最後にかかるレコード - Witch,special,and...
題名のない映画の最後にかかるレコード
瓦礫だらけの部屋をかすかに照らす音像
色彩を失っても
夢を見た。
誰に話してもわからないような、自分でもわからない曖昧な夢を。
「…私は誰?」
自分の声が聞こえた。
その他の声なんて何もなくて、ただ一人ぼっちで寝転がっているような感覚。
背中にはチクチクとした若い原っぱの感触があって、ザワザワと草が会話していた。
太陽が高い。ちょうど頭のあたりに大きな木があったから、顔は日陰になっていた。
太陽に当たっているはずの下半身も暑くない。それどころか温度をあまり感じていなかった。
体を起こそうとして、全身に痛みが走った。痛いだけではなかった。何かよくわからないもので混ざり合ったような感覚。体全体が自分の中身を吐き出したいと言っている。
「…しんじゃうの?」
知らない声がした。
小さい女の子だった。
真っ白な服を着た、綺麗な黒髪をした女の子。少しだけ、何かを思い出しそうになった。
「…嫌だ」
掠れた声は、相手に聞こえているのかもよくわからないくらいに小さく、弱々しい。
「ひどいこえだね」
言った言葉とは反対に、女の子の声は優しかった。
「死にたくないんだ」
「しにたくないならいきないとだめだよ」
そういう当たり前のことをわざわざ言う人が、昔いた。いつでも何かよくわからないことを考えて、反抗したいような気持ちで毎日を過ごしていた人が。
「…すこしはおちついた?」
女の子から手渡されたリンゴを齧って、甘酸っぱい果汁で口を満たす。
「ありがとう」
「どういたしまして」
女の子はにっこり微笑んだ。何もかもを知っているような笑顔だった。
「どうして助けてくれるんだ?」
だから、つい。
そんな意地悪な質問をしてしまう。
これで気分が悪くなったら都合が悪いのは自分の方なのに。
「あなたがしにそうだったから」
女の子は自分の隣に座り込んで、側にあった草を一つ、引きちぎった。
葉っぱが四つついたクローバーだった。
「しにたくないんでしょう?」
「そうだな」
死にたくはない。恐らくは誰だって。
『怖いですか?』
いつか、誰かに聞いた言葉。近所の知り合いが子犬が産まれたからと言って、見に行った時だった。生まれたての子犬は小さく震えていて、羽みたいに軽かった。
それでもこの体には命があるのだと、弱々しく伝えていた。
『怖いわね』
「がっ…げぇ…」
喉の奥にあったリンゴを吐き出してしまう。
自分にはこの果実を口にする権利なんてないのだと言っているような。
「ごめんなさい、まだはやかったのかしら」
女の子は、よくわからないことを言った。それすらも、今は聞こえない。思い出せない過去の記憶が自分の中で暴れていく。誰に言ったのだろう。
怖いかなんて、聞かなくてもわかる。
命は初めから、終わるのが決まっているのだから。
最初から、悲しむことを知っているのだから。
「おはよう。あんがいおねぼうさんなのね」
気がついたら、知らない場所にいた。開かれたカーテンから滲んだ朝日が、自分の顔を濡らしていた。気持ちのいい朝なんていつ振りなのだろう。朝はいつも忙しかった。
穏やかな一日を過ごすために、他の全てを早めていたから。
「ごめん、迷惑をかけたかな」
「そうでもないわ。きょうはおひるからぴくにっくにいくつもりだったから」
そんなに急いでいない、と女の子は言った。
ギリギリ二人分の皿が乗るくらいのテーブルには焼いたばかりなのだろうパンと、スープが置かれていた。
「たべるでしょう?」
ベッドから起き上がって、なぜか二人分ある椅子に座った。
きょろきょろと辺りを見渡すと、とても小さな家だったことを知った。どちらかというと、蔵といったほうが適切なような広さ。
「君は、ここに住んでいるのか?」
「そうよ」
何か、懐かしい問答のようだった。
「一人で?」
「そうよ」
女の子から、“そうよ”以外の言葉を聞きたくなった。そういう風に質問したことが、昔もあった気がしたけれど。
「いつから?」
「ついさいきんよ」
女の子は、その質問にだけこちらの瞳を見て答えた。それが少しだけ嬉しくて、つい言葉を続けてしまう。
「好きな食べ物は?」
「なにも」
「嫌いな食べ物は?」
「なにも?」
「明日の天気は?」
「あしたもはれよ」
それは知らなかった。
今の快晴が、いつでも続いているのだろうか。そんなことは、無いと思うけれど。
いつでも晴れている場所に植物は育たない。大抵は雨が降るものだ。
雨の後に晴れることを知っているから、植物は背丈を伸ばすのだから。
