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ラブコメは刺激臭と共に  作者: 天秤
第1章 【高校時代】
45/60

第45話 『分別と共同研究』

「……やっぱり、怒ってる?」

「……別に」


 雨の中、私と有村くんは2人並んで歩いていた。

 ひとつの傘に2人で収まった現在の状況は所謂相合い傘と呼んで差し支えないと思われる。

 しかし、甘いムードのようなものは一切無く、ひりついた空気が漂っていた。

 傘を手にしているのは持ち主の有村くんであり、その紺色の生地をこちらに大きく傾けていた。

 その結果、私は雨に濡れることなく、右隣に立つ彼の右肩だけがびしょ濡れとなっている。

 原因としては、私たちの距離が挙げられる。奇妙な隙間が生じている為、密着できないのだ。

 公園を出るときみたく肩を抱いてくれれば有村くんも濡れずに済むだろう。

 しかし、彼はそれをしない。して、くれない。

 鷹宮さん達から見えぬ距離まで歩いたところで、有村くんは私の肩に回していた手を離した。

 それからずっと、我々の間には、隙間が出来ているというわけだ。

 彼は普段から口数が多い方ではないが、今日はいつにも増して寡黙だった。

 もっとも、送って貰っているとは言え、彼は私の家の場所を知らないので、道案内の為に必要最低限の言葉だけは交わしていた。しかし、それだけだ。それ以外の会話の糸口が見つからない。

 そうして町の中央を流れる川の河川敷の堤防まで差し掛かり、意を決して機嫌を伺ったのだが、つれない答えしか返ってこず、完全に手詰まりといった局面に陥ってしまった。


 怒っているのか尋ねてみたが、どうもそのような気配は見られない。

 表情も不機嫌ではないのだが、ただただ暗い面持ちだ。まるで落ち込んでいるような、そんな様子。

 もちろん、その原因は私にあるとみて間違いなかろう。

 だが、公園の中ではいつもの飄々とした彼だったので、そのギャップに些か戸惑っていた。

 公園で、鷹宮さんの弟である彼方くんに見せつけるように私の肩を抱き、彼は言った。

 神崎は俺のものだと。そのフレーズは、今もしっかりと耳に残っている。

 そのことについても気になっていたが、なにより先にまず明らかにしなければならないのは現在の彼の心境だろう。


 有村くんは、ペットではなく、人間だ。

 当然、言葉はお互いに通じるので、意思の疎通を図ることは容易である。

 けれど、相手が口を噤んでしまえば、どうしようもない。黙秘権を行使されてしまった。

 誰だって、話したくない時はあるだろう。つい先日までの私もそうだった。

 鷹宮さんの指摘について悩み、瀬川さんに心配されても心中を吐露する気にはなれなかった。

 結局、担任であり部活の顧問でもある早乙女先生に打ち明け、解決したのだが、残念ながら私は先生ではない。

 私の立場は彼と同じ年齢の同級生であり、隣の席に座るただの子供に過ぎず、相談相手としてはさぞ不満だろう。

 しかし、そんな頼りない私はそれでも悩める彼を放っておけず、考える。


 早乙女先生だったら、こんな場面でどうするだろうか。

 下品な下ネタで、気を引くのだろうか?

 それとも、ボディタッチでもして気を紛らわすのだろうか?

 どちらにしても、私には出来そうもなく、ただ無常に時は流れ、黙々と堤防の上を歩く。

 

