ダイモーン
瓦礫の向こう側では、白草カールマン改め金木友朗が心臓を抑えて倒れていた。地べたを這い、もがき苦しむ様には神の化身としての威厳など皆無に等しい。唯一輝くものといえば、ひび割れた教団のバッジだけだ。
ほどなくして彼の口元から真っ赤な鮮血がほとばしったかと思うと、数回のけいれんを繰り返し、やがてピクリとも動かなくなった。
――ああ。またこの夢か。
テレスは、白いもやのかかった真っ白な空間に一人たたずんでいた。相変わらず草木の一本も生えていない。彼以外に人影もない。
「テレス」
ふと背後で自分を呼ぶ声がした。聞いた者の心を浄化するような美しい声だ。振り返った視線の先には、青白い光に包まれて白い翼を広げた、巨大な何かが立っている。
「あなたは……誰?」
テレスは立ち上がり、手を伸ばした。だがやはり、届かない。まばゆい光に包まれた “それ”は微笑んでいるようにも思えたが、そのご尊顔ははっきりとは解らない。
「ようやく、会えましたね」
テレスは驚いた。“それ”が初めて、自分の名前以外の言葉を喋ったからだ。しかも夢の時とは違い、徐々にこちらへ近づいてくる。少年は思わずあとずさった。
「怖がらなくても大丈夫。私の声に、聞き覚えがあるはずです」
「そ、それって今まで見てきた夢の中で?」
「いいえ。あなたとは現実世界で一度話していますよ」
「現実で……?」
テレスは考えた。この声はこれまで見てきた夢で自分を呼んでいたあの声と同じ。それは間違いない。だが現実世界でこんな美しいけれど得体の知れない声と出会ったことは……
そこまで考えて、少年ははっと思い出した。ある。一度だけ。それも今夜この声を聞いたことが。確かフィロに追い詰められ、引き金を引いた、あの時。
「まさか……オルギャノン?」
テレスが恐る恐る答えると、“それ”はにっこりと微笑み、頷いたように見えた。慌てて懐をまさぐる少年。しかし、問題の銃はその手元になかった。肌身離さず持っていたはずなのに。
「あ、あれ? おかしいな」
「あの“殻”を探しているなら、ここにはありませんよ」
「殻?」
「そう。あなたたちがオルギャノンと呼ぶあの銃は、私を現実世界に閉じこめるための殻に過ぎません。私の、本当の名は……ダイモーン・アリストテレス」
「ダイモーン……アリストテレス……」
“それ”の言葉を、少年はオウム返しに繰り返した。ダイモーン。そしてアリストテレス。どちらも聞いたことのない名前だ。
いや、ダイモーンの方は一度だけ耳にしたことがある。追い詰められたカールマンが放った。あの言葉……
(「我が身に宿れ! ダイモーン・ゴルギアス」)
「今、あの黄金の巨人について考えていますね。彼はゴルギアス。私と同じダイモーンです」
「すいません。そもそもダイモーンってなんですか?」
「ダイモーンとは、神と人間の狭間で両者をつなぐもの。人間に神の啓示や知恵を授け、人間が集めた信仰心を神に捧げる。それが私たちの仕事です」
「要するに、天使様?」
「天使とも少し違います。私たちは元々イデア界という、あなたたちの住む世界とは別の世界で生きてきた人間でした」
「ええ!?」
「私たちは偉大な王の下、争いもなく平和に暮らしていました。賢人たちがイデア界に手を出すまでは」
アリストテレスの顔が少し曇ったように見えた。声も悲しげなものに変わった。
「イデア界は、その名の通りイデアという物質で全てが構成されています。動物も植物も無機物も、もちろん私たちも。そして言葉や思想といった実体のないものも、イデアを用いたある力を使えば具現化することができました」
「その力って、もしかして……」
「そうです。あなたたちの世界で、弁闘術と呼ばれている力です。賢人たちは戦うための道具として使っていますが、あれは元々、人々が分かり合うために用いられる力だったのです。私たちはあの力と正しく向き合うことで平和を維持してきましたが、この世界ではそれができていないどころか、多くの人間が傷つき、尊い命が失われています。私たちは神に賢人たちを正しい道へ導くように命じられ、この世界に降り立ちました。しかし……」
アリストテレスはため息をつき、うつむいた。
「賢人たちは私たちダイモーンを、自分に都合の良い神のように扱いました。教団という組織を作り、自分の正しさを証明するための守護神として崇め奉る。私たちは本来、あなたたちと同じ人間で、そこまで持ち上げられるべきではないのです。たとえ神から人知を超えた力を授かっていたとしても」
「人知を超えた力?」
「巨人として実体化する力です。賢人たちが私たちの導きに背いて暴走した時、恐ろしい巨人となって全てを破壊する。賢人たちに罰を与えるための、最後の手段。あまりにも強大な力なので、神の許しが無ければ使うことはできません。ところが賢人たちはまたしても弁闘術によって、この力を自分たちのものにしてしまったのです」
テレスはふとカールマンのことを思い出した。我が身に宿れ、ダイモーン。そういって天高く指を突き立てたカールマンは、黄金の巨人ゴルギアスへと姿を変えた。
「そう、あなたの想像している通り。賢人はその命と引き換えに、ダイモーンを自らの肉体に宿し、巨人化する術を身に着けてしまった。本来自分に下るはずだった鉄槌を我がものにし、相手を完膚なきまでに叩きのめす。何と愚かで恐ろしい力でしょう……。事態を重く見た神は、私たちにもう一つの使命を与えました。とても残酷で悲しい使命を」
「まさか……」
「そう。賢人がダイモーンと一体化して暴走を始めた時。私たちの手でダイモーンを殺す、本来あってはならない同族殺しの使命です。あなたがオルギャノンでゴルギアスを倒すことができたのは、そこに宿る私の力で彼を殺したから。私はあなたたちを救うため、仲間を手にかけたのです」
「そんな……」
「今この世界では人間のみならずダイモーンも犠牲となる、不毛な争いが続いています。それを止めることができるのはテレス、あなたしかいません」
「え、僕?」
唐突な言葉に驚き、少年は目を見開いた。
「私を宿したオルギャノンにはダイモーンを殺す力の他にもう一つ、全ての弁闘術を操る力があります。その力を使って賢人たちを無力化し、彼らを説得するのです。今は争いの中に身を投じていても、かつては祖国や人々の繁栄のため尽力した者たち。本気で話し合えば分かってくれるはずです」
「そ、そんなこと言われても……説得する前に殺されてしまいます」
「まずはあなたを守り、正しく導いてくれる者を探してください。その者に師事し、多くのことを学ぶのです」
「探せったってそんな人、どこにいるんですか」
「それは……」
アリストテレスがふと言葉を切った。同時に少年は、相手の身体が徐々に消えかかっていることに気がついた。
「あなた、身体が……」
「どうやら、あなたの意識が戻りつつあるようです。目覚めてしまえばここはなくなり、私も話しかけられなくなる」
「そんなぁ! まだ聞きたいことが……」
テレスは消えていくアリストテレスを止めようと手を伸ばした。しかし何もつかむことができない。
「ま、待って! 行かないで!」
「また会いましょうテレス。あなたに神のご加護があらんことを」
「待ってってば!!!」