「君の名前は?」
「いっしょよ」
「?」
「あなたと、いっしょ」
偶然ということだろうか。自分はまだ女の子には名乗っていないはずなのだが、どこかに書かれていたかもしれない。もしくはもっと魔法みたいな方法で、彼女は自分の名前を知ったのかもしれなかった。
考え込みそうになって、頭を持ち上げると、何かが成功したような笑みを浮かべた女の子がいた。
「嘘だな」
「そうかしら。あたしはうそはつかないわ。そういうやくそくだから」
「約束?誰との?」
「ひみつ」
朝食を食べ終わると、女の子が作っていたらしいサンドイッチを持って外に出かけた。
玄関の扉を開けると、爽やかな風が体を通り抜けていく。自然の体が浮き上がって行きそうだった。
「おーい!こっちよ」
先に歩いていた女の子が向こうから手を振っていた。昨日とは違う、水色のワンピースが太陽の下で輝いていた。
「あぁ、すぐ行くよ!」
手に持っているサンドイッチと水筒が、夢心地のような重みを伝えてくる。
自分は何かをする人間だったのだろうか。こんな風に、誰かを追いかけていたのだろうか。
時間が経つごとに思い出せなくなる。
目に見えないものが、すぐに失われていく。
その日はピクニックといって、女の子と家から離れた丘まで行って昼食を食べた。その後女の子が踊っているのを見て、それが終わる頃に夜になっていた。
「かえりましょうか。よるはさむいもの」
「そうかな。私は夜は好きだよ、星が見えるからね」
「ほし…そうね、あたしはおほしさまにはくわしくないから」
「知らなければ想像すればいいのさ。見えなくても、考えればいい」
月が出ていないせいか、星がよく見える。見渡す限りの野原も、それを助けていた。
「あの星が見えるかい?」
赤い星。どの星座にも組み込まれていない、一つだけの星。
「きれいね」
「あの星は、みんなを見守っている星なんだ。自分のとても好きな人を守るために、彼は星になった」
「ほしになったら、もうあえないわね」
「そうだね」
赤く輝く星は寿命がそろそろ近いと言われている。それはあと三年とかそういう話ではないのだが、星にも命があることを、赤く訴えている。
綺麗なものは、いつか汚れる。美しいものは、何かで傷つく。そういう風にできているらしい。
「あら、あたらしいともだちだわ」
女の子の視線の先、暗くなった野原の中に、歳をとった犬が座っていた。あまり輪郭がはっきりしない犬だった。
「そう、あなたはもういくのね」
犬はうずくまって、丸まったまま動かなくなった。夜の闇に紛れていく。
命が、無くなったのだ。
ついさっき現れたばかりなはずなのに、それはもうこの場所から去っていく。
「夢の中でさえも、失われていくのか」
「ゆめはきおくだから。きおくはわすれてしまうじゃない、おもいださないと」
「……」
思い出せないことが、たくさんある。
思い出したいことが、たくさんある。
その全てが、自分の中にはない。
本当はたくさんの思い出があるはずなのに、今の状況に身を委ねていたいのか、まだ進めずにいる。
この場所は、本当は自分の居場所ではないのだ。自分は、この女の子の居場所に割り込んできているだけ。
「だいじょうぶ。おもいだせるわ、あなたなら」
とても大切なものだから、と彼女は言った。
大切なものなら、離したくはなかった。
忘れてしまうことが、今こんなに苦しいのなら、重くても背負ってきたかったのだ。
そうして、目を覚ます。
『貴女に、会いに来たんです』
あの時、自分の前にいたのは誰だったろう。
今の自分に足りないものはなんだろう。
勇気だろうか、身体だろうか。それとも、記憶なのか。
「全部だな」
女の子は同じベッドの隣で寝ていた。
自分の体よりずっと小さい体が、布団をまくった寒さで少し震えている。
この家はまるでおままごとの道具のようだった。なんであれ一人でできる。演じることができる。
ここはきっと舞台なのだ。彼女が一人でも寂しくないように、一人の中に何人かの彼女を演じることができるようにしたのだ。あんなに美味しかったサンドイッチも、きっとそんな中の一つなのだ。
夢の中で食べ物を食べると、戻ってこれないという。
戻れなくてもいいのかもしれない。
「こんなに暖かいのに」
目を覚ましたら失われてしまう。
いや、この夢の中でさえも失われてしまうのだったか。それを、昨日犬は伝えてきたのだった。
「さむいの?」
「どうだろう。でも、暖かいはずなんだ」
「あたしはあたたかいわ。あなたのしんぞうのおとがきこえるから」