 歩きながら私は逡巡していた。踏み込むべきなのか、否か。

 どの道、有村くんとは向き合うつもりでいた。

 彼方くんの一件で自分の納得がいく結末を得られたのなら、全てを打ち明けようと思っていた。

 私がこの頃、何を悩み、そしてどんな結論に辿り着いたのか、それを彼に聞いて欲しかった。


 それを踏まえると、現状はうってつけと言えた。

 丁度2人っきりだし、しかも相合い傘ときたもんだ。これ以上の好機はないだろう。

 しかし、雰囲気がそれを許さない。このひりついた空気をなんとかせねば、行動に移れない。

 なんて、言い訳をいくら並べたところで、本質は変わらない。結局、私に勇気がないだけだ。

 ペラペラと自分の考えを彼に話したところで、それを理解して貰える確証などどこにもない。

 だから、要するに、不安なのだ。そう、私は臆病風に吹かれていた。

 ちらりと、再び隣の彼に視線を向ける。濡れた右肩が不憫で、どうにかしてあげたくなった。

 ハンカチで拭いてあげて、彼の腕にでもしがみつき、濡れずに済むようにしてあげたかった。

 しかし、この状況を作り上げた張本人たる私がそうするのは、あまりに厚かましく思えた。

 だから何も出来ず、何も口にすることが出来ず、ただ黙って、自宅に向かって歩く。


 もう自宅までそれほど距離があるわけでもない。堤防から脇道に降りれば、すぐそこだ。

 ここでいいと言って、傘の下から飛び出したくなるのは、楽をしようとしている証拠だろう。

 この居心地の悪い空間から飛び出して、自宅の自室に逃げ帰り、布団を被って寝てしまいたい。

 何もかも全部考えるのをやめて、現実から逃避したくてたまらない。しかし、それは、逃げだ。


 ここまで来て、逃げてたまるか。


 現在の私を支えているのは、そんな子供じみたくだらない意地に他ならない。

 私は私なりに自分と向き合った。認めたくない現実を受け入れて、結論を得た。

 私はこれまで自分に都合の良い夢を見ていた。自己満足で満たされて、幸福を感じていた。

 そのことを認識して納得するのは、非常に困難で、たまらなく嫌だった。

 それでも、私はその結論に辿り着いたのだ。どれだけ悲しくて切なくても、理解した。

 その結果、こんな状況を生んだのだとしたら、それこそが間違っている。

 私はこんな風に有村くんと気まずくなる為に自分と向き合ったのではない。

 だから、機械のように動き続ける足を止めて、自らの意思で、その場に立ち止まった。


「ん? どうした、神崎?」

「有村くん」

「なんだ?」

「私と話をしましょう」


 私が立ち止まると、彼も立ち止まってくれた。

 それは当然だろう。彼は優しい人だ。

 自分の肩が濡れるのに構わず、私を優先して傘を傾けるような人なのだから。

 そんな彼の優しさを利用したことに申し訳なさを感じつつ、私は改めて意志の疎通を図る。


「思ってることがあるなら、聞かせて」

「そう言われてもな……」

「私には言えないこと?」

「そうじゃなくて、言っていいのかどうか判断つかないんだよ」


 辛抱強く問いただすと、そんな答えが返ってきた。

 どうやら彼は、自分の思っていることを言うべきか否かで悩んでいたらしい。

 それを聞いて、なんだか笑いそうになった。なんともはや、実に滑稽だ。

 何故ならば、それはつい先程まで私が抱いていた気持ちと全く同じだったからだ。

 踏み込むべきか、否か。それを口にして良いのか、悪いのか。

 非常に難しい問題だ。踏ん切りのつかない気持はよくわかる。

 しかし、それを逆の立場から見せつけられると、やはりおかしくて堪らない。

 前に、私が有村くんのことで悩んでいる時に、吉田くんに言われたことがある。


『有村に遠慮してんの?』


 そのとき私はすぐに否定したが、あながち的外れではなかったようだ。

 今の私たちは、お互いに遠慮して、よそよそしくなってしまっていた。

 そしてそのことを認識すると、途端に馬鹿馬鹿しくなった。なんで遠慮してんだよ、と。

 だから私は、少しだけ口元を緩めて、有村くんに告げる。


「遠慮しなくていいから、聞かせて」


 たぶん、優しく言えたと思う。そう聞こえるように努力したつもりだ。

 その証拠に、有村くんがちょっとほっとした表情を浮かべている。首尾は上々だ。

 急いては事を仕損じる。なので、急かすことなくじっと待つと、有村くんは言いづらそう口を開いた。


「たぶん俺は、あのガキに嫉妬してる」

「嫉妬? 彼方くんに?」

「ああ、おかしな話だろ?」


 自嘲げに笑いながら、有村くんは続ける。


「そもそも、そんな権利なんて俺にはないのに、馬鹿な話さ」

「嫉妬する権利ってこと?」

「そうだ。だって俺たちは別に付き合っているわけじゃないだろう?」

「それはその通りね」

「だから、黙ってた」


 私たちは付き合っているわけではない。それは純然たる事実だ。

 よって、恋人同士でもないのに嫉妬する権利はないと彼は言う。

 その理屈自体は間違っていないだろう。筋は通っていた。

 しかし、これは感情の問題だ。一筋縄ではいかない難問である。

 

