引き金
「ば、化け物だァアア!!」
本物のアンディが恐怖の叫びを上げ何度もつまずきながら逃げていく。案の定テレスの存在などすっかり忘れていた。しかし眼前の光景を直視すれば、彼でなくても大抵の人間は同じ反応をするに違いない。
舞台上には二人に増えたフィロ・タレスが立っていた。もちろん彼女たちは双子ではない。二人の内どちらかはフィロ自身が作り出した分身だ。もっとも、分身と聞いて人々が思い描くようなドロン! としたポピュラーな術ならアンディもそこまで恐れなかっただろう。しかしフィロの分身の術はそれよりもちょっと、いや、はっきり言ってかなり不気味な代物だった。
テレスがカールマンを追いつめていたのと同じ頃。どうにか立ち上がった哲夫が放った鞭は、空気の弾ける音と共にフィロの身体を真っ二つに切り裂いた。手ごたえあり。知の鞭は確かにフィロの体を脳天から股間まで貫通し、すっぱり縦に割ってしまった。残酷な結果だが、確かにこちらの勝ちだ……哲夫はそう確信していた。
しかし彼の希望は無残にも打ち砕かれてしまう。二つに割れたフィロはそのままにんまりと笑うと、それぞれの一本足でぴょんと飛び跳ね、自ら体の裂け目を広げたのだ。その裂け目を埋めるように切断面から大量の水が噴き出し、それぞれの欠損した半身を完全に修復した。
「「今更説明するのもあれですけど。私の家系は代々、水という物質と深い縁があるのです」」
「水だけに切っても切れないってか。やかましいわ!」
声を揃えて自慢げに話す二人のフィロ。そんな彼女達に哲夫はよく分からないノリツッコミと共に鞭のサイドスローをお見舞いする。攻撃を避けようともしない二人の腹部を、白い鞭が横一閃に切り裂いた。二つの上半身が宙を舞い、数メートル先にボトリと落ちる。
しかしその残酷な一撃も、やはり当の教祖様には効いていなかった。もはやバラバラ死体も同然の四つに別れた彼女の肉体は先程と同じ要領で復元し、今度は四人に分身した。恐るべき再生能力だ。体のどこを切ってもその先から水が噴き出し、欠けた部分を復元。分裂するたび数を増やしていく。およそ人間とは思えない摩訶不思議な力。その様相はまるで……
「おいフィロナリア! その技、卑怯だろ」
「「誰がプラナリアですか!」」
四人のフィロが一斉にツッコミをかます。もはや小規模なコーラスだ。対する哲夫は軽口と裏腹に、その顔に明確な焦りを浮かべている。切り札である鞭を振れば振るうほど、逆に戦力を増していくフィロ。彼女に比べればゴルギアス教団の刺客どもなど何と容易かったことか。
「そろそろお開きにしましょう」
「最後にもう一度だけ聞きます」
「オルギャノンはどこですか」
「この状況でその質問!? お前ら今まで何見てきたんだよ。俺が金木から取り返そうとした矢先に割り込んできたんだから、あいつが持ったままに決まってんだろ」
呆れたように答える哲夫。それを聞いた右端のフィロはため息を吐くと、目を見開いた。
「では、仕方ありませんね」
四人のフィロが一斉に水のダガーを構え、哲夫に向かって四方向から同時に飛びかかった。
「「あなたにはここで死んでもらいますっ!」」
「なんでだよ!」
焦燥感に満ちた哲夫のツッコミ。そんな彼に容赦なく刃が振り下ろされようとしていた。
「待ってください!」
刃の切っ先が喉仏からあと数ミリのところでぴたりと止まる。フィロが振り返った先には、オルギャノンを握りしめてこちらをじっと見つめるテレスの姿があった。声こそ凛々しいが、銃を握る手や足の震えから、少年が相手に恐怖を抱いていることは明らかだ。
「あらあなた、まだいたの?」
「お探しのものはこれでしょう? あなたに差し上げますから、彼を見逃してあげてください。どうかお願いです教祖様。こんな争いはもう、止めてください……!」
「……そうね。ここでの戦いはもう決したようなものですものね……あなたたち」
「はっ!」
「彼は任せます」
フィロは周囲にいた信者たちに哲夫を包囲させると、四人でテレスの方へ突撃した。
「お、おい止せフィロ、そいつは関係ない……やめろ、止めてくれっ!」
哲夫の叫びも虚しく、フィロは恐ろしい刃を向けたまま歩を緩めることなく近づいていく。
――やはり駄目か。少年は目を閉じ、歯を食いしばった。説得が駄目ならこうするしかない。
襲い来る少女たちを前に、彼は一か八か、オルギャノンの引き金を引いた。
会場内を、眩い光が包み込む。その場にいる誰もが、思わず光の方に目を向けた。
祖倉哲夫は、一瞬の隙を見せた信者たちを蹴り飛ばし包囲網を脱すると、オルギャノンの銃口からほとばしる青白い光を見た。
フィロ・タレスは、自らが持つダガーで獲物を手にかけようとした瞬間、激しい光と共に腹部に何かが撃ち込まれるのを感じた。
白草カールマンもとい金木友朗は、自分が隠れているすぐ間近で、オルギャノンの放った光が四人のフィロ・タレスに命中。その直後、三人の分身は掃除機で吸い込まれるかのように銃口の中へと消えて行き、一人残った本物のフィロが弾き飛ばされるのを目撃した。
そしてテレス・ニコマコスは、引き金を引いた瞬間、声を聞いた。フィロの叫びではない。頭の中に直接語りかけて来る。包み込むような優しい声だ。
((あなたの目の前で戦っている人々が使っている不思議な力は、弁闘術。
私たちの世界に存在しているイデアという物質を使って自らの主張を具現化し、物理的に相手を打ち負かすための武器や能力に変換する。本来あなたたちの世界に存在してはならない恐ろしい力。その力によって生み出される技や武器は、賢人の主義主張によって異なります。
タレス教団が水でできた武器や分身を創り出すのは、彼らが『万物の根源は水である』という主張を持ち、それを弁闘術で具現化しているから。
ゴルギアス教団も祖倉哲夫も皆、弁闘術を用いて戦っています。今ここで起きている戦いは賢人たちの単なる殺し合いではありません。それぞれの主張が目に見える形でぶつかっている『論争』の一種なのです))
「ごめん、何を言ってるのかさっぱり解らないけど、とりあえず『論争』ではないでしょう? だってここにいる全員の狙いは、このへんてこな銃ですもん。要するに武器の奪い合いだ」
((武器の奪い合い……彼らにとって所詮“私”は、その程度の存在でしかなかったのですね。本当は人々に新たな時代の扉を開かせる、鍵になるはずだったのに……))
「わ、私!? じゃあ今、僕に話しかけているのは……」
立ち上がる哲夫。後ずさりするカールマン。そして吹き飛ばされ、宙を舞うフィロ。
その場に居た三人の賢人たちは青白い光を放つ銃に話しかける少年の姿を捉えた瞬間、直感的に気づいてしまった。
まさか。
そんな馬鹿な。
いやしかし、あの様子だと間違いない。
オルギャノンは自身の所有者に、テレス・ニコマコスを選んだのだ。