……ただし三人だけ、その権威を落とすことなく亜帝内の復興に貢献した者がいる。
ワクチンを開発してペストの被害を抑えたイオニア国のジェネディオ・タレス。孤児院を開いて親を亡くした子供を引き取り、無償で教育を施したミュテリーニ国のマシュマー・ピタゴラス。世界的大企業エレア社を立ち上げ、亜帝内の経済を立て直した久世野羽蔵。彼らの尽力で国内からペストの脅威は消え去り、株を上げたジェネディオとマシュマーは、先代から引き継いだ教団の地位を盤石にした。
一方、久世野は一番弟子である春目仁のスポンサーとなり、パルメニデス教団を発足させた。現在、亜帝内で最も影響力のある三大教団がその地位を不動のものにした経緯はこんなところだ」
ここで哲夫はちょっと一息、とばかりにキッチンに立っていた翻子にコーヒーを催促した。
注文を承り、支度を始める彼女に一瞥をくれた後、哲夫は話を再開した。
「こうして亜帝内を襲った脅威のうち一つは去った……しかしもう一方の脅威、賢人たちの論争は激しさを増すばかり。彼らを諌めてくれるクレイトス・ラ・ペリはもういない。それどころか、空席になった国家元首の座を巡って今度は政治家どもまで争いをおっぱじめやがった。激しい権力闘争の末、その座を勝ち取ったのは当時新進気鋭の超タカ派官僚、デマゴッド・クレオ。現在の首相だ。
まぁ国家元首の座を勝ち取ったのが主戦派の人間って時点で……察しの良いお前さんなら想像がつくだろう。互いに自分こそは正しいと主張し、相手の主張を人格もろとも否定する。そんな賢人どもの醜い姿を見て、デマゴッドは一つの妙計を思いついた。好戦的な彼らしい、実に単純だがある意味画期的な方法だ」
「その方法って、まさか……」
「そのまさかだよ。賢人たちの生き残りをかけたバトルロイヤル、『ペロポネソス』。
ルールは簡単。この亜帝内で最後まで生き残った賢人が真の賢人として称えられ、そいつの主張は全て正当化。この国の新たな真理になる。勝つためには相手に傷を負わせるか、最悪の場合殺しても罪には問われない。勝った教団は負けた側の信者を自分達の信者として取り込める。
本当の賢人ならこんな馬鹿げた享楽に付き合うわけがないんだが、なにしろゲームマスターはこの国のトップ、国家元首様だ。面と向かって異を唱えようもんならあっという間に縛り首。話し合いだけで物事は解決しない。それが、デマゴッド・クレオの出した結論だったのさ」
「そんな……でもそれって、法治国家とは真逆のやり方じゃないですか。相手を殺しても罪に問われない、そんな戦いで勝った人の言うことを全部正当化しちゃうなんて危険すぎます!」
憤慨したテレスがソファーの肘掛けを叩いた時、興奮する彼を宥めるように翻子が淹れたてのコーヒーを持ってきた。哲夫用のブラックと、テレス用のカフェ・オレ。哲夫は彼女に礼を言うと、熱々のブラックコーヒーを一気に飲み干した。
「まぁまぁ、ひぃちゃんが淹れてくれたコーヒーでも飲んで落ち着け。テレス、お前の主張はよーくわかる。だが残念なことに、これが亜帝内の現実なんだ。壁の外にいる人々にとって、巨壁に囲まれたこの国は世界一安全な要塞に見えるだろう。
だが真実は正反対。今の亜帝内は賢人たちが己の命と主張を賭けて殺し合う巨大な闘技場に他ならない。好戦的な国家元首様が絶大な権力でバトルロイヤルを自ら管理し、声を上げて反対する者は次々と消えていった」
その場に重苦しい沈黙が訪れた。先程まで和気藹々と食卓を囲んでいた場所と同じ空気とは思えない。いたたまれなくなったのか、テレスの絶望を打ち破るように哲夫がポツリと呟いた。
「…………まだ、希望はある」
「えっ?」
「少なくとも、俺達はこの状況を良くは思っていない。対話と思考によって結論を見出す賢人という立場の者が、こともあろうに殺し合いで相手を打ち負かすなんてもってのほかだ。俺も惇も、本貴も翻子も自分の身に危険が迫れば戦うが、相手を殺して信者を増やそうだとか、まして自分たちだけが生き残って亜帝内の真理になろう、なんて傲慢なことを考えてはいない。
