第42話 『早乙女茜の授業』
「んで、どんな悩みだ?」
早乙女先生に連れられて辿り着いたのは、応接室。
職員室の最奥に存在するその部屋には高そうな革張りのソファが向かい合わせに置かれていて、先生はどっかりそれに腰掛けると、私に向かいの席へと座るように促してから、いきなり本題を尋ねてきた。
チビの癖に偉そうにスラックスに包まれた細足を組むその姿は、悔しいことに様になっていて、普段よりもずっと大人っぽく見えた。まあ、事実大人の女性なのだから、当然なのだが。
「なに見惚れてんだよ。さっさと話してみろ」
にやにや笑って、そんな妄言をほざかれ、むっとした私は言葉を選びながら慎重に口を開いた。
「どう言えばいいかわからないのですが……たとえば、何か好きな物があったとして、それを大切にしようとする気持ちは間違っているでしょうか?」
「ふーん……色恋沙汰か」
なるべく当たり障りのないように抽象的な表現をしたつもりだったのだが、即座に看破された。
というか、私の話を聞いていたように見えない。一言も色恋沙汰の話をしてないのに、何故。
たぶん、私が相談を持ちかけるずっと前から、見抜いていたのだろう。恐ろしい女だ。
思わず否定の言葉が口から出そうになるが、ぐっと堪える。今むきになれば、向こうの思う壺だ。
そもそも、否定したところでこの女は信じないだろう。きっと、確信を持っている。
だから、何も言えぬまま沈黙を貫くと、早乙女先生はくっくっくっと含み笑いをして。
「どうしてわかったかって顔してんな?」
「どうしてわかったんですか?」
「お前らくらいの歳のガキが空見上げてたら、大抵は色恋沙汰だからだ」
なんてことないように、そう断言する早乙女茜。
いやいや、普通に天気を気にしているのかも知れないではないか。
要するに、ただの勘であり、当てずっぽうらしい。そしてそれに私はまんまと引っかかったと。
やっぱり否定しておけば良かったのか? だが、それはそれで怪しく見えるし。
たぶん、誤魔化そうと考えた時点で、何もかも筒抜けになってしまうのだろう。
そのくらいの洞察力をこの女は持ち合わせていて、読心術にも長けていた。
ならば、無駄なあがきはやめて、大人しく聞くべきことを聞いたほうが身の為だと思った。
「そう思ったなら、それでも構いません。質問に答えてください」
「口の利き方がなってねーな。もう一回、ちゃんとせんせーにお願いしてみろ」
「……質問の答えを、教えてください」
いちいち癪にさわる女だ。
それでも、屈辱に震えながら、私は頭を下げた。
しかし、この女は更につけ上がって。
「菊花姫様、教えて下さいだろ?」
「もういいです」
「いいのか?」
「……意地悪」
ソファから立ち上がって帰ろうとしても、動じた素振りはない。
こうした駆け引きにおいて、こちらの勝ち目はなさそうだ。大人しく元の場所に座り直す。
悔しくてジロリと半眼を向けると、性悪早乙女先生はひっひっと下卑た笑みを浮かべて。
「あーガキの悔しそうな顔たまんねー」
到底教師の口から出たとは思えない最低最悪な台詞を吐いて、愉悦を隠そうともしない。
この世にこれほど性格の悪い教育者が存在するだろうか? いや、世界中どこを探したって目の前のこの糞女以外にはおるまい。
そのくらい常軌を逸した女教師がそこにいた。
しかもよりにもよって一番身近な立場でとか、どんな確立だよ。
私の人生最大の不幸は、この女が高校の担任であり、所属している部活の顧問だったことだろう。
そう言い切れるだけの被害をこれまで幾度もなく味わっていた。
そして、その中でもこれはダントツで一番だ。
気がつくと、私はギリッと歯を食いしばって、早乙女茜を睨みつけていた。
怒気を越えた殺意すら孕んだその視線を受けても、どこ吹く風で。
「それで、好きな男を大事にするのがいけないことか、だっけ?」
唐突に話を戻された。しかも、一部改悪されて。
「……いけないんですか?」
「いけないことはないな。だが、それが正しいとは限らねぇ」
恥を忍び、忍び難きを耐えて、聞いてみると、そんな要領の得ない返答をされた。
「どういう意味ですか?」
「大事にすることだけが愛情表現じゃねぇってことだ」
「でも、好きなんですよ?」
「だからこそ、だ」
大事にすることは間違いなく愛情表現だろうに。
怪訝な視線を向けると、早乙女先生はたとえ話をした。
「たとえば、愛憎は表裏一体って言葉があんだろ?」
「ええ、それが何か?」
「行き過ぎた愛情が憎しみに変わることもあるし、そのまた逆も起こりえるってことだ」
「つまり、何が言いたいんですか?」
「憎たらしくて堪らない、糞ムカつく奴を好きになる場合もあるってこった」
なんだそれは。完全に論理が破綻している。
「憎たらしくて堪らないのに、好きになるんですか?」
「時と場合によっては、な」
「そんな時と場合があるんですか?」
「あんだよ。理屈じゃねーんだ」
とうとう理屈じゃないときたもんだ。
さてはこの女、適当なこと言ってやがんな?