女の子は眠そうな目で自分の心臓に手を当てた。鼓動は自分では意識していないけれど、ずっと動いている。わからなくても、きっと。
少し話して、女の子はまた眠った。一つのベッドで誰かと寝るなんて、小さい頃に親にやってもらっていた時以来かもしれない。
「おはよう。あさごはんにしましょうか」
女の子は目を覚ますと、それまでの何もかもが過去であったかのように動き始める。
彼女は知っているのだ。思い出すための何かを。自分が今何であるかを。
「きのうはありがとう」
「私は、何かしたかな」
「ほしをおしえてくれたじゃない」
「あぁ、そう言えばそうだった」
あの話は、いつか誰かにもした。
今の自分は過去の再生に過ぎないのだ。
本物か、偽物か。もしかしたら、自分は泥の中から生まれた人形なのかもしれない。
「それでも、あなたはここにいるじゃない」
星は遠いから、とても小さいから今まで考えてこなかったのだと、女の子は言った。遠いものには手が届かないから、綺麗だと思っても憧れはしなかったと。
「でもきのうあなたがおしえてくれた。だから、そこにかれがいるってわかる。だからよるもさびしくないわ」
そうだった。
教えられて、教わって。真似をして、できなくて。
手を取り合って、つまづいて。
何度でも思い出して。
自分はここにいるんだって、知っているのだ。
だから、皆知らないのだ。
もう戻れないということを。
「あなたもかく?」
白い紙に、色とりどりのクレヨン。
昨日ピクニックしたことを、彼女は絵にしていた。
黄色い野原に、水色の自分が描かれていた。女の子は、赤色で。
「なんで、聞かないんだ?」
「なにを?」
「色々さ」
「いいたくなさそうだから」
ヒビ一つない窓ガラスに、自分の顔を映してみる。自分はそんな顔をしていたのかと気になってしまった。
何も変わらないのだと思う。前にこんなことを聞かれた時も、同じようなことをしていた。
その時は、もっと。
「なぁ、一ついいかな」
「なにかしら」
「この辺りに、ボロボロの洋館ってないか?赤煉瓦で、掃除されてないみたいな」
女の子は少しだけ嬉しそうに目を細めて、指と指を綺麗に合わせてから、
「あるわよ」
そう囁いた。
女の子に言われて、簡単な地図を描いてもらってから、そこに向かった。
地図に描かれているのは女の子の家と、大きな木とその洋館だけで、つまるところそれしかこの世界にはないらしかった。
女の子は、少し離れたところからついてきている。一人でもいいと言ったが、今日は予定がないから暇だったのだと、拗ねたように言っていた。
洋館は、少し坂を上った丘の上にあった。そんなところまで、再現しなくてもいいと思うのだけれど。
ボロボロの鉄柵。荒れ果てた庭。散らかった落ち葉。ヒビだらけのガラス。
「ここ、あなたのものだったのね」
「いいや。私の特別な人の家だよ」
「あなたはそのひとがすきだったの?」
「だった、じゃないよ。今も好きさ」
「それはこい?」
「ううん。これは愛だよ」
そう、愛だ。
自分はきっと愛なのだ。
そうでなければ、ここにやって来る意味はない。ここにはいるべき人がいない。いたはずの人がいないから。
本当だったら来る意味なんてないのだ。
それでもやってきたのは、ここが自分の原点で、特別だからなのだ。
鉄柵を無理やり開けて、中に入る。ギイギイと締まりの悪い音がした。
散らかった庭は一歩踏み出すごとに枝を折る音や、枯れ葉を割る音が鳴る。
ただ、女の子は静かについてきていた。
玄関の扉は、確か自分で開けたことはなかった。凝った意匠が彫られていた跡が残る木の扉。この跡も、いつかは無くなってしまうのだろう。
「あたしね、そろそろしんじゃうの」
洋館の中の、一番荒れた部屋で、女の子はそう言った。
脚が折れた椅子に座って、ガラスの破片を一つだけつまみあげて。
「…どうして?」
「びょうきなの。のうみそがしんじゃったんだって」
体は無事なんだけどね、と寂しそうに言った。
「あたしはこわかったの。なにもかんがえられないことが、なにもつたえられないことが。じぶんがいきていてもなにものこすことができないって、おもいでさえないんだって、かなしくなったの」
その時に、自分はなんと愚かな事をしていたのかと思い知った。
彼女は何も聞かないのではない。何もかもを知っているのだ。ここの全てが彼女であるから、ここに自分が現れたことは、すなわち。
「…何で、私に?」
それを言う意味なんてない。
彼女はここにいるのだ。それを教えてくれたのは、他でもない女の子なのだ。