 それについて検証すべく、直近の出来事を思い返してみる。

 まず、瀬川さんに思い人がいると知った私は、その相手である吉田くんに嫉妬した。

 次に有村くんと仲良くなった折、それを見た鷹宮さんに絡まれた。これも彼女の嫉妬が引き金になったと思われる。

 その一件で私は堪らなく寂しくなった。これに関しても、あとから考えれば嫉妬の一種と言えよう。

 そして鷹宮さんと仲良くしている私を見て、瀬川さんも嫉妬した。

 最後に本日、彼方くんと遊んでいるところを目撃した有村くんもまた、嫉妬したらしい。


 こうして振り返ると、思ったよりも我々は日常的に嫉妬しているらしい。

 これが普通なのか異常なのかはわからないが、大小関わらず嫉妬はどこにでもあると言えよう。

 瀬川さんの柔らかな雰囲気とか、鷹宮さんの積極性とか、早乙女先生の大人な魅力とか。

 数えだしたらキリのないくらい、私は常日頃嫉妬している。別に付き合っているわけでもないのに。

 とはいえ、友達の少ない私の交友関係は限られており、嫉妬する対象も女性ばかりだ。

 異性にちなんだ嫉妬は、鷹宮さんと有村くんの一件のみに絞られる。

 これは他の些細な嫉妬とは一線を画しており、別種の物と言えた。かなり刺激的なものだ。

 それを踏まえるに、今日有村くんが感じた嫉妬心はそれに該当すると思われる。

 彼方くんと私との接触に、彼は嫉妬した。そのことに特別な意味があるとすれば、きっと。


「要するに、あなたは私と恋人になりたいの?」


 思ったことをそのまま口に出したら、有村くんは苦い顔をして。


「まあ……そうなるな」


 渋々と言った感じで認めた。

 その瞬間、動悸が激しくなり、血圧が上がって耳まで熱くなった。

 それは私にとって、聞き捨てならない言葉だったが、ぐっと堪えて。

 まず先に彼に話しておくべきことを、話そう。


「とりあえず、私の話を聞いて貰えるかしら」

「おう、聞かせてくれ」


 そうして私は、ここ最近何を悩み、そしてどんな結論に辿り着いたかを、洗いざらい彼に話した。


「……と、言うわけなのよ」

「なるほどな。それでここ最近変だったのか」

「気にしてくれていたの?」

「まあな」

「てっきりあなたは私に興味が無いのかと思っていたのだけど……」

「興味の無いふりをしていたってのが本音だ。昨日瀬川に神崎のことをどうでもいいのかって聞かれた時には困ったぜ。なにせ俺は、別にお前の恋人でも何でもないからな」

「その心遣いは、ありがたかったわ」

「いや、ただの意地みたいなもんだ。感謝される謂れはない」


 いつも無関心だったように見えたが、実は気にしてくれていたらしい。

 瀬川さんに問いただされた時も、大変困ったとのこと。

 どうやら恋人ではないという部分が最大のネックだった様子。

 何やら色々と気を遣わせてしまったことを申し訳なく思いつつ、結論を繰り返した。


「私はショタコンだけど、ショタは恋愛対象じゃなかった」


 これはつい先刻辿り着いた、確固たる事実だった。

 ショタは愛でるものであり、それは恋とは違うものだった。

 そのことを理解し、納得した上で、自己満足と認め、自覚して、私は自分の気持ちを知った。

 ショタへの愛が恋ではないのだとすれば、きっとそれは。


「私は、有村くんに恋をしている」


 そう、私は彼に恋をしていた。口に出して、実感を得る。

 本人の目の前なので、事実上の告白と言えよう。

 生まれて初めての経験だったが、この話の流れでは緊張は皆無だった。

 まるで報告書を読み上げたような事務的な口調になってしまったが、この際構うまい。

 口調とは裏腹に、言葉には熱が籠もっている。それで、彼には伝わったようだ。


「ほほう? 神崎は俺のことが好きなのか?」


 茶化すようなその口調は、知っている。

 先日、鷹宮さんにもやっていた。たぶん、試されている。