そう疑って、胡乱な眼差しを向けると、早乙女先生はにやりと笑って。
「それこそ、つい最近思い当たる節があったばかりじゃねぇのか?」
「なんのことですか?」
「鷹宮と大立ち回りやったんだろ?」
「あっ……」
言われて、気づいた。先日の鷹宮さんとの騒動を思い出す。
あの時の鷹宮さんは、憎しみをぶち撒けながら、私のことを憧れと称した。
考えてみれば、おかしな話だ。憎んでいるのに、憧れるなんて。
しかし、そう考えると、腑に落ちる。たしかに、人が誰かを好きになるのは理屈じゃないのかもしれない。
「言いたいことはわかりました。でも、それが私の悩みと何か関係あるんですか?」
「大ありだ。好きってだけじゃあ、足りねぇんだよ」
「なにが足りないんですか?」
「重さとか、厚みだ」
突然そんなことを言われて、戸惑う。
重さとか厚みなんて、あまりにも抽象的すぎるだろう。もっと具体的に言われなければよくわからない。
特に厚みってなんだ? 好きって気持ちに厚いとか薄いなんてあんのか?
重さに関しては、むしろマイナスなイメージが強い。重い女は嫌われるのが常識だ。
私の読んだラノベではいつも煙たがれて、浮気をされ、結果的にメンヘラかヤンデレになることが多かった。
というか、最近の高校生なんて付き合って別れてを繰り返す輩ばかりだと聞く。
そしてほとんどが結婚にすら行き着かぬまま、破局するだろう。
もし結婚出来たとしても、そのあと離婚する可能性だってある。
むしろ始めから添い遂げようとするカップルの方が、長続きしないようにも思えた。
しかし、そんな否定の言葉ばかり頭に浮かぶのと同時に、自分が嫌になった。
先生の言葉を受け入れられないのは、きっと楽をしたいからだ。楽な恋をしようとしていた。
本当は、そんな薄っぺらい恋愛などしたくない。なるほど……これが重さや厚みの重要性か。
それに気づいたことを察したのか、早乙女先生は噛み砕いて解説してくれた。
「まあ、簡単に言えば好きってだけならペットと同じって意味だ」
「ペット?」
「神崎は犬とか猫とか飼ってねーの?」
「飼ってません」
「なら想像しろ。お前好みのペットを飼うとする」
想像しろと言われたので、とりあえず可愛い子猫を思い浮かべて返事をする。
「はい」
「お前はそのペットを目に入れても痛くないくらいに可愛がる」
「はい」
「引っかかれても、小便をひっかけられられても、お前は怒らない」
「……はい」
「時には粗相をして、床に転がったうんこを踏んづけちまうかもしれない」
「あの……それは想像しないといけませんか?」
「当たり前だ。リアリティーが大事なんだよ」
どんどん言うことが汚くなってきたので、堪らず苦言を漏らすと、窘められた。
一応、私は相談している身なので、渋々ながら想像してみる。ばっちい。
「じゃあ、続けるぞ」
「はい」
「何度うんこを踏もうが、お前はそのペットを可愛がり続けた」
「はい」
「だが、どれだけ愛情を注いだところで、相思相愛とは限らない」
「えっ? どうしてですか?」
「お前はペットの言葉を理解出来るのか?」
「それは、わかりませんけど……」
「なら、ペットのほうはお前のことをただの餌をくれる便利な奴だと思ってるかも知れないだろ?」
「……だから?」
「だから、もしかしたら向こうからは大して好かれてなくて、むしろ嫌われてるのかも知れないってことだ」
そんな身も蓋もないことを言われても困る。
信頼関係が生まれていると、思いたかった。
そんな不満が顔に出ていたらしく、早乙女先生は心底面倒そうな顔をして、結論付けた。
「要するに、ペットに対する愛情は、自己満足なんだよ」
まるで聞きわけのない生徒に説教するかの如く、ぶっきら棒にそう言われて憤る。
なんだこれ。非常に不愉快だ。ペットを飼ったことがない私でも、カチンときた。
言葉が通じないのは事実だからいい。だが、気持ちが通じ合っている可能性を否定するのはおかしい。
仕草や鳴き方などでも感情は伝わる筈だ。猫ならば尻尾が立つし、犬ならば尻尾を振って喜びや嬉しさを表す。