バトルロイヤルとは無関係に、いや、賢人たちが殺し合っている物騒な今だからこそ俺達は本気で何が正しいのか模索し続けている……その為に立ちあげたのが『祖倉真理探究所』だ」
「真理……探究所? 研究所じゃなくて?」
「研究というのは実在する資料やデータを分析することによって客観的事実を導き出すことだ。探究とは分厚い本や頭のいいコンピューターではなく、自分自身の頭で考え、自分なりの答えを出すこと。
研究者は自分の解き明かしたものを世間に認められた時がゴールだが、探求者は自分で納得のいく真理を見つけるまでゴールしない。たとえ追い求めた先にあった答えが世間の常識からどれだけ外れていようと。それを聞いた周りの人間からどれだけ馬鹿だ、クズだと罵られても。己の信じた真理を掴み、貫く。探求者というものについて、俺はそう考えている」
哲夫は終始冷静な声で話を続けていたが、その瞳の奥底には先程までとは明らかに異なる、強い想いが炎のように燃え滾っていた。そんな彼を見つめている周囲の視線も真剣そのものだ。
「人々は今、金と引き換えに知恵を授ける者を崇め、依存している。そんなことは思考停止と同じだ。俺達は自分の頭を商売道具にはしない。人々に自分で考え、答えを出させる手伝いをする。真の賢人とは殺し合いで生き残った奴じゃない。人間を自立の道へ導く者のことだ」
再び訪れる沈黙。しかしそれは先ほどの重苦しさとは明らかに違う、この場にいる者達が己の心に今一度誓いを立てているような、そんな神聖な雰囲気に満ち溢れていた。その空気から若干置いて行かれているテレスに配慮したのか、哲夫がいつもの軽い調子で肩をすくめた。
「な~んてご立派な文句を並べてるが、今俺が言ったことが絶対に正しいっていう保証だって、どこにもない。大層な看板を立ち上げたはいいが、正直成果なんざこれっぽっちも上げてないのが現状だ」
「ぶっちゃけ、この店で翻子やマスターの手伝いしてる方がずっと達成感ありますよね」
「こら本貴、そんなこと言わないの! テツくんだって色々と頑張ってるんだから」
「はは、良いんだよひぃちゃん。こいつの言うことも一理あるさ」
厳かな沈黙から一変して明るさを取り戻す面々。一方、テレスは先ほどから哲夫の語る姿にどこか既視感を感じていた。やがてそれは昨日の夜、観衆の前で演説していたカールマンの姿と重なって見えることに気がついた。
しかし今、哲夫が吐露した事実と決意の重みは自らを神の化身と豪語していたカールマンのそれとは比べものにならないほどの説得力に満ちていた。両者の決定的な違い。それは自分が全知全能であるという自信に満ちたカールマンに対して、哲夫自身が追い求める真理、そこに辿り着くために今はまだ模索中だと明かした点だった。彼は自分に知らないことがあるということを誰よりも理解している。その考えが具現化した結果が、あの白い鞭なのだろう。
そういえば昨夜の戦いで哲夫が先に手を出したのはアンディを蹴った時だけだ。それ以降の戦いでは彼はどの相手に対しても自分から攻撃をしかけなかった。哲夫はただ、自分を檻から解放してくれたテレスに借りを返し、襲い来る敵に立ち向かっていたに過ぎない。
仲間たちを友人として対等に扱い、受けた恩は必ず返す。敵を真正面から返り討ちにできるほどの戦闘能力を有しているにもかかわらずバトルロイヤルには否定的で、それとは無関係に自分の頭だけでこの世界の真理を探究し続けている……
故郷ハルマゲドニアで賢人について知り、彼らに憧れたテレスにとって理想的な姿が、夢の中でアリストテレスが探せといった自分を導く者の姿が、そこにはあった。テレスは哲夫の顔を見つめ、まっすぐな瞳で臆することなく言った。
「祖倉哲夫先生。僕を、あなたの弟子にしてください。このソクラテス教団もとい、祖倉真理探究所の一員に加えさせてください。お願いします!」