 ここで羞恥心に負けて否定したら、負けだ。きっとにべもなくお断りされる。

 だから私は批難の意味を込めた半眼を向けつつも、こくりと頷いて、肯定した。


「うん。私は有村くんが好き」

「ショタコンなのに?」

「さっき結論を述べた通り、それとこれとは別だってわかった」

「ふーん……ようやくお前も、趣味と現実の分別がついたわけか」

「そう。憎らしくて堪らない、糞ムカつく男を好きになることもあるって、知ったの」

「なんだそりゃ……まさか俺のことじゃないだろうな」


 まさかも何も、あなた以外に誰がいる。自分の胸に手を当てて聞いてごらんなさいな。

 無自覚な彼に白い目を向けつつも、会話の中で気になったことを尋ねる。


「ちなみにロリコンのあなたは分別がついていたの?」

「当たり前だろ。俺の趣味で女子中学生と付き合ったら捕まっちまう。だから、それとこれとは別だ」


 なんとも悔しいことに、彼は既に分別がついていたらしい。

 くそーロリコンの癖に、生意気な。そんな低レベルな憤りはさておき。

 彼がその境地に辿り着いているのならば、話は早い。

 そう思って、私が切り出すよりも早く、彼はお決まりの定型文を口にした。


「それじゃあ、付き合うか?」

「……その言い方は嫌」


 ぺっと唾を吐くかの如くそっぽを向いて、拒否。

 そんな私の反応が予想外だったのか、有村くんは珍しく慌てた様子で説明を求めた。


「い、言い方が嫌って、ならどう言えばいんだよ?」

「まずは自分の気持ちを口にしなさい」

「今更?」

「当たり前でしょ。私に言わせたんだから、あなたも言うべきよ」

「……好きだ」

「声が小さい」

「好・き・だ!」

「よろしい」


 とりあえずこれで、必要最低限の準備は整った。余は満足じゃ。

 尊大な態度のまま、今度は交際を求める本文の改正に着手する。


「そもそも付き合うって言い方は、好きじゃないの」

「じゃあ、なんて言えばいいんだ? ……まさか、論文を書けって言うんじゃないだろうな」


 ジト目でそんな懸念を口にする有村くん。

 そう言えば、中学時代に告白された際にそんなことを言った覚えがある。なんだか懐かしいな。

 とはいえ、あの時の私と今の私では、考え方が全く違う。


 あの頃の私は、自分の身体の発育のことで精一杯だった。

 大人の身体になれなければ、恋をする資格を持てないと思っていたのだ。

 だからこそ、その時点で恋愛に対する興味や関心は希薄だった。それどころではなかったのだ。

 やがて、身体が年相応に生長して、考えにも変化が現れた。

 もっとも、ベースは元のままなので、ようやく恋する資格を得たと喜んだ。

 しかしながら、恋愛とはそう簡単なものではなく、相手が必要ときたものだ。これには困った。

 ぼっちの私にそんな相手が出来る筈もなく、ただひたすらに悶々と過ごして、気づいた。


 私は恋をしたいのではない。

 私は、恋を知りたいのだと。


 これは全く似て非なるものだった。まさに目から鱗の大発見である。

 それに気づいてから、恋愛に対する見方が大きく変わった。

 交際するに当たり、恋とは何かについての論文を相手と交わすまでもない。

 交際とは、その答えを相手と一緒に考えて導き出し、そして互いに知り合うための、共同研究なのだ。

 詰まるところ、私が言いたいのは、要するに。


「有村くん」

「ん?」

「私と交際して、恋を教えてください」


 ぺこりとお辞儀をして、頼み込む。

 これが、交際の申し込み方の有るべき姿だろう。

 いつか好きな人が出来たら、ずっと言おうと思っていた台詞だった。

 それを、今日ようやく言えた。そう思うと、とても感慨深い。

 これには流石の彼も面食らったようで、鼻白みながらも、よくよく考えて。


「俺も、神崎に恋を教えて貰いたい」


 そんな完璧な返答を寄越してくれた。