それを一方通行だと決めつけて、自己満足であると断じた早乙女先生は間違っている。
きっと、ペット飼ったことがある者ならば、先生の暴言に対して怒り狂うことだろう。なんだか、失望した。
この先生はめちゃくちゃなことを言っても、そこそこ人格者だと思っていたのに。
しかし、そうは思いつつも、一縷の望みにかけて、質問をしてみる。
「早乙女先生はペットを飼ったことがあるんですか?」
「ねーよ。あたしはペットが嫌いだ」
「そうですか……もう結構です」
話は終わりだ。時間を無駄にした。
ペットの話を持ち出した癖に自分で飼ったことがないとは、どういう了見だ。
つまり私は、この女の想像を、想像していたことになる。なんとも馬鹿馬鹿しい。
本当に、がっかりだ。しかし、そう思うということは、どこか期待していたということであり。
この先生に対して、そうした気持ちを少しでも抱いたことが、堪らなく悔しくて。
その結果裏切られたことが、悲しくて、切なくて、今度こそ席を立とうとすると。
「自分より先に死ぬ生き物を飼うなんて、可哀想だろうが」
「えっ?」
「もしもあたしがペットを飼ったら、そいつが死んだ時には自殺するだろうな」
だから飼わない。だからペットは嫌いだと、そんなことを口にする、早乙女先生。
詰まるところ、それが早乙女茜という人間の本質なのだろう。あまりに極端すぎる人間性だ。
それでも、その主張を聞いて、肩の力が抜けるのを感じた。胸を撫で下ろして、ほっとしていた。
おかしい……私、安心してる。こんな極論を聞かされて、どうして泣きたくなるんだ。
とにかく、良かった。先生は、やっぱり先生だった。本当に、心底、安堵した。
「……先生の話は、誤解を招く発言が多過ぎます」
「仕方ないだろ、そういう性格なんだから」
「生徒に嫌われてもいいんですか?」
「それで生徒の悩みが解決するなら、いくらでも嫌われてやんよ」
やっぱりこの女は、嫌いだ。
それでも、間違いなく教育者であり、子供に何かを教えようとしてくれている。
その気持ちが伝わったからこそ、私はもっと話が聞きたいと思った。
「つーわけで、あたしの言いたいことがわかったか?」
「一方的に愛情を注ぐだけでは重さや厚みは補えないということですね」
「ま、そんな感じだ」
「んー……なんとなくわかりましたけど、それはペットに限った話でしょう?」
「同じだよ。人間だって、好きってだけじゃ全然足りない」
そう言われても、どうにも腑に落ちない。
なので、少しばかり話の方向性を変えてみることにした。
「じゃあ、先生の好みのタイプってどんな人ですか?」
「んん? そうだな……わかりやすく言えば、有村みたいな男が好きだ」
「えぇっ!?」
「おやぁ? なんだぁ、その反応? どうかしたのか、神崎?」
何の気なしに聞いたら、爆弾発言が返ってきた。
思わず仰天すると、早乙女先生は愉悦を隠すことなく、にやにや。完全に面白がっている。
からかわれたことに気づいて、すまし顔で誤魔化そうと思ったが、気になって仕方ない。
メンタルが弱すぎる私は結局、駆け引きに負けて、おずおずと尋ねることになった。
「どうして、有村くんみたいな人が好きなんですか?」
「単純に、顔が良くて、背が高いから」
「それだけですか?」
「あとはまあ、話も合うし、趣味も合うし、身体の相性も良さそうだからな」
「か、身体の相性って……どんだけ身長差あると思ってんですか」
早乙女茜は私や瀬川さんよりもずっと背が低い。鷹宮さんと同じくらいだろう。
対して有村くんは高身長。相性が良いとは思えないのだが、先生はにやりと笑って。
「そのほうが色々と燃えるんだよ」
「なんですかそれ……どういう意味ですか?」
「具体的に言えば、上になっても下になっても喜びが大きいってことかな」
「う、上とか下とか、何言ってんですか……」
「何のことかは、お前の想像次第だ」
そう言ってお茶を濁されたけど、これは明らかによろしくない。
だって、先生と有村くんは教師と生徒で、それなのに上とか下とか……そんなの駄目!