「あなたが、えらばれたから。あなたはあたしとちがってのうみそいがいぜんぶなくなってしまったから」
「……」
手を繋いでいた。
手を離していた。
赤を、散らしていた。
記憶ではない。脳が覚えているはずがない。無くなった、体の記憶。
「ちょうどよかったから、あなたがえらばれた。しんだあたしと、しぬあなたで」
「…それは」
「とおくにねがったの。あたしになるだれかに、ちょっとでいいからあいたいって。そしたらあなたがねていたの。すぐにあなたがそうだってきづいたけど、わからないふりをしていたの」
「それは、どうして」
来る未来を知っているなら、そんなことをする意味はない。
女の子と自分はなにも似ていないと思っていた。
けれど、きっとどこかで同じなのだ。
たまたま自分がいたから選ばれたのではないのだろう。
二人とも怖かったのだ。
失われてしまうことではない。未来に繋いでいく人に、会えなくなってしまうことが。
「そう、こわかった。いまあたしはとてもしあわせなのに、このしあわせをのこせないから」
絵を描いているのは慰めだ。
残せないことを知っているから、見えるように残すしかない。想いが残ると信じていても、その想いさえ、この女の子には無かったのだ。
「このせかいはちいさいから、あなたをみつけられるとはおもってたの。あったらきっとともだちになれるって、しんじてたの」
女の子は真っ白な、フリルのついたドレスを着ていた。
『さぁ、行きなさい。あなたは誰より輝いて踊るのよ』
勇気が、必要だった。あの時は持っていたものが。
言葉をくれた人の、何よりも大切な思い出が必要なのだ。まだ、背中を押してくれる。支えてくれる、あの人の想いが。
「私と、踊ってくれないか?」
「まぁ、あなたっておうじさま?」
「そう呼ばれたことも、あったかもね」
苦笑する。あの時は捨ててきたものだ。
坂の上の魔女に、会いに行ったあの日に。
「とくべつよ」
女の子はそう言って、懐から一つのリンゴを取り出した。最初にあった日に彼女がくれた、自分が吐き出してしまったもの。
「わたしのうんめいを、あなたがたべて」
その願いを拒否することは、自分にはできなかった。頼まれたから断れないのではない。誰よりも孤独を知っている女の子が、幸せになるために、この儀式は必要だったのだ。
女の子の手のひらから、リンゴを少しだけかじる。
まるで王子様がお姫様の手の甲にキスをするように。それはきっと約束だった。
「踊ろう。君は誰よりも輝いて踊るんだ」
昔から、一度踊ってみたかったのだと、女の子は言った。それがとても憧れだったのだと、昔から脳の病気で体が動かなかったけれど、誰かの劇を見に行っていたと、その輝かしい舞台に上がって見たかったと、彼女は言った。
「あたしはあなた。でもあなたはあたしじゃないわ」
二人で、寂れた部屋に靴音を鳴らす。
くるくると回って、陽の当たらない場所で踊る。
「それでもいいさ。君はここにいる」
「あなたもいるわね」
「私はまだ行くよ。待ってる人がいるんだ」
「まってもらってるあなたはしあわせね。でもまってるひとはしあわせではないかも」
「そうかもね。これからも幸せではないかもしれない。でも、伝えなきゃいけないんだ。会わないと、何にもならないから」
「さぁ、いってらっしゃい。よわいあたしを、つよいあなたがたすけてね」
「あぁ、約束するよ。だから、きっと幸せに」
そして、光へと。
夢から覚める。
世界が崩れて行く。
「ありがとう、XXXXX」
愛しさを込めて、彼女の名前を呼んだ。
名前のない役者の最後に見せた表情は、笑顔だった気がした。
そうして、目を覚ます。
今まさに色づく世界へと。
体に痛みはない。
心にも痛みはない。
なんの違和感もない。
だから、窓から見える月明かりの、その下に光る赤い星が懐かしく見えることも、おかしくはないのだ。
「私は誰?」
最初の問い。
これは最後の質問だ。最初から本当は分かっていたのだから。
窓ガラスに薄く映る、自分よりもずいぶん小さい体と、綺麗な長い黒髪が、本物であることを告げていた。
最初の質問。
それは自分の名乗るべき名前が、
「そうだな、私は」
シンデレラに違いないからなのだ。
辺りは暗かった。
モタモタしていると、誰かが自分を探しに来てしまうかもしれない。この病院は、もう必要ない舞台だった。
だから、ヨロヨロと抜け出した。随分使われていない筋肉が、体を起こしただけで痛んだ。
「行かなくちゃ」
もう何も無くなってしまったけれど。
それでもまだこの中に、想いがあるから。
長い道を歩き始める。
坂の上の、洋館へ。