 それを受け、私は下げた頭を上げて、にっこり微笑む。

 すると途端に有村くんの顔が真っ赤っか。愛い奴め。

 晴れて恋人となった彼の可愛い一面をひとしきり眺めて、くすくす笑い、私は前進を指示する。


「それじゃ、帰りましょうか」

「随分あっさりしてんな、おい」

「じゃあ、こうする?」


 不満げな有村くんの傘を持つ手に自分の腕を絡める。

 ぴったりと寄り添えば、もう彼が雨に濡れることはなく、恋人同士の雰囲気も味わえる。

 まさに一挙両得と言って過言あるまい。初めからこうすることが出来たらどれだけ楽だっただろう。

 人間という生き物のコミュニケーションは、本当に面倒なプロセスを踏みすぎる。

 しかし、だからこそ、通じ合った時の喜びは、ひとしおなのだと、しみじみ思った。


「ここが私の家よ」

「へぇ……立派だな」

「ちょっと上がってく?」


 程なくして自宅へと辿り着いた。どう見ても普通の一軒家だが、有村くんは感心しているようだ。

 鞄から鍵を取り出して解錠しつつ、一応、送って貰ったお礼も兼ねて、休憩して貰おうと思ったのだが、彼はやんわりと断った。


「いいよ、また今度にする」

「ん。いつでも遊びにきて」

「ああ、わかった」


 どうせ休みの日は基本的に読書か勉強しかすることがないのだ。

 せっかく恋人になれたのだから、有村くんにはいつでも家に遊びに来て欲しいと思った。

 彼は笑顔で快諾して、別れの挨拶を寄越す前に。


「そう言えば、ずっと言おうと思ってたんだけど」

「なに?」

「お前、あのガキに直さんとか呼ばれてたろ?」


 不満そうに口を尖らせて、そんな耳ざといことを口にした有村くん。

 彼方くんとのやり取りはしっかりと聞かれていたらしい。

 とはいえ、別にやましいことはないので、あっさり認める。


「ええ、それがどうかしたの?」

「それが一番ムカついたんだよ」

「じゃあ、あなたも好きに呼べばいいじゃない」


 もとより、なんと呼ぼうが彼の自由だ。

 強制はしないし、好きに呼んでくれて構わない。

 とはいえ、あまりに失礼な呼び方ならば、即座に張り手を見舞うつもりだったのだが。


「なら、これからはナオって呼ぶ」


 そのなんともオーソドックスな呼び方に、ほっと胸を撫で下ろす。

 お漏らし女とか、ショタコンとか、大痔主とか、そんな酷い呼ばれ方をされずに済んで良かった。

 安心して、そして呼び捨てにされたことで機嫌が良くなった私は、彼に習うことにした。


「それなら私もシュウって呼ぶわ」


 くんを付けるか迷ったが、そこは気分次第ってことで。

 それを受けてシュウは大変嬉しそうに笑い、私も彼と同じように笑っていると思われる。

 典型的な付き合いたてのカップルの仲睦まじさを梅雨の曇天に見せつけていると、そのあまりの熱量に雨が干上がったらしく、徐々に雲が晴れて、晴れ間を覗かせてきた。


「雨、上がったね」

「ああ、これなら帰りは傘は要らないな」

「家まで送ってくれて、ありがとう」

「気にすんな、彼女なんだから」


 彼女と言われて、嬉しさが隠せない。

 こんなに上手くいっていいものだろうか。

 もちろん、一筋縄ではいかないことばかりだった。

 ショタへの幻想から抜け出る際に、相応の苦しみも味わったつもりだ。

 だけど、幸せすぎる。もしかして、明日にでも死ぬのではないだろうか。

 いや、流石にそれは言い過ぎだとしても、何かオチが待ってそうで怖い。


 そんな言いようのない不安に駆られていると、有村くんが思い出したように。


「そういや、恋を教えてくれって言ってたな?」

「ええ、私もあなたに頼まれたわ」

「それならちょっと目を瞑れ」

「どうして?」

「いいから、早く」


 唐突にそんなことを言われて、戸惑いつつも、目を瞑った。

 しかし、何かが起こる様子はない。不審に思って薄目を開けると。

 