少しばかり想像してしまって、顔面を火照らせている私を見て、早乙女茜はケラケラ笑った。
「本当に神崎はドスケベだな。どんだけ盛ってんだよ」
「せ、先生にだけは言われたくありません! 教師と生徒がそんなこと……非常識です!!」
「アホか。あくまでもこれは好みのタイプのたとえ話だろーが」
「そ、それは、そうですけど……」
「あたしは生徒に手を出すつもりはねーよ」
「本当ですか……?」
「当り前だ。本気になれない恋愛なんて、つまんねーからな」
「……良かった」
「ひっひっ……安心したか?」
先生に諭されてひと安心していると、茶化されて、また顔から火が出そうになった。
くっそー……めっちゃ恥ずかしい。ていうか、どうしてこんなに一喜一憂してるんだ、私。
有村くんは先述した通り、高身長。基本良い人だけど、時々おかしくなる変人だ。
鷹宮さんの一件の際も、クラスメイトの前で虚言をほざき、赤っ恥をかかされた。今思い出しても憎たらしい。
彼の良いところを沢山知っている反面、悪いところを挙げたらキリが無い。
おかしな劣等複合を抱えているし、酷い勘違いをしたり、それを言いふらしたりもする。
それでも、不思議と傍に居たいと思える、気になる男の子。では、それは何故か。
答えは目の前にあるのだけど、目に見えないカーテンで遮られている感覚。
例えるならば、そうだな……頭の上の眼鏡とか、そんなところだ。灯台下暗しといった表現がしっくりくる。
見えているのに、それが認識出来ないのは、きっとどこかで理解を拒んでいるからだろう。
わからないのは、全て自分のせい。自分の不都合になることがあるから、隠したいのだ。
それを知ったら、私のアイデンティティが崩壊するような、そんな刺激的な予感に、びびっていた。
しかし、いつまでも臆病ではいられない。向き合って、立ち向かって、決着をつける頃合いだ。
そう決意して、本題に立ち戻る。早乙女先生の言葉を借りて、質問をする。
「本当に、憎たらしくて堪らない、糞ムカつく男を好きになったりするんですか……?」
すると、早乙女茜は偉そうにふんぞり返って。
「ようやく本題に戻ったな……知りたいのか?」
「はい、知りたいです」
「なら、今度こそきちんとお願いしろ」
「またそれですか……」
えっと……なんだっけ?
たしか、姫様って呼べばいいんだっけか。めんどくさ。
はいはい、わかりましたよ。それで教えて下さるなら、いくらでも呼んであげますよ。
「お願いします、アスタリスク姫様。どうか教えてください」
「おい、どんな言い間違えだそれは」
「おっと、こりゃ失敬」
つい、あだ名に込められた真意を前面に押し出してしまった。
こほんと咳払いをしてから、改めてお願いをする。
「菊花姫様、どうかこの無知なる私めにお教えくださいませー」
「うむ……よかろう」
うわーよかろうだって。どんだけお姫様気取りなんだよ。もう20代半ばなのに。
またしても早乙女先生の少女趣味がツボに入って、笑いを必死に堪えていると。
「それを教える前に、ひとつだけ確認だ」
「なんですか?」
「神崎はあたしのことが嫌いなんだよな?」
「ええ、大嫌いですけど、それが何か?」
「あたしもお前みたいなクソガキは嫌いだ」
生徒に対して面と向かって嫌いと言う教師。これは問題ではなかろうか。
とはいえ、嫌われている自覚はあった。これだけ意地悪されているのだから、好かれているわけない。
だから、取り立ててショックを受けることなく、平然と会話を進める。
「その確認が、どうかしたんですか?」
「それを踏まえて、ちょっとこっちに来い」
「はあ……わかりました」
手招きして、自分の元に来いと命じる早乙女茜。
言われるがまま、私はソファから立ち上がって、向かいに座る先生の元へと向かう。
私を呼びつけた早乙女先生は、ソファに座ったまま、自分の膝を指し示して、耳を疑う命令をした。
「ここに座れ」
「は?」
「聞こえなかったのか? あたしの膝に座れと言ったんだ」
いや、ばっちり聞こえてましたけど。
膝を指し示して座れと言われたら、膝に座れって意味だとはわかるけど、だからこそ意味不明なわけで。
「どうして先生の膝に座らないといけないんですか?」
「座れば、わかるからだ」
「なにが?」
「憎たらしくて堪らない、糞ムカつく奴を好きになる意味が」
そんなの、俄には信じがたい。
冗談だろうかと思って、先生の表情を伺っても、いつものようにヘラヘラしてない。
ということは、マジでそんな訳わかんないこと言ってんのかこの人は。
もしかしたら本当に頭がいかれたのかも知れない。だって、膝に座るとか普通に嫌だし。
想像しただけでも嫌なのに、実際座ったらどれだけ嫌悪感を覚えるのか。考えるだけでも恐ろしい。
というか、早乙女先生としても、嫌いな私を膝に乗せたくなどないだろう。それなのに、どうして。
考えれば考える程に混乱して、沸き上がる嫌悪感によって動けないでいると。
「知りたくないのか?」
こちらを見上げる挑戦的な視線でそう聞かれて、その裏に込められた意味が伝わってくる。
逃げるなと、そう言われた気がした。自分の気持ちと向き合えと、言外に伝わってくる。
もとより言われっぱなしは癪に障る性分だ。いいだろう、受けて立ってやんよ。
「……先生の膝に座ればいいんですね?」
「そうだ。さっさとしろ」
「それでは、失礼します」
「ちょいまち!」
確認をしてから、膝に座ろうとすると、待てと言われた。
「どうかしましたか?」
「なんで後ろ向きで座ろうとしてんだよ」
「なんでって、座れって言うから……」
「せんせーに尻を向けるとか、お前は頭おかしいのか?」
なんか頭のおかしい女に頭おかしいとか言われたんですけど。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「向かい合わせに決まってんだろ。そのくらい言われなくてもわかれ」
心底呆れたように、やれやれとジェスチャーする早乙女茜。この女は今、なんと言った?
向かい合わせ……だと? 向かい合わせで膝に乗れってのか? なに考えてんだ。
「あの、向かい合わせはちょっと……」
「あ? あたしの命令が聞けねーのか?」
「だって、私はスカートですし……」
「だから?」
「だから、向かい合わせで膝に乗るのはマズいというか……」
「なんで?」
「……わかってる癖に」
今の私の服装は学校指定の制服だ。女子なので当然スカートを穿いている。
そんな格好で向かい合わせで膝に乗ったらどうなるか、想像するまでもない。とてもはしたない格好になる。
早乙女先生とて、生物学的には女なので、そのことは重々承知している筈だ。
それを裏付けるように、いやらしい笑みを顔に貼り付けて、先生は繰り返し命じた。
「ガキの癖に恥ずかしがってんじゃねーよ。いいからさっさと言われた通りに座れ」
どうやらこの女はどうしても私を向かい合わせで膝に座らせたいらしい。
どうにか譲歩して貰えないだろうかと考えて、苦肉の策を口にしてみる。
「せめて、横座りで……」
「駄目だ」
「どうして向かい合わせなんですか?」
「密着する面積が大きい方が、結果を得られやすいからだ」
「どういう意味ですか?」
「座ればわかる」
「うぅ……わかりました」
理由も訪ねても要領の得ない返事しか返ってこない。
どうにも、全然折れてくれそうになくて、やむを得ず諦めることにした。
羞恥と悔しさを噛みしめて、先生の膝に跨がる。
ああもう……スカートなのに、こんなに足を広げてしまった。スースーする。
眼下でいやらしい笑みを浮かべる早乙女先生を睨んで、最後の確認。
「本当に、座りますよ……?」
「なんだよ、焦らしてるつもりか?」
「そ、そんなつもりは……」
「なら、さっさと座れ」
焦らしてるとか言われて、ちょっと焦る。そんなつもりなど微塵もない。
これ以上調子に乗らせてたまるか。覚悟を決めて、ゆっくりと先生の膝に腰を下ろした。
「ぐえっ」
「……なんですか、そのリアクションは」
「思ったよりお前が重くて息が詰まったんだよ」
「じゃあ、降ります」
「まあ、待てよ。ゆっくりしてけって」
膝に座った直後にそんな失礼なこと言われて、すぐに降りようとしたら、捕まった。
背中に先生の小さな手のひらを感じて、腰にはいつの間にか細い腕が回されていた。