 そこには整った顔立ちをした彼の顔が間近に接近しており。

 その通った鼻筋や長いまつげに見惚れている場合ではなくて。

 高い鼻がぶつからないように首を傾げている姿がなんともセクシーで。

 そしてとうとう、そのちょっぴりかさついた唇が私の唇に……ま、これはこれでいっか。


 いや、駄目でしょ、どう考えても!


「させるかよっ!!」

「ん? どうした? 海老みたいに跳ねて……またうんこでもしたくなったのか?」

「んなわけないでしょ!? 海老とか言うな! しかもまたってなによ!?」


 我に返って鷹宮さんばりの大声を上げながら、バックステップ。

 額に掲げた拳をシュッシュッと突き出して威嚇。ワンツーワンツー!

 猫パンチにしか見えないシャドーボクシングを披露しつつ、盛りのついた彼氏を追い払う。


「とにかく、今日はもう帰って!」

「なに怒ってんだよ。あ、さてはまた漏らしたんだな?」

「違うって言ってんでしょ!? この勘違い男っ!!」

「む? なんだよその言い草、せっかく送ってやったのに」

「その節は本当にありがとうございました! ごきげんよう!!」


 感謝と別れの言葉をまくし立てて、素早く家の中へと避難。

 あっぶねー。男子高校生を侮ってたわ。

 まさか交際初日にキスされそうになるとは。

 しかもちょっと流されそうになるなんて……アホか。

 私ってば、そんな軽い女だっけ? こんなガードの緩さで、何が鉄火姫だっつーの!


 本当に、今のはヤバかった。たぶん、キスだけじゃ済まないんだろうなと、一瞬で悟った。

 そのまま家の表札に手をつかされて、後ろから……って、何考えてんの!?

 そんなの駄目だよ! まだ明るいし、お外だし、私は処女だし……って、そうじゃなくて!!


 いかんいかん、妄想だけで憤死しかねない。交際初日からこれでは先行きが不安すぎる。

 落ち着こうと思って目を閉じようにも、間近に迫ったシュウの顔が浮かぶので、まばたきすら一苦労。

 玄関に背をもたれて、深呼吸。煩悩を振り払って、冷静になった。

 すると、先程の自分の対応があんまりだったのではないだろうかと不安になって。

 恐る恐る扉の覗き窓から外を伺うと、シュウは肩を落としてトボトボ帰るところだった。

 たぶん、悪気はないのだろう。彼はデリカシーが欠如しているだけだ。だって猿なんだもの。

 男子高校生の特性については、ラノベを通じてよく知っているつもりだったのに、動揺してしまった。


 なんだか悪いことしたなと思って、ほんのちょっとドアを開けて。


「シュウ! また明日!!」

「ん? おう! またな!」


 背中に向けてそう叫ぶと、彼は振り返って手を振ってくれた。

 ドアの隙間から私も小さく手を振り返す。うんうん、良い感じ。

 そう、これぞ健全な高校生カップル。これくらいが、丁度いいよね。

 彼の大きな背中が見えなくなるまで見送ってから、ドアを閉じて、ひといき。


 あーびっくりした。

 まだ顔があっついや。


 パタパタと手で顔を扇ぎながら、動悸を静めようと試みるものの、これがなかなか上手くいかず。

 結局その後、夕飯を作る際も、お風呂に入る際も、勉強をする際も、眠る際も、ずっとずっと。

 初彼氏が出来て浮かれた私は、ドキドキしっぱなしなのであった。

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