その細腕のどこにそんな力があるのかと思うほど力強く、早乙女先生は私を抱きしめた。
そう、抱きしめられたのだ。向かい合わせで膝に乗って、私は早乙女茜に抱かれていた。
遠慮がちに離れ気味だった私の身体を、ぐいっと引きつけて、全面で密着する体勢となった。
身長差があるので、早乙女茜の小さな頭は私の胸に埋もれている。彼女は顔を横に向けて、呼吸を確保していた。
そんな状況に動転して、思わず離れようとしても、先生は離してくれなくて、堪らず抗議の声をあげる。
「せ、先生! これはさすがに……!」
「我慢しろ。あたしだって嫌だけど我慢してやってんだ」
「い、嫌ならこんなことしなければいいじゃないですか!?」
「しっ。黙れ。黙って、目を閉じろ」
「な、なにを……?」
「いいから、言う通りにしろ」
ジタバタと暴れる私を強く抱きながら、先生は黙れと言う。
落ち着かせるように、その小さな手のひらで、背中を一定のリズムで叩く。
そうされると、徐々に気持ちが静まってきて、冷静さを取り戻した私は言われた通りに目を閉じてみた。
「そのまま、あたしの体温を感じろ」
胸の中から、次の命令が届く。
目を閉じたまま、早乙女先生の体温を感じる。
背中を叩く手のひら、腰に回されている腕、そして密着している身体。
意識すると、先生の体温は高くて、とても温かかった。
「温かいだろ?」
「……はい、とても」
「生理前だから、基礎体温が上がってんだよ」
「……その情報要ります?」
聞いてもないのにそんなことを言われて、最後の抵抗力が削がれた。完全に脱力して、身を任せる。
もう暴れる気も起きない。そのくらい、先生の抱擁は心地良かった。
「それでどうだ、神崎。気持ちいいだろ?」
「……はい、気持ちいいです」
「でもお前はあたしのことが嫌いなんだろう?」
「あっ……そう言えば、なんで……?」
言われて、我に返った。
そう言えばそうだ。私は早乙女先生のことが嫌いだった。それなのにどうして、こんなに気持ちいいのだろう。
嫌いな相手に抱かれて心地よさを覚える自分自身に戸惑っていると、先生は結論を述べた。
「つまり、嫌いな相手でもこうすると悪くないと思えるってこった」
その破綻した論理が、今の私にはすんなりと受け入れることができた。
論より証拠。現在自分が感じている感覚が、全てを物語っている。
だけど、どうしてそうなるのか。それが理解出来ない。
「これはいったいどんな仕組みなんですか?」
「さあな……言葉には言い表せない感覚的なもんだからな」
「先生にもわからないってことですか?」
「誰にもわからないだろうな。強いて言うなら、これこそが重さとか厚みってやつなんだろうぜ」
「これが、重さとか、厚み……」
先生の言葉を繰り返して、噛みしめる。
それを飲み込み、吸収して、納得。自分自身で理解できた。
ただ口頭で教えられるのではなく、身体で感じたからこそ、大切な物を得られたような気がした。
またひとつ賢くなった私ではあるが、先生が口にした次の言葉に動揺を禁じ得ない。
「これこそが表面的なものじゃない、本物の感情だ」
「……そ、そんなの困ります」
「はあ? なんでだよ?」
「だって、そうすると私が先生に恋をしたってことになるじゃないですか」
これは由々しき問題だった。非常に困る。なにせ私はノーマルだ。
それなのに同性で、しかも担任兼顧問のこの人に恋をするなんて、絶対おかしい。
そう思って一人で焦っていると、早乙女先生はゲラゲラ笑って。
「アホか。これが恋に発展するのは異性の場合だけだ」
「ほ、本当ですか……?」
「当たり前だろ。まあ、もっともお前がマジでそっち系なら話は別だがな」
「そ、そんなことありません! 私はノーマルです!!」
「もちろんあたしもノーマルだ。ほらな、全然問題ないだろ?」
爆笑されながらも諭されて、ほっと安堵する。
良かった、この先生もノーマルらしい。膝に乗れとか言ってきたから、もしかしたらそっち系かと思った。
いや、たとえ早乙女先生がそうだとしても、私には全く関係ない。断固、お断りだ。
でも……もしも今、迫られたら……私は抵抗出来るだろうか?
そんな状況を想像して、顔が熱くなった。すると、先生は首を傾げて。
「なんだ神崎。急に身体があっつくなったぞ?」
「き、気のせいです!」
「ふーん……怪しいな」
「あ、怪しくなんてありませんから、ほっといてください!」
「ちょっと腰振ってみていい?」
「……またそんなこと言って」
この人のからかいは、いつも過激すぎる。
私が膝に乗った状態で腰振ろうとか、なに考えてんだ。やっぱり頭おかしい。
げんなりしていると、さっき上がった血圧も下がり、冷静になることができた。
すると、早乙女先生は私の体温が下がったことに気づいて、くすくす笑う。
「どうやら落ち着いたみたいだな」
「……はい、おかげさまで。全部計算通りですか?」
「あたぼうよ。盛ったガキの対処方法なんて百も承知だ」
得意げにそう語る、早乙女茜教諭。そんな自慢されても困る。
「つまり、先生はわざと私に嫌われるように仕向けてるんですね?」
「違う。私はただ純粋にお前のことが嫌いなだけだ」
「きっぱりそう言われると、かえって清々しいですね」
「そういうガキらしくない反応がムカつく」
「じゃあ、どう反応すればいいんですか?」
「いや、そもそも無駄に背や胸や尻が育ってること自体が鼻につくな」
「それはどうしようもありませんね」
ここぞとばかりに嫌味を口にする早乙女先生。
それでも私を抱いたまま離そうとしないのだから、本当にタチが悪い。
言いたい放題言ってすっきりしたのか、今度は私に質問してきた。
「お前はあたしに言いたいことないのかよ?」
「いっぱいありますけど、言っていいんですか?」
「聞くだけなら聞いてやろう」
「それならまずは、下品なところが嫌いです」
「親しみやすいせんせーのほうが生徒にとって接しやすいだろ?」
「それにも限度があります。あと、チビの癖に無駄に胸がデカいところもムカつきます」
「それはどうしようもないな」
結局互いに身体のことを批判し合って、話が終わってしまった。
身体についてはどうしようもない。あとは顔とかも、直しようがない部分だ。
要するに、お互いになんとなく気に入らない容姿をしているのだろう。
それでも、今現在、そんな我々は熱い抱擁を交わしていて、何とも言えない不思議な気持ちになる。
「……早乙女先生」
「あん? なんだよ?」
「私は先生のことを嫌い続けます」
「どんな宣言だよ……喧嘩売ってんのか?」
「そうですね。そういうことになりますね」
「よーし、買ってやろうじゃねーか」
「はい、だからこれからも意地悪してください」
これは、ただの甘えだ。
この人に対してどんな風に甘えればいいのかわからず、こんな文句になってしまった。
そんな私の駄々を、先生は一笑に付して。
「バーカ。初めからそうしろっての」
「えっ?」
「ようやくガキみたいに甘えられるようになったじゃねーか」
なんか褒められた。ちょっと、いや、かなり嬉しい。
思えば、私は幼少期の頃から、甘えるといった行動を取った覚えがない。
物心つく前に母親は失踪していたし、父親はちょっとお堅い人なので、甘えるに甘えられなかった。
そうした私の歪みが、先生の鼻についたのかも知れない。
「それじゃあ、そろそろ授業は終わりだ。降りろ」
「もうちょっとだけ、このままで居させてください」
「駄目だ。重すぎて膝がしびれてきやがった」
「私はそんなに重くない筈です」
「いいからどけ」
「……そう言うわりには、離してくれない癖に」
憎まれ口を叩きつつも、先生は私を抱く腕を解こうとはしない。
むしろ、さっきよりもきつく抱いてくれていて、もっと甘えろと言われた気がした。
なので、お言葉に甘えて、しばらくその膝に居座ることにする。
先生に抱かれながら、様々なことに思いを馳せた。
真っ先に浮かんだのは、鷹宮玲奈。
彼女の中で憎しみと憧れが共存している理由を、知ることができた。
相反するその感情は、表裏一体だったのだ。身を以て実感した。
もっとも、何故彼女にそこまで恨まれているのかは、定かではないが。
次に瀬川さんと吉田くんのペア。
瀬川さんは吉田くんのことが大好きだ。
常日頃、盲目的なまでに彼を信奉しているが、それでもこの間、その胸の内を晒した時があった。
それは私がお節介を焼いて実現した、カードゲームでの対戦の折のこと。
憧れの吉田くんに挑む瀬川さんは、鬼気迫っていた。本気で倒そうとしていた。
世界チャンピオンである吉田くんですら余裕を失い、本気を出さなくてはならぬほど、善戦した。
あの時感じた、凄みとも呼べる気迫。負けても悔しくないとはいえ、勝ちたかったことがわかる。
たぶん、そうした矛盾もまた、今日学んだ、重さや厚みなのだろう。今ならば、それがわかる。
「……好きってだけだと、軽いんですね」
「そうだ。それは、ペットに対する愛情と大差ない、薄っぺらい自己満足だ」
「……そうやって決めつけるのは、やっぱりどうかと思います」
「まだ理解出来ないのか?」
「理解は出来ましたけど、その言い方だと受け入れ難いです」
「どうしてだ?」
「ペットと心を通じ合えている可能性はゼロではない筈だから」
納得したとは言え、言うべきことはきちんと反論した。
先生の言い草はわかりやすさを重視しすぎる傾向がある。まるで、切れ味の良すぎるナイフのようだ。
それで身を切られると、痛くて、悲しくなる。そんな人じゃないと知っていても、誤解してしまう。
その切実な感情が伝わったらしく、先生は話の方向性を変えて、諭した。
「それが真実がどうかは関係ない。自覚するのが大切なんだよ」
「自己満足であると、自覚しろってことですか?」
「そういうことだ」
「どうして自覚しないといけないんですか?」
「それがいい女の条件だからだ」
「いい女の条件、ですか……?」
「いい女はあたしみたいに自分の可愛さを自覚しないといけない」
「……それはただの自画自賛じゃないですか?」
「そう、自画自賛だ。それを自意識とも呼ぶ」
「つまり、自意識過剰な勘違い女がいい女だと?」
「ああ、そうだ。あたしとか……お前みたいにな」
この人は、本当に……なんなんだろう。
別に、いい女とか言われても嬉しくないし。むしろ同類みたいに扱われて不本意だし。
それでもよく見ていると思う。たしかに最近の私は、自意識過剰な勘違い女だ。
思春期を迎え、自意識は増長して、勘違いが増えるようになった。そういう年頃だと思われる。
先生が言いたいのは、そうした自分自身の目を背けたくなるような一面から目を逸らさずに向き合え、ということなのだろう。
それを自覚することによって、人間として、そして女として、成長することが出来るらしい。
それにしても、自意識過剰な勘違い女とか……間違いなく友達から嫌われるタイプだよね。
自覚して自重しなければ、いずれ早乙女先生みたいになってしまう。
まったく、これでは有村くんをとやかく言えないな……そう、彼についても、今一度考えてみよう。
出会いは偶然。なんとなく惹かれて気になった、クラスメイトの男の子。
それから暫く接触は皆無で、ちゃんと知り合えたのは本当につい最近だ。
彼は優しくて、いい人だったけど、変わった人でもあった。
おかしな劣等複合を抱えており、しかも勘違いが多すぎる。
私を生まれて初めてキレさせて、何度酷い目に遭わされたことか。
思えば、彼と出会ってから災難続きだ。無論、その全てが彼の所為というわけではないが。
有村くんのおかげで嬉しかったことや楽しかったことも沢山あった。そしてどうしようもない寂しさも覚えたりした。
ショタコンの私にとって高身長の彼は全く好みのタイプじゃないし、時に憎たらしくなったり、堪らなくムカつくこともあるが、それでも、だからこそ。
「……なんとなく、わかった気がします」
「悩みは解決したのか?」
「はい、おかげさまで。先生って実は頼りになるんですね」
「あったりめーだろ? あたしを誰だと思ってやがる」
「えっと……アスタリスク姫殿下でしたっけ?」
「またそれか……やっぱりあたしは、お前が嫌いだ」
「私も嫌いですよ、菊花姫」
お互いに嫌いと言い交わして、気持ちが通じることもある。
その複雑な感情をこうして実技を交えて教えれくれる先生は、そうそうおるまい。そう考えると、この先生が担任であり顧問であって、本当に良かったと思えた。巡り合えた奇跡に、感謝だ。
我ながら、手のひら返しもいいところだと思うが、それが正直な気持ちなのだから致し方あるまい。
早乙女茜はきっと、人の感情を自在に操作できる能力を身に付けた、超能力者なのだ。
そんな夢のような空想を抱きつつ相談を終えた私は、応接室を出る際に、決意を固めた。
とにかく、自分の気持ちを確かめよう。今こそ、相手に対して向き合うべき時だ。
廊下を独り歩きながら、身体に染みついた早乙女先生の残り香をすぅっと深く吸い込み。
よーし、がんばるぞ! と、意気込んで、ふと気づく。
あの女……ブラのホックを外してやがった。




